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連載小説・ガラスの靴

ガラスの靴51「信頼」

「ガラスの靴」

 

     51・信頼

 

 どれほど綺麗でもおばさんではあるのだが、上品でセレブなマダムといった感じの美人が、竜弥くんのとなりで頭を下げた。

 

「竜弥の母でございます。西本たつ子と申します。竜弥がお世話になりまして」
「西本さん?」
「ええ」

 

 最初の妻とは男と不倫して離婚し、不倫相手と事実婚をした吉丸さんは、アンヌのバンド「桃源郷」のドラマーだ。男と不倫したのだから当然、事実婚の相手は男である美知敏。通称ミチは吉丸さんのヨメと呼ばれて専業主夫というか主婦というか、でもあり、吉丸さんの前妻が置いていった息子を育てる男母でもある。

 

 それで懲りるような奴ではない吉丸さんは、今度は女と浮気をした。その相手の女が西本ほのかさん。ほのかさんは父親のちがう三人の子どもをひとりで育てている通訳で、三番目の雅夫が吉丸さんの子だってわけだ。

 

 英語の通訳だから英米の有名人ともつきあいがある、収入も相当に多いほのかさん。望み通りに三人の子どもを持ち、人生が充実しているらしきほのかさんの自宅に入り込んできたのが竜弥くんだった。

 

 彼の正体はどうも曖昧で、大学生らしいとしかわからない。姓すらも僕は知らない。ほのかさんの子どもたちは彼の正体を教えてくれるには幼すぎ、ほのかさんも本人も絶対に言ってはくれない。時おり竜弥くんとは話す機会もあるのだが、肝心の部分ははぐらかされる。

 

 ほのかさんちの家政婦さんだったら教えてくれるかと思ったのだが、知りませんよっ!! とつめたくあしらわれた。

 

 その竜弥くんの姓は西本? 母が西本なのならば普通は息子も西本だろう。僕は結婚してアンヌの姓の新垣に変わったので、実の母とは苗字がちがうが、こっちのほうが特殊なはずだ。ほのかさんの姓も西本。すると?

 

「ほのかさんもお世話になっておりますようで、竜弥が笙さんに挨拶をしてくれと申しますのよ」
「えーっと、たつ子さんってほのかさんのなんなんですか」
「ほのかさんの兄の妻です」
「っつうと、竜弥くんはほのかさんの甥?」
「ええ。ほのかさんの子どもたちのベビーシッターをしてくれるなら、下宿代は無料でいいなんて言われましてね。うちの主人はもちろん、竜弥のマンションの家賃くらいだったら払えるんですけど、ほのかさんのお目付け役みたいな感じで、同居させるのはいいかもしれないと申しましたの」
「そうなんだ」

 

 なーんだ。そしたら竜弥くんはほのかさんの甥なんじゃないか。竜弥くんもようやく種明かしをしてくれる気になったようで、ほのかさんのマンションでお母さんを僕に紹介してくれたらしい。今日はほのかさんは子どもたちを連れて出かけていると竜弥くんは言っていた。

 

「笙さんもほのかさんについてはごぞんじなんですよね。主人も気に病んでいますのよ。兄の言うことを聞くような女性ではありませんから、竜弥をそばに置いて、せめてこれ以上はとんでもなく破廉恥な真似をしないようにと……身内の恥をお聞かせしてしまいまして、すみません」
「恥じゃないじゃん」

 

 小声で言った僕に竜弥くんはウィンクしてみせたが、お母さんには聞こえなかったらしい。ため息まじりに続けた。

 

「雅夫くんのお父さんの仕事仲間が、笙さんの奥さまなんですってね。笙さんは専業主夫でいらっしゃるそうで……私もほのかさんみたいな女性と関わってますから、専業主夫くらいじゃ驚きませんわ。それにしてもその、雅夫の父親って方は……」

 

 未婚の母とはいえ、ほのかさんはきちんと三人の子どもを育てている。今のところは子どもたちはまっとうに育っているのだから、ほのかさんは決して身内の恥ではないと思うが、四十代の頭の固いおばさんには通じないだろう。

 

「主人は怒ってましたけど、ほのかさんがもてあそばれて捨てられたってわけでもないらしいから、もうほっとけって態度になってます。だけど、雅夫のお父さんってよくもそれだけ浮気できますよね」
「それだけは同感ですね」

 

 うふふと竜弥くんは笑い、僕は肩をすくめ、たつ子さんはため息ばかりつきながらも喋った。

 

「うちの主人は家事なんかは一切しませんけど、しっかり働いてますし、優しいですし、絶対に浮気はしないんだから亭主関白は受け入れてますのよ」
「絶対に浮気はしないんですか」
「しません、絶対に。私は強く信じてます」
「僕はたつ子さんの旦那さんって知らないけど、どんなところがその根拠なんですか」

 

 あまり突っ込んで質問するといやがられるかとも思ったのだが、たつ子さんはその話をしたかったらしく、勢い込んだ。

 

「まず、主人の職場は男性ばかりです。アカデミックな仕事で、昨今は学者さんにも女性が進出してきてますけど、主人の職場にはいません。掃除婦のおばさんすらいません」
「なるほど」

 

 その調子でたつ子さんは並べ立てる。

 

 収入はいいけれど、給料も臨時収入もすべて夫が妻に託してくれる。妻の知らないお金は持っていないし、金銭的には恬淡としているので、妻の作ったお弁当を持って出勤し、仕事が終わればまっすぐ帰ってくる。帰宅時間は判で押したようにほぼ同じ。職場は自宅からも近いので、七時半には帰ってくる。

 

 たまさか会合などはあるが、夫はお酒は苦手なのでほとんど飲まない。たまにはバーに行ったりもするが、帰宅してから逐一、今夜はどこでなにがどうして誰と話して……などと妻に報告する。

 

 そういう話を妻にするのは好きだが、面倒くさがりなので携帯電話は仕事にしか使わない。その他の事柄も相当に面倒がるのだから、浮気なんかはめんどくさいの最たるものだと本人も言っている。ママ、かわりにメールしておいて、と頼まれて職場の連絡を妻がしたりもするので、携帯を見るのもまったく自由だ。

 

 休日に出かけるのは息子の竜弥くんか、妻のたつ子さんとだけ。ひとりで行くのは近所の散歩だけ。散歩に行くとお土産だと言って、パンやケーキや花や雑誌などを買ってきてくれる。

 

「それともうひとつ、あるよね。ママはパパの好みにぴったり」
「もう若くはないけど、それでも言ってくれるものね。ママは綺麗だよ、愛してるってね」
「ごちそうさま」
「昨日も言ってくれたわ。最近は竜弥くんがいないから、よけいにふたりっきりで熱いのよ」
「ほんと、ごちそうさま」

 

 母と息子がじゃれ合うような会話をかわし、たつ子さんは僕に向かって言った。

 

「両親が愛し合い、あたたかな家庭を作っているといい子が育つってほんとですよね。私は専業主婦ですから、竜弥には手も目も愛情もたっぷり注いで育てました。躾にしてもきびしすぎず甘すぎず、ほどほどに最適にできた自信があるんですよ。おかげさまで竜弥はほんとに、素晴らしい青年に育ちました。私の手中の珠です」

 

 そうかなぁ、竜弥くんってそんなに模範的な青年かなぁ? とは思ったが、竜弥くんも子どもではないのだから、母の知らない顔を持っているのが当然だろう。黙っておいてやろう。

 

「私は人を見る目があるって自信も持ってますから、主人が浮気なんか一度もしたことはない、これからも絶対にしないって信じてますわ」
「ママがしたりして?」
「そうねぇ。私のほうが危ないかもしれないわ。……嘘よ、冗談よ。私はまだもてるけど、私だってパパ一筋だもの。いやあね、竜弥くんったら、変なことを言わないで」
「ごめんなさい。失礼しました」

 

 ふたりして顔を見合わせて、母と息子がくすくす笑う。気持ち悪くなくもない笑いだった。

 

「今日は笙さんにご挨拶だけしたくて、こちらに立ち寄ったんですよ。これからも息子をよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「ママ、もう帰るの?」
「ええ、このあと、パパと約束があるの。竜弥くんも連れていってあげたいんだけど、ふたりきりのデートですからね」
「僕にとっては残念だけど、楽しんできてね」
「ええ、ありがとう」

 

 息子の頬に母がキスをし、息子は母を軽くハグする。僕はお母さんとあんなこと、したこともない。したくもないからいいのだが。

 

「さてさて、笙くんはどう思った?」
「どうって、なにを?」

 

 たつ子さんをお見送りして部屋に戻ると、竜弥くんが言った。

 

「うちのママの、夫に対する信頼だよ」
「いいんじゃないの。理想だよね」
「うん、ママは幸せなひとだ」
「……それって……」

 

 シンプルに幸せだと言っているのではなく、おめでたくて幸せだというニュアンスに聴こえた。

 

「親父とママは若いころは美男美女のカップルだったんだよ。ママだって今もまあ、美人だろ。親父は僕の兄さんに見られるくらいにかっこいいんだ。だからさ、けっこう貢がれたりするわけ。そうやってうんと年上の男に貢いででも、あわよくば妻を蹴落として後妻の座におさまりたいって若い女、いるんだよ」
「ええ?」
「親父は七時半には帰宅できるくらいなんだから、仕事は忙しくもない。勤務時間中に職場を抜け出して女とデートすることもできるんだよ。浮気だよ、あくまで浮気。本気にはならないみたいだね」
「はあ……」

 

 それからそれから、竜弥くんは父の行動の抜け穴をいくつも話した。

 

「親父は秘密の携帯を持ってるよ。そっちには若い女のアドレスもずらりと並んでて、メールだって複数の女とやりとりしてる。親父にはママに内緒の副収入もあるから、貢いでくれない女ともデートできるんだよ」
「ふーむ」
「あと、僕は親父の味方だから、竜弥と食事に行ってくる、とかって嘘に口裏を合わせてあげたりもするんだよね。まったく、ママは幸せだよ」
「はぁあ……」
「知らないことはなかったことなんだから、僕はママの幸せに水をぶっかけるようなことはしないよ。笙くんだってしないよね」

 

 ぶるぶる頭を振ると、竜弥くんはにんまりした。

 

「ああいう女に限って、私は人を見る目があるって言いたがるんだ。人を見る目があるのかどうか、私の育て方がよかったから息子がいい子に育ったのかどうか、ただのラッキーだったのか、ただの節穴みたいな目を持ってるだけなのか、どれもこれも紙一重だよね」

 

 ああいう母に育てられると、こういうゆがんだ性格の息子ができるのか。その点、僕の母は平凡でよかったのだろう。僕の母も若いころにはちょっと綺麗だったらしいが、今ではたつ子さんとは比べものにならないくすんだおばさんだ。

 

 父はイケメンでもないおっさんなのだから、僕は母に感謝はしている。母が綺麗だったから僕も美少年に育って、アンヌと結婚できたのだ。アンヌが僕をお婿にもらってくれた一因には、笙が可愛い顔をしているから、というのがまぎれもなくあった。

 

「竜弥くんはほのかさんの甥なんだよね。甥と叔母って結婚できるよね」
「できるはずだね」
「……結婚できるんだから……」
「近親相姦にはならないんだから、肉体関係もあるかもしれないって? さあね、どうだろね」

 

 ゆがんだ性格の美青年の、たった今の微笑も相当にゆがんでいた。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴50「姉弟」

「ガラスの靴」

 

     50・姉弟

 

 なにもわざわざ持ってこなくてもいいものを、送ればいいものを、お義母さまからのお届けものだと、操子さんが包みをうやうやしく差し出した。

 

