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復刻・花物語

2020/8 復刻・花物語「向日葵」

「花物語」

八月・向日葵


 幼いころには特に気にもしていなかった。葉月くんち、お父さんはいないの? と遊び友達に訊かれれば、よそに住んでいるのだと答えていた。
 母が知人や近所の住人にどう説明していたのかは知らない。単身赴任などなどで家に父親がいない家庭はあったのだから、奇異なことでもないと受け止められていたのだろう。

 同居はしていなくても、父は頻繁に我が家にやってきた。羽振りのいい税理士だと知ったのは小学生になってからだが、収入もよく、気前もよく、プレゼントをくれたりレストランや遊園地に連れていってくれたりして、ひとり息子の葉月に愛情をふんだんに注いでくれた。

「そりゃあさ、金は持ってるよな、なんたって女房と二号がいたんだから」
「二号ってなに?」
「妾だよ」

 中学生になる春、父が葉月に打ち明けた。

「おまえのお母さんの智慧さんとはお父さんは正式に結婚していないんだけど、認知はしてるんだよ。認知ってわかるか? 葉月は私の息子です、という認知だ。お父さんには正式な妻がいるんだ。葉月ももう小さな子どもではないのだから、本当のことを話そうと思ってね」

 子どもじみた外見と内面を持つ、ふみ代という名の女。ふみ代は葉月の父の学よりも十二歳も年下で、ひとりで置いておくにはどうにもこころもとない頼りない女だったのだそうだ。
 そんな女を救済する意味で学はふみ代と結婚し、そのあとで智慧と出会った。

 ふみ代とは正反対の性格の智慧は、学が離婚して智慧と再婚することは望まなかった。妊娠しても結婚は望まず、私がひとりで育てていくと言ったのだそうだ。

「僕は感動したよ。僕の愛した智慧さんはなんてかっこいい女なんだろう、ってね。もちろん僕も協力した。ふみ代も心がけのいい女で、葉月が小さいころにはベビーシッターをしたんだよ。おまえは覚えてないかな。葉月が幼稚園のころに四人で遊園地に行ったら、智慧さんがジェットコースターに乗りたがった。葉月はそんなものに乗るには幼すぎたし、ふみ代は怖がりだから、智慧さんと僕が乗ったんだ。ふみ代はおまえとふたりで空を見上げて手を振っていたよ」

 言われてみれば思い出す。親戚のおばさんだと訊いていた小柄な女性、彼女を葉月は単におばちゃんと呼んでいたが、父や母はふみ代さんと呼んでいた。
 ジェットコースターに乗るなんて勇気があるわね。葉月くんのお母さんってほんとにかっこいい。うらやましいわ、と邪気もない笑顔をふみ代は葉月に向けていた。

「世間の常識ってのは窮屈なものでね、智慧さんも僕もふみ代も納得していても傍からとやかく言いたがるんだ。僕はふみ代をないがしろにもしていない。智慧さんも葉月も大切にしてきた。僕には奥さんはいるけど、形式上の妻というのか、智慧さんとも合意のもとで、ひとりでは生きられない女を救ったにすぎないんだよ。だから、おまえもおまえの親を誇りに思っていいんだよ」

 十二歳だった葉月にはわかりづらい理屈で、お父さんがそう言うんだったらそうなんだろうな、だけど、他人には言わないほうがいいのかな、程度に消化しておくしかなかった。

「俺が小学校に入ると、ふみ代さんってのは遠慮して俺に会いにこなくなってたらしいんだ。親父はてめえを正当化していたけど、後ろ暗い気分もあったんだろ」
「変わった関係だね」
「三角関係っていうんだよな。普通だったら本妻ってのが狂気のごとく怒るんだろうけど、ふみ代さんってわけわかんなくて、会いにいったよ」

 ふみ代と父の家庭であるマンションをつきとめて、葉月が会いに行ったのは中学三年生の夏休みだった。
 今、こうして恋人になった女に自分語りをしながら、葉月はあのときのことを思い出す。すべてを知ってから最初に、そして、最後に会ったふみ代を。あれは五年前だった。

「葉月くん? 大きくなったのね」
「聞きました」
「あ、ああ、そう? どうぞ、お入り下さい」

 なにを聞いたのかを、ふみ代は察したのだろう。玄関先で名乗った葉月を部屋に通してカルピスソーダを出してくれた。

「噂には聞いてたのよ。写真を見せてもらったり、背が高くなったって話を聞いたりはしていたの。こうして目の前で見ると、お父さんに似てハンサムだわ」
「ふみ代さんはそんなんでいいんですか?」
「そんなんでって……私は幸せよ」
「俺は……」

 なにをどう言えばいいのか、胸が詰まって涙が出てきそうになって、葉月は窓の外を見た。どこかのベランダにでも咲いているのか、丈の高い向日葵が窓から覗いていた。
 
「誰のために咲いたの
 それはあなたのためよ」

 あなただけの花になりたい……
 それが私の願い……
 
 細い声でそんな歌を歌い、ふみ代は言った。

「学さんは私の太陽だから。学さんがいるから、私はひまわりみたいに幸せなの。私は子どものできない体質で、学さんをお父さんにはしてあげられなかった。智慧さんのおかげで私もお母さんの真似事みたいなことをさせてもらえたんだし、学さんにも息子ができたんだから感謝してるわ」
「本音なんですか」

「ええ、もちろん。葉月くんはいやなの?」
「いやっていうのか……」
「あなたのお父さんもお母さんも立派なひとよ。悪く考えたりしたらばちが当たりますよ。まぁね……」

 子どもって保守的なものなのよね、と笑っていたふみ代は内心ではなにを考えていたのだろうか。正直な気持ちをすべて押し隠して笑っていたのならば、女って怖い。
 自分の気持ちを上手に言葉にはできなくて、葉月はただ、ふみ代を見つめた。見つめているとふみ代の気持ちのかけらが伝わってくるような気がして、ひたすらに怖かった。

END

 

2020/7 復刻・花物語「くちなし」

「花物語」

 

七月・くちなし

 

 

 生まれた月にちなんで、親がつけた名前は流火。
 
「七月の古名に、流れる火で「りゅうひ」っていうのがあるんだって。りゅうひ、では求肥みたいだし、女の子の名前らしくないってことで、るびと読ませることにしたらしいんだよね」
「流れる火って花火かな」
「火はアンタレスだそうよ」
「さそり座の?」

 

 変わった名前だね、と誰かに言われるたびに、私はそんな説明をしてきた。うちの両親には教養はないのだから、なにかの本を見ていて、七月には「流火」という名前もあると知り、おっ、かっこいい、となってつけたのだろう。

 

