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連載小説・ガラスの靴

ガラスの靴79「変心」

ガラスの靴

79・変心


 楽器会社勤務の女性と、俳優志望の青年。そのふたりが同棲すると聞いて、横からお節介を焼く沖永さん。沖永さんはアンヌたち、桃源郷が所属するCDレーベルの事務部門の社員で、バツニだと最近知った中年男性だ。

 いつだったかのパーティでそんなシーンがあり、さらにその横からアンヌが口を出して、うるさい沖永さんを撃退した。

 今夜、アンヌが我が家に連れてきたのは、女性のほう。交友関係がたいそう広く、友達の友達は友達で、酒場で会っただけの相手でも我が家に連れてくるご主人さまだから、僕としては触れ合ったひとを片っ端から忘れるのだが、彼女のことは記憶にあった。

「メイクさんだったよね。久しぶり」
「お久しぶりです」
「彼とは仲良くしてるの?」

 なんの気なしに質問したら、アンヌに頭を殴られた。ってことは……?

 かなり年上で、仕事はできるらしいが外見は冴えない女性のメイクさんは、芽愛紅と書く。彼女の恋人は役者志望の涼し気……というよりも性格がクールすぎて寒いんじゃないかと思える美青年で、流斗と書いてリュートと読む。僕の名は笙、息子の名は胡弓だから、リュートとは楽器仲間だ。

 名前はまあどうでもいいのだが、問題はリュートくんが綺麗すぎることと、ふたりが同棲するにあたって、費用をほとんどメイクさんが負担するということだった。だからこそ、沖永さんがお節介を焼いていて、聞いていて苛々したらしいアンヌが、当事者同士がそれでいいんだったらいいだろ、沖永はうるせえんだよ、と切れたのであった。

 あれからはメイクさんにもリュートくんにも会わなかったし、噂も聞かなかったので知らなかったが、うまく行かなかったのだろうか。

「同棲はしたんですけどね」
「メイクと会ったから、おまえにその話も聞かせてやりたくて誘ったんだよ。笙、酒とつまみ」
「はいはい」

 あらあら、とメイクさんが目を丸くしているのは、我が家が逆転夫婦だからだろう。それでも、メイクさんはそれについてはなにも言わなかった。

「ありがとう。笙さんって料理が上手ね。おいしい」
「こんなもんは料理ってほどでもねえんだよ。褒めるな、図に乗るから」
「アンヌさんは厳しいんですね」
「メイクはあたしよりも年上だろうが。敬語で喋るなってば」
「ああ、そうね」

 手早く作ったおつまみを出し、ワインを開ける。息子の胡弓はとっくに眠っているから、大人の時間だ。

「リュートは人前ではクールなんだけど、あれは照れ屋だからであって、ふたりきりだったら言ってくれるのよ。メイク、愛してるよ、メイク、ありがとう、あなたのおかげで僕は夢をかなえられそうだ……あの音楽的な声も好きだったわ」
「口先ではなんとでも言えるさ」
「そりゃそうだけど、心がこもってたの。私は信じてた。でもね、心変わりってあるものなのよ」

 死にそうなほどにありふれた話。年上の女性の恋心につけこんで、パトロンになってもらう美しく若い男、女性だからパトローネ、パトロネスだったか。いずれにしても、男はそのつもりで、女はそこに愛があると信じ込む。女のほうも余裕をもって、私が役者としての彼に投資するのよ、と考えられたらよかったものを。

 わずかな愛情が男のほうにもあったのだとしても、彼はやがて若い女に気持ちを移して去っていく。そんな映画もあれば、小説なんかにもあるのだそうだ。

 夢見るような瞳をして、メイクさんがリュートとの暮らしを語る。アンヌは醒めた口調でコメントをはさみ、僕は相槌を打つ。リュートがベッドに朝食を運んでくれた。リュートがビーズで作った指輪をプレゼントしてくれた。リュートが劇団の公演で行った田舎で、つくしを摘んできてくれた。

