ブログパーツリスト

counter

連載小説・ガラスの靴

ガラスの靴75「別居」

ガラスの靴

    75・別居

 飲みにいって知り合ったひとも、もとからの知り合いもうちに連れて帰ってくるのは、酔っ払いアンヌの癖というか趣味というか。それだけ夫の僕を自慢に思っていて見せびらかしたいのだろうから、僕はいつだってお客を歓待してあげていた。

「女は美佐、男は哲夫」
「夫婦? カップル?」

 三十代同士、お似合いのふたりにも見える男女はそろって頭を横に振り、美佐さんのほうが言った。

「飲み屋で会ったのよ。ふたりともアンヌさんのファンだからってだけで、縁もゆかりもない同士よ。ね、哲夫くん?」
「そうですね」
「ただ、共通点はあるの。だからアンヌさんが、お宅に寄っていけって誘ってくれたのよ」
「いやぁ、アンヌさんって豪快な女性ですよね」
「ほんとほんと」

 豪快な妻なのは事実だ。アンヌにとっても自分のファンだというだけで、知り合いではなかった男女を簡単にうちに連れてくる。アンヌは意外に単純で、そういった相手が僕ら家族に危害を加えるとは想像もしていないのだろう。いやいや、僕もアンヌの人を見る目を信じよう。

 共通点とはなんなのか、美佐さんと哲夫さんは互いの職業も知らないという。アンヌはバスルームに消え、僕はふたりのためにおつまみを作ってあげていた。

「正直に言っちゃいなさいよ」
「信用してもらえないからね」
「どうせ私と同じ理由でしょ」
「そう言われるに決まってるから言いたくないんだよ」
「そう言うに決まってるじゃない。それしかないんだもの」
「たから言いたくないんだって」

 押し問答しているのはなんについて? 酔客には好評な餃子の皮の包み揚げやスティックサラダを出し、僕もふたりのむかいにすわった。

「アンヌさんには子どもがいるのよね」
「いるよ。とっくに寝てるし、このマンションは広いから、ちょっとくらい喋ってても大丈夫だけどね」
「アンヌさん、えらいよね。専業主夫だなんてごくつぶし養うなんて、私にはとうていできないわ」
「アンヌはえらいよ」

 ごくつぶし……酔っぱらっているのだろうから、暴言は大目に見てあげよう。哲夫さんも苦笑いしていた。

「笙くんは私たちの共通点をなんだと思う?」
「三十代……なんてのは普通すぎるよね。三十代の人間は石を投げたら当たるくらい世間にはいっぱいいそうだもんね」
「私が三十代に見える?」
「見えるよ。三十五くらいかな?」

 そんなこと言われたのはじめて、いつも二十代かと言われるのに……と美佐さんはぶつくさ言っている。僕は若作り女性の年齢を言い当てるのは得意なのだ。

「私はね……あ、煙草、駄目?」
「子どもがいるから遠慮してね。吸いたいんだったら外に出て下さい」

 そう言うと哲夫くんも残念そうな顔をしたので、共通点は煙草かと思ったのだが、ちがった。

「私んちはお決まりの浮気よ」
「浮気ってよくあるんだよね」
「ほんと、浮気したいんだったら結婚するなって話よね。哲夫くんとこもそうなんでしょ」
「うちはちがうって」

 信じていない顔をして、美佐さんは火をつけていない煙草をもてあそんでいた。

「ばれるはずがないと迂闊にも信じていたけれど、ばれてしまった。ばれたものだから相手の配偶者にいきなりメールした。仕事の関係者だったから、浮気相手のアドレスもその配偶者のアドレスも知ってたのよ。そんな手軽なところで浮気すんなって話よね」
「まったくね」

 ロックミュージシャンなんて人種は特に貞操観念がゆるいようで、アンヌの仲間には浮気男はごまんといる。僕の脳裏にもいくつもの男の顔が浮かんでいた。

「私は音楽関係ではないんだけど、うちの業界もゆるいほうだね。世界が狭くもあるの。あいつとこいつは知り合いで、彼と彼女は夫婦で、別の彼と彼女は不倫中で、なんて話がころがってるから、浮気だってハードルが低いのよ。だけど、いきなり相手の配偶者にメールするってのはルール違反だな」
「あなたが旦那の浮気相手の奥さんに……」
「ちがうよ。逆だよ」
「は?」

 するとつまり、美佐さんが浮気をしたってことか?
 世の中の専業主婦にも不倫をしているひとは大勢いるらしい。不倫願望のある主婦はさらに多く、売春のアルバイトをしている主婦もけっこういるらしい。僕の知り合いにもいなくはない。

 けしからんなぁ、僕を見習えよ、アンヌ一筋の貞淑な主夫である僕はそう思うわけだが、働く主婦であるらしい美佐さんはけろっとしていた。

「それで別居中なのよ」
「美佐さんと哲夫さんの共通点って……」
「そう、別居」
「美佐さん、子どもはいないの?」
「いるんだけど、旦那が言うんだ。あなたのような不潔な女性を、僕の子と触れ合わせたくない、出ていって下さい、娘は僕が育てます、だって。やれるもんならやってみな。そのうち音をあげるに決まってんのよ」

 不敵に笑う美佐さんを見て、彼女の娘さんを不憫に思う。胡弓は僕がパパでよかったね。

「私はあけすけに話したんだから、哲夫くんも言いなよ」
「ちょっと似てはいるんだけどね……」

 ある日、哲夫くんは取引先の女性社長にパソコンを見せられた。あなたの奥さんからこんなメールが来たのよ、苦笑交じりに言われて見てみると。

「あなたは私の夫にセクハラをしていますね。あなたに迫られて私の夫は迷惑しています。私の夫はあなたのような太った中年女性にはなんの関心もありませんから、勘違いしないで下さい。
 早急にセクハラをやめないと訴えますから」

 ははーん、と美佐さんは笑った。

「似てるって、やっぱりそうじゃない。その太ったおばさんと不倫してたんでしょ?」
「してないよ。純粋に仕事の関係だ。その社長とふたりきりではないけれど、イベントのときなんかには一緒に現場で徹夜仕事をしたり、泊まり込んでの仕事をしたりもしていたんだ。社長は僕を買ってくれてるから、仕事のメールをよこしたりもした。たまにはジョークが混じったメールだの、電話だのが、家にいるときに僕のケータイに入ってきた。妻はそれをいやがってはいたんだけど、仕事だからね」
「ウソォ」

 まるっきり信じていない顔で、美佐くんは哲夫さんをつついた。

「妻の勘は鋭いのよ。なにかあったからそんなメールをしたんでしょ?」
「なにもないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」

 見つめ合う哲夫と美佐。美佐は低い声で言った。

「そしたら、今までに別の女と浮気をしたとか……?」
「してないって。僕は仕事が忙しいんだから、浮気してる暇なんかないんだよ」
「私だって仕事は忙しいけど、家事に育児もやって、浮気だってしたわよぉだ」
「僕は美佐さんほどのバイタリティはないんだよ」

 要はこのふたりの共通点は、配偶者と別居中ってことだった。美佐さんは夫に家を追い出され、哲夫くんは奥さんがうるさいので家を出てきたという。そろってほっと息を吐いてから、哲夫くんが言った。

「僕は独身のときにも親と同居してたんだ。大学も親元から通ってたから、ひとり暮らしの経験はなかったんだよね。なんかこう、こうしてひとりになるとのびのびするな。今夜みたいに飲みにいって遅くなっても、帰ったら妻が怒ってるんだろうなって気を遣わなくてもいいし、帰ったら子どもが泣いていたりして、こっちが寝られないってこともないし」
「そうよねぇ、私もそう思う。ひとり暮らしっていいよね」
「癖になりそうだよね」

 あんたたちは人の親だろ、子どもに会いたくないのか、と怒りたくなっている僕をよそに、美佐さんと哲夫くんは再び見つめ合う。見つめ合って微笑み合って、どちらからともなく立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ」
「そうね、そろそろ」

 アンヌがいないのなんか気にも留めていない様子で、ふたりは仲良く寄り添って出ていった。どこかで飲み直そうか、なんて声が聞こえていた。

「アンヌ、あのふたり、もしかしたらそうなるんじゃないの? 哲夫くんはほんとは浮気はしてないのかもしれないけど、瓢箪から駒ってこのこと? アンヌ、なんであんなふたりを一緒に連れてくるんだよ。アンヌ、どこ行ったの?」

 無責任なんだから、と言いつつ、子ども部屋のドアを開けた。

「……まったくもう」

 お客を連れてきておいて僕に応対をまかせ、自分は寝てしまっているのも毎度のアンヌは、今夜も笙のベッドにもぐり込んで、気持ちよさげな寝息を立てていた。

つづく


ガラスの靴74「浴室」

ガラスの靴

74・浴室

 年末になるとネットにも神社サイトみたいなものがオープンする。各地に実在する神社のサイトとはちがう、バーチャル神社だ。

 来年は初詣に行きたいな。胡弓も三歳になったから連れていけるんじゃないだろうか。だけど、初詣って十二時になった瞬間に行くんだっけ? それだとおねむの胡弓には無理かな。眠くてぐずったりしたら僕が抱いて歩かなくてはいけない。ベビーカーに乗せるには胡弓は大きすぎるから。

 母に預けていくか、元日の昼間にずらすか。あ、アンヌは休めるのかな?
 などと考えながらも、胡弓がお昼寝をしている時間にはネット神社めぐりをしていた。ネット絵馬に願い事を書いているひともいて、それらを盗み読むのも面白かった。

 面白かったので、夕食をすませて胡弓をベッドに入れてからも続きをやっていて、発見したものがあった。僕は深夜に帰宅したアンヌにパソコンを見せた。

「なんなんだよ、あたしは眠いんだ。メシもいらないから寝るって」
「アンヌ、これ、どういうこと?」
「どれ?」

 文句を言い言い、アンヌが見たパソコンのディスプレイには。

「よそのサイトで新垣アンヌの書き込みを見つけちゃった。アンヌって好きな男がいるんだね」
「アンヌは結婚してて子どももいるよ」
「わっ、アンヌ、不倫してるんだ」
「さすがロッカー、不道徳だね」
「好きな男がいるって、どういう根拠で言ってんの?」

 神社サイトの掲示板に書かれた一連の書き込みは、アンヌのファンのものなのだろう。どういう根拠で? と突っ込まれたひとが、URLを書いていた。そこに飛んでみると。

「来年の抱負ってか、夢? 好きな男と旅行がしたいな。あいつは作曲をするから、ふたりで同じところで同じものを見て、あたしは詩を書くんだ。あいつと共作がしたいよ」

 そこは僕が見なかったバーチャル神社で、バーチャル絵馬が並んでいた。ミュージシャンコーナーもあって、新垣アンヌの実名入りでそんな絵馬が堂々と飾ってあったのだった。

「アホか。あたしがこんな、糖尿病には害になるみたいな書き込みをするかよ」
「糖尿病?」
「甘ったるいって意味だ。前に誰かが言ってたのが面白かったから、ぱくったんだよ」
「バクリはどうでもいいけど、アンヌが書いたんじゃないの?」

 ちげーよっ、と吐き捨てて、アンヌは寝室に行ってしまった。

 ということは、誰かがアンヌの名を騙ったのか。アンヌには星の数ほどいる友人知人か、ファンか。アンヌはロックバンドのヴォーカリストなので、アンヌのほうは知らなくてもむこうは彼女を知っているという人間も相当数いる。

 あてずっぽうを書き込んだファンだとしても、悪意があるのかどうかもわからない。アンヌって好きな男がいるんだね、と発言した女性らしき人物だって、ハンドルネームだけしかわからない。ただのいたずらだとも考えられる。