「僕はきみの名前に真っ先に惹かれたんだ。流れる火、暗闇に流れる一筋の火、なんて情熱的な名前なんだろうって感激したんだよ。火のような美女を想像したんだ」
「私はそれほどの美女じゃないでしょ」
「いや、僕にとっては美女だよ」

 

 なんて、情熱的に口説いてくれる男とめぐり会ったのだから、この名前も無駄ではなかった。彼が入社し配属されたのは人事部で、まず第一の目標を、この営業所の全社員の名前を覚えるというところに置いたのだそうだ。

 

 さほどに大人数ではないから可能だったわけで、彼は社員名簿を見て名前を暗記しようとした。その中には当然、私の名前もあったのだった。

 

 彼、貴明よりも二年早く入社した私の名前に惹かれ、営業部にいる私の顔を見たいと願い、仕事にかこつけて私の部署にやってきた。私は営業であるので社内にはいないことも多く、貴明が流火の顔を見られるまでには日数を要した。

 

 貴明の願いがかない、彼にとっては美女、すなわち、好みのタイプだった私に恋をした。名前の次はルックスに惚れたとは、軽薄でなくもないのだが。
 ところが、当時、私には恋人がいた。貴明に告白されて断り、彼とは職場の先輩、後輩関係のままで親しくしていたのだが、私が恋人と別れると、貴明が再度アプローチしてきた。

 

「そんなに私が好き? 私、けっこう男友達は多いよ。妬いたりしない?」
「妬くかもしれないけど、束縛はしないよ。ちなみに、どうしてそんなに男友達が多いの?」
「子どものときには少年野球チームにいて、そのころの仲間と草野球チームをやったりしてるから」
「流火さんって野球が上手なんだ、尊敬しちゃうな」

 

 惚れた女ならばなんだってよく見える。そんな状態だった貴明と交際することになって、二年ほどたってプロポーズされた。

 

「結婚はいやじゃないけど、結婚式に友達をたくさーん呼んでいい?」
「いいけど、男友達も?」
「男は駄目なの?」
「いいけどね……」

 

「貴明も女友達を呼べばいいじゃない」
「僕には流火以外には親しい女性はいないよ」
「つまんない人生を送ってるなぁ」

 

 いじいじしていなくもない様子の貴明の肩を叩いて、とにかく、互いの招待客の人数は合わせようと話し合った。
 最近、もっとも親しくしているのは、私が暮らすマンションのご近所さんたちで結成した、草野球チーム「神山ブロッサム」の面々だ。中学生からおじいさんまでがいるチームの全員を結婚式に招待したかったのだが、そうすると他の友達が呼べなくなるので、チーム監督のゴローさんに相談を持ちかけた。

 

「独身女性だって結婚式には来るだろ」
「私の女友達は呼びますよ」
「だったら、独身男を呼んでやれば?」
「そのほうがいいかな」

 

 こいつとそいつとあいつ、リストを作っていると、ゴローさんがふと言った。

 

「そうそう、ベルンを呼んでやってくれないかな」
「ベルン?」
「あいつ、日本人の結婚式に興味があるんだそうだよ。誰か結婚式しないかなぁ、僕も出席したいなぁ、なんて言ってた」

 

 ベルンとはドイツ人留学生で、日本文化を学ぶために大学に通っている。ご町内のアパートで暮らしていて、野球も日本文化のひとつだと言って「神山ブロッサム」に参加している。日本語はやや怪しいが、気のいい青年なので、私も彼に好感を持っていた。

 

「流火さん、結婚式に招待くれられてアリガト。ボク、サプライズの贈り物をあなたに与えます」
「与えます、じゃなくて、プレゼントするからね、でいいんだよ」

 

 とにかく友達がたくさんいるので、私は親戚を省いて主要な友人を招待することにした。結婚式当日、貴明は親類が多いのでゲストの人数の釣合もほどよく、ただし、平均年齢は私側のほうがかなり低いようだった。

 

「ベルンのサプライズプレゼントってなんだろ。ゴローさん、聞いた?」
 野球チームのメンバーの独身男子の中に、唯一まじった中年既婚男子、ゴローさんに尋ねると、彼は首をかしげた。

 

「俺はなんとなくは聞いてるけど、サプライズだって言うんだったら内緒だよ」
「そっか。ドイツ独特のお祝いとかがあるのかな」

 

 披露宴がはじまり、職場の上司の祝辞などもあって、やがて友人たちのパフォーマンスになった。貴明の友人グループがギターを弾いたり、私の女友達が三人でぶりぶりのダンスをしてくれたり、楽しくプログラムが進んでいって、さて、ベルンの番だ。

 

「流火さん、貴明さん、ご結婚おめでとうございます。流火さんの誕生日は七月。七月の花といえばこれですね」

 

 芳香をふりまく白い花のブーケを、ベルンが新婦席の私に捧げてくれた。花か、これのどこがサプライズなんだろう。ベルンは続いて、長い紙を広げてみせた。

 

「ボク、日本文化のお勉強をしています。書道というものも好きです。ボクが書いたくちなしの花言葉です」

 

 「私はとても幸せ」「優雅」「洗練」「清潔」「喜びを運ぶ」、五枚の長半紙に、ちょこっとゆがんだ文字が躍っている。ちょこっとゆがんではいても、私の筆文字よりも流暢だ。客席から拍手が起き、ベルンは優雅に一礼した。

 

「ボク、日本の歌を覚えました。聴いてね」

 

 くちなし? ひょっとして? やばい? 

 

「い~まではゆびわもま~わるほど~
 やせてやつれたおまえのうわさ」

 

 古い歌だが、おじさんやおじいさんとも仲良くしている私は知っている。この歌の続きを。

 別れた女を思い出してうじうじしている男の歌。結婚式では不吉だ。目をやると、ゴローさんがあちゃっという顔をしている。ベルンは音程も発音も怪しいので、気づいていない者もいるようだが、私たちの親世代はぴんと来るのでは?