「いいんだよ、操子は東京に来るのが嬉しいんだから」
「そうなの?」
「ええ。お義姉さまのお宅にだったら行かせてもらえますから」

 

 東北の山奥、と僕には思える土地の豪農が、アンヌの生家だ。僕は結婚してからアンヌをつついて聞き出した。

 

 母を幼いころに亡くしたアンヌの父は、別の女性と再婚してアンヌの異腹の弟が誕生する。その後には父も亡くなったので、アンヌの生家には継母とその息子とその妻とその子どもたち、双生児の男の子が住んでいる。アンヌが田舎は捨てた、親なんかどうでもいい、弟は大嫌いだと言うのがわかる家族だとは、僕も一度だけ訪問して知った。

 

 だからといって婚家をあまりないがしろにするのもよくないとは思うのだが、アンヌがほっとけと言うのだからしようがない。アンヌは僕の妻で、我が家の主人なのだから、アンヌの意向が新垣家の総意なのである。

 

 二十三歳の僕と近い年頃のアンヌの異母弟、貞光は女性には嫌われそうな奴だ。あの若さで農家の主人を張っているのだから、僕はある意味尊敬しているが、アンヌが大嫌いだと言うのもわかる。

 

 貞光の妻、操子さんは僕よりもかなり年上なので、義兄さんと言いたがるのを止めて笙さんと呼んでもらっている。アンヌにはお義姉さまなんて呼んで、アンヌもいやがっているのだが、本当に姉なんだからしようがないらしい。

 

 義母と義弟はこの家には来たことがないのは、貞光も姉を嫌っているからか。あいつはアンヌのことを、美人だけどふしだらだとか、あんな女だとか言っていた。

 

 そのせいか、操子さんだけがたまに我が家にやってくる。今日は重たいのに果物を持ってきてくれて、田舎の双生児とおそろいだと言うぬいぐるみを息子の胡弓にくれた。ぬいぐるみも大きくて、胡弓が抱っこしているとどっちが抱かれているのやら、であった。

 

「お義姉さまのお宅に伺う用事がありましたから、弟にも会いにいけるんですよ」
「弟さんがいるの?」
「そうなんです。ひとつ年下だから三十代半ばなんですけど、若い女性とようやく結婚しまして、一度は新家庭を見てみたくて」

 

 そんな若いのと結婚したのか? 色ボケだな、と貞光は決めつけたらしい。ま、いやらしい、と義母も言ったらしい。
 操子さんの実の弟は健夫という名だそうで、三十四歳。彼自身も恥ずかしいからと操子さんにはまだ紹介もしてくれず、結婚式も挙げていないらしい。同棲からなし崩しに結婚へとなだれ込んだのだそうだ。

 

「健夫も東京で暮らしてるんで、こんな用事でもなかったら来られないんですよ」
「じゃあさ、今日は泊まって、明日、健夫んちに行ってくればいいじゃん」
「泊めていただけるんですか」
「いいよ」

 

 誰でも彼でも気軽に呼び捨てにするアンヌは、会ったこともない男も健夫と呼んだ。異母弟の妻の弟というのはどんな関係になるんだろう。

 

「姻戚関係っていうんだよ。それはいいとして、操子、健夫に連絡したのか?」
「連絡すると来るなって言いそうだから、突撃します」
「留守だったらどうすんだよ」
「奥さんのうららさんは専業主婦だから、いるはずです。いなかったら諦めます」
「うららさんってどんな字?」

 

 新聞に操子さんが綴った文字を見て、アンヌが笑った。

 

「春の宵はうららかだからか?」
「お義姉さま、よくおわかり。そうみたいですよ」
「これ、うららって読むの?」
「読むわけないけどなんでもありなんだよ」

 

 春宵、これでウララ。これに較べれば胡弓や来闇は読めるんだからまっとうな名前だ。
 翌日、胡弓は僕の母に預けて、僕も操子さんについていくことにした。操子さんは東京に慣れていないので、案内とボディガードも兼ねている。ボディガードだったら強いアンヌのほうが適役だろうが、アンヌは仕事なので僕がつとめると決めた。

 

 地下鉄を乗り継いでたどりついたのは、まあまあ高級そうなマンションだった。道々聞いたところによると、健夫くんは故郷の仙台の大学を卒業して就職し、東京で働いている。ウララさんとも仕事の関係で知り合ったのだそうだ。

 

「二十歳の大学生か。僕の知り合いにはそんな年の差カップルはけっこういるけどね」
「私と貞光も逆年の差夫婦ですし、女のほうが若いのは問題ないと思いますけどね」
「美人なのかな」
「写真を見ただけですけど、可愛いお嬢さんでしたよ」

 

 いくらお願いしても操子さんは敬語をやめてくれない。めんどくさいのでそれでもいいことにして、チャイムを押す操子さんのうしろに立っていた。

 

「はあい」
「あのぉ、突然すみません。健夫の姉の操子です。東京に来たものですから……」
「はぁ? ソーコさん? 聞いてないよ」
「急に来たから……すみません。ご迷惑でしょうか」

 

 盛大な舌打ちの音が聞こえ、仏頂面の女性がドアを開けた。

 

「その子は? ソーコさんの彼氏?」
「いえ、私の主人の姉のご主人です」
「……まあいいや。来ちまったもんはしようがねえ。上がって」

 

 お邪魔します、と僕も言って、中に通された。
 埃っぽいのはきちんと掃除をしていないからだろうが、学生ならば勉強が忙しいのかもしれない。子どもがいないのならば埃では死なないの主義でもいいだろう。

 

「なんか飲みたいんだったら、冷蔵庫から適当に出して」
「あ、僕がお茶、入れようか。勝手にやっていいかな」

 

 笙です、操子です、あ、あたし、ウララ、といった簡単な自己紹介がすむと、僕は台所に入っていった。流しには洗っていない食器が山積みで、レンジも汚れている。僕は主夫なのでついチェックしてしまい、ここでお茶を入れるのはやめにして冷蔵庫を開けた。

 

 冷蔵庫の中は滅茶苦茶で、賞味期限切れの食べ物が奥に埋もれていそうだ。お茶のペットボトルが入っていたので、それを三本、持っていった。

 

「あの、お土産を……」
「なに?」

 

 ありがとうとも言わずに操子さんから包みを受け取ったウララさんは、開けていい? とも訊かずに開けて言った。

 

「やだ、あたし、これ嫌い。でさ、ソーコさんってなんの用なの?」
「なんの用というか……ウララさんには会ったこともないし、弟の新家庭を一目見たくて……ご迷惑でした?」
「迷惑だよ」
 
 けろっと言われて絶句した操子さんは、ことさらに丁寧な口調になった。

 

「わかりました。もう十分ですわ。ただ、ひとつだけ。ウララさんは健夫を愛してらっしゃいますか」
「まあね」
「……だったらいいわ。ごめんなさい、笙さん、帰りましょうか」
「あ、あっ、はい」

 

 気を呑まれてほとんど口もきけなかった僕は、素直に操子さんに従った。
 帰りの電車では操子さんも無口になり、僕も黙って考えていた。すげぇなぁ、ウララさんって僕と三つくらいしかちがわないのに、宇宙人みたい。僕なんかは常識的な人間だよね。年齢のせいじゃないのかな。そしたらなんのせい?

 

 我が家に帰ってきてからも、操子さんは無口だった。疲れ果ててしまったのか。それでも、夕食は私が作ります、と言ってくれたのでおまかせして、僕は胡弓を実家に引き取りにいった。

 

 母にあのウララさんの話をすれば興味津々になりそうだが、面倒なので言わずに胡弓を連れて帰って家で遊ぶ。胡弓は操子さんにじきになつき、おばちゃん、おいしいものを作ってくれるって、と言うと嬉しそうだった。

 

「はい……ええ、行ったわよ」
「……なんで勝手にっ!!」
「ええ、ええ……二度と行きませんから」

 

 台所にいる操子さんがガラケーで話している相手は、健夫くんだろうか。怒鳴っている声だけは聞こえた。

 

「あんたがいいんだったらいいじゃない、いろいろ質問する気もなくなっちゃったわよ」
「……よけいなお世話だっ。姉ちゃんがよけいなことをして、ウララちゃんが怒って離婚するって言い出したら……責任取ってくれんのかよっ!!」

 

 喧嘩口調の弟としばらく話してから電話を切り、操子さんは深いため息をついた。

 

「お義姉さま、お世話になりました。明日、帰ります」
「ああ、そう。どうだったんだ?」
「笙さんから聞いて下さい」

 

 その夜はアンヌは遅くなってから帰ってきて、疲れた顔をしていたのでとにもかくにも寝てもらった。
 翌日は僕もまだ寝ている時間に操子さんは帰ってしまい、アンヌが起きてきてからウララさんと健夫くんについて話した。

 

「で、姉貴としては怒り心頭だったのかな」
「そうみたいだね。いやになっちゃって話す気も失せてたんじゃない?」
「気持ちはわかるけどさ……だけどさ……」
「ん?」
「発想の転換、してみなよ」

 

 にやにやしながらアンヌは言った。

 

「家事もまともにしない学生のヨメなんかって怒ってるんだろうけど、むこうの親だって、十四も年上の冴えない男と結婚させるために大学にやったんじゃないって言うぜ」
「健夫くんって冴えないのかな」
「あの操子の弟だもんな」
「……ひどっ」

 

 とは言うものの、姉に似ていれば健夫くんはイケメンではないだろう。

 

「健夫ってそのウララに惚れてんだろ」
「そうみたい。操子さんに電話をかけてきて、捨てられたらどうしてくれるんだっ!! とかって怒鳴ってたもんね」
「だったらいいじゃん、蓼食う虫も好き好き、似た者夫婦だろ」

 

 蓼は笙、虫はあたし、あたしらもそんなもんさ、とアンヌは笑う。それはアンヌが僕を好きってことだよね。うん、僕もアンヌが好き。今日はアンヌは夜まで仕事がないそうだから、もう一度胡弓を母に預けにいこうか。アンヌとデートして、ベッドにも行きたくなってきた。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴49「魅力」

「ガラスの靴」

 

 

     49・魅力

 

 忘れかけていたひとたちに会った。

 

「おまえはいつまで根に持ってるんだよ。あのときのあたしは機嫌が悪かったんだ。おまえみたいなお気楽な専業主夫にはわかりっこない苦労が、働く女にはあるんだよ。いつまでもすねてんじゃねえんだ。いい加減にしろ」

 

 アンヌに叱られたので反省して、忘れようと決めたことが起きた日に会ったひとたちだ。

 

「おまえだって男なんだから、浮気願望はあるだろ」
 その日にも吉丸さんに訊かれ、父も別の日にこう言った。

 

「アンヌさんは奥さんらしいこともせずにおまえに息子もまかせっぱなしだ。そんなだと浮気をしたくなるだろ」

 

 いや、僕はアンヌひとすじの貞夫の鑑なのだから、浮気願望なんてない。お金になるんだったらよその女に抱かれてもいいけど、怖いしなぁ、と思っている程度だ。
 貞夫の鑑から見れば、吉丸さんなんかは信じがたい。吉丸さん以上に信じられないのが、あの日に会ったフジミだった。

 

 レコーディングが長引いて帰宅できない妻のために、お弁当を届けてあげよう。胡弓にはママの仕事場を見せてあげたい。そのつもりでアンヌのスタジオを訪ね、氷みたいにつめたくあしらわれたあの日、公園で会ったフジミ。

 

 そのひとがいる。
 小柄で髪が長くて、一見は若くて可愛いアイドルミュージシャンふう。本当は二十三歳の僕よりも十歳以上年上なのだから中年だが、可愛いタイプで性格のだらしない男、しかもミュージシャンとなるともてるらしく、女が彼を放っておかないのだそうだ。