 しかし、僕は知っている。いい機会だからはっきり聞いておこうか。アンヌはベッドに入ったわけでもなく、バスルームにいるようだから、バスタオルを持っていってあげた。

「ねぇ、アンヌ? ねぇ、アンヌったら……」
「なんだよ、聴こえねーよっ、あとにしろ」

 シャワーの音の中、アンヌの怒鳴り声が聞こえた。

「聞こえなくてもいいから聞いて。あれはアンヌが書いたんじゃないにしても、アンヌには好きな男がいるんだよね。僕は作曲なんかできないんだから、あれが笙じゃないのはわかってる。アンヌに好きな男がいるのもわかってる。僕なんかは平凡な主夫で、アンヌにおいしいものを作ってあげるのと、胡弓を育てる以外にはなんにもできないもんね」

 お弁当を作って持っていってあげたら、あたしの仕事場にのこのこ来るな、と怒られた。
 息子は時々母に預け、僕はひとりでけっこう出歩いている。家事も育児も完璧ではない駄目主夫だ。

「そんな僕なのに、アンヌは寛大だよね。僕が無駄遣いをしても許してくれる。掃除をさぼっても、デパートでおかずを買ってきても、今夜は外で食べようよっておねだりしても、あれ買ってってお願いしても、たいていは聞いてくれる。僕はアルバイトもしなくていいくらいに稼いできてくれて、楽をさせてくれる。僕はそんなアンヌに感謝してるよ」

 なのだから、誰のおかげでのうのうと主夫がやれてるんだよっ、と昭和の亭主関白みたいなことを言われても、切れて喧嘩になったりはしない。ぐっと耐えている。

「僕なんかはなにもできない、若くて顔がいいのだけがとりえだって言われてもしようがないと思うよ。ジムにもちゃんと行ってないけど、そのかわり、胡弓とふたりでトレーニングしてるんだ。ちょっとだけおなかが出てきてたのも引っ込んだでしょ。僕は胡弓のためにはいいパパで、アンヌのためには綺麗な笙でいようと努力してるんだ。子育ては手抜きしてないからね」

 手抜きがしたいときには母が協力してくれるから、胡弓はまともに育っている。駄々をこねたりしたときに、パパ嫌い、ママはもっと嫌い、おばあちゃーん、と泣く以外は、愛しい息子だ。
 トレーニングも胡弓とやっているのだから遊び半分だが、ジムに行くと主婦が主夫の僕にからんでくるからいやなのだ。心で言い訳もしつつ、僕は続けた。

「だけど、ロックスターの奥さんとはつりあいの取れない、つまんない夫だって自覚はしてるよ。自覚なんて言葉だって、アンヌが教えてくれたから身についたんだよね。僕はアンヌのおかげで進歩だってした。いろんな経験をさせてもらってるのも、アンヌが広い世界を見せてくれるからだ。僕が独身だったとしたら、まるでつまんない毎日だったはずだよ」

 バスルームの中は静かになっている。アンヌは聞いているのか、湯船につかってでもいるのか。

「だから僕はアンヌを愛してる。ううん、だからってわけでもなくて、アンヌはアンヌだから愛してる。前にアンヌが、僕のためにってよその夫婦ととりかえっこして楽しもうとしたでしょ。あんなのだったらいいんだよね。僕はいやだったけど、アンヌが遊びでよその男をつまみ食いするってんだったら、僕はかまわないよ。ってか、僕には駄目だって言う権利もないけどね」

 うまく表現できないから、だらだら喋っている。肝心のことを言わなくちゃ。

「アンヌの愛するひと、そのひとと旅をして共作したい。歌を作りたい。あれが僕にはショックだったんだな。僕には絶対にできないことを、そのひととは共有できるんだ。身体の浮気なんかなんでもない。胡弓と僕のところに戻ってきてくれるって信じていられるから、僕は平気だよ」

 平気でもないかもしれないが、僕はアンヌの夫なのだから、どっしり構えていられるはずだ。なにしろ胡弓がいるのだから、僕の主夫の座は強いはずだ。

「あたしはおまえたちには、なに不自由ない暮らしをさせてるだろ」
「ああ、アンヌ、聞いてくれてたんだね。うん、感謝してるよ」
「あたしの好きな男、知ってるのか?」
「……葉月って奴でしょ」

 パーティで会ったことのある、植物的で中性的な暗い空気をまとった男。アンヌが彼をテーマにして、「本気で恋をしたのははじめてだ」みたいな詩を書いていた。

「あたしはあいつとは寝てないよ」
「うん、信じる。でもね……うん、僕にだっているからね」
「おまえもあたし以外の女に恋をしてるのか?」

 おまえも、「も」ってことは、認めたのだ。

「僕は恋されてるの」
「……誰に?」
「浮気する気になったら簡単だよ。彼女はアンヌが僕を虐げてるって信じてて、あなたの魔の手から僕を救い出したいって言ってるんだもの。彼女の腕の中に逃げ込むことはいつでもできるんだ」
「……やりたいのか」

 だんだんとアンヌの声がとがってきて、僕はぞくぞくしてきた。

「やりたいって言ったら怒る?」
「怒ってもしようがないかな。恋心ってのはてめえではどうにもならないんだよ。あたしは葉月を好きな気持ちを消すつもりもないし、葉月のほうはあたしに真剣になる気はさらさらなさそうだから、寝ることはあるかもしれない。でも、それだけだよ。おまえは?」

 蘭々ちゃんは僕を真人間にしたいと言っていた。真人間、すなわち働く男だ。僕はそんなのはまっぴらだから、アンヌと離婚して蘭々ちゃんに走るつもりはないけれど、彼女と寝るだけだったらできそうだった。

「あのバーチャル絵馬、うまくあたしの気持ちを言い当ててたな。誰が書いたんだろ」
「アンヌのことをよく知ってるひと?」
「かもな」

 桃源郷のメンバーだとか、仕事仲間だとか、アンヌが打ち明け話をする女友達だとか、もしかしたら葉月自身だとか? うまく言い当てている? アンヌのその気持ちが、僕にはもっともつらいのに。

「あたしも浮気をするかもしれないんだから、身体の浮気だったらおまえもしてもいいよ」
「離婚はしないの?」
「胡弓のためにはしたくないな。でも、絶対にしないとは言い切れない。あたしがそんな約束をしたら、おまえが図に乗るだろ」
「アンヌ、捨てないで」

 バーカ、と笑ってから、アンヌはなにやら呟いている。うむむ、腹が立ってきたぞ、と言っているのはなにに対してなのだろう? 妬けるからだったら最高に嬉しいのに。

「笙、入ってこい」
「怒ってるの?」
「うるせえ。いいから入ってこい」
「服を脱いで?」
「風呂に入るんだから当たり前だろ」
「……はい」

 入っていくとなにが起きるのか。アンヌとふたりでお風呂に入った経験はあるが、今夜は特別にどきどきする。顔を見ないで本音をぶちまけて、そのあとでバスルームで……ポルノ映画みたいだ。

 素直に服を脱いでアンヌの命令に従う。目を閉じてアンヌに歩み寄っていくと、乱暴に抱き寄せられる。これからはじまるなにごとかは、いつもと同じようでいて同じではない。めくるめくひとときになりそうだった。

つづく


 

ガラスの靴73「自慢」

「ガラスの靴」

     73・自慢

「胡弓、熱があるみたいなんだよ。微熱だし、元気があるから大丈夫だと思うけど、僕は今夜は行けないな」
「そうか。医者には連れていったのか?」
「いったよ。今夜はあったかくして早く眠りなさいって言われた」

 電話で笙が言っていたから、今夜のパーティにはひとりで出席した。息子が熱を出して寝ているなんて言ったら、なのに母親がパーティに? と非難したがる輩もいる。これはあたしの仕事だ。うるさい奴には胡弓の話などはせず、あたしも早めに帰ろうかとは思っていた。

「あら、久しぶり」
「ああ……深雪だっけ」
「アンヌさんよね。今夜は専業主夫のご主人は?」
「用事があってこられないんだよ。あんたのフランス人のご主人は?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」

 多彩な異業種人種が集まるパーティだから、あたしのような音楽人も、深雪のような創作系アーティストも来ている。彼女はインテリアデザイナーだと言っていたはずだ。専業主夫と笙のことをイヤミったらしく言うので、あたしもフランス人夫ってのをイヤミに強調しておいた。

 どこかの酒場で共通の知り合いに紹介されたときに、知り合いは深雪とほのかとあたしとを、トンデル女だと評した。知り合いはバブルオヤジなので、ださい言い回しが好きなのだ。

 三児の母、家事と育児は他人に託し、優雅に働いて未婚の母をやっている通訳のほのか。優雅だなどと言うと怒る女もいるが、ほのかは、そうね、私は収入もいいし余裕もあるし、優雅よ、としゃらっと笑う。

 インテリアデザイナーでフランス人の夫を持つ深雪、彼女に関してはその程度しか知らないが、バブルオヤジから見ればトンデイルのだろう。

 そしてあたしは、専業主夫と三歳の息子を抱えるロックヴォーカリスト。あたしは決して優雅ではないが、多少はトンデイルかもしれない。息子が熱を出して家で寝ていたら、普通は母親がそばについているものなのかもしれないから。

 こんなときに笙にまかせておけるのは、あいつを専業主夫にした価値があったってもんだな、なんて思いつつ、深雪と飲んだり食ったりしながら談笑していた。

「今夜はほのかさんは来ないのかしら」
「さあね。ほのかはアーティストってんじゃないから、来ないかもしれないな」
「ほのかさんもアンヌさんも細いよねぇ。ほのかさんってあまり食べないみたいだけど、アンヌさんはよく食べるのに……」
「あたしは肉体労働者だからさ」
「ロックやるひとって活動量がすごいのよね」
 
 この女こそが本当に優雅で、それが肉体にもあらわれている。長身で豊満。ほのかもあたしも背は高いほうだが、ふたりともに細いのがうらやましいのか? ほのかは華奢で、あたしは筋肉質のほうだ。肉体には生活があらわれる。

「フランス人の旦那ってのは美食家なわけ?」
「そうね」
「料理は得意?」
「私が? 苦手ではないけど、私の仕事ではないから気が向いたときしかしないな」
「外食ばっか?」
「そうでもないわ。主人も料理はするし、おいしいものが食べたくなったら料理人を雇うの」

 ほぉ、これはちょいとスケールがちがう。ほのかは家政婦だったら雇っているが、料理人の話をしていたことはない。ほのかの家には小さいのが三人いるから、ホームパーティもしないようだ。
 我が家では料理は笙の仕事。笙がさぼりたいときにはデパ地下の惣菜を買ってきたり、母親に作ってもらったりしている。うまいものが食いたいときには外食もするが、料理人を雇う発想はなかった。

「あの……ミユキ・アルファンさんですよね」
「ええ、さようですわよ」

 そういえばさっきから、この女は近くにいた。深雪とあたしの会話に聞き耳を立てていたようで、我慢できなくなって割って入ってきたのだろうか。

「私、こういう者です」
「はい」

 名刺をもらって一瞥だけして、深雪はそれを小さなバッグにしまう。自分は名刺も出さないのは持っていないからか。相手が彼女を知っているのだから必要ないのか。
 細くて背の高い女はあたしには関心なさげなので、黙って彼女が深雪に話しかけるのを見ていた。

「ご主人はプロデューサーでしたっけ」
「ええ、そうですよ」
「ムッシュ・アルファン、お会いしたことはあります。美食家にしたらやせ形ですよね」
「そうね」

 表面は愛想良くしているが、知り合いでもない相手と本気で話したいわけないだろ、の態度がミエミエだ。深雪の態度に苛立ってきたのか、女の表情が変化してきていた。

「ご主人、かっこいいですよね」
「ありがとうございます」
「おもてになるでしょ」
「どうかしら」
「あれだけの男性なんですもの。若くてスタイルのいい女と恋をするのも全然大丈夫なんじゃありません? すこしダイエットしないと危険かも」
「ご忠告感謝しますわ」

 白々しくも深雪は礼を言い、あたしも言った。

「あんたみたいに細い女が好きな男ばかりとは限らないよな。あんた、なんて名前?」
「心愛です」
「ココア。こりゃまた流行りの名前だな。本名?」
「そうですよ」

 おまえは何者だ、という目であたしを見る女は、桃源郷のヴォーカリスト、新垣アンヌを知らないのだろう。あたしも心愛が何者なのかどうでもいいし、自己紹介する気もなかった。