 

 今さら止めるわけにもいかず、内心で困惑していると、ベルンの音程がどんどんずれていく。歌詞もかなりおかしくなっていく。この分では大丈夫かな? ベルン、気持ちは嬉しいよ、ありがとう。
 こうなればあとは、運を天に任せよう。

 

END

 

 

 

 

2020/6 復刻・花物語「紫陽花」

「花物語」

六月・紫陽花


 土壌の酸性度によって色が変わる。学説ではそうらしいが、人はなんであっても擬人化したがる。
 ふたりではじめて旅をした六甲山のホテルの庭には、濃い青紫の紫陽花が群れて咲いていた。

「紫陽花の花言葉を知ってる?」
「花言葉っていうのは聞いたことあるけど、なんだっけ?」

 ホテルの窓から紫陽花の群れを見下ろして、涼夏は創平に話した。

「メジャーな花だったら花言葉っていうのはいくつかあるんだけど、紫陽花には有名なのがあるのよ。移り気。ひとって浮気なものだよね」
「それってなんの話がしたいの?」

 仕事の関係で知り合って、告白というほどのものもなくつきあいはじめ、六月だったら梅雨どきだから人が少ないんじゃない? 一緒に旅行しようよ、と涼夏が言い出して関西へと遊びにきた。昨日は神戸ですごし、一夜が明けて創平が言い出した。

「結婚しようか」
「あっさりしたプロポーズだね」
「昨夜、神戸の夜景でも見ながら言ったほうがよかった?」
「ロマンティックなのは気恥ずかしいから、このほうがいい」

 OK? と問いかける創平に微笑んでおいて、涼夏は窓辺に寄っていったのだった。

「私もけっこう移り気なほうだと思うんだ。もてるしね」
「ああ、僕ももてるよ」
「浮気は自由ってことにしない?」
「ええ? そんなこと、きみが言ってくれるとは思わなかったな」

 本当はまだ結婚までは考えていなかったから、こう言うと創平が引くかと思って言ってみたのだ。予期せぬ反応に涼夏はむしろ戸惑った。

「女友達と話したことならあるのよ。彼女は、彼氏が浮気したって落ち込んでた。だけど、彼は彼女とやり直したいって。そんな彼と結婚したらまた浮気されるかもしれない。そんなんでいいの? って、他の女友達は言ってた。浮気な男は許せない、浮気な女はもっと許せない、みたいな会話をしていたの」

 なんで? と涼夏は思い、しかし、ここでそんな発言をすると変人扱いされるかと、相槌を打っておいた。

「不倫はぜーったいに許せない、とかね、あんな話をしてる女たちって正義の味方面して、私は一途で可愛い女なのよ、なんて自分に酔ってて、気持ち悪いなぁって思ったの」
「たしかに気持ち悪い」
「愛していたら浮気は許さないって言うんだけど、愛してたら浮気くらい平気なんじゃない?」
「僕は後者だな」
「私も後者よ。ってことは、創平くんは妻の浮気も許せるんだね」
「いいよ」

 ただし、ばれないようにね、とは言う必要もないだろう。
 変人的思想の持主だと自覚していたのもあったから、別に結婚なんかしなくても、と涼夏は考えていた。しかし、こうして似た思想を持つ男と出会ってプロポーズされたのだ。創平とは価値観が合うとわかったら、愛情が湧いてきた気がした。

「うん、結婚しよう」
「結婚しよう」

 あれから約半年たって、結婚してふたりで暮らしはじめた。いつかは子どもがほしくなるかもしれないが、今のところは作るつもりもない。互いの両親は孫がほしいのかもしれないが、息子や娘のプライバシーに干渉する気はないようだ。

「創平くん、ただいまぁ」
 職場の飲み会で午前さまで帰宅した金曜日、涼夏が玄関の鍵を開けて中に入り、奥に声をかけると創平が出てきた。

「お帰り、コーヒー、淹れようか」
「うん、お願い」
「今夜は楽しかった?」
「楽しかったよ。いい男もいたしさ」

 今春に入社したばかりの新入社員たちは、ゆとり世代というやつだ。先輩や上司との飲み会などまっぴら、というタイプも多いが、涼夏の部に入ってきた木内は人なつっこく愛想のいい男の子で、先輩たちの飲み会にも喜んで参加していた。

「いい男っていうよりも、ペットみたいに可愛い子って感じかな。涼夏先輩は結婚してるんですよね、残念だなぁ、って本気みたいな顔をして言うの」
「涼夏はなんて答えたの?」
「結婚してたって浮気くらいは大丈夫よ、って言った」
「そんで、ホテルに行った?」
「そこまではまだだけど、行っていいの?」
「いいよ、もちろん」

 むろんプロポーズのときの会話は覚えている。それでもまだ新婚なのだから、こんな話をすると創平がちょっとは妬くのかと思っていた。が、創平はけろりと言った。

「きみと結婚して一年以上になるだろ。きみが浮気をしたそぶりはない。もしもそういうことがあったら言ってくれると思ってたからね」
「言うと思ってた?」
「現に今、言ってるじゃないか」
「……そうだね」

「一年間も僕ひとりにしか抱かれてなかったら、ひからびてくるよ。僕はもてるきみが好きで結婚してほしかったんだから、枯れた女にならないでほしいな。どんどん浮気したまえ。応援するよ」
「あ、そ、そうなのね」

 ふむ、これは本物だ。涼夏としては妙に感心してしまった。
 ふたりともに仕事が多忙な身なので、毎日顔を合わせるわけでもない。週に二、三度はふたりですごせるときがあると、濃密な触れ合いの中で創平が尋ねた。

「あいつ、なんて言ったっけ?」
「木内くん?」
「進展はどう? キスくらいはした?」
「この間、仕事帰りに飲みにいって、帰りにキスはしたよ。だけど、同じ部の子だから、迂闊に食べちゃうわけにもいかないんだよね」
「うちに連れてくるわけにもいかないか」
「……連れてきていいの?」
「それもまずいかな」

 対外的、社内的にまずいのではなかったら、ふたりの住まいに木内を連れてきていいのか。創平の浮気承認主義は本当の本物であるらしい。

「そいつ、草食?」
「でもないんじゃない? 結婚してる女に積極的に近づいてくるんだから」
「きみは僕らの主義を話したの?」
「話すとスリルが減るから、木内くんには言ってない」
「そのほうが楽しいかもな」

 恋はゲーム、不倫だからこそなおさら遊び感覚で。互いの伴侶は互いなのだから、創平は涼夏を信頼しているのだから、こうして面白がっているのだろう。

「ちょっとちょっと、涼夏さん、知ってる?」

 取引先の社員同士、創平と涼夏はそういう意味で仕事でも関わりがあって、共通の知人も大勢いる。そのうちのひとり、創平と同じ会社の佐和子が涼夏の職場にやってきて、こそっと耳打ちした。

「ちょうどお昼どきだし、ランチしない?」
「いいよ。じゃあね、「千島」に先に行って席をキープしておいて」

 会社の入っているビル近くの、気楽な和食の店だ。佐和子はうなずいて出ていき、涼夏は昼休みになってから、その店に赴いた。

「こんなこと、奥さんの耳に入れたくはなかったんだけどね、義憤に駆られちゃったっていうのか。涼夏さんは知らないんだよね」
「創平のこと?」

 和風ランチ「あじさい」というセットを注文し、佐和子が言った。

「うちの会社に出入りしてる、カラーコーディネーター、四十代の女なんだけど、その女がどうも創平さんに色目を使ってるんだよね。太めのアラフォーってか、アラフィフに近いような年の女なのに、自分は若く見えるって勘違いしてるみたい」
「若くは見えないの?」
「若く見えたって三十代後半ってところでしょ」