 

 何度結婚して何度離婚し、何度再婚したのか、友人の吉丸さんにもつかみ切れない。あの吉丸さんをして、そういう男は結婚しなけりゃいいのに、と言わしめるのだが、フジミはなぜか結婚したがる。現在は何度目かの再婚をして、何度目かの妻だった女性と不倫をしているらしい。

 

 僕が浮気をしないのは貞淑だからもあるが、それ以上にメンドクサイからだってのに、フジミさんってなんたるバイタリティのかたまりなんだろ。

 

 妻帯者は夫人同伴のこと、という但し書きがあったので、あたしはおまえを連れていくんだ、とアンヌが言った、アンヌの仕事の集まりだ。想定しているのは男で、夫のいる女を数に入れていないのが気に入らないと言っていたが、こんな場合、喜んで妻についてくる夫は少ないのではないかと。

 

 もちろん僕は喜んでついてきた。
 パーティというのでもないが、ごちそうも出ている。テレビや雑誌で見たことのある人も歩いている。フジミさんもミュージシャンで妻帯者だから、史子さんという名前だったはずの奥さんと同伴して出席していた。

 

「フミちゃんってば、上手にだましたよね」
「私がだまされたのよ」
「ったって、よくも結婚してもらえたよね」
「私が結婚してやったんだってば」

 

 意地の悪い口調で史子さんにからんでいる女は、色っぽい感じのグラマーだ。史子さんは彼女をユイちゃんと呼んでいるから、友達なのか。にしてはユイさんは史子さんに悪意を持っているような気もした。
 例によってアンヌは仕事仲間に囲まれていて、僕はひとりぼっち。僕はあちこちでこうしてひとりで、他人の会話を盗み聞きしている。シュフは見た、ってドラマにでもできそうな。

 

「フジミさん、気の毒に。だまされて結婚させられてさ」
「大きな声で言わないでよ。誰がどうだましたっての?」
「だってぇ……」
 
 くねくねっと身体をよじって、ユイさんはむふふと笑う。史子さんがユイさんに喧嘩腰で迫っていると、突然、ユイさんの態度が豹変した。

 

「あら、はじめまして。フジミさんですよね。私、史子の親友の優衣子です」
「こんにちは、はじめまして」

 

 豹変した理由はこれか。史子さんは苦々しい顔になって、それでもフジミさんに優衣子さんを紹介している。フジミさんもにこにこして、三人で談笑をはじめた。

 

「フミちゃんみたいな素敵な女性と結婚できて、フジミさんはハッピィでしょ」
「ああ、まあね」
「私には友達はいっぱいいるけど、フミちゃんほどの女性は他にはいないのよ。フミちゃんほどの女がつまらない男と結婚するなんて言ったら妨害してやろうかと思ってたくらい」
「それはそれは……」

 

 よくもまあぬけぬけと、と僕も思うのだから、史子さんはなおさらだろう。史子さんは無口になり、フジミさんはやにさがっている。史子さんは僕に気がついてそばに寄って来た。

 

「アンヌさんの旦那、笙くんだったよね」
「そうでーす。僕のこと、覚えてた?」
「ムーンライトスタジオの近くで会ったよね。今の、聞いてた? むこうに行こうか」
「聞いてたけど……離れていいの?」
「いいのよ」

 

 今の、とはフジミさんがあらわれる前とあとの優衣子さんの台詞だろう。離れていいの? と僕が訊いたのは、あの男と色っぽい女をふたりっきりにしていいのか、という意味だったのだが、史子さんがいいと言うのでちょっと離れた場所に歩いていった。

 

「あの女、ユイって男から見てセクシー?」
「僕の趣味でもないけど、セクシーではあるね」
「笙くんって変な趣味なんだってね。吉丸さんが言ってたわ」

 

 悪かったね、ほっといて。

 

「ユイって女にはわからない魅力を持ってるんだろうね」
「フェロモンとかってやつ?」
「それなのかもしれない。昔はイラッと来たもんよ。ユイは誰かの彼氏を紹介されると、自分のものにしなくちゃいられないの。あたしはこんなに魅力的なんだから、どんな男もあたしにはイチコロで参るんだってところを見せずにいられないらしいのよ」

 

 噂になら聞くが、本当にそんな女がいるんだ。僕は会ったことはないけけど、男にはわからないだけなのだろうか。

 

「そしてまた、迫られた男もまず百パーセントの確率で落ちるんだよね。ユイってそれほど魅力があるんだと思ってた。ユイは今でもそう信じ込んでるんだろうな」
「ちがうの?」

 

 ふたりして同じほうへ視線を向ける。そこには男にしなだれかかる女と、そうされてにやけている男がいた。

 

「それはあるんだと思うよ。だけど、そんな女やそんな男ばっかりじゃないはずよね。私の知り合いって、そんな男と、そんな男としかくっつけない女としかいないの? 考えたら憂鬱になっちゃう」
「うーん、そうなのかなぁ」
「でもね、それだけじゃないって気づいたの」

 

 顔を僕に近寄せてきて、史子さんは言った。

 

「ユイは人のものを欲しがるガキなのよ」
「ああ、他人のおもちゃをほしがる子どもね。うちの胡弓の友達にもたまにいるよ」
「そうそう。それに近いんだよ。でね、フジミも同類なの」
「そしたら……」

 

 やっぱあの男と女をふたりきりにしておくと危険じゃないか、そう言いたい僕の気持ちを読んだかのように、史子さんはかぶりを振った。

 

「いいのよ、もういいんだ。フジミには愛想が尽きた。ユイがほしいんだったら持ってけって感じ。どうせ自分のものになったら、すぐに飽きるんだから」
「ふーむ」

 

 そう言われてみると、僕も気がついた。
 何人もの女性に恋をして、だか、恋をしていると錯覚してだか、そのたびに結婚しては離婚してまた結婚する。そういう男は次の彼女を手に入れるためには、前の彼女と別れなくてはならない。フジミさんはあからさまな二股はやらないらしい。

 

 別れるためには彼女に愛想尽かしをさせて、捨てられるように持っていく。恋多き男女とは、別れるのがうまい奴。そんな話も聞いたことがあった。
 あの男、あれで案外……案外、なんなのかはいっぱいあって言い切れないが、ひとつだけ。ああいうのを恋愛上手と呼ぶのだろうか。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴48「正義」

「ガラスの靴」

 

     48・正義

 

 変な奴がデフォルトというのか、そんな人種ばっかりの音楽業界は僕の住む場所ではない。こうして胡弓を連れてスーパーマーケットへ買い物に出かけ、その前に近所の公園に寄って息子を遊ばせる、こちらが僕の日常生活だ。

 

 妻はミュージシャン、僕は専業主夫。わりあいに高級なマンション街には専業主婦はたくさんいるが、主夫となるとほんのちょっぴりだ。二十三歳の子連れ美少年が公園にいると浮く。今日は知り合いの姿も見えないから、僕はおとなししく胡弓を見守ることに専念していた。

 

「……うちの主人、どこへも連れていってくれないのよね」
「白木さんのご主人はお忙しいから」
「ほんと、うちって母子家庭みたい。黒田さんちはどうなの?」

 

 子どもはどこかで遊んでいるのだろう。僕の隣には主婦らしき女性がふたりすわっていて、お喋りをしている。僕は暇なので、黒田さんと白木さんの会話を聞いていた。

 

「うちの主人も忙しいよ。だからどこかに連れていってもらおうなんて思わないの。大人なんだからひとりでどこにだって行けるじゃない」
「ひとりで? 女がひとり旅なんかできるわけないでしょ」
「そんなことないよ。私は独身のときにはよくしたよ」
「……勇気があるんだね」

 

 そういえば僕もひとり旅なんかしたことはないなぁ。アンヌは家族サービスだといって、遊園地に連れていってくれたりはするから、優しい奥さんだよね、とわが身を顧みる。勇気があるんだね、と言ったのが白木さんで、彼女は黒田さんを咎めるように見た。

 

「勇気なんかなくても、日本語の通じるところだったらひとりで行けるじゃない」
「近く?」
「近くもあるけど、独身のときにはひとりで北海道だの九州だのにも行ったな」
「泊まり?」
「そりゃあそうよ。遠出をしたら泊まるよ」
「ひとりで?」
「うん、ひとり旅だって言ったでしょ」

 

 信じられない、と呟く白木さんを、黒田さんは愉快そうに見返した。

 

「ひとり旅も長いことしてないな。白木さんと話していたらしたくなっちゃった」
「危険だよ、ひとり旅なんて」
「国内だったら大丈夫だってば。英語の通じるところだったら海外でも意外に平気よ」
「海外ひとり旅なんかしたの?」
「二回だけね。香港とロンドンに行ったの」

 

 再び、白木さんはシンジラレナイと呟き、黒田さんは言った。

 

「日本は治安もいいし、まるっきり平気よ」
「女ひとりで旅館に泊まるなんて言ったら、自殺するんじゃないかって疑われない?」
「やだ、いつの時代の話よ」
「……黒田さん、英語できるの?」
「人並みにはね」

 

 人並みってどのくらいかなぁ。英語なんて中学生以下の僕は人レベル以下か。もっとも、僕は勉強も音楽も体育も美術もみんなみんな劣等生だから、英語だけじゃないけどね。

 

「そうだ、秋になったら、旦那に一週間ほど休みがあるのよ。旦那の田舎に帰省しようかって言ってたんだけど、旦那には子ども連れで行ってもらって、私は三日ほどひとり旅しようかな。白木さんと話しててその気になってきちゃった」
「そんなの、駄目に決まってるでしょ」
「どうして?」
「旦那さんが許すはずないじゃない。非常識よ」

 

 せせら笑うような口調の白木さんに、黒田さんは言い返した。

 

「子どもももう赤ちゃんじゃないんだから、そろそろひとり旅をしてもいいよ、きみの最高の趣味なんだもんな、俺は三日くらいだったら子守りできるよ、って、彼は言ってたわ。一週間ってのは気の毒だけど、三日間だったらむこうの実家に行ってれば楽なんだし、現実的に考えられそう」
「あのね、黒田さん」

 

 視線では胡弓を追いかけ、僕は聴覚を女性たちの会話に向けていた。

 

「そんなのよけいに無理でしょ。旦那の親が許すはずないじゃない」
「大丈夫。話せるひとなんだから。その話も前に旦那の母としたのよ。子どもはもう私が預かれるようになったんだから、あなたはひとりで遊びにいっていいわよって言ってくれたの」
「美容院とか買い物くらいでしょ」
「私がひとり旅を好きなのは、旦那の母もよく知ってるわ。彼女も今でも、義父をほったらかしにしてひとり旅をするらしいんだもの」
「……主婦失格ね」

 

 ちらっと見ると、白木さんの眦はきりきり吊り上がっていき、黒田さんは面白そうな顔をしていた。

 

「相談してみようっと。旦那も義母もきっと賛成してくれるわ。どこに行こうかな」
「……私はひとり旅なんかしたくもない。怖いわ」
「したくない人はしなくてもいいんじゃない?」
「そんなの、旦那さんやお姑さんが許すはずがない。無理にやったりしたら離婚されるよ」
「そうなの?」
「そうよそうよ。主婦が子どもをほったらかしてひとり旅……絶対に、ぜーったいに許されないわっ!!」

 

 なんでそんなにムキになる? 僕としては不思議な気持ちで、白木さんを見つめてしまった。

 

「……ひとり旅なんて、子どもを預けてひとり旅なんて、なにかあったらどうするのよ。一生後悔するんだよ」
「そんなことを言ってたら、幼稚園にもやれないんじゃない?」
「それとこれとは別よ。私は絶対にしたくない。ひとり旅なんてしたくない。旦那はどこへも連れていってくれないけど……」