「深雪って悩みはないのか」
「私? そりゃああるわよ」
「どんな悩み?」
「たとえば、子どものこととか」

 ほえ? 深雪にも子どもがいるのか。まったく生活感のない女なので、不思議でもないはずの事実が不思議に思えた。ほのかにしてもあたしにしても生活感はないほうだが、深雪ほどではない。

「子どもがいるっていうより、子どもができないとか?」
「子どもはいるわよ。息子がひとりいるの。六歳で、来年は小学生になるのね。日本で暮らしてるんだから日本の小学校に通わせようと思って、近くの私立の小学校を受験させて合格したのよ」
「それはそれは」

 息子の話をしていると、深雪も母親の顔になった。

「私立とはいえ自由な校風だから、制服はないの。持ち物にも決まりなんかはないのよ。主人も私もそこが気に入ったっていうのもあるんだけど、子どもの世界って意外と保守的なのよね」
「それはあるかな」

 うちの胡弓は父親に似てひとかけらも男らしくない男の子なので、同世代の女の子に、もっと男らしくしろ、などと怒られている。たまにそんなシーンを目撃すると、あたしは暗澹とした気分になるのである。

「みんな同じがいいって言う子、多いのよ。それが悩み」
「そんなのは深雪が嫌いだから?」
「そうね。私は子どものころから、みんな同じはいやだったわ。デザイナーになりたくて感性を磨いたんだから、人と同じには育たなかった。それで日本ではやりにくくて、フランスに逃亡したってのもあるのよね。主人はフランス人だからもちろん、日本人みたいな横並びの感覚は持ってない。息子も親の影響で、他人とはちがったものをほしがる。女の子用の小物のほうが男の子用よりはおしゃれだし、私が手作りした小物なんかも、おしゃれだと女の子っぽくなるのよね」

 それを友達にからかわれたり、女みたいだと言われたりするのだそうだ。それが悩みなのよ、と深雪はため息をついた。

「私としては、みんなとちがってどこがいけないの? って思うのよ。主人も私に同意してるし、息子もやはり、クリエィティヴな両親から生まれただけに、僕は人とはちがったところがいいんだって思ってるの。でも、子どもの世界では生きづらいわけ」
「うちの息子はまだそこまでは考えてないだろうけど、大きくなってくるとあるのかな」
「あるかもしれないわ。だからね。やっぱり息子はインターナショナルスクールに入れるべきか、あるいは、フランスで学校に行かせようかって、それがいちばんの悩みね」

 この夫婦は浮気公認というわけではなく、互いの浮気に嫉妬しつつ、それを夫婦のこやしにするみたいな? そんな感覚があると聞いた。俗なあたしにはわかりづらい言い分だ。
 そんな夫婦でも子どもの悩みはあるわけで、そんなことを言っているとただの人の親に見えて、あたしにはむしろ好感が持てる。だが、心愛は棘のある口調で言った。

「そんなの悩みじゃなくて、自慢ですよね」
「自慢か? まあ、深雪の台詞には自慢も入ってたけどな」
「全部自慢ですよ。失礼」

 失礼、が挨拶だったようで、心愛は長い脚で歩み去った。

「なんか怒ってたか、あいつ? 知り合いでもないんだろ」
「モデルらしいわね、彼女、もらった名刺にはモデル事務所の名前があったわ。そっかぁ、よっぽど私がうらやましいのよ」
「うらやましいから怒ってるのか?」
「彼女も実はデザイナーになりたかったんじゃない? 才能がないからモデルだなんて、つまらない仕事に甘んじてるの。本当はフランスでクリエィティヴな仕事をして、フランス人と恋愛して結婚したかったんじゃないかしら」

日本ではモデルといえば、若い女の憧れの職業だ。けれど、モデルには外見に恵まれていないとなれない。必ずしも美人ではなくてもいいのだが、洋服の似合うプロポーションと今ふうのルックスが必須。なのだから、なりたくてもなれずに諦める女も多々いる。

 よその女に羨まれる仕事をしていながら、深雪がうらやましいのか? なんたる強欲。
 それもあるが、心愛のつんけんした態度から即、私がうらやましいのだと発送する深雪もたいしたもんだ。深雪の悩みを自慢と受け取った心愛と、心愛の苛立ちを羨望ゆえと受け取った深雪。

 どっちもどっちってのか、深雪の思想のほうが精神衛生にはいいと言うのか。あ、そうか、だから心愛は痩せていて、深雪はふくよかなのだ、おそらく。

つづく

 

ガラスの靴72「物欲」

「ガラスの靴」

     72・物欲

 体験入学というのはほうぼうにあるようで、胡弓を連れて前を通りがかった幼稚園の門前にも「体験入園」の看板が立っていた。
 やってみる? うん、と父と息子のやりとりがあって、胡弓のママであるアンヌも賛成してくれたので、僕は胡弓の手を引いて幼稚園に連れていった。

 三歳から五歳くらいの幼児が集まって、先生の指導のもと、みんなで遊ぶ。まずはそこからということで、泣いたり怯えたりはしない子どもの親は、そばについていなくてもいいと言われた。

 園庭に出ていくと、ママさんたちがあっちにふたり、こっちに三人と群れて話している。両親そろって来ている人や、若い祖母なのか年を取った母なのかわからない年齢の女性もいたが、パパひとりで連れてきている人はいない。ママさんたちの輪に入っていきづらくて、僕は木陰に立っていた。

「笙くんじゃない?」
「うん? あれ?」
「そうだよね。大沢笙くんだ。私のこと、覚えてない?」
 
 どこかで会ったような記憶はあるのだが、明確には思い出せない。アンヌと同じくらいの年ごろに見える、ごく平凡な主婦といった感じの女性だった。

「小学校のときに一緒だった、林子だよ。結婚して苗字が変わったんだけど、リンコ、覚えてないかな」
「んんん……そういやぁいたかな。小学校のときなんて十年以上前だもん。よく覚えてないよ」
「笙くんって転校したんだよね。美少年だったのもあって気になってたから、それでかえって私は覚えてるんだよね」

 とすると同い年? ええ? まさか、と思ったら、同い年ではなかった。林子さんの弟が僕の同級生だったのだそうだ。

「ああ、正志だったら覚えてるよ」
「でしょ? 笙くんはうちにも遊びにきてたもんね。笙くんも結婚したの?」
「そうなんだ。僕も結婚して苗字が変わったんだよ」

 子どものころの僕は隣県に住んでいて、東京に引っ越してきたのは十歳くらいのころだった。林子さんも結婚して東京で暮らすようになったというのだから、広い東京で幼友達の姉さんにめぐり会うとは、奇遇だといえた。林子さんは主婦、僕は主夫。林子さんの娘と僕の息子は同い年だ。

「林子の娘だからこう書くの」
「瞳森? ヒトミモリ?」
「読めないの? 教養ないんだね。ま、考えてみて。笙くんの子どもは?」
「こう書くんだよ」
「胡弓……コキュウだよね。そのくらい読めるよ」

 そりゃあ、胡弓と書いてコキュウと読むのは尋常だからだ。コユミ? なんて読まれることもあるが、素直に読めばコキュウだろう。
 しかし、瞳って字の訓読みなんか知らない。いや、訓読みがヒトミ? そしたらなんだっけ。別の読み方はなんだっけ? 「瞳」を別の読み方なんかするのか?

「専門学校を卒業して、できちゃった結婚して主夫か。そういう人間だったら教養なくてもしようがないかな。降参? 教えてあげようか」
「林子さんは大学卒?」
「当たり前よ。私たちの世代で大学も出てないなんて、親の常識疑っちゃう。本人も向上心がなくて、努力もしなかった奴って印象だよね。正志は医大に行ってるんだよ」
「秀才だね」

 勝ち誇ったような顔をしている林子さんのように、人間の値打は第一に学歴だと考えるひとはよくいる。言いたい奴には言わせておくことにして、「瞳」の音読みを思い出そうとしていた。そう、音読みでは「とう」「どう」だ。瞳子と書いて「とうこ」と読む女性がいた。

「どうしん? とうもり?」
「ほんと、常識ないよね。そんな名前を女の子につける? 次に会うまでの宿題にしておくから、奥さんにも聞いてごらん。笙くん、ケータイのアドレスと電話番号交換しよう」
「あ、ああ、いいよ」

 こうやっていばられて、なんでおまえなんかと、とアンヌだったら怒りそうだが、僕は温厚を旨としているので、林子さんの言う通りにした。

「……メモリじゃないか?」
「メモリ?」
「瞳は目だろ」
「あ、そうかも。さすがアンヌ」
「しかし、メモリってのもおかしな名前だよな」

 体験入園の話をし、林子さんの話題も出し、「瞳森」の字も見せるとアンヌが答えてくれた。林子さんから電話がかかってきたときに宿題の答えを言うと、彼女はなぜか不機嫌になった。

「そんなに簡単に読まれるとつまんないな。世界中にひとつしかない名前をつけたのに」
「こんなの読めて当たり前だって言ったじゃん」
「そうなんだけど……ま、いいわ。笙くんちに遊びにいっていい? メリちゃんは体験入園で胡弓と一緒に遊んでたらしいのね。胡弓パパと友達だって言ったら、遊びにいきたいって。行くからね」
「うん、いいけどね」

 我が子はメリちゃんで、よその子は呼び捨てか。胡弓のほうは誰かと遊んだ? と尋ねても、メリちゃんだのメモリちゃんだのの名前は出さなかったが、そう言うと馬鹿にされそうで、遊びにきたいと言う林子さんにOKの返事をした。

 やっぱり笙くんの子だね、記憶力よくないね、受験のときに苦労しそう、だとか言われたくないので、林子さんとメリちゃんが遊びにきたときにも、その話題は出さずにいた。

 おばあちゃんに預けられているときも多く、おばあちゃんの友達にも可愛がってもらっている胡弓は人見知りはあまりしない。特に我が家でだと王子さまなのだから、メリちゃんにおもちゃをいっぱい貸してあげて、仲良く遊んでいた。

「メリちゃんにはおもちゃはあんまり与えてないのよ。胡弓はたくさん買ってもらいすぎだね。そんなだと我慢できない子になりそう。ほどほどにしたほうがよくない?」
「うちはお客さんも多いから、おもちゃはたくさんもらうんだよ。メリちゃんはおもちゃ、ほしがらない?」
「メリちゃんって物欲のない子なんだよね。食事はきっちり食べるけど、お菓子は嫌いなの。身体によくないものって食べさせたくないし、頭が悪くなりそうなおもちゃは与えたくない。親がそう思ってても、子どもはなんにもわからずに駄々をこねたりするじゃない」

 あれ、ほしいな、と言うとわりにすぐに買ってもらえ、堅いことは言わない僕ら夫婦だから、おやつだって好きなものを食べさせている。ほしくなくてもお客さんがおもちゃをくれたりもする。そのせいで胡弓は、あれほしい、買って買って、なんて駄々っ子になったことはないのだった。

「だけど、躾がいいせいもあるし、メリちゃんは聞き分けがよくて頭がよくて、あれほしいこれほしいなんて言わない子だってせいもあって、親の気持ちをよくわかってるのよ。こんな物欲のない子って、かえって心配なんだよね」
「ふーん」

 自慢しているのだろうから、そんなことないよ、という反応はしないでおいた。
 子どもたちは胡弓のおもちゃで仲良く遊ぶ。胡弓はなんでも気前よく貸してあげるし、メリちゃんも無茶は言わないので、お行儀よくおとなしく遊んでいる。僕は林子さんの愛娘自慢や、林子さんがバリキャリだった会社で知り合って結婚した旦那の自慢話やらを、辛抱強く聞いていた。

「あ、電話だ。ちょっと待ってね。もしもし……」

 スマホで通話をはじめた林子さんのそばから離れ、子どもたちにおやつを出してあげることにした。お菓子はやめておいたほうがいいのだろうから、果物にしよう。僕がいろんなフルーツを盛ったお皿を持って胡弓の部屋に戻ると、林子さんが言った。