「ふむふむ。それで?」
「この間、経理の女の子が見たんだって。その女と創平さんが仲良く歩いてたって」
「歩いてただけ?」
「仲良く、だよ」

 「仲良く」のひとことを強調して、佐和子は憤慨の表情になる。怒ってみせてはいるが、面白がっているような目のきらめきも感じ取れた。

「退勤時間はすぎてたから、女の子はあとを尾けていったらしいの。そしたら、ふたりでバーに入っていったんだって。ふたりきりでお酒を飲むって、浮気のはじまりじゃない?」
「まあまあ、ご苦労さまだね」
「え?」
「なんの関係もないカップルを尾けていった、その経理の女の子にご苦労さまって言ってるの」

 ぽけっとした顔になって、箸を止めた佐和子を涼夏は見返した。

「創平はなんにも言ってなかったよ。まだその程度だから言わなかったのかな。私としては言わないでほしい気もしてたんだけど……ううん、いいわ。あなたには理解してもらえないだろうし」
「なに、それ? 知らなかったらいいの? だまされててもいいの?」
「だましてるわけでもなくて……」

 言うほどのことでもないから、創平はその彼女の話題を口にしないのだと思われる。涼夏が遊んでやっている木内くんの話をして、楽しく盛り上がる創平なのだから、自分も恋をしたのなら話すだろう。こんな話を他人から聞かされたのだけが不愉快だった。

「ご忠告、ありがとう」
 ご注進、と言うと皮肉っぽいだろうと、涼夏は言葉を選んで佐和子に礼を言った。
 
「どうしてそんな平気な顔をしてるの?」
「平気な顔、してる? そうねぇ、創平が浮気したら、ちょっとは気持ちがざわめくのかと思ってた。だから、早くそうなったときの自分を知りたいとも思ってたの。勝手なもんだよね」
「勝手?」
「案外、平気よ」
「涼夏さん……はもう、早くも創平さんを愛してないの?」
「愛してるみたい。あのね、こういうのは夫婦ふたりきりの問題だから」
「ほっとけって?」
「早い話がそういうこと」

 どうやら佐和子は気分を害したらしいが、それで離れていってもかまわない。創平が浮気をしていると佐和子が言いふらしたとしても、デザイン関係の職場は自由業者の集まりに近いのだから、特に支障もないだろう。

 理解できない、と呟く佐和子に、それはそれでいいからね、と微笑んでみせて、彼女よりも先に職場に戻った。
 その日から十日ばかり、掛け違って創平とは会えない日が続いた。ひとつのプロジェクトが追い込みの時期で、帰れない、とメールが届いていた。

「……涼夏、久しぶり」
 日曜日の朝、涼夏は創平の声で目を覚ました。

「ああ、おはよう、やっと帰れたの?」
「昨夜、帰ってきてベッドに入ったのに、きみは目も覚まさなかったね。疲れてたんだろ。きみも忙しかった?」
「まあね」
「木内くんとは進展あり? 十日前よりもセクシーになったみたいだね」
 
 言いながら、創平が涼夏のパジャマのボタンをはずす。創平は上半身裸で寝ていたようで、涼夏は彼の乳首にキスをした。
 ひとときがすぎると、けだるい余韻の中で創平が言った。

「僕も久々で恋をしてるんだ。浮気でも本気でも恋は恋。なかなかいい女なんだけど、年上だからな、プレゼントはなにがいいだろ?」
「紫陽花のアクセサリとか、いいんじゃない?」
「あとで買い物につきあってくれる? 女性へのプレゼントはきみの目線で選んだほうがいいよね」
「ランチを外で食べがてら、買い物にいこうか」

 彼自身の口から聞けば、すこしは心が波立つのかと想像していた。
 が、むしろ楽しい心持ちになってくる。創平も涼夏も別の異性に恋をして、そのことによってふたりの想いも強まり、ふたりともに美しさも磨かれる。そんなんで幸せ? と誰かに尋ねられたとしたら、心から言える。

「価値観の合う相手って、一緒にいて本当に心地よいのよ。いいひとと結婚したなぁ、彼も私も」


END

2020/5 復刻・花物語「スィートピー」

花物語

「五月・スゥイートピー」


 広い庭園に花がいっぱい咲いている。色鮮やかな花々に目を奪われて眩暈がしそうで、その上に広すぎて迷子になりそうで、歩きすぎて疲れてしまって、石段の途中にぺたんとすわり込んだ。

「アリスちゃん、どこから来たの?」
「アリス? あたしはアリスじゃなくて五月っていうんだよ」
「サツキちゃん? お誕生日はもうすぎた? もうすぐかな?」
「うん、明日。どうしてわかるの?」

 そりぁね、ゴガツだもの、と、知らない女性は明日には七歳になる五月にはわかりにくい言葉を発して笑っていた。

「パパかママと来たの?」
「そう、ママと。でも、ママはお友達とお話をしてて、サツキはお姉ちゃんに遊んでもらいなさいって言われたんだけど、お姉ちゃん、意地悪なんだよ。あんたなんかと話しててもつまんないって言って、サツキは置いてけぼりにされたの」

 母の友達の家に連れられてきて、その女性の娘だという、小学校の六年生ぐらいの女の子とふたりきりにされた。その女の子に置いて行かれたのは、目の前で笑っている女性に話した通りである。
 そうしてひとりぼっちにされたサツキは、庭を歩き回るしかなく、けっこう強い陽射しにも疲れてしまったのだった。

「でも、花は綺麗だった。広いお庭だね。おば……お姉さん……は誰?」
「おばさんでもいいのよ」

 疲れちゃった、と言うのはプライドが許さず、七歳なりに気を遣って、年齢もわからない女性をなんと呼べばいいのか迷って、お姉さんと言ってみた。母よりは年下かと思える女性は寛容に笑ってくれたから、おばさんと呼ぶことにした。

「おばさんは誰?」
「この屋敷のひと部屋で暮らしてるんだけど、サツキちゃんにはむずかしいかもしれないからいいのよ。そっかぁ、明日、お誕生日なんだね」
「うんっ」

 ほっそりと背の高い女性は、淡いピンクのワンピースを着ている。やわらかな笑顔を見せて、風の中にたたずんでいる。サツキは尋ねた。

「あたしのこと、どうしてアリスって呼んだの?」
「不思議の国のアリスみたいに見えたから。ごめんなさいね、ちゃんとしたお名前があるのに」
「ううん。いいの。不思議の国のアリス、知ってるよ。ああ、なんだか……」
「なあに?」