 

 ぶつぶつぶつぶつ、白木さんの声が聞き取りづらくなってきた。

 

「したくないよ。したいわけないし……主婦がひとり旅なんて、自分で勝手に都合よく、旦那や姑が許してくれるなんて決めてるけど、許してもらえるわけもないんだ。そんなこと、主婦がそんなこと……いいなぁ。うらやましいなぁ……え? ちがうったら!! 私は誰かにしろって言われてもしないわよ。するわけないじゃない。黒田さん、そんなこと、言わないほうがいいよ。やめておきなさい」
「白木さん、どうしてそう必死になってるの?」

 

 僕が訊きたかったことを黒田さんが質問してくれ、白木さんはぶつぶつ口調のままで言った。

 

「許してもらえるはずないからよ。あなたが非常識な主婦だって言われて、離婚されたりしたらかわいそうだからよ」
「大丈夫だってば。そんなことで旦那も義母も怒らないから」
「……旦那さんやお義母さんが許したとしても……」

 

 目に焔をたぎらせて、白木さんは黒田さんを睨み据えた。

 

「私が許さない」
「は?」

 

 思わず、僕も黒田さんと一緒に、は? と声を出していた。

 

「パパぁ、おなかすいた」
「あ、そうだね。買い物にいこうか」

 

 うまい具合に胡弓が寄ってきたので、息子の手を引いてその場から逃げ出す。白木さん、怖かった。なんなんだろ、あれは。僕には白木さんの剣幕が理解できなかったので、その夜は珍しく早く帰ってきて家族で食卓を囲んだアンヌに話した。

 

「なんで白木さんはあんなに怒ってたんだろ?」
「結局、自分もひとりで自由にしたいんじゃないのかな。ひとり旅は怖いからしたくないにしても、私は夫や義母に押さえつけられて自由なんかほとんどない。あんただけ恵まれてるなんて許せない。その心理が、主婦失格って台詞になるんじゃないのか」
「ふーん」
「あたしの推測だけどさ」

 

 夫や姑が許したとしても私が許さない、その心理って……アンヌが言った。

 

「正義の味方ってとこかな」
「あ、なるほど」

 

 はた迷惑な正義の味方もいたもんであるが、黒田さんはむしろ面白がっていたようだから、まあ、いいかもしれない。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴47「思込」

「ガラスの靴」

 

     47・思込

 

 もてる女とはどんなのか。睦子さんと静枝さんが僕の前で持論を繰り広げている。昼下がりのカフェ。

 

 近所のマンションの住人である静枝さんは、僕とはママ友といっていい。僕はパパだが、普段の生活はママなのだから。自称三十歳、実年齢は四十歳くらい。バツイチだが、裕福らしくて優雅に暮らしている。僕の息子の胡弓の遊び相手が、静枝さんの娘の乃蒼ちゃんだ。
 
 えっらそうに命令ばかりするノアちゃんに、嬉々として従う胡弓の図。ある種の男とある種の女の関係としては理想的なのかもしれないと思う僕だった。

 

 妻のアンヌの友達、寿美香さんは超歳の差婚の妻のほう。彼女の夫は四十二歳年上で、金のための結婚だとスミカさんはきっぱり言う。
 そのスミカさんが我が家に連れてきたのが睦子さん。彼女は五十歳前くらいか。料理教室のアシスタントとしてパートで働いている。

 

 我が家に遊びにきていた睦子さんと静枝さんが顔を合わせ、なぜか気が合って親しくなったらしい。歳もそんなには離れていないし、基本、ふたりともに主婦だから話題もたくさんあるのだろう。
 たまには外でランチしようか、と言い合って、三人で外出した。ランチセットを頼んでお喋りしているうちに、話がそこへ流れていったのだった。

 

「笑顔かな」
「にこにこしてるって大切よね」
「料理も重要でしょ。睦子さんってそのおかげで旦那さまに見初められたんじゃないの?」
「あら、私は旦那の理想にぴったりのルックスしてるって、ひとめ惚れされたのよ」
「美貌も大事かも」
「ぱっと見だとルックスは大事だろうけど、長くつきあっていくには中身よ」
「だけど、もてるかどうかだったら……」

 

 笑顔、気配り、愛嬌、女らしさ、男を立てる、聞き上手、家庭的、清純、慎み深い、綺麗好き、etc。睦子さんと静枝さんはもてる女について並べ立てる。その合間には自賛も混ざっていて、僕はほえええぇ、と感心して聞いていた。

 

「けどさ、アンヌは正反対だけどもてるよ」
「アンヌさんってもててたの? もててたっていうより遊び相手にされてただけじゃない?」

 

 音楽には特に興味がないらしい睦子さんは冷淡に応じ、アンヌのバンドのファンだと前々から言っている静枝さんは遠慮がちに言った。

 

「もてても結婚は望まれない女っているからね」
「アンヌは僕と結婚したじゃん」
「うーん、そうだけど……」

 

 はじめて会った際のアンヌの印象は、怖そうなかっこいい女。背が高くて細くて居丈高な雰囲気を持っていて、笑顔なんかかけらもなかった。

 

 態度はがさつなほうで、女らしさはかけらもない。男を立てるだの気配りだのは大嫌いで、アホな男はたびたびアンヌにやっつけられていて、僕は胸のすく思いをしたものだ。僕は弱虫だから専門学校の同級生にだって苛められて、アンヌが救い出してくれた。

 

 興味のない話題だと平気でさえぎって、つまんねえよ、もっと面白い話をしろよ、と誰にでも言うのだから、アンヌは聞き上手でもない。家庭的の「か」の字もない体質だから、夫を主夫にすることを選んだ。僕がいないとまともにごはんも食べないし、お皿一枚洗わないひとだ。

 

 掃除なんか絶対にしない。汚れていたって病気にもならねえよ、最悪状態になったらハウスクリーニングを頼めばいいんだろ、とお金にものを言わせたがる。だから、綺麗好きでは断じてない。

 

 清純、慎み深い……ノーコメント。
 けど、僕はそんなアンヌが好き。アンヌは過去にも現在にも男にもてまくっている。未来も、あと三十年、いや、五十年だってもてるはずだと僕は思う。

 

「アンヌさん、美人だから。美人だったら、つきあうだけだったらそれでいいって男性はけっこういるんじゃない?」
「一般受けする美人でもないけど、遊び相手としてだったらちょうどいいかもね」

 

 冷静に分析してみせる睦子さんは、我が家にある音楽用品を見せてもあげなかったからアンヌが嫌いなのか。アンヌが興味を示さない台所用品だったら気前よくあげたのに。

 

「笙くんがアンヌさんタイプを好きだから、点が甘くなるんだよね」
「笙くんって変わった趣味……」

 

 変わった趣味なのかもしれないが、僕みたいな趣味の男は大勢いる。

 

「あの女はにやにやしやがって、気持ち悪いんだよ」
「日本人はなんでも笑ってごまかすって、ジョーも言ってたぜ」
「メシなんかどうだっていいんだ。家に帰ったら女がいて、テーブルいっぱいに料理を広げて、お帰りなさい、なんて言われたらぞっとするぜ。回れ右して出ていって、ラーメンでも食ってくるよ」
「二十歳で男と寝た経験ないんだってさ」
「……よっぽどひどいんだな」

 

 男同士でそんな会話をしていたミュージシャンたちもいて、そういった人種にアンヌはもてるわけだから、一般的ではないのだろう。

 

 この会話の主は……そうそう、吉丸さんだった。吉丸さんつながりで思い出した女性が今、どこでなにをしているのかを聞いていたので、提案してみた。

 

 なにがあるんだか知らないけど行ってもいいわよ、とふたりともにうなずいたので、場所を移す。移動したのはここからやや離れた繁華街にあるファッションビル。ビルの一階の表通りに面したスペースにある仮設スタジオだ。

 

「こんなの、聞きにきたわけ? なんなの、これ?」
「わっ、キャンディじゃないの」
「やっぱ静枝さんは知ってたね」

 

 世代的には睦子さんだって知っているのだろうが、睦子さんは音楽には興味がないから知識もないのだろう。僕は名前だけは知っていた、ロブ・キャンディ。アメリカでも日本でも二十年ほど前にものすごい人気があったのだそうだ。

 

「アイドルみたいなものだったけど、実力もあるんだよ。久しぶりの来日でライヴもやるから、あたしは桃源郷の誰かと一緒に聴きにいく。笙はラジオで聴けばいいよ。スタジオライヴをやるんだそうで、ほのかが通訳で公開放送するってさ」

 

 アンヌが教えてくれて、どうしようかな、と迷っていたのだが、西本ほのかさんを睦子さんと静枝さんにも見せてあげたくて連れてくることにした。

 

 通訳の仕事があるのだから、会うのは無理かもしれない。紹介している時間もないだろうし、時間があったとしてもほのかさんと睦子さんと静枝さんじゃ女としてのレベルがちがいすぎて、だなどと、静枝さんのほうに近い僕が言うのは傲慢なのか、卑屈なのか。

 

 いずれにしても口にはせず、キャンディについての説明は静枝さんにまかせて、僕は公開放送のスタジオにいるほのかさんを見ていた。

 

 すらっとした長身をセンスのいいスーツで包み、あかぬけた髪型をしてすかっとした化粧をしている。四十歳前後だろうから静枝さんとは近い年頃だが、ちがいすぎる。彼女の生き方を否定するひとはたくさんいるだろうが。僕は応援したい。

 

 性格ワルッ!! というところもあるし、僕が応援したいと言ったって、笙くんが私になんの応援をするわけ? とさらっと訊かれそうで、寂しいときにはベッドのお相手を……とも言えないから、僕なんかがおつきあいするのはつらい相手であるのだが、ま、ほのかさんも一応は主婦だってことで共通点はあるのだから。

 

 なんだかだ心で言い訳しつつも、僕はほのかさんを見つめている。
 司会は男女ペアのDJ。睦子さんはそっちには詳しいようで、テレビのバラエティに出ているタレントだと教えてくれた。男のほうは五十代くらいで、キャンディをなつかしいと言い、女のほうは若くて、かっこいいですねぇ、を連発していた。

 

 事実、キャンディも五十歳に近いだろうが、引き締まった身体に甘い容貌を保っていてかっこいい。ほのかさん、次は彼を狙ってる? ヒスパニックと日本のハーフ美少年がほしいとか?