「主人が届けてほしいものがあるって言うのよ。二時間くらいですむから、メリちゃんを預かってもらえないかな」
「うん、まあ、いいけどね」
「胡弓、メリちゃんと遊んで、メリちゃんを見習っていい子になるんだよ」
「メリちゃんには言わないの?」
「メリちゃんは言わなくてもわかってるから大丈夫。メリちゃん、パパんとこに行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
「胡弓も言いなさいよ」

 林子さんに命じられた胡弓が、バイバイと手を振る。メリちゃんはたしかに、三歳にすれば大人びた女の子だ。三人して林子さんを見送ると、メリちゃんが言った。

「……お菓子、ないの?」
「お菓子は食べたらいけないんじゃないの?」
「いいんだよ。ママ、いいって言ったよ」
「そうかなぁ」

 口も達者なメリちゃんだが、思ったことを的確に言葉にするのはむずかしいだろう。プリンくらいだったらいいかな? いやいや、今どきはアレルギーの子もいるんだから、独断でものを食べさせてはいけない。

「僕はママからいいって言われてないから、ママが帰ってきたら訊こうね」
「ママは駄目って言うもん。お菓子、食べたいな」
「ああ、そうなんだ。でもさ、おなかが痛くなったりしたら困るでしょ」

 あらら? 泣いてる? べそかき顔でメリちゃんが訴えた。

「ママに言ったらいやだよ」
「メリちゃんがお菓子がほしいって言ったって? 言わないよ」
「うん」

 この幼さでメリちゃんは、ママの前ではいい子にしようと必死になっているんじゃないだろうか。なんだか痛々しく思えてきた。

「これ、メリちゃんの」
「……胡弓のだよ」
「ちがうもん。これは女の子のおもちゃだから、メリちゃんのだよ」
「……んんと……うん、あげる」

 ま、いいや、とばかりに鷹揚に、胡弓はメリちゃんにおもちゃを取られるままになっている。胡弓がそんな調子だから、これもメリちゃんの、あれもメリちゃんの、と彼女はおもちゃをひとり占めする。あげくはポケットに入れているので、僕は言った。

「そんなの持って帰ったら、ママにばれちゃうよ」
「……おじちゃん、意地悪」
「胡弓、あげる?」
「うん、いいよぉ」

 父親としてはむしろ、胡弓のこの鷹揚さのほうが心配だ。メリちゃんはポケットから出した小さなマスコットを握り締めて、胡弓を睨み据える。それからそのマスコットを、力いっぱい胡弓に投げつけた。

「ほしいよ」
「……あげてもいいんだけど、ママになんて言うの?」
「ううん、いらないもん。いらないもんっ!!」

 悔しくてたまらないように叫んで、またまたメリちゃんは泣き出した。ほんとはほしいんだよね。どこが物欲がないんだか……けど、小さな子はこれが普通だろ。泣いているメリちゃんをきょとんと見てから、胡弓は彼女の背中をよしよしと撫でてやっていた。
 
 どうも林子さんの躾は歪んでるな、とは思うのだが、僕には意見なんかできっこない。胡弓までが変な影響を受けて歪まないように、あの幼稚園に入園させるのはやめておいたほうがいいか。林子さんとは距離を置いて、自衛するべきだろう。

つづく


ガラスの靴71「玄人」

「ガラスの靴」

     71・玄人

 この企画をたくらんだひとりの女と、彼女に呼び出されてやってきた三人の女。四人のうちの三人までが名前に「か」がつく。

 各々父親のちがう三人の子を未婚の母として育てている通訳、ほのか。
 キャバクラ嬢、愛花。
 「か」のつかないただひとり、仕事はなにをしているのか知らないが、常にフェロモン満開、男殺しの優衣子。この三人は独身。

 もうひとりの「か」は、夫との取り決めで浮気は公認の既婚者、デザイン事務所勤務の涼夏。彼女が今回の企てをアンヌに持ちかけた。
 その涼夏さんに連れられてきたのが、仮名、太郎。涼夏さんの取引先の社員だそうで、眉目秀麗なエリート青年だ。エリートだから仮名なのか、涼夏さんが太郎くんと呼んでいるので、みんなもそう呼んでいた。

 低く絞った音量でピアノ曲が流れている場所は、我が家のダイニングルームだ。ホームパーティだと言われて涼夏さんに連れられてきた太郎くんは、誰にも愛想よくふるまっていた。

「息子さんは今夜は……?」
「お母さんの家にいるんだ」
「ああ、そうなんですか。お母さんって胡弓くんのおばあちゃんですよね」
「そうだよ」

 四人の女性にアンヌも加えて、女性たちがこちらを見ているのを感じる。僕は接待役なのだから黒子のようなものなのだが、美女たちの視線を送られると落ち着かない。それに引き換え太郎くんは動じず、僕と世間話をしていた。

「僕の母はバリキャリでしたから、僕も祖母に預けられていることが多かったんですよ。僕への肉親の愛情は、祖母と祖父が主に注いでくれました」
「寂しかった?」
「大人が誰も愛してくれなかったら寂しかったかもしれないけど、祖父母が可愛がってくれたから満足でしたよ。僕がなに不自由なく裕福に暮らせたのは、しっかり働いてる両親のおかげだって、祖母にも言い聞かされてましたから」
「ぐれたりもしなかったんだ」
「するわけないですよ」

 男は二十代後半がいい、と言うのが涼夏さんの趣味だそうで、二十三歳の僕なんかはひよこなのだそうだ。アメリカの大学院を卒業して、広告代理店に入社したと聞く太郎くんは僕よりも年上のはずだが、誰を相手にしても敬語で話すのだった。

「あの女のひとたちの中に。好みのタイプっていないの?」
「どの方も綺麗で、好きですよ」
「特別に誰かとつきあいたくない?」
「いえ、別に」

 彼女のフェロモンにはどの男も一発で降参して、彼女がいようが妻がいようが、バツニバツ三であろうが、なびかない者はない、との評判を持つのが優衣子さんだ。彼女はそれとなく太郎くんにアプローチしていたが、するっとかわされていた。

「笙くんも太郎くんも実は……」
「そうかもしれないね」

 実は……なんと言ったのかは知らないが、男を侮辱するフレーズだったにちがいない。僕はこの世では少数派の、優衣子さんのフェロモンにやられない男。それでも僕は優衣子さんの胸の谷間などを見るとどきっとするが、太郎くんはなんにも感じていないようだ。

 気に食わない顔の優衣子さんに話しかけられたのは涼夏さんで、彼女は太郎くんと遊びの恋がしたくて誘いをかけたのだそうだ。そして、言われた。

「女性とプライベートなおつきあいをしたことはありません。友達だったらいーっぱいいますけど、性的な関心はひとかけらもない。男が好きとかロリコンとかってのもありませんよ。セックスの経験もありませんし、したくもないな。頭の中がそういうのでいっぱいで、いやらしい動画を観たりする男は汚らわしい……うーん、そこまで考えてはいませんよ。ただ、暑苦しくっていやなんですよね。やりたい奴は好きにやってればいいけど、僕にはおかまいなくって感じ? なまぐさいのや暑苦しいのは嫌いなんですよ。結婚なんかしたくありません。恋愛にも興味はありません。僕の好きなこと? ガーデニングかな」

 そんな男に涼夏さんの闘志が湧いた。
 悔しいけど、私じゃ駄目みたい。だけど、他の女だったら? 男を惚れさせることには百戦錬磨、一騎当千のつわものたちが、アンヌの周囲には大勢いるでしょ、みつくろって連れてきてよ。私は太郎くんを連れていくから、と言われたアンヌがその気になった。

 休暇が残っていたのもあって、アンヌが涼夏さん所望の女たちを動員したのだが、そんな遊びに加担しているアンヌも、昔は相当なつわものだったはず。

 真面目な男や堅い男、てめえは遊んでいても女には貞淑を求める自分勝手な男、もてない男、固定観念にかたまっている男、などなどには敬遠されるものの、思考が柔軟な僕みたいな男や、強気の美人を好む男にはもてまくっていたアンヌも、今夜は太郎くんにちょっかいを出していた。

「涼夏さんには誘惑されたんだろ」
「そうなんですか。社会人の先輩としていろいろと教わってはいますが、誘惑じゃないでしょ」
「優衣子さんの色気にもなんにも感じない?」
「色気? 色気ってなんなんですか。色気なんか感じたことはないな」
「アンヌみたいなタイプはどう?」
「かっこいいですね」

 同じ男なのだから、彼が内心ではどきどきしているとしたら多少はわかる。が、彼の心も身体も、美女にはぴくっとも動いていない様子だった。

「愛花、ちょっと酔ってきたみたい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよぉ。介抱してよ」
「介抱だったら女性同士でお願いします」
「……うん、もうっ、送ってってくれないの?」
「僕は明日は予定がありますので、あまり遅くなりたくないんです。ごめんなさい」

 業を煮やしたのか、愛花さんがなんともストレートなアプローチをこころみたのも、空振りに終わった。
 ぶすっとした顔になった愛花さんは、まるで酔ってはいない態度に戻って、スマホを取り出してむこうに行ってしまった。キャバクラ嬢というと男をたぶらかすことにかけてはプロなのだから、プライドが傷ついたのかもしれない。

「笙さん、料理が上手ですね。これみんなあなたが作ったんですか」
「ほとんどはね。だって僕、専業主夫だもの」
「主夫の仕事のメインは料理ですね。たしかに」
「褒めてくれてるわりには、おいしそうに食べないね」
「いや、僕は食べものに興味ないから」
「なにに興味あるんだよ?」
「ガーデニングですね」

 またガーデニング。がくっとして、僕はチューハイをがぶ飲みした。女のひとたちはむこうにかたまってこそこそ言いながらも、盛大に飲んで食べている。彼女たちはおいしそうに食べているからいいのだが、僕としても苛立ってきた。

「僕とばかり喋ってるって、太郎くんはほんとは男のほうが好きなんだろ」
「いいえ」
「十五歳以上お断りとか?」
「いいえ」
「十五歳未満にだったら色気を感じる?」
「だから、僕は人間には色気を感じないんです」
「なんにだったら感じるの?」
「見事に咲いた薔薇の花とか……」

 けーっ!! と叫びたくなったのは、僕も酔ってきたからだろうか。
 はじめて涼夏さんから話を聞いたときには、太郎くんのたたずまいは理想の老後の姿だと思った。老後だったらいいが、年頃の近い男としてはじれったい。おまえみたいな奴が増殖すると、少子高齢化が進みすぎて、僕らの老後には年金も出ないぞ。

 おまえは稼ぎがいいんだし、妻も子も持つつもりはないからしっかり貯金すればいいと言うんだろ。うちだってアンヌの稼ぎはいいけど、浪費も激しいから貯金はそんなにしていない。アンヌには定年はないけど、ロックヴォーカリストって何歳までやれるんだろ。

 万が一アンヌに捨てられ、胡弓にもつめたくされ、年金ももらえなかったとしたら……僕の老後は真っ暗闇だ。酔っているせいか悲観的になって、太郎くんにからみたくなってきた。

「太郎くんは主夫なんて馬鹿にしてるだろ」
「してませんよ。他人の生き方は尊重します」
「きみは主夫になりたい?」
「僕がなりたいかどうかは、笙さんの生き様とは無関係でしょう?」
「きみの目に侮蔑を感じるんだよ」
「誤解ですよ」

 あくまでもにこやかな太郎くんと押し問答していると、玄関チャイムの音がした。僕が立っていく前に愛花さんが出ていき、数人の女性を伴って戻ってきた。

「もっとお客さん?」
「笙、こっち来い」
「うん、お客が増えたんだったらグラスとか……」

 呼ばれてアンヌのそばに近づいていくと、僕のかわりのように女性たちが太郎くんを取り囲み、アンヌが言った。

「あれは愛花の仲間たちってのか、男をもてなすのが仕事ってプロの女たちだよ」
「愛花さんの手管が通用しなくて、腹が立ったらしいのね」

 言ったほのかさんは、黙ってそこにいるだけで男に恋されるらしい。僕の知り合いにもほのかさんに片想いをしている男がいた。だが、太郎くんはそんなほのかさんにも興味はないようで、一顧だにしない。ほのかさんはそれでもいいらしいが、内心はむっとしていたりして?