 なんだか、思い浮かぶような気がするのだが、そのイメージをつかまえ切れない。サツキが頭の中にあるなにかを追いかけていると、窓が開いた。

「小さなお嬢さん、こんにちは。きみたちは友達同士なのかな」

 開いた窓から顔を出して、女性とサツキを交互に見ながら話しかけているのは、白いシャツを着たほっそりした男性だった。ふたりはどことなく似ていて、兄さんと妹なのだろうかとサツキは思った。

「そうなのよ。たった今、友達になったの。サツキちゃん、そうだよね?」
「うん、サツキはあのお姉さんよりも、おばさんのほうが好き」
「ねぇ、サツキちゃんは明日がお誕生日なんだって。なにかプレゼントしたいな」
「プレゼント?」

 小首をかしげている男性と。いたずらっぽく目をくるくるさせている女性を見比べて、サツキは焦りそうになった。知らないひとにプレゼントなんかもらったら、ママに叱られる、と言う前に、男性が女性に窓からなにかを手渡した。

「ああ、これね。私がヴァイオリンを弾き、あなたはピアノを弾く」
「そうだよ。あなたの得意なあの曲、この季節にもこの風景にもしっくりはまるあの曲を演奏しようか」
「いいわ。サツキちゃん、聴いてちょうだい」

 曲のプレゼント? そんならママは叱らないだろうけど、あたしはあんまり嬉しくもないな。サツキとしては正直な感想だったのだが、ご好意を無にしてはいけないので、女性のヴァイオリンと男性のピアノの合奏を神妙に聴いていた。

 軽やかで繊細なピアノの旋律に、重厚さもあるヴァイオリンの音色がからまって共鳴する。サツキには言葉では言い表せないが、聴いているうちに次第に夢の世界へいざなわれていくような心持ちになっていった。

 ここは不思議の国……あたしはアリス。綺麗な男性と女性が作り出す綺麗な音楽に浸って、うっとり眠くなってきそう。
 小学校に入学してはじめて、「音楽鑑賞」という時間があった。音楽の授業として、先生がクラシックのCDをかけてみんなで静かに聴く。小声で私語をかわしたり、いたずら描きをしたり、たいていの子どもたちには退屈きわまりないひとときだった。

 それほどつまらなくもないけど、眠いな、とサツキは思っていたのだが、たった今のこの心持ちは、音楽鑑賞の授業のときの眠けとはちがっている。気持ちがよすぎてとろーんとなってくるのは、初夏の風とこの花々のおかげだろうか。演奏者の見えないCDとはちがって、ライヴだからだろうか。

 窓の中に見える男性の横顔も、サツキの目の前でヴァイオリンを弾く女性の姿も、サツキのヴォキャブラリーでは表現できないほどに優美で気品があって、このふたりが作り出す音だからこその心地よさもあるのかと、サツキもぼんやりとは感じていた。

 短い時間の曲が終わると、男性が手を止めてサツキを見る。女性もにっこりとお辞儀をし、サツキは言った。

「今の曲ってお花の歌?」
「サツキちゃん、この曲、知ってたの?」
「知らないけど、お花の歌みたいな気がしたの」

「そうだよ。この曲はドイツの作曲家、グスタフ・ランゲが二百年以上も前に作曲した「花の歌」だ。サツキちゃんはこの曲を聴いて、花を連想していたんだね」
「うん、なんだか……あの……おばさんみたいで……」
「ありがとう、嬉しいわ」

「サツキちゃんにパースディプレゼントだなんて言っておいて、僕らが嬉しい言葉をもらったね。ありがとう、サツキちゃん」
「いいえ、どう致しまして」

 気取って言ってみたら、ふたりともに声を立てて笑った。

「疲れたんじゃない?」
「ええ、すこし」
「部屋に入っておいで」
「……ええ」

 これ以上ここにいたらいけないのかな? ふたりが言い合っているのを聞いてそんな気分になって、サツキは言った。

「じゃあね、プレゼント、ありがとう」
 歩き出しながら振り向いて手を振ると、窓のほうへと歩み寄っていっていた女性も手を振り返してくれ、ふたりともにもう一度、ありがとう、と微笑んだ。

 本当に迷子になりそうな庭をさらに歩き、ようやく母が友人とお喋りをしていた部屋に戻った。お姉ちゃんに遊んでもらったの? うん、まあね、との母とのやりとりのあと、サツキも紅茶とケーキをお行儀よくごちそうになって、しばらくすると母が言った。

「では、そろそろおいとまするわ。サツキ、ご挨拶は?」
「はい、ごちそうさまでした。さようなら」
「また遊びにきてね」

 お庭にいた男女は誰? どうしてだか質問する気になれなくて、サツキは母と一緒に大きな屋敷を辞去した。屋敷から駅のほうへと歩いていく道すがら、母が振り返った。

「立派なお屋敷よねぇ。あんまり広すぎて、ママだったらお掃除が大変そうだからいやだけど」
「そうだよね」

 つられて振り返ると、淡いピンクの花が一輪、風に揺れているのが見えた。

「あ、似てる。ママ、あの花はなんていうの?」
「あれ? スゥイートピーよ。誰に似てるの? ママ?」
「ママになんか似てないよ」
「……その言い方って失礼ね」

 怒ってみせる母と手をつないで歩き出しながら、サツキは思っていた。淡いピンクのドレスを着た綺麗なおばさんを見ているとなにかを思い出した。そうか、スゥイートピーだったんだ。
 それからそれから、あのふたりって兄と妹じゃなさそうで……そしたらなんなのかなぁ? ママに訊いても、大人になったらわかるわよ、って言われるだろうから、内緒にしておこう。

 明日には両親からも友達からも誕生日のプレゼントをもらえるはずだけど、一日早くもらったプレゼントのことをママに話すのが惜しい気もする。誰にも話したくないほどに、形のないプレゼントはとてもとても素敵だった。


END


 
  

2020/4 復刻・花物語「チューリップ」

「花物語」

四月・チューリップ


「ぶんぶんぶん 蜂が飛ぶ
 お池の回りに野薔薇が咲いたよ
 ぶんぶんぶん……」

 のどかな風景に鼻歌がこぼれる。

「咲いた咲いたチューリップの花が
 並んだ並んだ赤白黄色」

 池の回りには歌の通りにチューリップが並び、その近くには幼稚園からの遠足なのか、赤白黄色の帽子をかぶった幼児たちがたわむれている。
 ベンチにすわってコンビニで買ってきたおにぎりを食べていた木の葉は、のどかすぎて眠くなってきて、両手で頬をぱんぱん叩いた。これだから春はいやだ。木の葉は幸いにも花粉症ではないものの、春は本当に眠い。