 

 やがて、スタジオライヴがはじまる。キャンディという芸名をつけた由来になったという、彼のキャンディヴォイスはおじさんになっても健在で、静枝さんはうっとり聴き惚れ、睦子さんはつまらなそうに僕に身を寄せてきた。

 

「あの通訳のひとが笙くんの知り合い?」
「そうだよ。彼女ももてるんだ」
「美人っていうか、今ふうね。意地が悪そう」
「そういうところはあるかな。睦子さん、洞察力あるね」
「そりゃそうよ。私は人を見る目はあるの」

 

 お世辞を言ってあげてから、あとでね、と囁き返す。ガラス張りのスタジオなのでほのかさんからも観客が見えるだろうが、僕がいるとは気づいていないだろう。観客には中年女性が多く、キャンディの歌を聴いて嬉しそうだった。

 

「さて」

 

 スタジオライヴが終わると、僕ら三人はその場から離れてカフェに入った。あとでね、と言ったのだから、ほのかさんについて語ろう。

 

「あのひと、未婚の母なんだよ。白人とのハーフがひとり、黒人とのハーフがひとり、日本人の子がひとり、三人の我が子を結婚もせず、認知もしてもらわずに母だけの手で育ててる。家政婦さんやベビーシッターさんはいるけどね」

 

 ついでに、正体不明の若い男性の同居人もいるが、彼が何者なのか判明していないのではしょっておいた。

 

「彼女はもてるんだよね。そんなだから、もっと子どもが増えるかもしれないよ」
「……それって……」
「どういう知り合い?」

 

 そろって眉をひそめて、静枝さんと睦子さんが問い返す。めんどくさいので、アンヌの友達、とだけ言った。

 

「そんな母親に育てられた子どもって、幸せになれるんだろか」
 静枝さんが言い、睦子さんも言った。

 

「差別されるよね。イジメにだって遭いそう。私だってうちの子がそんな母親を持つ子どもを友達だって連れてきたら、あんまり仲良くしないほうがいいって言うわよ。息子がいたとして、そんな子と結婚したいって言い出したら猛反対するわ」
「息子の嫁にはしたくないわね」
「笙くんはどうなの?」
「僕は歓迎するよ」

 

 案の定の反応にがっかりしてしまったが、こんなものだろう。
 ほのかさんちの華子ちゃんか佳子ちゃんが胡弓の彼女になり、結婚する。華子ちゃんだって佳子ちゃんだって自立した女に育つに決まっているのだから、そしたら胡弓は専業主夫になれるじゃないか。最高じゃないか。

 

「そんなの、遊ばれたっていうんじゃないの?」
「すっごく都合のいい女だよね」
「子どもを勝手に産んだんだから、認知もなにもあったもんじゃないけど……」
「睦子さんちの娘さんが結婚したいって連れてきた男性に、そんな事情の隠し子がいたらどうする?」
「えーっ!! 駄目っ!! 絶対反対!!」
「私もだなぁ」

 

 娘のいる母であるふたりの女性は、その話題で盛り上がっている。
 結婚したくてもできなかったかわいそうな女、ほのかさんはそういうスタンスだととらえられてしまったようだが、彼女がここに来ていつもの台詞を口にしたとしたら?

 

「私は独身主義なのよ。子どもはほしいけど夫はいらないの。私は自力で子どもの三人くらい育てていけるんだから、身近に大人の男なんてのはいないほうがいいのよ。都合のいい女じゃなくて、男を都合よく利用しなくちゃね」

 

 口だけではなく実践もしているほのかさんに、睦子さんや静枝さんはなんと言い返すのか。強がりを言うしかない哀れな女だとでも?

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴46「虚言」

「ガラスの靴」

  46・虚言

 作業が煮詰まって膠着状態のレコーディングスタジオに、子連れで弁当を届けにきた馬鹿。馬鹿すぎて相手にする気にもならず、そっけなくしてやったものだから、笙は根に持っている。表面上はもと通りにふるまっているが、根に持っている証拠に、またスタジオにやってきやがった。

 ちらっと笙の姿が見えたのを無視して、あたしは喫煙所に入っていく。ミュージシャンには喫煙者が多いのでスタジオには喫煙所があるが、最近は全館禁煙の建物も増えていて、暮らしにくいったらありゃしない。

「……正直に言ってないんだね」
「うん、そうなんだよな」
「うーん、それってさ……」

 喫煙所には先客がいた。顔は見たことのあるような男と知らない女。むこうはあたしがミュージシャンだとは知っている様子で軽く会釈し、話に戻る。あたしも煙草を上げて、よっ、って感じで挨拶しておいた。

「あんたが金持ちだって知られると、金目当ての女しか寄ってこないから?」
「俺が金持ちっていうよりも、親父が金持ちなんだけどな」
「あんたは思い切り恩恵を受けてるでしょうが」
「まあな」

 浮かない顔をした男は、灰皿に吸殻をもみ消してから新しい煙草に火をつける。女ももくもくやっていて、ふたりともにけっこう長くここにいるようだ。

「あんたは言われたくないだろうけど、あのお父さんの息子だからこそ、ライターとして売り出してもらったんだよね。そりゃあ、いくらお父さんが売れっ子の文筆業者だからったって、息子がどうしようもなく才能がなかったら駄目だよ。でも、ムジョーには多少の才能はあった。ムジョーくらいの文章を書ける者なんていくらでもいるけど、最悪のライターってわけではなかったんだよね。ここに数人、同じ程度のライターがいる。そんなら、あのお父さんの子のムジョーを抜擢しよう、あんたってその程度だよね」

 なめらかにまくし立てる女に向かって、ムジョーと呼ばれた男はぼそっと、知ってるよ、と応じた。
 ムジョー? ああ、わかった。作家でもあり社会学者でもある木戸佐の息子だ。木戸佐の息子だとは知られたくないそうで、彼はムジョーとか名乗っている。

 知られたくないと言ってもその事実はあたしでも知っている、ムジョーは音楽系のライターである。女は編集者か、出版関係なのだろう。音楽業界人とは別種の臭みを持っていた。

 レコーディングスタジオなのだから、音楽系のライターや編集者だって出入りする。取材にでもきたのか、このふたりは仕事を終えたか途中だかで一服しているのだろう。ぼそぼそと喋っているのが漏れ聞こえたところでは、女の苗字はヒゲタというらしかった。

「それでな、彼女は言うんだよ。俺は本名しか言ってないから、彼女は俺を木戸さんと呼ぶ。彼女は言うんだ。木戸さんは小説家になりたいんだよね。私は本なんて読まないからわからないけど、きっと木戸さんには才能はあるはずよ。きっと小説家になれるよ。今は不遇なのは仕方ない。小説を書くひとって修業時代があって当たり前なんでしょ。私が支えてあげる、私が稼いでくるから、木戸さんは心置きなく書いて。私は木戸さんを愛してるんだから、養ってあげたっていいわ。もしも小説家になれなかったら、主夫になってくれたっていいのよ、だってさ」

 主夫、という単語にあたしは反応する。ふむ、殊勝な心掛けの女ではないか。
 見たところ、ムジョーは三十代の半ばくらいか。ヒゲタは四十くらいに見える。他には喫煙所には人がいないので、やや離れた場所にいてもふたりの会話はよく聞こえていた。

「俺は田舎から出てきて、六畳一間にトイレとちっちゃな台所のついたアパート暮らしで、風呂もないから銭湯に行ってて、車も持ってない。アルバイトはしてるけど、書きたいから最小限の収入しかないんだ、って最初に言ったのを、彼女、すっかり信じてるんだよな」
「なるほどね」
「結婚してほしいとは言わないけど、木戸さんを支えてあげるためには、一緒に暮らしたほうがいいと思うの、なんて、目をキラキラさせて迫ってくるんだよ」

「彼女、いくつだっけ?」
「二十七」
「そろそろ結婚に焦る年だね」
「ヒゲタもそのくらいから焦っておけば、四十過ぎて独身なんてのは避けられたのにな」
「あたしのことはほっとけ」

 すると、ヒゲタも独身なわけだ。ヒゲタはなんとなく冷笑的な口調で言った。

「同棲なんかしちゃったら、ムジョーの正体がばれるよね」
「っていうよりも、俺は彼女と同棲じゃなくて、結婚したほうがいいかなぁって思うんだ」
「見事にだまされちゃって……」
「は?」
「いいのよ、いいの」

 だまされちゃって……は小声だったので、ムジョーには聞こえなかったのか。あたしにはきっちり聞こえた。

「だからヒゲタに相談してるんだろ。遊びだったら悩みもしないよ。同棲したいなんてのも適当にはぐらかしたらいいだけだ。けど、彼女はひたむきに、貧しくて恵まれない俺を支えてくれたいと言っている。可愛い女なんだぜ。俺に惚れてるんだよ」
「ふーーーーん」

 視線を感じる。笙がどこかで立ち聞きしているのだろう。

「そんなら結婚しよう、って言ってやりたいよ。彼女も喜んでくれると思う。小説家になりたくて、一生懸命書いてはいても芽が出なくて、糧はコンビニのバイトで得ていると信じている男に、彼女は本気で恋してくれてるんだ。プロポーズしたら大喜びでうなずいてくれるよな」
「そうだよね。やったーっ!! 大成功!! ってなもんだよ」

 ヒゲタの台詞には棘と毒を感じるのだが、自分の世界に浸っているのか。ムジョーは感づいていないようだ。

「だけど、そうすると俺はすべてを告白しなくちゃならない。嘘つきになっちまう。なあ、ヒゲタ、どう思う? だまされてた、ためされてた、とかって、彼女は怒るかな。俺はそれが心配なんだよ。ためしたとかだましたとかじゃなくて、最初は軽い気持ちだったから、って言っても言い訳にしかならないんだろうか。今では本気になったから、ごめん、許して、結婚してくれ、って言っていいものだろうか」
「言えば?」
「ずいぶん簡単に言うんだな」

 いつしかムジョーは煙草を吸う手を止め、ヒゲタがひとりで吸っている。あたしの耳もムジョーの言葉に集中してしまっていた。

「だって……ねぇ、ムジョーって純情ってか、可愛いんだ。そんな男だったんだ」
「……どういう意味だ?」
「知らないわけないじゃん。まあ、あんたのお父さんは知らない者は知らないだろうけど、その彼女とは一年ほどつきあってるんでしょ」
「つきあってるけど、外でしか会ったことはないよ」
「それでも、言葉のはしばしだとか、持ってるものとか着てるものとか……調べる気になったらなんとでもなるしさ」
「だから、どういう意味だ?」

 ヒゲタの言いたいことはあたしにはわかったが、ムジョーは首をかしげている。ヒゲタはふふんと鼻で笑ってから言った。

「あんたが実は大金持ちの息子で、それなりには仕事もできるライターだって、彼女は知ってるよ。知ってるに決まってるの。あんたがもしも書くほうの仕事ができなくなったとしても、いざとなったらお父さんの秘書でもやればいいって立場なのもわかってる。お父さんの著作権だのなんだのも、いずれはあんたのものになる。将来だって安泰だってね」
「そんなことは……」
「けなげで可愛い女を演じてる女に見事にだまされて、可愛いね。おめでたいとも言うんだよね」
「……そう、なんだろうか」

 眉をしかめて考え込んでいるムジョーに、ヒゲタはさらに言った。

「彼女はあんたと結婚したくて必死なんじゃないの。女のほうから同棲だなんて言い出すのも、あんたのそんな性格を見越してるんだね。まずは同棲ってことになったって、妊娠でもしてしまえばこっちのもんだ。外堀を埋めてくっていうのかな。じっくりゆっくりあの木戸佐の息子を落とそうと手ぐすね引いてる女に、実は俺はこれこれこうで……ごめん、だますつもりはなかったんだ、結婚しよう!! って言うの? まあまあまあ、お疲れさん」

 ううっと唸ったムジョーは、片手で煙草のパッケージを握りつぶした。ヒゲタは薄笑いを浮かべてムジョーを見下ろしている。あたしとしては我慢できなくなってきて、声を出した。

「笙、いるんだろ。出てこいよ」
「……あ、知ってた?」

 唸りっぱなしのムジョーはあたしたちに意識を向けるゆとりもないようだが、ヒゲタはちらちらこっちを見ている。姿を見せた笙にあたしは話しかけた。

「女は女をお見通しってのはあるけどさ」
「うん?」
「女はみんな、おまえと同じことを考えてるわけじゃねえんだよ」
「あ、えと……」

 てめえはそんな女だからって、女だったらみんな同じことを考えてると決めつけるな、との想いをこめて、あたしは視線だけをめぐらせた。会ったこともない、知人の彼女だってだけの女をそんなふうに言うなんて頭にくる、ってのは、あたしもおめでたいのかもしれないが。

 困った顔をしている笙のむこうに、ヒゲタの顔も見える。あたしの言い方ではヒゲタのことなのかどうか、明白ではないだろう。けれど、彼女には通じたらしく、そっぽを向いて煙草の煙を吐いた。
 