「それで、愛花ちゃんが仲間を呼び出したのよ」
「あんなもんでは太郎くんには通用しないと思うけど、お手並み拝見だね」
「だね」

 優衣子さんと涼夏さんがうなずき合い、アンヌが腕組みをする。太郎くんを囲んでいる華やかな女性たちは、銀座のバーのホステスたちだそうだ。二十代から四十代までの美女集団にかかったら、歌舞伎の大物や政治家や経済業界人や、クラシックの指揮者やマエストロや、なんて人種でもひとたまりもないのだそうだが。

「無駄だよ。あいつはそもそも人類の男じゃないんだから」
「異星人?」
「薔薇の妖精王なんじゃないの」

 やや離れたところから観察していても、案の定、太郎くんが動じていないのが見て取れた。銀座のお姉さんたちに取り囲まれているというよりも、学生時代の女友達たちとグループ討論でもしているかのようだ。
  
 ああいう男になったら感情の波立ちがきわめて少なくて、人生、意外と楽なのかもしれない。けれど、僕は僕でいい。僕はこんなだから、こんな笙だからアンヌに愛してもらえるんだ。僕が太郎くんみたいになったら、アンヌに捨てられるかもしれないんだから、僕はこのままでいい。

つづく

 

ガラスの靴70「求愛」

「ガラスの靴」

     70・求愛


 スマホに電話をしてきたのは、専門学校時代の同級生だった蘭々ちゃんだ。同じく同級生だった多恵ちゃんが、蘭々が笙くんに電話したいって言ってるんだけど、と打診してきたので、かまわないよと答えた。

 アート系専門学校に通いはじめて間もなく、僕はアンヌと恋人同士になった。僕はアニメCG学科の一年生、アンヌは大学を中退しての再入学だったから、学年はひとつ上の七歳年上。アンヌの評判がよくなかったのもあり、それでも僕はアンヌに夢中だったのもありで、僕は同い年の連中には変人扱いされていて友達は少なかった。

 なのだから、蘭々と聞いても、そういう変わった名前の女の子、いたな、程度にしか記憶になかった。専門学校の卒業アルバムを見てみたら、童顔の可愛い子だったので、電話をしてきた蘭々ちゃんが会いたいと言ったのにもうなずいた。

「多恵ちゃんからいろいろ聞いたんだけど、笙くん、子どももいるんだってね」
「いるよ。胡弓、三歳。僕に似て美少年なんだ」
「子ども、今日はどうしたの?」
「お母さんに預けてきた。お母さんは孫命のばあちゃんだから、胡弓を預かるのは老後のいちばんの楽しみなんだよ」
「そう……連れてこなかったのは嬉しかったな」

 同級生なのだから二十三歳かと思っていたが、彼女は中卒で専門学校に入学したのだから、二十歳なのだそうだ。童顔というよりも僕より三つも年下なのだから、学生のときには十代半ばの子どもだったのである。

「蘭々ちゃんはモデルだって?」
「そうなの。このごろってぽっちゃりブームだから、ぽっちゃりさん向けの雑誌もあるのね。その雑誌専門のモデル。読者モデル募集ってのに応募してみたら合格しちゃったんだ」

 電話でも聞いていたが、小柄なのにモデル? と疑問だった。会ったら詳しく聞こうと思っていたら、そういうことだったのか。
 記憶にはほとんどないが、アルバムの蘭々ちゃんはちょっとだけぽちゃっとした小柄で可愛い女の子だった。あれは三年ほど前。ぽっちゃりモデルの仕事のためなのか、彼女はずいぶん太った。これはぽっちゃり? ぼってりじゃないのか?

 別に僕は太った女の子に偏見はない。アンヌは細身で長身だが、アンヌの妹分みたいなカンナちゃんだって嫌いではない。カンナちゃんはがっしりどっしりの体型だから、蘭々ちゃんみたいなぽっちゃりタイプのほうが、好む男もいるのではないだろうか。

「そうなのよ。もてもてで、蘭々、困っちゃうの」
「そうなんだ」
「専門学校を卒業してからは、近所の小さいスーパーマーケットで働いてたのね。スーパーだからお客さんはおばさんが多いじゃない?」
「そうだよね。主婦が客層の中心だろうな」

 可愛いからって、蘭々ちゃんはおばさんたちにクレームばかりつけられたのだそうだ。レジのまちがい、包装が遅い、あれはどこに置いてるの? と訊かれても答えられない。あてずっぽうで答えたりもしたからまちがえてばっかり。

「そんなのたいしたことでもないのに、みんな、カンカンに怒るのよ。なんでそんなに文句ばっかりつけるのかと思ってたら、旦那が蘭々に恋してたみたい。冗談じゃないわよ。なんで蘭々ちゃんがあんなおっさん……大丈夫よ、あんな禿げたおっさんに興味ないから、そんなに妬かなくていいからって言ってやったの」
「クレームつけられてそう言ったの?」
「そうよ。だって、そんなことばかり言われてたんだもの」
「その全部が、旦那が蘭々ちゃんを好きになったからってやきもち?」
「そうみたい。あり得ないわよね」
 
 本当にあり得ないのは、実際に蘭々ちゃんがミスばかりしていたからではないのか。この子も大いなる勘違い女?

「そんなのばっかりで、店長にも怒られたの。店長もおばさんなんだけど、その旦那ってのは蘭々に恋してたみたい。旦那は事務所のほうで働いてたから、会うこともあったのよ」
「そうなんだ」
「うん、だからね」

 あんなみっともないおっさんが蘭々に恋したって、こっちは相手にしてないから無駄よ、だから心配しないで、と蘭々ちゃんは店長に言ってのけ、退職勧告を受けたらしい。可愛い子って世の中のおばさんからは迫害されるのよ、と世を嘆いていた蘭々ちゃんは。

「蘭々、悪くないもん。勝手に恋するおっさんやら、やきもちを妬いて怒るおばさんたちが悪いのよ。だからやめないつもりだったんだけど、そんなときに応募したモデルの仕事に合格したから、やめてあげたわ。店長も今ごろ、後悔してるかもね」

 どうして後悔してるの? と質問するのはやめておこう。蘭々ちゃんの思考回路は常人ではないようだ。 
 たしかに顔は可愛いほうだから、遠くから見てちょこっと好きになる男はいるかもしれない。しかし、そんなにどいつもこいつも恋しないだろう。彼女は蘭々であって、西本ほのかではないのだから。

 読者モデルに合格したことで、蘭々ちゃんの勘違いを助長した節もある。だけど、ま、次の仕事があってよかったね。

「そうなのよ。モデルの仕事は蘭々ちゃんに合ってるし、お給料もちょっとは上がったからいいんだけど、やっぱりスーパーとは関係あるし、カメラマンだの編集者だのなんだのが、次から次へと蘭々ちゃんを好きになってメンドクサイの」
「スーパーと雑誌モデルが関係あるの?」
「あるわよ。その雑誌って全国スーパーマーケット連合ってところが出してるんだもの」

 それってファッション雑誌か? もしかして、広告? 広報? 蘭々ちゃんは髪をかき上げ、ふっと笑った。

「やっぱり蘭々も決まった彼氏を持つべきだと思うのね。蘭々はこんなに可愛いんだから、彼氏も綺麗な顔でなくちゃ駄目なの」
「モデル仲間にいないの?」
「男のひとはいないのよ」

 それでね、と身を乗り出して、蘭々ちゃんは僕の手を握った。

「多恵ちゃんから笙くんの話を聞いて、笙くんを救ってあげることに決めたの」
「救う?」
「だって、笙くんはあのアンヌさんの奴隷みたいにされて、こき使われて蹂躙されて虐待されてるんでしょ」
「って、多恵ちゃんが言ったの?」
「多恵ちゃんは、笙くんはそれなりに幸せらしいよって言ったけど、嘘だもんっ!!」

 怖い顔をして、蘭々ちゃんは力説した。

「そんなはずないじゃない。男性は仕事をしたいものよ。主夫なんかに満足できる男のひとはいないの。笙くんが幸せだと思ってるなんて、洗脳されてるのよ。アンヌさんってそんなふうなひとだったわ。魔女みたいな?」
「おー、ウィッチーウーマン、かっこいい」

 妻を悪く言うな、と怒るのは僕のキャラではないので、おどけてみせた。

「若くて綺麗な笙くんを主夫なんかにして、仕事もさせずに家に閉じ込めて、自分は遊び歩いてるんでしょ。家事も育児も笙くんに押しつけて、自分はなんにもしないのよね。そんなの、女じゃないわ。しかも年上で、淫乱ビッチだったそうじゃないの」
「いやぁ、僕はそんなアンヌが……」
「だから、それは洗脳されてるの。笙くん、目を覚ましなさい。蘭々ちゃんが笙くんをまっとうな男のひとに立ち直らせてあげる。蘭々のこと、好きよね?」
「嫌いじゃないけどね」

 大嫌いではないのでそう答えると、蘭々ちゃんは満足げにうなずいた。

「当然だわ。蘭々を嫌う男のひとなんかいないんだもの。笙くん、アンヌさんから逃げてきなさい。笙くんには自主性や積極性はないって知ってるの。男らしくもないけど綺麗な顔をしていて、生活力もなくて長所もあんまりないとは知ってるけど、愛の力は強いのよ。蘭々が笙くんを更生してあげる。真人間にしてあげるから、黙って蘭々についてきなさい」

 こういう口説き文句には弱いので、僕が独身だったとしたら、はい、ついていきます、と返事をしたかもしれない。
 しかししかしかし、しかーし、僕には妻も息子もいる。こんな勘違い女の独断に巻き込まれてなるものか。アンヌ、僕はがんばるからね。

「僕には子どもがいるからね」
「子どもって母親が育てるものよ。蘭々はみんな知ってて、笙くんを受け止めてあげるんだからへっちゃらだわ。バツイチ子持ちの笙くんでいいの。結婚してあげる」
「アンヌに叱られるよ」
「蘭々がアンヌさんと闘ってあげるわ」
「無理だよ」
「無理じゃないってぱ。蘭々ちゃんにまかせておきなさい」

 なんでまた、多恵ちゃんも蘭々ちゃんに僕の電話番号を教えたのか。多恵ちゃんの彼氏が別の女と結婚してしまい、やっぱり寂しいから、幸せな僕に嫉妬したとか?
 ああ、でも、なんかちょっと面白いかも。蘭々ちゃんをきっぱり切ってしまうよりも、アンヌに紹介してみるのもいい。彼女がどうやってあのアンヌと闘うのか、見てみたい気持ちになっていた。

つづく

 

ガラスの靴69「贖罪」

「ガラスの靴」

     69・贖罪


 このあたりに知り合いのやっているバーがあるとアンヌが言う。音楽業界やスポーツ業界人がリタイアして、水商売をはじめるのはありがちだ。そういう知り合いの店なのだろう。

「だいぶ前に来たんだけど、酔ってたから記憶があやふやだよ」
「なんて名前のバーだっけ?」
「紫蘭」
「シランなんて知らんなぁ」

 アホなシャレを言いながらも探していた。
 今夜はいつものように息子の胡弓は僕の母に預け、アンヌと夫婦水入らずで外食。アンヌは夕方で仕事が終わるというので、僕が待ち合わせ場所に出てきた。

 三歳の胡弓を連れてはいけないような、フレンチレストランでディナーをごちそうしてもらい、もう一軒行こうか、とアンヌが誘ってくれた。臨時収入でもあったのかな?