 さて、職場に戻るとするか。こんなところで居眠りをしたらかえって頭がぼんやりしてしまう。さっさと仕事を片付けて、帰って早寝しよう。なんだか私、寝るのがいちばんの楽しみみたい。侘しい人生だわぁと思いながらも、木の葉は腰を上げた。

「わっ!!」
「きゃあっ!!」
「いやんっ、怖いよっ!!」

 子どもたちの悲鳴が聞こえてきて、木の葉は視線をめぐらせた。池のそばには春の花々が咲いている。チューリップも野薔薇も咲いているその中を、子どもたちが逃げ惑っていた。
 なにから逃げているのかと目を凝らしていると、幼稚園の先生らしき声も聞こえてきた。

「さわったらだめよ。叩いたりしても駄目」
「こっちからさわらなかったらいいんだから、逃げなさい」
「まあくん、ジュンちゃん、こっちにおいでっ!!」
「なんなの? なに、これっ?!」
「蜂よ、蜂っ!!」

 大人だって蜂は怖いのだから、幼児ならばなおさらだろう。子どもたちは泣き声を上げて走り回り、ころんだりもしている。先生が駆け寄って子どもを抱き上げ、蜂を避けて走り出した。

「そっちに行ったよ!!」
「カズミ先生、気をつけてっ!!」
「うわーんっ!! 痛いよぉっ!!」
「ママぁぁーっ!!」

 つい先刻まではのどかだった光景が、阿鼻叫喚の世界になってしまった。女性たちの金切声と幼児の悲鳴や泣き声が交錯している中を、たった一匹の蜂が悠然と飛び回っている。幼稚園集団以外の大人もいるにはいるのだが、蜂には触れたくないらしくて、遠巻きにして眺めているばかりだ。

 やっぱり私も蜂はいやだし、昼休みはじきにおしまいだし、蜂がこっちに飛んでこないうちに逃げようか。木の葉が池のほうを気にしながらも歩き出そうとしていると、子どもたちの中に走り込んでいった男性がいた。

 そうなると気になって、木の葉もそちらを注視した。
 若い男性が帽子らしきものを振り回している。背の高い男性なので、蜂が少々高みを飛んでも手が届く。彼は腕を伸ばして何度も帽子を振り回し、それから叫んだ。

「捕れたっ!! もう大丈夫ですよ」
 
 ああ、よかった、と幼稚園の先生たちは安堵の声を漏らし、あちこちで怯えてすくんだり、立ち尽くしたり、へたり込んだりしている子どもたちを助けにいった。子どもを抱いてたたずんでいた先生のひとりが、彼に寄っていった。

「ありがとうございます。あの、どうやって捕ったんですか」
「この帽子と、僕のこの手で……」
「手、刺されてません?」
「痛くはないから大丈夫でしょ」

「蜂を殺したら仲間が仕返しにくるって言いません?」
「そうなんですか。迷信でしょ」
「その帽子……」
「ああ、これ。いいんですけどね」

 好奇心はあるので、じりじりと近寄っていっていた木の葉は、彼の持っている帽子をしっかり見た。白地にピンクや緑の小花プリントの帽子を、先生が彼の手から受け取って広げてみせた。

「ああ、蜂が死んでる」
「握り潰しましたからね。大丈夫ですよ」
「……汚れちゃいましたね、帽子」
「それも大丈夫です。洗えば綺麗になりますよ」

 他の先生も寄ってきて、同僚から帽子を受け取る。彼女が広げた帽子から蜂の死骸が地面に落ち、彼女は言った。

「男のひとがかぶるには、ずいぶん可愛い帽子」
「ああ、これ、チューリップハットっていうんですよね」
「ほんとだ、あのチューリップと形が似てますね」

 おっと、大変、昼休みが終わってしまう。蜂騒動はおさまったようなので、木の葉は早足になって職場のほうへと歩き出した。

 若い女性が何人もいる幼稚園の先生のひとりと、蜂退治をしたあの若い男性が恋仲になるなんて展開はあるのかしら。私にはもうそんなハプニングは望めもしないけど、若いっていいね。春っていいね。私は今のエピソードをふくらませて、小説を書こうかな。

 これから戻っていく職場とは、季刊ミニコミ誌の編集室だ。広告収入も容易には見込めなくて、赤字になる月もあるけれど、木の葉が書いている季節の花ストーリィを楽しみにしてくれている読者もいるらしい。

 春の号はとうに出ているのだから、本当は夏の花ストーリィを書かなくてはならないのだが、来年の春のための「チューリップ物語」を先に書こう。一年後の春にも私たちのミニコミ誌が存続しているように、との願いを込めて。

END


 

2020/3 復刻・花物語「マーガレット」

花物語

 

三月・マーガレット

 

 

 この雑誌、まだあるんだ。
 少女のころに胸をときめかせて読んだ雑誌が、当時とは表記を変えた名前で書店の店頭に並んでいる。なつかしくて手に取り、知らない名前の漫画家ばかりが並んでいるにも関わらず、雑誌を買った。

 

 漫画からはじまってジュニア小説にはまり、文学作品や大人の小説も読むようになっていった、中学、高校時代。漫画から卒業しない女性もよくいるようだが、私は漫画は読まなくなって、文学少女路線を進んでいった。

 

 高校では文芸部、大学は国文科で文芸サークル。女子校だったのもあって男の子とは縁もなく、まっしぐらに文芸おたく道を歩いてきた。

 

 ところが、就職した会社は文芸とはなんのゆかりもない。今どき紺の事務服を着せられて、町工場の一般事務職だ。国文科を卒業した女子は就職戦線では不利だったから、こんな零細企業しか就職口はなかった。

 

 携帯電話の部品を作っている会社なのだから、独占企業で景気はいい。それだけが救いの会社で、一生働くと決めている。地味な外見の私は恋にも縁がなく、彼氏いない歴三十五年。結婚だけが女の幸せではない、と口にすると、憐みの目で見られなくもないお年頃になった。

 

「ああ、だけど、いいなぁ。胸きゅんだなんて、久しぶりに感じたわ」

 

 両親と同居している家の自室で、漫画を読んではため息をつく。高校生の男女の恋愛ストーリィだ。連載漫画だと意味がわかりづらいので、コミックスを買おうとまで思う。今どきにしては純情な女の子と、彼女をからかっているうちに本気で恋をしてしまう美少年の物語のようだった。