つづく

 

ガラスの靴45[夢見」

「ガラスの靴」

     45・夢見

 似てるんじゃない? ということで紹介してもらった男の子は、僕よりは背が高いが身体も大きくはなく、細身で可愛い顔をしている。二十一歳だというから僕よりもふたつ年下の彼は、科夢と名乗った。

「カムくん?」
「そう、科学の夢」
「鉄腕アトムみたいだね」
「なにそれ?」

 アトムって知らないのかな、僕が古いのかな、と思ったので説明はせず、カムくんとふたりでゆっくり話せる場所に移動した。
 彼は高卒フリーター、アイドルになったらいいのにと女友達にそそのかされてオーディションを受けにいき、彼女と知り合ったのだと、隅っこに移るまでの間に聞き出した。

「彼女、いるんだね」
「うん。そのアイドルオーディションの仕事をしていた、僕よりも十一歳年上のプロデューサーなんだ。トーコちゃんっていうんだけど、彼女、僕がほしくてオーディションに不合格にしたんじゃないかと思うんだよね。僕がアイドルになっちゃったら手が届かなくなるでしょ」

 年上の彼女がいるところが、僕と似ているのか。僕はアイドルになろうなんて考えたこともなく、そんなしんどそうなのはいやだと思う怠け者だが、顔が可愛いのだからとテレビに出たがる男女はよくいるものなのだ。

 時たまアンヌに連れてきてもらう、音楽業界のパーティ。東の子、と書いてトーコさんと読むというカムの彼女も音楽業界人だ。カムと僕は小さい控室に入り込み、中から鍵をかけた。

「僕の奥さんも七つ年上で、ロックミュージシャンなんだよ」
「笙くんも食われちゃったの?」
「……食われたっていえば近いのかもしれないけど、僕はアンヌが好きだから」
「僕だってトーコちゃんは好きさ」

 オーディションには不合格になり、その場合は通知も届かないからがっかりしていたカムくんのもとに、音楽プロダクションから電話がかかってきたのだそうだ。

「カムインとか、カモンとかのカム? ユニークな名前よね。キミの名前の由来って?」
「由来?」
「まあいいわ。お話があるの。会わない?」
「なんの話?」
「悪い話じゃないから、出てらっしゃいよ」

 その電話をかけてきたのがトーコさん。暇だったのもあって、カムは彼女に指定された店に出かけていった。
 夜中のクラブ。トーコさんはセクシーなドレスをまとっていて、カムはどきっとした。な、なんの話? と問いかけた声が上ずっていたらしい。

「キミは敬語も使えないの? 私はキミよりも十も年上だよ。ですますで喋りなさい」
「……なんの話? 仕事をくれるの?」
「敬語を使いなさいって言ってるのが聞けないの?」
「うるせえな」
 
 初対面同然のときから叱りつけられて、カムは反抗的になった。トーコさんは怖い顔になり、ちょっと来なさい、と言ってカムの手を引き、どこかへ連れていった。

「この部屋みたいな狭い控室だったよ。トーコさんはそのクラブの常連だから、飲みすぎたりしたときには貸してもらうんだってあとから聞いた。だけど、そのときには知らないだろ。なんだか怖くて、そんなところでね……」
「なになに?」

 誰かが入ってくるかもしれないスリルもあって、カムはどきどきそわそわ。トーコさんのほうは落ち着いていて、カムをソファに押し倒した。

「トーコさんってでかい女? 力持ち?」
「特にでかくはないよ。僕と同じくらいの身長かな」
「そしたら女性としてはでかいほうだね。アンヌもそんなもんかな」

 細身なのもカムと変わらなくて、さして力持ちでもないトーコさんに簡単に押し倒されたのは、カムもいやではなかったからだ。覆いかぶさってきたトーコさんにくちびるを奪われ、服を脱がされて全裸にされ、全身くまなく愛撫された。

「中学のときにも高校のときにも、女の子と幼稚なセックスはしたんだよ。そんなもん、あれってほんと、ガキの遊び? ってほどに……もうっ、最高!!」
「へぇぇ」

 すると、彼は僕よりは進んでいるわけだ。僕は十八歳でのアンヌとのセックスが初体験で、アンヌ以外の女性とはベッドに入る寸前まではいっても逃げてしまった。僕はアンヌひとすじ貞夫の鑑なのである。

「僕はもう、それでトーコちゃんのとりこさ。あたしのものになりなさい、って言われて……じゃあ、トーコちゃんも僕のものになって……って答えて、あたしは誰のものでもないよ、馬鹿、って言われて……そんなつきあいをしていたんだ。そうしているうちには僕はトーコちゃん以外の女なんかどうでもよくなった。僕だってもてるんだけど、トーコちゃんはもっともてる。トーコちゃんを僕ひとりのものにするにはって……」

 結婚するしかない。カムはトーコさんにプロポーズし、キミが女にプロポーズって、十年早いよ、馬鹿、と罵られたのだそうだ。

「そんなら子どもつくろうよ」
「いらないよ、子どもなんか」
「だけどさ、トーコちゃんはもう三十すぎたんでしょ。いい女は結婚してて当たり前だよ。独身なんてかっこ悪いよ」

 苦し紛れのカムの台詞に、トーコさんは揺らいだらしい。

「最近のいい女ってのは、旦那なんかよりずーっと稼ぎが良くて、器も大きいんだ。旦那は適当にやってりゃいいのよ、なんだったらあたしが養うからって、僕の知ってるかっこいい女はみんなそうだよ。トーコちゃんだってそうなりたくない?」
「……別にキミを養いたくなんかないけど、結婚ってのは悪くないかもね。あたしは浮名を流しすぎてるから、つきあうだけだったらいいけど、結婚となると……って二の足を踏む男ばっかりなのよ。カムとだったらいいかも」

 浮名ってなんだろ? とは思ったのだが、どうでもいいので、カムは押しまくった。トーコさんは揺れ、揺れて揺れて、ついに今度はカムがトーコさんを押し倒したのだった。

「そうなんだ。だからきみたちと僕たちが似てるって言われたんだね」
「ねえねえ、笙くんとアンヌさんの結婚式ってどうだったの?」
「僕ら、でき婚だし、式は挙げてないんだ」
「そっかぁ、僕は盛大に豪華にやりたいな」

 うっとりした顔になって、カムは言った。

「真っ白なタキシードに花をいーっぱいつけたのを着たいんだ。お色直しでは紋付き袴と、赤いスーツもいいかな。南の島の花婿みたいな花柄のシャツなんかもいいかな。僕は花が大好きだから、花いっぱいの衣装で花いっぱいの結婚式をしたいんだ。トーコちゃんがいやがるからできないけど、いいって言ってもらえたら、ウェディングドレスも着てみたいな。花柄のドレスなんかもいいな」
「……きみ、女装趣味があるの?」
「笙くんは着てみたくない?」
「ないよ」

 その趣味は僕にはない。

「ずるいと思わない? 女のひとは綺麗なドレスを着て、ヘアスタイルもごてごてっとさせて、髪にまで花を飾ったりするんだよ。男はそういうことができないんだもん。つまんないよ」
「普通、結婚式では花嫁が主役だからね」
「そんなのずるいよぉ。僕も綺麗な服を着て、綺麗なお婿さんになりたいよぉ」
「……うーん。そうだねぇ。トーコさんにお願いしてみたら?」
「聞いてくれないもん。トーコちゃんってすぐ怒るんだよ。結婚したらお小遣いは十万円でいいよって言ったら、キミの小遣い分はキミが働きなさいねって言うんだ」
「専業主夫になるの?」
「当然だよ」

 そこもまた、僕らと似ているところだ。

「トーコちゃんが好きで、僕ひとりのものにしたくて結婚してもらうんだけど、冷静になって考えてみたら、僕は結婚してまで働きたくはない。トーコちゃんだったら収入がいいから、お手伝いさんも雇ってくれるんじゃないかなって思ったんだけど、言ったら怒られそうだから、結婚してからだんだんお願いしようかなって。それにさ、なんたってトーコちゃんは女で、料理もできなくはないから、そこらへんの男よりはましだもんね」
「で、きみはなにをするの?」
「なにしようかなぁ。おしゃれとか? 楽しみだなぁ」

 金持ちと結婚して専業主婦になった女性には、カムみたいなひとがいなくもない。彼女たちの主な仕事は社交だと聞いた。夫がそれでいいのならそれでいいのだから、カムだってトーコさんが許せばそれでいいのだろう。

 うっとりした顔をして夢を語る結婚式直前の若いひと。カムという名の女の子だったら、それほど奇異でもないのだろうが。

「結婚式、結婚式だけが不満なんだよね。なんとかして僕もトーコちゃんに勝つくらいの綺麗なお婿さんになる方法ない? だいたいからして、僕のほうが若いんだもん。綺麗にしたらトーコちゃんには負けないよね」
「う、うん、そうだね」

 結婚式なんか面倒だ、興味ないから挙げたくない、という男性はいる。女性も同意し、親もそれでいいと言って結婚式なしの夫婦は、我が家をはじめとして時々はある。
 男性はそう思っていても、女性がやりたがる場合は多い。親に押し切られて仕方なく、といったケースも耳にする。

 が、美しい花婿になって花嫁にビジュアルで勝ちたいという男ははじめて見た。ふーん、へぇぇ、すげぇなぁ、としか思えない僕は、もはや現代の若者ではなくなっているのだろうか。カムくんが一般的だとは僕には考えられない。そんな話、他には聞いたことがないから、普通じゃないはずだけど。

つづく

 

ガラスの靴44「類友」

「ガラスの靴」

     44・類友


 一度は息子に、働く母を見せてやりたかった。
 事前に了解を得るべきだったのだろうが、断られそうな予感ひしひし。突然行ったほうが息子可愛さに受け入れてもらえるかと思ったのだが、甘かった。

「主夫の分際であたしの仕事場にのこのこ来るな。帰れ」
「ママ、こわい」
「胡弓もうるせえんだよ。帰れ。弁当? そんなもん、いるか」

 口実にするつもりで作ってきた弁当の大きな包みも、ばしっと払いのけられた。アンヌったらご機嫌ナナメかな。三日ほどはアンヌは帰宅していなかったから、主夫としてはみんなで食べられるようにたくさんのお弁当を届け、なんだったら洗濯ものを持って帰ろうか、と言おうとしていたのに。

「しようがないね。パパが悪かったんだよ。胡弓、パパとふたりでお弁当を食べようか」
「うん」

 アンヌのバンド、「桃源郷」がレコーディングしているスタジオは、有名な公園の近くにある。気候もいいしお天気もいいし、拒絶されたとしてもこうできるからこそ、その可能性も鑑みていたわけだ。

「よくあんな女で我慢してるよな」
「あ……吉丸さん」

 ママに邪険にされたので寂しそうな胡弓をなだめながら、公園のベンチで豪華なお弁当を食べていた。胡弓が食べものになんかたいした興味はないのは、僕の子どものころと同じだ。そのほうが太らなくていいとアンヌも言うので、胡弓には野菜をメインに与えていた。

 なのだから、このお弁当だって胡弓のご機嫌取りにはなりにくい。アンヌの仲間の大人の男性たちの好みを考えて、肉っケやらから揚げやらをたくさん詰めてきたので、胡弓と僕ではとうてい食べ切れそうになかった。

「吉丸さんも食べない?」
「そだな。たくさんあるもんな。食ってやるよ」

 大きな手で胡弓の髪をくしゃっとやってから、別の片手でおにぎりをつかんで吉丸さんがほおばる。食ってやるよとはなんなんだ、とは思ったが、食べものを無駄にしたくないのでそれはそれでいい。うん、うまいよ、と吉丸さんが言ってくれるのも嬉しかった。