「紫蘭、ここじゃないの?」
「ああ、ここだ」
 
 ようやく発見したのは、古びた感じの店だ。紫のネオンサインがレトロな感じの看板で、目立たない場所にひっそりと建っていた。

「久しぶり……あれ?」
「ちがうの?」

 ドアを開けて中に入ったアンヌが、怪訝そうに店内を見回す。僕ははじめて来る店だから知らないが、内装が変わっているのか。カウンターのむこうにいる痩せた女性が、いらっしゃいませ、と微笑んだ。

「前からあんたがママさんだった?」
「いえ、あの、半年くらい前から私はここで働くようになったんです。私はママじゃなくて、ただの従業員です。ママは今日はお休みで、アルバイトの若い子がいるんですけど、まだ来てなくて」
「ママって、紫って女?」
「いえ、保子さんっていう……」
「ちがうな」

 経営者が変わったらしいのだが、「紫蘭」の名前はそのままだ。お店丸ごと別の人が買い取ってオーナーになるというのも、ない話ではないらしい。

「まあいいや。せっかく来たんだから飲んでいこう」
「ありがとうございます。あのぉ、お客さま、芸能人かしら?」
「あたしは芸能人のつもりはないな。ロックミュージシャンだよ」
「そうなんですね。どこかで見た方だと思ってました」

 和服姿の女性は涙子と名乗り、名刺をくれた。涙の子でルイコ。えらく暗い名前に似合った、暗い雰囲気の女性だった。一生懸命愛想よくしようとつとめているらしいが、なんだかぎこちなくて、接客業には慣れていない感じがした。

「あたしはアンヌ、こいつはあたしの夫」
「ああ、そうなんですか。ご主人なんですか」
「主人はあたしだから、こいつが主夫なんだよ」

 まぁーっ!! と大げさな声をあげてから、涙子さんが水割りを作ってくれた。チーズやナッツのおつまみも出てきて、アンヌが彼女に質問した。

「涙子ってこの商売、長いのか」
「いえ、半年前にこちらでは働くようになったのが、はじめてです。それまでは私が主婦だったんですよ」
「旦那は?」
「いますけどね」

 プライベートな話はしたくないのか、涙子さんは曖昧に笑っている。それよりもロックのお話、聞かせて下さいな、とせがまれて、アンヌが語る。昨日から徹夜で続けていたPVの撮影話は、僕にもとても面白かった。
 そうしているとドアが開き、新たなお客さんが入ってくる。いらっしゃいませ……と言いかけた涙子さんの顔がこわばった。

「おかあさん……」
「なにか食べさせてよ。お客がこれだけしかいないんだったらいいだろ」

 入ってきたのは派手な服装のおばあさんだ。お母さんが娘が働いている店でごはんを食べさせてって、アリなのだろうか。しかめっ面の涙子さんにはかまわず、おばあさんはアンヌの隣にすわってしまった。

「あんたも派手だね」
「ばあさんも派手だね」
「その子、あんたの彼氏かい? それとも、ホストクラブの子?」
「あたしの夫だよ」
「ほぉぉぉぉ」

 眼鏡をずらして僕をまじまじと見てから、早くなにか食べさせてよ、とおばあさんは涙子さんに催促する。涙子さんはアンヌに詫びてから、まな板に向かった。

「綺麗な子だね。あんたも別嬪さんだけど、年下だろ」
「そうだよ。ばあさんの亭主は?」
「亭主ねぇ、一度は結婚したんだけど、あんたぐらいの年に離婚したんだよ」
「ふうん」

 珍しくアンヌの知り合いには今夜は会わなかったから、知人がやっているというバーを探してやってきた。なのにそこにも知人はいなかった。僕とばかり喋っていても退屈なのか、アンヌは見知らぬおばあさんの身の上話を真面目に聞いていた。

「亭主は家を出ていってしまって、息子と私が残された。養育費なんかもらえるわけもなかったから、あたしはひとりで働いたよ。息子もアルバイトはして、高校までは卒業させた。高校を出たら就職もして、あたしもちょっとは楽になった。それから十年くらいは、息子とふたりで楽しい暮らしだったんだよ」

 なのに、息子が結婚すると言い出したのだそうだ。

「結婚したいから家を出ていくって言うんだよ。そんなの許せない。あたしは大反対したね。それでもどうしても結婚するって言うから、だったらあたしの面倒も見てよって命令してやったんだ。息子は嫁とはもめてたみたいだけど、苦労をかけた母親の面倒を見るのは当然だろ。嫁になるって女も呼び出して、あたしを捨てるなんてのは人の道にはずれてる、そんなことをしたら世間さまに顔向けできないよって言ってやったから、息子もその女も納得したんだよ」
「へぇぇ」

 なにか言いたそうではあったが、他人ごとだ。アンヌは特にはコメントせず、涙子さんも黙々と料理をしていた。

「そうして息子は結婚して、三人で暮らすようになった。意外によくできた女でね、嫁はけっこうあたしに尽くしたんだよ。だけど、そうやってあたしにばかりかまけてるから、旦那がないがしろになる。息子はあの父親の血を引いてるんだから、ちゃんと見張ってないと浮気するだろうと思っていたんだよ」
「浮気したわけ?」
「それもしようがないだろうね。女としての魅力が全然なくなっちまって、姑と我が子しか見えてない嫁なんだもの。そんな女房だと男は浮気するさ」

 元凶はあんたなんじゃないの、おばあさん? と僕も言いたくなったが、アンヌが黙っているのだから僕も黙って聞いていた。

「ところが悪いことに、息子の浮気相手ってのも結婚してたんだね。ダブル不倫ってやつさ。息子は開き直って、むこうの女の亭主に慰謝料を請求されてる、俺には金がない、どうにかしてくれ、って嫁に泣きついた。嫁は主婦をやってたから稼ぎはなかったんだけど、そうなったら稼ぐしかないだろ。あたしが仕事を探してきてやったんだよ」
「なんかそれ、変じゃねえのか?」

 うん、すごく変。僕もアンヌに同意し、涙子さんはおばあさんの前にチャーハンの皿を置いた。

「しけた食い物だな。まずそう」
「文句言わずに食え」
「あんたに言われる筋合いはねえんだよ」

 毒づいたものの、アンヌに言われたので渋々、おばあさんはスプーンを手にする。うまくないね、あいかわらず下手だな、と文句を言いながらも、チャーハンを食べつつ続きを喋っていた。

「息子は嫁に子どもとあたしと、慰謝料の支払いまでを押しつけて家を出ていっちまったよ。母親の恩をあだで返すってのはあのことだ。やっぱり父親の血なんだよね。あんたもこんな顔だけ綺麗な男と結婚してたら、浮気されて捨てられるよ」
「あのさ、ばあさん」

 その一言はスルーして、アンヌがおばあさんに尋ねた。

「涙子はあんたの娘?」
「あんたはなにを聞いてたんだよ。ぼーっとして、頭が悪いのか。今の話に出てきただろ。涙子がその嫁だよ」

 へ? は? とアンヌと僕はあっけに取られるしかなく、おばあさんは涙子さんに言った。

「あんたは料理も下手だし気が利かないし、亭主に出ていかれるのも当たり前だね。こんなんで客にまともな料理を出せてるのか?」
「このお店はバーですから、あまり料理はしないんですよ」
「料理も下手だし不景気な面してるし、この店も流行ってないんだろ」
「お客は少ないですね」
「そのうち潰れるかねぇ。水商売も無理だったら、ソープででも働くか? あんたにできる仕事なんか他にはないだろ」

 つんつん、とアンヌがおばあさんの肩をつつく。おばあさんはその指を振り払い、僕はついに言った。

「涙子さん、今の話ってほんと?」
「だいたいは……」
「なんで……逃げないの?」
「夫の借金を返すのは、妻のつとめですもの」
「離婚すりゃいいじゃん」

 そうだそうだ、とアンヌも力強くうなずき、おばあさんは言った。

「亭主が稼いでくるときだけはいい顔して、つらい立場になったら捨てるって、そんなの、世間さまに顔向けできるはずないだろ。あたしが許さんよ」
「ばばあに許してもらう筋合いはねえんだよ」
「ばばあとはなんだ。このあばずれ」
「なんだとぉ?」

 カウンターから飛び出してきた涙子さんがおばあさんを止め、僕がアンヌを止めた。アンヌはかなり怒っていて、僕は妻を抱きしめて耳元で言った。

「涙子さんがそのつもりにならないだったら、僕らにはどうにもできなくない? こんな女性っているんだね」
「……あたしらは他人だからな。うー、しかし、むかつくっ!!」

 他人のためにも怒ってみせる、正義の味方アンヌは大好きだけど、まったく僕らにはどうにもできない。僕はカウンターにお札を載せて、アンヌの肩を抱いて外に出た。
 涙子という名前、あの暗い空気、彼女の境遇にぴったりすぎて嘘みたいなほどだ。「紫蘭」という名前までが、どろどろーっじめじめーっと感じられてきた。

つづく

 

ガラスの靴68「母心」

「ガラスの靴」

     68・母心

 ミルクティを三つ淹れて、母と伯母の前にすわる。伯母は母の姉で、会うのは実に久しぶりだ。母は晩婚、伯母は母よりもだいぶ年上で早婚だったので、息子も娘も結婚していて孫もいる。いとこのお姉ちゃんとお兄ちゃんには、小さいときに遊んでもらった記憶ならあった。

「うちの血筋なのかしらね」
「血筋ってなに? おばさんちの息子も専業主夫?」
「男の主夫ねぇ。笙くんはそうなんでしょ。それだったらかえってまだいいかもしれない」

 よく覚えていないので確認したところによると、伯母には四十代の息子、四十代の娘、三十代の娘、と三人の子どもがいるのだそうだ。上から、既婚、未婚、既婚なのだそうで、長男と次女には子どもがいる。

「息子と嫁は同じ大学を卒業してるのよ。結婚したいってうちに連れてきたときには、嫁は普通のOLだったの。子どもができて仕事を辞めて、すこししたらとんでもないことを言い出したのよ」
「あれはたしかにとんでもなかったね」

 母は伯母から聞いていたのだろう。僕も聞いたのかもしれないが、親戚なんてどうでもいいので覚えてはいなかった。

「息子はあのころは一流企業の花形部署で働いていたから、収入もよかったわ。だから、させてやりたいって言うのよ」
「なにを?」
「もう一度音楽の勉強がしたいって。嫁は息子と大学は同じだけど、音楽を勉強していたらしいのね。中途半端に終わってしまったから、ドイツに留学して勉強したいって。子どものころからなにやら楽器はやってたらしいんだけど、ただの趣味だと思ってたのよ」
「耕一くんもまあ、よく許したわよね」

 舅、姑の反対を押し切って、嫁は幼子を連れてベルリンに留学した。僕のいとこにあたる耕一くんは、妻に仕送りをしてやり、時々は妻に会いにいっていた。であるから、二番目の子どももできた。

「外国で勉強しながら出産なんて絶対に無理でしょっ、帰ってきなさいっ、って、私は悲鳴を上げたわよ」
「そうだったわね」

 ところが、現地でお手伝いさんを頼んで、嫁は出産を乗り切ってしまう。耕一さんも手伝いにいき、嫁は留学をまっとうしてから帰国した。

「それからは音楽の仕事をしていたの。私にはもひとつわからない仕事だったけどね」
「アンヌと似た仕事?」
「アンヌさんはロックでしょうが。うちの嫁はクラシックよ」

 ロックよりもクラシックのほうが上? このおばさんは嫁の悪口が言いたいのか、自慢がしたいのか、どっちなんだ。

「クラシックっていうのはなんでも、高尚な音楽なんだから一般受けはしないみたいね。流行歌手だとか、アンヌさんみたいな俗っぽい仕事とはちがうのよ」
「アンヌさんだって簡単に成功したわけではないわよ」
「そりゃそうね。桃源郷なんか私は知らないもの」
「姉さんはおばあさんだもの。年寄りはロックバンドなんて知らないよね」