 

「漫画も好きだなぁ。このごろは小説ってときめかなくなってるから、昔に戻って少女漫画にはまろうかな。楽しみもなくっちゃね」

 

 読書以外には趣味もなく、老後のための貯金に励む今日このごろ。コミックスだったら大人買いしてもたいした金額でもない。特にこの漫画、恋園まーがれっと作、「花時間」の世界に心ひかれた私は、ただいま二十巻ほど出ているらしきコミックスを探しに、古本屋に行くことにした。

 

 古本屋というのはせこいかもしれないが、お金は大切だ。同じものならば安いほうを買うのが当然ではないか。完結はしていない漫画なので、古本屋で見つけた何巻かは買い、欠けている巻をネットで探そうと決めた。

 

 ネットの古本サイトで欠けている巻のうちの一部を買い、残りを予約してほっと一息。一巻から五巻まではそろったので、荷物が届くと一晩で読んでしまった。

 

「サクヤさま、突然メールをさしあげる失礼を、お許し下さい。
 「花時間」はいかがでしたか?
 私は古本サイトにも関わりのある者でして、「花時間」愛好サイトを主催しております。
 サクヤさまが「花時間」をお好みでしたら、ぜひサイトを訪問なさって下さいね」

 

 そんなメールが届き、興味があったので覗きにいってみた。
 ハンドルネーム、サクヤ。私の本名は咲耶という、顔に全然似合わない名前だ。ルックスに不釣合いすぎて恥ずかしいのだが、名前は好きだから、文芸部時代からペンネームではなくて本名を使っていた。

 

「花時間」の作者とは無関係、ただし、承諾はもらっているというサイトは、「ラヴ花時間」という。作者ではなくファンが描いたそうな、主人公の桜桃と檸檬のイラストがものすごく上手で、私は感心してしまった。

 

 主人公カップルは女の子がチエリ、男の子がレモン。女の子のほうは、さくらんぼイコールチェリー、チェリーの変形でチエリだそうな。現実にだってありそうな名前だし、漫画なのだからいいのだ。咲耶の名を持つ私は、今どきの子どもの珍奇な名前にだってケチはつけにくい。

 

 名前はともかく、「ラヴ花時間」は楽しいサイトで時間を忘れた。
 貯金が楽しみだった私は、お金のかからない趣味を発見して、毎日うきうき。インターネットの世界にはさして興味を持たなかったのに、ここにははまってしまった。

 

「ファンのみんな、いつもありがとう。
 作者の恋園まーがれっとよ。
 私の本名を知りたいって書き込み、あるのよね。
 マーガレットよ。ペンネームはひらがなにしただけ。
 「花時間」を連載してあげている雑誌は、同じ名前だから仕事を引き受けてあげたの。
 花もマーガレットが好き」

 

 作者の公認サイトであるだけに、時には彼女の書き込みもなされている。この高慢な口調は彼女の持ち味なのか。彼女のファンはM気質の女性が多いようで、この書き込みには、熱っぽいレスがいっぱいついていた。

 

「さて、みなさん、嬉しいお知らせです。
 来る三月十日、恋園先生がオフ会に来て下さいます。
 オフ会に参加したい方は、メールを下さいね。
 あまりにも集まりすぎては先生にご迷惑になりますから、厳選な抽選をします。
 詳しくは当選した方にお知らせしますから、メールしてね」

 

 数日後、主催者の名前で、そんなトピックが立っていた。今まではロムしていた私も、行きたくなる。恋園マーガレットという作者に興味があったわけでもないのだが、あんな素敵な漫画を描く女性はどんなひとだろ、とは思う。

 

 先にネットで検索してみたところ、恋園先生の画像はない。あまり情報もなくて、出版社がもったいぶっているのか、作者が秘密主義なのか、とブログに書いているひともいた。こうなると興味が増幅するではないか。

 

 ファンサイトに集う者たちよ、私の尊顔を拝する機会を与えてやろうぞ。
 下々の女たち、わらわの顔をとくと見るがよい。

 

 そんな台詞を口にして華やかに笑う、ゴージャスな美女。どういうわけか私のイメージは固まってしまった。

 

「どうしようかなぁ、会いにいこうかなぁ」

 

 サイトでは、別にトピックが立ち、オフ会、申し込みました? 当選するといいなぁ、恋園先生に会ったらどうしよう、というような話題も出てきている。抽選は先着順ではなさそうだから、まだ間に合うのだが、私は躊躇していた。

 

「だって、会うとなるとプレゼント……なにか贈らなくちゃね。月並みだけどマーガレットの花束? マーガレットって高かった?」

 

 お金のかかる趣味はいやだなぁ、が本音である。花というものにも縁のない私は、マーガレットの価格を調べようと花屋に立ち寄った。

 

「マーガレットですか。最近はいろんな品種が出てまして、甘い香りのするマーガレットや、八重咲きの花やらもあるんですよ。ほら、こんな花も。珍しい種類のマーガレットはちょっとお高いかもしれませんけど、高価な花ではありませんから」

 

 ベーシックなマーガレットといえば、黄色い花芯に白い花びら、その程度の知識しかなかった私には、花屋の店員さんの薀蓄は新鮮だった。

 

「マーガレットって苗で植えるのね」
「そうです。ご家庭でもガーデニングで咲かせられますよ」
「やってみようかな」

 

 育てやすくて長く楽しめるというマーガレットの苗を買って、帰り道で想像していた。
 恋園先生、ありがとう。あなたの漫画にはまったおかげで、趣味が増えたわ。今年のオフ会には行かないから、来年も来てね。あなたの好きなマーガレットの花をこの手で咲かせて、それを大きな花束にしてプレゼントに持っていくから。

 

 まあ、なんて素敵なブーケ。
 これ、あなたが育てたの? マーガレットのお花畑があるの? 
 見たいわ。あなたのおうちに連れていってよ。

 

 そんなことを恋園先生に言われて、あまたいる他のファンにやっかまれる想像をして、我が家の庭にあるマーガレットの花畑に恋園先生を案内する想像までして、私はうっとりしていた。

 

END

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

2020/2 復刻・花物語「こでまり」

「花物語」

 

十二ヶ月の花をテーマにしたショートストーリィです。

 

先に主人公の名前を設定しました。

 

主人公の名前は、各月の和名、古名をアレンジしました。尋常なのは、睦月、五月、葉月ぐらいのもので、無茶読み、DQNふうもあります。

 

2013/1より別ブログでスタートしたものを、2020/2より復刻させていただきます。

 

二月・こでまり

 

 

 単に小出万里江だからだと思っていた。
 コイデ・マリエ。ニックネームはこでまり。

 