「あんな暴君に我慢してるのも、おまえに稼ぎがないからだろ」
「僕は主夫だもん。家事をやってるもん」
「おまえは男だろうが」
「男と結婚してるあんたに言われたくないね」
「ミチは男じゃねえんだよ」
「だったら僕も男じゃなくてもいいよ」
「おまえは口は減らないな」

 憎たらしい口ばかりきく吉丸さんだが、彼にも息子がいるので、胡弓には優しくしてくれる。心配そうに僕らを交互に見ている胡弓には、吉丸さんはこう言った。

「パパを苛めてるわけじゃないぜ。話し合いをしてるんだ」
「はなしあい? おばあちゃんとおじいちゃんもしてるよ」
「そうだろ。大人の世界は話し合いでなりたってるんだよ」
「ふーん」

 そこにもうひとり、大人の男性が近づいてきた。
 吉丸さんもロックバンドのメンバーではあるが、「桃源郷」はそれほど有名ではない。ヴォーカルのアンヌでもひとりで歩いていれば目立ちはしないのだが、ドラマーの吉丸さんはさらに目立たない。なのだから、都会のど真ん中の公園で白昼堂々おにぎりを食べていても、誰も注目はしていない。

 近づいてきた男性もミュージシャンっぽい風体で、吉丸さんと較べればだいぶ小柄で細くて僕に近い体型だ。ただし、若くはなかった。

「よぉ、吉丸、また浮気?」
「てめえに言われたくねえんだよ。こいつはアンヌのヨメだ」
「ああ、笙って奴ね」

 たいていのひとは、アンヌのご主人と呼んでくれるのだが、吉丸さんは僕をアンヌのヨメだと言う。吉丸さんの事実上の妻、ミチのこともヨメだという。男だから夫、主人なのか、主夫なのだからヨメなのか、ま、どっちでもいいか。

 おまえも食う? お、食う食う、と吉丸さんと彼は言い合い、僕には断りもしないで彼はおにぎりを持ち上げた。誰だ、こいつは? と視線で尋ねたとき、今度は女性が近づいてきた。

「藤見ったらなにやってんの? 食事に行くんじゃなかったの?」
「ああ、このくらい食っても平気だよ。比呂乃も食う?」
「誰が作ったの? 買ってきたの?」
「いいや、こいつが作ったんだ」

 と、フジミがヒロノに言って僕を顎で示す。フジミ、ヒロノ、姓だか名だかわかりにくいが、男性がフジミ、こっちは姓。女性がヒロノ、これは名前なのではないだろうか。

「どこの誰だかわからないような、知らないひとの握ったおにぎりなんか気持ち悪いよ。そんなもの、よく食べられるね」
「また出た」
「そんなものを食べてないで、食事に行こうよ」
「うん、でも、これ、うまいんだよな。笙って料理うまいじゃん」

 名前はわかったが、どういうひとなのかが不明だ。吉丸さんも紹介すらしてくれないので、僕はフジミさんに、どうも、と軽く頭を下げるだけにした。

「買ってきた弁当だったら食べられるけど、素人の作った料理なんか不衛生だし……気持ち悪いってば。フジミ、そんなの食べるのやめなってば」
「もうちょっと……」
「意地汚いな」

 なんだかものすごーく失礼なことを言われてる? アンヌが連れてくるお客さんの中にも、僕が出した料理を食べてくれないひとがいる。気持ち悪いんだって、とアンヌが言っていたこともあって、僕は気にしていなかったが、こういう意味だったのか。

 そこにまたまた、歩み寄ってきた女性がいた。彼女はきっとした表情をしていて、そちらを見たヒロノさんの表情は険しくなった。お、まずい、と呟いた吉丸さんの顔はなぜだか嬉しそうで、フジミさんはきょろきょろしていた。

「どうしてこんなところで、フジミはお弁当を食べてるの? ヒロノさんが作ってくれたの?」
「どうして史子がここに……」

 二番目にあらわれた女性はフミコというらしい。フミコさんのほうが若くて美人で、ヒロノさんのほうはおばさんっぽかった。
 この三人、どんな関係だ? 胡弓も僕もぽかんと三人に見とれていて、吉丸さんはにやついていた。

「密告があったのよ」
「密告って誰が?」
「誰だっていいでしょ。まったくもう、フジミには愛想がつきたってのよ。勝手にすれば」
「待てよ、フミコ」
「……勝手にして」

 フミコさんが歩み去っていく。フジミさんは片手におにぎりを持ったままで彼女を追っていく。ふんっ、と鼻を鳴らしたヒロノさんは、ふたりの男女のうしろ姿を見送ってから、彼女もまた去っていった。

「こんな話、胡弓は聞かないほうがいいんだけど、こいつもミュージシャンの息子だしな。まともな親じゃないんだから、そういうことにも慣れておいたほうがいいか」
「そんなにいやな話?」
「いやな話ってか、よくある話だよ」

 三人の男女がいなくなってしまってから、吉丸さんが話してくれた。
 フジミさんは吉丸さんの昔からの友人で、僕の予想通りにミュージシャンなのだそうだ。彼は小柄だが、小さくて可愛いとかいわれて若いころからもてた。若くはなくなった今もなぜかもてるのだそうだ。

 二十代のころにフジミさんは結婚した。その相手がヒロノさんなのだそうで、フジミさんが浮気ぱっかりするので離婚した。たしかに、ミュージシャンならずともよくある話だ。

「そういう男は結婚しなかったらいいのに、フジミは次から次へと女を作っては、結婚したがるんだ。飽きっぽいからまた浮気しては離婚する。結婚離婚を何度繰り返したかな。七回ほどになるんじゃないかな。八回かもな」
「彼、いくつ?」
「俺と同じくらいだよ」

 三十代半ばで七、八回の結婚とは、六十代で五回とかいうおじいさんもいるが、フジミさんは若い分、
ほんとにすごい。

「ヒロノとは五回目だったか六回目だったかに、もう一度再婚したんだよ。今度こそ落ち着くとか言ってたけど、あれのせいで離婚したんだそうだ」
「あれって?」
「プロ以外の見知らぬ人間の作った料理は食えないってやつ」
「そういうひと、時々いるんだね」
「そうらしいな。俺はそんなこと言ってたら、なんにも食えないけどな。それはいいとして……」

 そしてまた、フジミさんは幾度か結婚して離婚し、現在はフミコさんが彼の奥さんなのだそうだ。ところが。

「まーた浮気してるんだよな、フジミは。その相手がヒロノなんだよ」
「いちばん最初の奥さんだよね」
「二回結婚して二回別れた相手だよ」

 現在の妻、フミコさんとは不倫の果てに前の奥さんと離婚した。そしてまたフジミさんは不倫している。その相手がもと妻、ヒロノ。なんてややこしい人生なんだ。

「そんなにヒロノがいいんだったら、結局は戻るんだったら、離婚しないでそのまんまで、別の女と不倫すりゃいいんだよな。あいつが言うには、俺は誠実なんだから、別の女に気持ちが移れば結婚は続けていられないって……」
「せ、い、じ、つ……」
「どの口が言ってんだよ」

 どの口って、その口でしょ? 僕は吉丸さんの口を見つめた。三歳の胡弓にはいましがたの一幕も、吉丸さんの言葉もわかってはいない。ごはんを食べるのもいやになったらしく、ベンチに立って近くの花をいじっている。僕は胡弓の腰を支えて吉丸さんを見ていた。

「俺は結婚歴は一回だけだぜ」
「相手が相手だからだよね」

 女性と結婚して男と不倫して、離婚して事実婚を選んだ吉丸さんだが、不倫相手が女性だったとしたら結婚歴は二回になったかもしれない。さらにそのあと、他の女性と浮気して彼女が吉丸さんの子どもを産んだ。そこで三回になっていてもおかしくはない。

「……これからもやるでしょ」
「絶対にやらないとは俺は言わないな。そういう男のほうが誠実なんだよ。正直なんだもんな」
「……せ、い、じ、つ」

 こんな男たちに較べれば、僕は最高に誠実だと確信できる。そんな夫を邪険にし、息子にまでつめたくした妻に報復するために浮気してやる、とも僕は考えない。
 眠くなったらしく、僕にもたれかかってきた胡弓を抱き留め、僕は息子の将来を想像する。きみはどんな男に成長するの、胡弓? フジミさんや吉丸さんみたいになるよりは、主夫のほうがはるかにいいんじゃないだろうか。

つづく


 

ガラスの靴43「迷惑」

「ガラスの靴」

     43・迷惑

 告白しなよ、しなしな、しなってば、と女性たちが誰かを焚きつけている。告白といえば恋愛がらみだろうか。シュフの常として僕も他人の色恋沙汰には興味津々なので、部屋を覗いてみた。

 妻のアンヌはロックヴォーカリスト、超有名人ではないが、彼女のバンド「桃源郷」はまあまあ売れているので、専業主夫である夫の僕と、三歳のひとり息子、胡弓もいい暮らしをさせてもらっている。住んでいるマンションも広くて部屋数もたくさんある。

 広い家に住んでいるのもあり、アンヌの交友関係が広いのもあり、僕がパーティ好きなのもあって、時々ホームパーティをやる。そんなときには胡弓はたいていは、僕の母に預かってもらっていた。

 今夜も胡弓はおばあちゃんちにお泊りだ。彼はおじいちゃんとおばあちゃんが大好きで、お泊りもいやがらない。おじいちゃんとおばあちゃんも孫が大好きで、今や胡弓が生き甲斐になっている。僕としても大人の時間が持てるわけなのだから、一石三鳥なのである。

 半分ほどは音楽関係者のパーティに、そうではない人種も加わっている。アンヌと彼女の友達、詳しく説明すればただの友達と呼ぶには複雑なのだが、簡単に言ってしまえば「アンヌの友達」の知可子さんや真澄さんやほのかさんが囲んで焚きつけているのは、やや太目の女性だった。

 彼女は勝子さんとかいう、テレビ局のADだったはず。最近はテレビCMの音楽制作仕事もよく入ってくるようになって、桃源郷もテレビと関わりができている。誰とでもすぐに親しくなるアンヌにも、テレビ関係者の友人が増えてきていた。

 仕事帰りにやってきた勝子さんは、カジュアルな服装でほぼすっぴん。特に美人ではないけれど若々しくて初々しくて、流行の最先端を走りたがる音楽業界人たちの中にいると学生みたいに見えた。

「ええー、私なんかじゃ……」
「私なんかって卑屈になったらいけないのよ」
「そうよ。勝子ちゃんは若いんだもの。女は若いってだけでも値打があるんだよ」
「そしたらあたしには値打はないのか」
「知可子さんのことは言ってないでしょ」

 わいわい喋っている女性たちの輪から、勝子さんが抜け出した。
 誰に告白するんだろ。勝子さんを焚きつけていた女性たちもわくわくしているようで、僕も気になってそーっと勝子さんについていってみた。

「こんばんは」
「あ? ああ、勝子さん、来てたの」
「来てました。あの、お話ししてもいいですか」
「いいけどね」

 相手はスーツにネクタイのサラリーマンのベーシックファッションを、微妙に着崩した男だ。テレビ局関係サラリーマンだろうか。勝子さんは二十歳そこそこで、彼は三十そこそこに見えた。

「あのね、前から言いたくて……」
「なに?」
「言ってもいいですか」
「……なにが言いたいのかな。まさかとは思うけど、山本さんが好きってのはないよね。まさかね。きみはそれほど身の程知らずじゃないよね」
「……そ、そうですか。そうですよね」