 ふんっだ、という感じで母が言うのは、このおばさんとおばあさんは、対抗意識を燃やし合っているのか。面白くなってきた。

「アンヌさんはどっちでもいいんだけど、うちの嫁よ。そんなふうだから、お金をかけさせたり耕一に寂しい想いをさせたり、子どもたちをほったらかしにしたりしたあげく、たいしてお金にもならない仕事をしていたの。そのくせ、外国に行くからって耕一に子どもをまかせて、子どもたちにも寂しい想いをさせてるのよ。電話をかけたら孫が出て、お母さんはイギリスに出張してるとか言うの。なにが出張よ」
「仕事なんでしょ」
「仕事ってのはお金になることを言うのっ」

 不満いっぱいの表情で、伯母が続けた。

「だったら同居して、私が孫の世話をしてあげようかって言ってみても、耕一がするからいいって言うのよ。耕一は家事も育児も上手になったし、孫たちはお父さんっ子になったって」
「そこは笙と同じね」
「同じとはいってもね……私は情けなかったわ。そんなだから耕一は……」
「それはあるかもしれないわね」

 そんなだから耕一が……どうしたのかは言わず、伯母は嫁の愚痴ばかりを言っていた。

「不細工な女なのよ。がりがりぎすぎすで、うちに来ても私の手伝いをしようともしない。昔からそうだったからイヤミを言ってやったら、耕一が立ってきて皿洗いをするの。私は実家に帰ったら母の手伝いをするんですから、こちらでは実の息子の耕一さんがするべきですよね、ですって」
「今どきはそうなのよね」

 アンヌには如才ないところがあるので、母が来ているとさりげなくお茶を入れたり、肩をもんでやったりはする。ただし、母はアンヌといると居心地がよくないようで、彼女が帰ってくるとさっさと出ていってしまうのだが。

「耕一は男前なのに、もっと若くて可愛い女の子と結婚できるのに、最初から反対だったのよ、今からでも遅くないわ。母さんが孫たちを育ててあげるから、離婚したら? って言ってみたら逆上したみたいに怒って、あれからは私が遊びに行くって言ってもいい顔しないの」
「姉さん、それは禁句だったかもね」
「どうしてよっ」

 姉妹喧嘩が勃発しそうになったので、僕が横から質問した。

「で、それからどうなったの? 耕一くんはどうしたの?」
「耕一は一家の主人なのに、嫁があんなだから家事や育児にかまけなくちゃいけなくなって、エリートの座からは脱落したのよね。課長どまりだったわ。中間管理職ってのはリストラに遭いやすいらしいのよ。耕一がリストラされたのはみんな、嫁のせいよ」
「じゃあ、耕一くんも主夫になったの?」
「耕一は笙くんみたいなプライドのない男じゃないわ。働いてます」

 横から母も言った。

「工員さんみたいな仕事よね」
「工員じゃなくて技術者よ」

 それでもブルーカラーだろうから、プライドの高い伯母さんは言いたくなかったのだろう。どうせ僕には、男としてのこりかたまったプライドなんかないよ。だから幸せなんだ。

「嫁の収入がよくなったから、生活の心配はないんですって」
「だったらよかったじゃん」
「よくないわよっ!! いつの間にか、嫁の収入は耕一の十倍だって言うじゃない。それに引き換え、うちの次女は稼ぎなんかない専業主婦よ。私も兄さんみたいなものわかりのいい男と結婚してたら、義姉さん以上に稼げるようになれたのに、失敗したわぁなんて文句言ってる。そんなの、私は知らないわ。あんたが選んだ旦那でしょうが」
「上のお姉ちゃんは?」
「ニート」
 
 ニートじゃないでしょ、アルバイトはしてるじゃないの、と母が言ったが、伯母にとってはフリーターとニートは同じらしい。母ってのは子どもがいくつになっても気になるものなのだ。うちの母は主夫の僕を受け入れてくれているのだから、ものわかりのいいひとなのだろう。

「この間、嫁が浮気してるのも見つけたのよ」
「浮気? お嫁さんのケータイでも見たの?」
「ちがうわよ。そんなことはしないわ。パソコンよ」

 遊びにいくと息子は疎ましがるが、お嫁さんは意外に歓迎してくれる。伯母が息子の家を訪ねていくと、テーブルのパソコンが開いていた。

「なにをしていたの?」
「仕事でチャットしていたんです」
「チャット……メールみたいなものよね。相手は男性?」
「そうですよ」

 チャットとはなんだか知らないが、教わるのも悔しいので、伯母はその画面を覗いた。
 さすがだな、僕はあなたを誇りに思うよ。同窓生として、あなたは僕らの理想の星だ、素晴らしい。僕の心にあふれる愛と尊敬を贈ります。
 相手の文面はそんなふうで、ありがとう、私もあなたに愛を贈ります、とお嫁さんは返信していた。

「愛ですって。汚らわしい」
「チャットなんだからジョークみたいなものじゃないの? お嫁さんってなんでそんなに尊敬されてるの?」
「どこやらの国のオーケストラの指揮者に選ばれて、外国でコンサートやるらしいわよ。だから尊敬されてるんだって」
「……すげぇじゃん」

 それはほんとに、アンヌとはスケールがちがう。チャットの文面は大学だか留学先だかの同窓生からのお祝いのメッセージだろう。日本語でやりとりしていても外国人なのかもしれない。

 が、伯母としてはそのすごさがぴんと来ていないようで、またあの嫁は孫をほっといて外国に出張だなんて……だったら私が孫の世話をしてあげるのに……いらないって言うのよ、息子もなにを考えているのか、などなど、延々と文句を垂れ流していた。

つづく


 

 

ガラスの靴67「意外」

「ガラスの靴」

     67・意外

 酒を飲んでいい気分になると、そのあたりにいる人間を家に連れて帰る。笙は決していやな顔をせず、いそいそと客をもてなしている。いい旦那だね、と皮肉まじりに言われるのだが、笙は賑やか好き、パーティ好き、客好きなのだから迷惑には思っていないのだ。

 こっちが連れて帰ることのほうが多いが、たまには誘われてよその家に行くこともある。今夜は酒場でバンド仲間と適当に飲んでいたら、顔見知り程度の女に声をかけられた。

「アンヌさん、うちに来ない?」
「えーと、あんたは誰だっけ?」
「健子よ」
「どこのタケコ?」

 見覚えのある顔だが、友達ではない。タケコはあたしに近づいてきて、耳元で言った。

「私は結婚してて子どももいるっていうのに、アンヌさんのバンドの肉食獣に狙われてるの。助けて」
「そういうことだったら助けてやるよ。あんたのうちに行けばいいんだな」
「ありがとう」

 年のころなら三十代半ばか。見ようによっては色っぽいお姉さんにも、おばさんにも見える。このくらいだったらうちのバンドの男どもも口説きたくなるだろう。誰に狙われてる? とは訊かずに、あたしは健子についていった。

 連れられていったのは平凡なマンション。タクシーから降りてエレベータに乗ってたどりついた部屋には、男の子がひとりと、その子をまかせてあったらしいばあさんがいた。

「お帰り、ママ」
「お帰り、お客さん? いらっしゃい。そしたら私は帰るよ」
「うん、ありがとね」

 言葉遣いからすると、ばあさんは健子の母親なのかもしれない。あたしには関係ないので、健子が息子をベッドに入れるのを待って、ふたりで飲みはじめた。

「うまいな、このキンピラ」
「でしょ? 主人が昨夜、作ってくれたの」
「主人ってのは今夜は?」
「そのうち帰ってくるんじゃない?」

 常備菜をつまみに、焼酎を飲む。家庭料理は焼酎のお湯割りにはぴったりで、飲んだり食ったりしながら健子の話を聞いていた。

「私なんかは草食動物だから、肉食獣に狙われるんだよね。草食系の男が増えてるっていうけど、私の周りはけだものばっかり」
「音楽業界は肉食が多いよな。健子も音楽系?」
「昔はジャズシンガーになりたくて、ライヴハウスで歌ってたんだ。それだけでは生活していけないから、ライヴハウスの従業員としても働いてたんだけど、いつの間にかそっちが本職になっちゃった。私は才能なかったんだよね」

 歌の才能のあるあたしみたいな人間はプロになり、健子みたいな人間は夢を捨てて世俗に埋没していく。才能だけの世界ではないが、ありふれた話だった。

「歌えることもほとんどなくなったころに、今の主人と出会ったの。彼もミュージシャンで、独身のころにはいい加減な奴だったんだけど、私が妊娠したから結婚してくれたんだよね」
「してくれたって言うな。してやったんだろ」
「アンヌさんもデキ婚でしょ」
「そうだよ。あたしは妊娠したから、笙と結婚してやったんだ。あたしと結婚できて、笙はラッキーだったんだよ」

 デキ婚を非難する奴はどこにでもここにでもいる。好きでもない奴とできちゃったからっていやいや結婚したんだったらよくないかもしれないが、妊娠が結婚のきっかけになったのならば悪いはずがないではないか。健子も胸を張れ。

「息子だから特に、父親っていたほうがいいよね」
「そうなのかもしれないな。うちの笙は女みたいな奴だけど、息子の胡弓が大きくなってきたときには、男としての生理なんかはあたしには教えられないからね」
「そうそう、それがあるよね」

 なんとアンヌらしくない話をしてるんだ、と言われそうだが、あたしだって子持ちの女と会話をするとこうなる場合もある。うちの胡弓はさ、うちの主税はさ、と息子の話をする。健子の息子はチカラというのだそうで、ともに和風の名前なのだった。

 そうしているとのそっと男が入ってきた。勝手に玄関のカギを開けたらしく、よっ、と手を上げる。その男の顔を見たあたしは驚いた。

「フジミ……」
「よぉ、アンヌ。アンヌって健子と友達だったのか」
「同じ業界だものね。フジミとアンヌも知り合いだったんだ」

 え? え、え、え? フジミの妻は健子だったか?
 狭い業界なのだから、あたしはフジミとは知り合いだ。フジミと友達なのはうちのドラマーの吉丸。笙に言わせると類友だとなるフジミと吉丸は、どっちも天下無敵の浮気者なのである。

 この業界には浮気男も浮気女も珍しくはないが、このふたりの浮気ぶりは常人ではない。

 かたや吉丸は、女と結婚して子どもを作り、男と浮気して離婚して息子を引き取った。その後女と浮気して、その女が子どもを産んだ。現在は最初の結婚のときの浮気相手と事実婚状態で、妻は男とはいえ息子の面倒をしっかり見ているが、吉丸は時々つまみ食いをしている。

 一方、フジミは何度結婚し、何度離婚したことか。そうじきに別れるんだったら結婚するな、と言いたいのだが、愛し合ったら結婚したいんだ、前の彼女とは別れるんだ、それがけじめだ、などとぬかす。なにがけじめだ、おまえはどの口でケジメという言葉を……いかん、興奮しそうになった。

 昔はあたしだって男がほっといてくれなかったから盛大に遊んだが、結婚して母となり、一家のあるじとなってからは浮気はしていない。精神的なものや、昔の男との触れ合いは浮気とはいわない。

 そうして何度も離婚結婚、離婚結婚、とやっている男だし、あたしはフジミとは友達でもないので、現在の彼の妻が健子だったのかどうかははっきり知らない。健子が主人と呼んでいて、息子もいて、フジミがここに帰ってきたのだから、そうなのだろうと納得しておくことにした。

「健子、聞いてよ」
「なあに?」

 眠っている息子を確認して着替えてきたようで、フジミがテーブルにつく。健子は彼に焼酎のお湯割りを作ってやり、あたしは言った。

「おまえ、料理がうまいんだな。意外だったよ」
「うまいってほどでもないけどさ……アンヌって料理なんかしないの?」
「しねえよ。あたしは家事は一切しないんだ。育児はちょっとはやるけど、家事は主夫の仕事だろ」
「稼げる女は強いね。でさ」

 焼酎を飲み、つまみを口に放り込んで、フジミは本題に入った。

「運命の女に出会ったんだ」
「またぁ?」
「またじゃないよ。はじめてだ」
「そっかなぁ。どんな女?」
「シングルマザーなんだよ。三人の子どもがいて、通訳をしてひとりで育ててるんだ。すーっ、しゅーっとした涼しそうな美人で、優しくて凛々しくて綺麗で……うまく言えない」

 それってもしかして、西本ほのか?