 去年の暮れにいきなり、父親の転勤が決まった。普通は四月になってから赴任するものだろうし、突然だったのならば父親だけが先に赴任地に行って、家族はあとから、でもいいだろうに、母が宣言したのだった。

 

「家族はいつだって一緒にいるものよ。美景だってまだ中学生、義務教育なんだから転校はできるの。一緒に行きましょう」

 

 力強く宣言されれば美景だっていやだとは言えなくなって、二月のこんな時期に転校を余儀なくされた。親ってのは、大人ってのは勝手だね、とは言うものの、新しい学校にはすこしはわくわくしていた。

 

「ビケイって読むんだな。変な名前」
 となりの席になった男子生徒はそう言い、女子生徒は言ってくれた。
「可愛い名前だよ」
「素敵だよね」

 

 本人は「美景」という名は「美形」につながるようで、おまえのどこが美形だ? と男の子に笑われそうで好きではないのだが、名前がきっかけになってクラスメイトと会話がはずむのは嬉しかった。
 もっとも、中学二年生、ほぼ全員が十四歳のこのクラスの生徒たちの名前は、平凡なほうが珍しい。男子は飛翔したり夢を見たり、女子はきらきら星空やふわふわお花畑、というような名前が大半だった。

 

 そんな中なのだから、美景の名前も浮きも沈みもせず、ちょっと変わってるかな、程度だ。
 自分の名前なんかどうでもいい。男の子もどうでもいい。美景が気になるのは、クラスメイトの雑談にしばしば出てくる、コデマリという単語だった。

 

「コデマリってなに?」
「ああ、小出万里江、だからコデマリ」

 

 今どき、マリエという名前はむしろやや古風かもしれない。どうしてそのコデマリがクラスメイトの会話によく出てくるのかは、なんとなく聞けないままだった。
 その本人は同じ中学二年生だが、クラスがちがっているのでなかなか会う機会がめぐってこない。ようやく会えたのは、二月も終わり近くのころだった。

 

「これ、私の花」
「ああ、コデマリってそれ?」
「そうだよ。あなたは転校生?」
「美景っていうの、よろしくね」

 

 校庭の花壇に、白い小さな花が毬のような形で咲く丈の低い木があった。小手毬って書くんだよ、と人間のコデマリが教えてくれた。

 

「小さい手がつく毬のような花って感じかな」
「可愛いね」

 

 それだけの会話で心が浮き立って、美景は花を包む万里江の手をうっとり見つめていた。白い花に白く細い手。切り取って絵にしたかった。

 

「コデマリって大好き。花言葉もいいんだよ」
「どんな? ううん、いい。自分で調べるから」
「本、持ってる?」
「本があるの? そしたら、本屋さんに寄って帰るね」

 

 中学二年生が買うにはすこしお高い「花ことば辞典」を立ち読みして、美景はその言葉を記憶にとどめた。 

 

「コデマリの花言葉
 伸びゆく姿、努力、優雅、品位、友情」

 

 彼女にコデマリというあだなをつけた誰かは、この花言葉を知っていたのだろうか。そもそも誰が小出万里江を、コデマリと呼びはじめたのか。男の子なのかな? 万里江と相思相愛の彼? 想像すると美景の心がちくっと痛んだ。

 

 これから伸びゆく、十四歳の少女の姿。品位があって優雅な美少女、小出万里江。彼女はどんな努力をしているのか。彼女と友達になって友情をはぐくみたい。

 

 あのころの美景はまるで、初恋をしているような気持ちの中にいた。恋に恋する十四歳だったのだから、相手が男の子でも女の子でも変わりはしない。夜になって布団に入って電気を消すと、万里江の白い手に包まれた白い花が闇の中に浮かび上がってきた。

 

「私も努力しよう。あのイメージを絵にするんだ」
 決意して、美景は三年生になると美術クラブに入った。運動部は三年生の夏には引退だが、文科系の部活にはそんなきまりもなく、美景はじっくりとコデマリと小手毬の絵に取り組んだ。

 

 そうしているうちには、小出万里江がどんな少女なのかも聞こえてくる。見えてくる。彼女は英語研究会に所属していて、夏休みの英語弁論大会に出席するのだと。万里江はわが校随一に英語がうまくて、一年生のときから三年生にも、帰国子女にも英語の議論で負けなかったのだと。

 

「じゃあ、そのお祝いに……」

 

 弁論大会は夏休みの終わりに行われる。受験勉強は? と母親がうるさいので、絵は息抜きだと口実をつけて、その実、そっちに精力を多く注いで描き上げた。

 

「コデマリ、優勝おめでとう」

 

 それほどに親しくもなっていないから、愛称で呼ぶのは照れくさい。それでも呼んでみたくて、新学期になって出会った彼女に呼びかけて絵を見せた。

 

「え? この手、私?」
「そう。コデマリとはじめて会ったときの絵だよ。コデマリが弁論大会で優勝するって信じてたから、お祝いにしようと思って描いたの」
「優勝しなかったら?」
「残念賞みたいな?」

 

 ふたりで笑ってから、コデマリが言った。

 

「ありがとう。ねぇ、秋の中学生絵画展に出品したら?」
「こんな下手なのに?」
「下手じゃないよ。先生も勧めなかった?」
「完成してからはコデマリにはじめて見せたから……」
「先生もきっとそうしろって言うよ。出品しなよ」

 

 教師にも相談して出展を強く勧められたその絵は、佳作を受賞した。
 佳作とはいえ、注目してくれる人もいて、美景は十五歳にして、新進気鋭の若き画家と呼ばれるようになったのだ。
 高校、大学を経て画家となったのは、思えばコデマリのおかげだった。

 

「まぁ、絵では食べていけるほどでもないけど、主婦のパート収入よりは多いよね。あなたと結婚できたのも、コデマリのおかげ」
「それできみはこの花が好きなのか」

 

 寒い二月の夜に、美景は夫にコデマリの話をした。小さな庭には小手毬の木が数本植わっていて、花が咲くたびにコデマリを思い出す。なのに夫に話すのははじめてだった。

 

「コデマリちゃんってどうしてるの?」
「知らないけど、通訳になりたいって言ってたから、外国ででも暮らしてるのかもね」
「どうして今まで、話さなかった?」
「そうねぇ……なんとなく」

 

 女の子にあんなに憧れたなんて、私ってレズっ気あるの? 大人になるとそんな邪念も忍び込むようになるからよ、と美景は内心で呟く。へぇぇ、そうだったの? 美景の初恋の相手って私? 想像の中で笑うコデマリの顔は、少女のころのままだった。

 

END

 

 

 

 

 

 

 

 

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