 この男は山本さんというらしい。僕が注目しているせいもあって、ふたりだけが周囲から浮き上がっているようだ。

「まさかね。僕がきみとたまには食事をしたり、仕事帰りにばったり会ったらお茶を飲んだりしたのは……なんていうのかな。ボランティア精神みたいなものだって、はっきり言っておいたほうがいいのかな。そんなつもりじゃないよね。まさかだよね」
「……いえ……」
「そのつもりだったわけ? やめてくれよな。きみの目、不愉快だよ。ものすごく腹が立ってきた」

 どんな目で彼を見つめたのか、僕の立ち位置からは勝子さんの表情は見えないが、冷めた口調で言い捨てられて席を立たれた勝子さんは、きっとがっくりうなだれたのだろう。
 あちこちでアンヌや真澄さん、知可子さんやほのかさんもあのシーンを見ていたはずだ。僕は勝子さんにはかける言葉も見つからなくて、山本くんが立っていったほうへと行ってみた。

「女に告白されて、なんだよ、あの反応は」
「……女ったって、あの女じゃ迷惑なんだよ」
「なにさまだよ、てめえは」
「僕には彼女はいるんだよ」
「いたっていいじゃないか。勝子はおまえを好きだって言ってる。結婚したいとまでは考えてないんだろうから、一回だけ抱いてやったらいいじゃないか」

 おいおい、アンヌ、勝子さんの望みってそれ? 僕としては突っ込みたくなったのだが、立ち聞きしているのだから黙っていた。

「いやだよ、あんな女。僕が穢れる」
「そこまで言うか」
「言うよ。アンヌさんから見たってそう思わない? 僕は高級な男。あの女は低級な社会の底辺で蠢く女だろ。ルックスがどうこう言ってるわけじゃないんだ。K大院卒の僕がなにを好き好んで、大学中退、しかも名もない田舎の大学、って女とつきあわなくちゃならないんだよ。僕は学歴のない女は絶対にお断りなんだから」
「ああ、そっちね」

 大学中退ってのはアンヌと同じだが、高校を卒業して専門学校に入学した僕は、大学受験を突破したというだけでも尊敬してしまう。そっか、大学中退って学歴ないことになるのか。

「僕には彼女はいるんだけど、その彼女も院卒ではないんだ。だから深くつきあうのを躊躇してしまうんだよ」
「私は********大学卒業よ。私と結婚する?」

 ********の部分は外国語らしく、僕には聞き取れなかったが、ほのかさんが言い、山本くんは彼女を見つめた。

「あなたは? ああ、そうなのか。*********って……あなたの告白だったら考えてみてもいいな。僕はあなたが誰なのか知らないけど、僕と釣り合う感じだ。僕よりはすこし年上なんだろうけど、あなたのことだったらもっと知りたいよ」
「……私は独身主義だから」
「……いや、それでもいいよ」
「私、子どもが三人いるのよ」
「は?」

 うっすら笑って山本くんをじっと見返してから、ほのかさんはきびすを返した。

「今どきの男って、女を学歴で差別するんだ」
「アンヌ、知らなかったの? そんなの珍しくもないよ」
「だったら山本は、とびきりぶすの五十のおばさんでも、東大医学部卒だったりしたらそっちを選ぶのかな」
「どうなの、山本くん?」

 知可子さんに問いかけられた山本くんは、口の中でもごもご呟いた。

「あたしは○○短大卒だから、駄目よね」
「あたしも大学中退だし」
「真澄はどこだっけ?」
「あたし、八街国際大学」
「そんな大学ってあるの?」
「洋裁学校だよ」

 洋裁学校が国際大学とはシャレがきつい、などと笑いながら、アンヌと真澄、知可子の三名も去っていった。山本くんは口をとがらせて、やや離れた場所で見ていた僕に目を止めた。

「ほのかさんって女性の大学はほんと?」
「そうみたいだね」
「……僕はそしたら、ほのかさんだったら……」
「あ、無理無理。あのひとは山本さんのテコになんか合わないよ。きみに告白されたら、ほのかさんが迷惑がるよ」
「それはどういう意味で……三人も子どもがいるなんて、嘘なんだろ」
「きみに説明するのってめんどくさいから、もういいよ」

 ほんのちょっとだけだったら、勝子さんの仕返しをしてやれただろうか。ほのかさんが自らやってくれたほうがいいのか。僕には女心はわからないし、普段は学歴なんてまったく気にしていないので、学歴差別が腹立たしいというのもわからないが。

 だけど、僕は主夫だ。シュフってのは通常は女だし、アンヌはいつだって女の味方だと言っているのだから、僕も一部を除く女性の味方だ。一部ってのはまあ、あんな女とかこんな女とか、ね。

つづく


 

ガラスの靴42「電話」

「ガラスの靴」

     42・電話

「はい」
「……あんた、誰?」

 誰からかかってきているのかを確かめもせず、笙のケータイが鳴っていたので出た。相手の反応は自然なのかもしれないが、言い方にむっとしたので、あたしは言った。

「あんたこそ、誰だ?」
「この電話、ショウのだよね」
「そうだよ」
「……だから、あんたは誰?」
「ショウの妻」

 相手が息を呑む気配が伝わってきて、しばしの後に電話が切れた。
 なんだ? あたしはまちがったことは言っていない。なんだ、今の女は、と気になったので、着信履歴を見てかけ直した。履歴は電話番号で、笙のアドレスには登録されていない相手のようだ。

「……ショウ、結婚してたんだ」
「してるよ」

 何度か呼び出し音が鳴ってから、女が電話に出た。あたしはミュージシャンだから、声でその人間の年齢はだいたいはわかる。ミュージシャンではなくてもわかるのかもしれないが、声や音にはあたしは敏感なほうだ。

 一見、というか一聴は若いが、三十歳のあたしよりも年上かもしれない。生活に疲れているような色のにじむ声だった。

「ショウのケイタイ、奥さんも勝手にさわるんだ。ショウはいないの?」
「笙はちょっとそこまで買い物。ちょっとだけだからケータイは置いていったんだよ」
「コンビニとか?」
「そうだよ。息子がアイスを食べたいって言うから、買いにいったんだ」
「ショウ、息子までいたんだね」

 笑うしかない、といった調子で女が笑い、あたしは彼女が次になんと言うのかを待っていた。

「ショウが浮気してるって知ってた?」
「知ってたよ」

 嘘だが、ひとまずはそう言ってみた。

「そうなんだ。奥さんも知ってて……ってか、許してるの? それとも、泳がせてるってとこ? ああ、もう、どっちでもいいな。あたしはショウが結婚してるなんて知らなかった。ショウは独身だって言ってたよ」
「どこで知り合ったの?」
「ケータイの出会い系サイトってのかな」

 あの野郎、素知らぬ顔してそんなところに登録していやがったのか。

「ああいうところって、結婚してるくせに遊び相手を探してる男もけっこういるんだってね。聞いてはいたから用心してたんだけど、そんな奴にひっかかってたんだ」
「会ったことはあるんだろ」
「あるよ。ホテルにだって行ったよ」
「そっか」

 胸がむかむかする。
 二十三歳なんだから、独身だったとしたら笙は遊び盛りの年齢だ。そんな若い身空で専業主夫をやり、家事と育児に専念しているのだから、多少はさぼろうと、母親に息子の胡弓を預けて遊びにいこうと、あたしは文句をつけずにいた。

 とにもかくにも息子はきちんと育っているのだし、家が荒れ放題ってわけでもないのだし、あたしは家にいないことも多いのだから、無茶苦茶ではなかったらいっか、だった。

 それをいいことにあの野郎、出会い系サイトに独身だと偽って登録して、どこかの女と遊んでた?
 浮気は絶対に許さない、と言うつもりはない。あたしだって機会があればいい男と寝てもいいと思っている。笙にも機会を作ってやろうと、夫婦交換みたいなことをしかけたりもした。

 しかし、あのときの笙はびびってしまって、アンヌ、助けて、と泣いてすがってきた。相手の女が猛々しくて怖かったせいもあったらしいが、純情だと思っていた笙もやはり、そういうことをする奴だったのか。なにが許せないって、あたしに無断でやっていたのが腹立たしいのだった。

「あーっ!!」
「……どうした?」
「あのさ、あの……あたしのかけた電話って……」

 名前を知らない女が口にした番号は、笙のスマホのものに他ならなかった。

「そうだよ」
「……え、えええ、えええ……嘘。そうだよね。そう。あなたがかけてきてくれたのもその番号からだ。あたし、今、ぼーっと見てたの。ちがうのよ」
「なにを見てた? なにがちがうの?」
「あなたの旦那さん、ほんとにショウって名前?」
「そうだよ。新垣笙」
「あっちゃあ……」

 この女はなにを言っているのだ? わけがわからなくなって黙ると、女も駄る。なにやらぶつぶつ言っている女のひとりごとが聞こえてきた。

「なに言ってんだよ。意味不明だぜ」
「ごめん、まちがえたっ!!」
「はあ?」
「ショウなんて名前……わりとありふれてるよね。あたし、まちがい電話をかけたみたい。出たのが本人だったらまちがえてるって気が付くんだろうけど、あなたが出たから、ショウだって言うから……番号がちがうって気が付いたの。あたしのつきあってたショウは、新垣って苗字じゃないよ」
「はぁっ?!」

 はぁ、はぁっ、としか言えなくなったあたしに向かって、ごめん、ごめんなさいっ、と叫んだ女が、電話を切った。

 本当なのか? あたしは切れてしまったスマホを見つめて考える。
 なにを見て気づいたのだろう。自分がかけている電話番号か。まちがってかけてしまった番号が表示され、ぼんやりと見つめているうちにあれれれれ……となることはあるかもしれない。
 あの慌てぶりは、本当だったのかもしれない。もう一度かけようか、どうしようか、迷いながら、あたしもスマホを見つめ続けていた。

「ママぁ、ただいまっ」
「参っちゃったよ。胡弓ったら、こんな大きいの……」
「食べるもん」
「食べられないって。おなかこわすよ」

 帰ってきた夫と息子が、部屋の中に入ってくる。無理だと言っているのに、胡弓は大きなソフトクリームをほしがり、絶対に駄目!! とは言えない甘いパパが買ってやったらしい。胡弓はソフトクリームを出してもらって嬉しそうになめていた。

「あーあ、ぽたぽた垂れてるよ。さっさと食べないと溶けちゃうんだから」
「……あ、アニメ見る」
「先に食べちゃえって」
「ママ、あげる」
「ほら、どうせそうなるんだからさ」

 ちょっとだけ怒った顔になって、笙は胡弓があたしに差し出しているソフトクリームをばくっと食べた。ママにあげると言ったくせに、パパが食べたぁ!! と胡弓が泣き声を出す。
 平和な一家団欒。こんなパパの顔、いや、ママみたいな顔をしている奴が、浮気なんか、遊びなんかしないよな。だけど、よそのママだって子どもの前では母の顔そのもので、実はこっそり……なんてこともあるのかもしれなくて。

 もしかしてもしかして、あたしにこんな疑心暗鬼を持たせるために、笙を好きな女がまちがい電話を装ってかけてきたとか? そいつは笙に片想いしているのか。それとも、本当に浮気相手なのか。

「どしたの、アンヌ? 怒ってる?」
「ママぁ……アニメ」
「胡弓、わがまま言ってパパを困らせるんじゃないよっ」
「……ええん、パパぁ、ママこわい」
「怖いねぇ。よしよし、ごめんなさいしようね」

 のほーっとした笙を見ていると、そんなことがあるわけもないと思えてくる。胡弓はパパに抱きついてあたしを怖そうに見る。これではやっぱりパパとママは反対で、なのだから、我が家では浮気をするとしたらあたしのほうだ。パパは貞淑な人妻のはず。なんたって専業主夫なのだから。

つづく

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