 優衣子という、他人の男はなんでもほしがる肉食女がいる。あの手この手で我がものにするとぽいっと捨て、各地で男女の仲をひっかき回して物議をかもしている。フジミも優衣子にひっかかったのではなかったか。
 ただし、優衣子は惚れっぽくて飽きっぽいようだから、捨てられた男がもとの女に戻っていくことも間々あるらしい。

 あの優衣子が一方の頂だとしたら、吉丸の次男、彼女にとっては長男である雅夫を産んだほのかは、もう一方の別種の頂ではなかろうか。

 おのれからアプローチして男を落とすのが趣味の優衣子とはちがって、ほのかはしれーっとしている。男のほうが勝手にほのかに惚れるのだ。笙の知り合いにもほのかに恋をして、かなわぬ恋とわかっていながら妻も娘も捨て、ただほのかを見つめているという阿呆がいる。

 まさかフジミはそんなアホロマンティストではないと思うが、ほのかなのかと確認する気にはならず、夫婦の会話を聞いていた。

「彼女に見つめられると、体温が上がるんだよ。見つめられてるだけでいいんだ。彼女が女神さまみたいに見えて、手を出すなんて考えられなくなっちまう」
「私のことは、会ったその日に口説いたよね」
「健子は抱きたい女、彼女は遠くから仰ぎ見ていたい女だな」
「勝手にしたら?」
「勝手にするよ、ってか、だから俺は彼女にはなにもしないんだ。彼女と同じ空間にいて、彼女と同じ空気を吸って、彼女を見ていられたらそれでいい。彼女は健子とは異次元の女なんだよ。これがほんとのピュアラヴってのかな。運命の女っているんだよな」

 アホらしくなってきたので、あたしは口をはさんだ。

「女房の前で臆面もなく言うよな。健子、ぶん殴れ。あたしが殴ってやろうか」
「いいのよ」
「あんたらも浮気公認の夫婦か」

 精神的な恋は浮気じゃない、とでも言うのかと思った健子は、笑って言った。

「だって、彼とはとうに離婚してるんだもの」
「……主人って言っただろ」
「主人としか呼びようがないんだよね。モトオット? なんて言うのもややこしいから、対外的には主人って言ってるだけ。だったら浮気じゃないもんね」

 素知らぬ顔でフジミは焼酎を飲み、料理を食べる。フジミの料理が美味である意外さとは比較にならないほどに意外な事実だった。

「フジミは自由人だから、ふらふら飛び回ってるよ。だけど、主税のことは可愛いんだよね。主税にとってはいいお父さんなの。私から見たらモトオットっていう前に、主税の父親。それだけはまちがいないでしょ。行くところがないときや、主税に会いたいときや、私が主税のことで相談したいときや、そんなときにはここに来るのよ。そいで、おいしいものを作ってくれたりするし、養育費は払ってくれてるからそれでいいの」
「は、はぁ……」

 世の中、いろんなカップルがいるもんだ。笙とあたしも変わっているほうだが、上には上がいる。気を取り直してあたしは呟いた。

「それはまあいいとして、それにしてもフジミってアホだな」
「ほんとにね」

 同感、と健子は朗らかに笑い、焼酎を飲み干した。主税が父親に似ないように祈って、あたしもグラスを干した。

つづく


 

ガラスの靴66「休暇」

「ガラスの靴」

     66・休暇

 小豆島のホテルにはお客は少なくて、経営者側としては不満だろうが、客の僕らはゆったりできて心地よい。
 ホテルとはいっても家族経営だからか格式ばってもいず、和室の大広間に客が集まって食事をすることになった。

 昼間にプールで会ったキホさんとレティシアの親子は、アンヌがキホさんを嫌ってしまったようで、近寄るな、と言う。レティちゃんと胡弓も仲良くなったので残念そうだが、僕はアンヌが妬いてくれているみたいなのが嬉しくて、キホさんに近寄りたいとは思わなかった。

 あとひと組いるお客は、このホテルの婿養子でアンヌの昔なじみだという、トクさんの妹とその友達なのだそうだ。キホさんとレティちゃん以外は身内に近いような感覚だからか、トクさんも、トクさんの舅だというサダさんも大広間に出てきていた。

 キホさんとレティちゃんだけが離れていたのだが、寂しいわぁ、そっちに行ってもええ? と尋ねられたトクさんとサダさんが、どうぞどうぞと答えてしまったので、食事が終わったらみんなで輪になってデザートタイムになった。

「……アンヌ、怒ってる?」
「怒っちゃいねえよ。うるせえんだ」

 怒ってるように見えるけど、しつこく言うとよけいに怒られそうだから、気にしないことにして胡弓にプリンを食べさせる。キホさんもレティちゃんにプリンを食べさせていて、僕と目が合うとにっこりした。キホさんのそんな視線をはね返すような、アンヌの眼光は鋭い。

 怖いのでアンヌの顔を見ないようにしていると、トクさんの妹の真奈さん、その友達の尚美さんと、トクさん、サダさんの会話が聞こえてきた。トクさんはアンヌと同じくらいの年で、真奈さんと尚美さんは僕に近い年頃だ。サダさんは六十代くらいのおじさんである。

「そりゃあね、男が女に求めるものってのは決まっとるんですわ」
「なになに?」
「まず第一に……」

 料理だそうだ。料理がうまいのが一番、男は胃袋をつかめと言う。
 もてる女の特徴ってのを喋っていた女性たちがいたが、このおじさんは一歩進んで、妻としての理想を語っているのか。料理のできる女ねぇ。ここでアンヌは一発アウト。

「家庭的で子どもが好きで、家を守ってくれる。そんな妻がいたら癒されますわな」
「ふむふむ、そうですよね」

 ここもアンヌはまったくあてはまらない。アンヌは聞いているのかいないのか、プリンをつまみに甘口のワインを飲んでいた。

「愛嬌があって笑顔が可愛い。女のひとはいつもにこにこしているのが一番ですよ」
「こう?」
「そうそう。真奈さんも尚美さんも笑うと可愛いですなぁ」

 ブスは笑顔、美人はお澄まし顔。アイドルの写真にしても昔は満面の笑顔というものがほとんどだったが、今どきは憂い顔だったりつんつんした顔だったりする。ポスターのアンヌは怒り顔をしている場合が多くて、それがまたかっこいい。

「あと、これは重要ですよ。男を立てる」
「立てる……」
「おかしな意味ではないんですよ。男はプライドの高い生き物ですから、上手に立ててやってほしい」

 僕にだってプライドは皆無ではないはずだが、かなり低いほうなのだろう。アンヌに立ててもらいたいなんてこれっぽっちも思わない。アンヌのほうが収入が上、アンヌのほうが旦那さまみたいなもの。いつだってけちょんけちょんに言われて、おまえは黙ってあたしについてこい、と命令されているのが幸せだ。

「もうひとつ、大事なことがあります。煙草を吸わない」
「私は煙草は吸わないから大丈夫」
「そうよねぇ。私も煙草を吸う男性っていやだから、女性はよけいに喫煙はノーよね」

 ふたりの女性は素直におじさんの言葉を聞いていて、おじさんが満悦顔になる。どうもやはり聞いてはいるらしく、アンヌはこのタイミングで煙草を取り出し、外で吸ってくるよ、と言い置いて出ていってしまった。

「あ、アンヌさんは煙草を……まずったかな、トクさん?」
「ってかね、お義父さん、それは全部、お義父さんの勝手な思い込みでしょう?」

 彼はアンヌを好きなのか、トクさんが言い、キホさんも言った。

「ここは禁煙? ホテルの部屋は禁煙とちがうでしょう? 吸ったらあかんのかしら」
「あの、子どもさんのいるところで吸うんですか?」
「家でも吸うてますえ。レティは強い子やから、煙草のけむりごときはへっちゃらや。な、レティ?」
「うん、レティ、煙草のにおい大好き。ママ、吸うてもええよ」

 ぽっかーん、あっけ、という顔をしているおじさんとお姉さんたち。僕はトクさんと顔を見合わせて笑ってしまってから、トクさんに質問した。

「トクさんって奥さんの料理、そんなに大事だと思う?」
「うちはこんな仕事だから、食事は賄いで作ってもらってますよ」
「いや、うちは特別だから……」

 口をはさもうとしたサダさんを無視して、僕は続けた。

「僕は家庭的で子どもが好きで、家を守ってる専業主夫なんだ。そんな夫がいるんだから、アンヌは癒されてるんだよね」
「アンヌさんらしい婿さんをもらいましたな」
「そうそう。僕は苗字も新垣に変えたんだから、トクさんに似た立場だよね」

 おじさんとお姉さんたちは黙ってしまい、トクさんと僕の会話になっていた。

「不細工な女がぶすっとしてたら見られたもんじゃないけど、美人は笑わないほうがかっこいいよね」
「それも言えてますよね。アンヌさんみたいな美女は笑うとむしろ安っぽいってか……」
「クールビューティって言葉もあるもんね」

 くすくす笑っているキホさんの膝に、レティちゃんと胡弓がもたれかかる。子どもたちはふたりともに満腹して眠くなってきたようだ。

「うちではアンヌが大黒柱だから、僕が妻を立ててますよ」
「うちもそうですね。旅館は女将が中心ですから、僕は脇役ですよ」
「それに、くわえ煙草のアンヌもかっこいいんだな。うちは胡弓の身体にはよくないからって、息子がのそばでは彼女は喫煙しないけど、僕とふたりでだったら吸います。煙草を吸ってるアンヌの横顔には見とれちゃうな」
「喫煙者のアンヌさんが、健康な胡弓くんを産んだんですよね」
「もちろん。煙草なんてのは今でこそ身体に悪いって言われてるけど、薬になるっていわれてた時代もあったんだよ。日本人は風潮ってのに左右されすぎだよ」

 いやあの、その、とサダさんはもがもが言っていて、真奈さんと尚美さんは、ごちそうさま、と言い残して立っていってしまった。

「トクさんってアンヌのモトカレ?」
「いやぁ、好きだったんですけど、告白してふられたんですよ。すみません」
「すみませんは僕の台詞でしょ。僕の妻があなたをふってすみません」
「いやいやいや、笙さんって……いや、正直……」

 言いにくそうに口ごもってから、トクさんは僕の顔をじっと見た。

「アンヌさんから聞いて、笙さんがうらやましいと思ったり、専業主夫なんてアンヌさんの負担になってるだけなんじゃないかと思ったりしたんだけど、今の話を聞いて嬉しくなりました。笙さんはアンヌさんの理想の夫なんですね」
「よくわかってるじゃん。その通り!!」

 はーっ、とわざとらしくため息をついたサダさんは、時代は変わったのぉ、なんて呟きながら厨房のほうへと行ってしまった。レティちゃんと胡弓に両側からもたれられているキホさんは、とろっとしたまなざしで僕を見た。

「私も笙くんみたいな旦那さまがほしいわぁ」
「キホさん、笙さんはアンヌさんのものなんだから、横恋慕はいけませんよ」
「ほしたら、トクさんでもええよ」
「いえ、僕も妻のものです」

 うんっ、もうっ、とか言いながら、キホさんがトクさんの顔に煙草のけむりを吐きかける。けほけほむせながらもトクさんは嬉しそうだ。
 後片付けをするためらしく、仲居さんたちが広間に入ってきたのをしおに、僕らも腰を上げた。キホさんがレティちゃんを抱き、抱かせてほしいと言うのでトクさんに胡弓をまかせる。

 外は寒くもなく、綺麗なまん丸お月さまがぽっかり夜空に浮かんでいる。月見煙草をやっていたらしいアンヌが、僕らを認めて手を振る。アンヌの機嫌も直っているようだ。トクさんと僕はわかり合えたのだから、アンヌとキホさんも仲直りして、胡弓とレティちゃんが楽しく遊べるといいな。

つづく


より以前の記事一覧

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