 哀しいような奉仕?
 それが嬉しいなんて、メイクさんって顔に似合わずピュアなんだな。恋愛経験なかったんだろうか。それとも、リュートのちっちゃな愛のあかしだと信じるのが幸せだったのか。

「喧嘩なんかしたこともなかった。私のすることをリュートはすべて喜んでくれるの。彼もそうして私を嬉しがらせることを次々にやってくれるし、私も同じ。地方公演のチケットを五十枚も買ってあげて知り合いに無料で配ったり、リュートの勉強のためにオペラのチケットを買って、リュートが役者仲間と見にいくというのを快く許したりもした。私にはオペラなんてわからないからね」
「メイクのやってることは金がかかってるんだ」
「私のほうが収入はいいんだもの。当たり前じゃない? アンヌさんとこも同じでしょうに」
「まあね」

 おいしいごはんを作ってあげたり、アンヌの連れてきた友達をもてなしたり、アンヌのお気に入りの服にお酒のシミがついたのを、一生懸命綺麗にしてあげたり。僕の愛情表現はそんなふうだ。

 レストランや旅行に連れていってくれたり、革のコートを買ってくれたり、歩き疲れた僕を、ちょっとぐらい遠くてもタクシーに乗せてくれたり。アンヌのほうはそんなことをしてくれる。考えてみたら、アンヌと僕はリュートとメイクと似ている。リュートの行為が哀しいだなんて、僕には言う権利はないのだろう。

 だけど、決定的にちがうことがある。アンヌと僕は別れてはいない。小さな胡弓を間にはさんで、もしかしたらいつかはもうひとり、子どもができて。僕らは正式な夫婦だから。家族だから。

 とはいえ、離婚はできなくもないのだから、やっぱり僕は僕にできることを精いっぱいやって、アンヌの心をつなぎ止めておかなくちゃ。僕のほうから離婚を切り出すってのはあり得ない。僕はアンヌに捨てられたら生きていけないから、たとえ暴力を振るわれても浮気をされても耐えてみせるんだ。

「つまり、リュートは別の女のところに行っちゃったってわけだろ」
「そうよ。でもね」

 きっと顔を上げて、メイクさんはアンヌをまっすぐ見つめた。

「後悔なんかしてないの。愛はうつろいやすいものでしょ。リュートはたしかに私を愛してくれたんだから、それでいいの。私は今でもリュートを愛しているけど、彼の気持ちがよそに移ったんだったらすがったりしない。それも私の愛の形よ」
「あんたが納得してるんだったらいいさ」
「……そうだよね。さ、食べて、もっと食べて」
「笙くんったら、私をもっと太らせようとしてない?」

 無理やりみたいに笑ってみせる、メイクさんが痛々しかった。

「これ、今度の公演。リュートは主人公の通う酒場の従業員役で出るのよ。台詞もあるの」

 帰りがけにメイクさんがチケットをくれたので、劇団の公演に行ってみることにした。アンヌは仕事で行けない、子どもを連れていくようなお芝居ではないから、胡弓は母に預け、ひとりで出かけていった。

 小さい劇場だから、メイクさんが来ていたら会いそうなものだ。メイクさんだって毎回は見にこないのか。来るとつらいから来ないのか。そんな話はしていなかったが、今日はメイクさんの姿はない。「開港」という名のお芝居は、幕末の横浜が舞台になっていた。

 歴史なんてものにはまったく疎い僕なので、生麦がどうたら薩摩がどうたらいわれたって、麦とイモ? 焼酎の話なのかな、と思っていたのだが、横浜の生麦という場所で起きた、薩摩藩士たちの物語なのだそうだ。

 当然、時代劇である。いらっしゃい、とひとことだけ台詞のあるリュートくんもちょんまげを結っていて、全然似合っていない。彼は現代的美青年だから、時代劇なんてちっとも合っていなかった。

 それだけの台詞では僕には、芝居の上手下手はわからない。時代背景もわからないので芝居はまったく面白くなくて、途中で居眠りしていた。

「ふわ……もうおしまい?」

 生の芝居を見た経験はほとんどないが、カーテンコールなんてものがある。リュートくんも端っこにいた。有名な劇団ではないせいか、公演が終わって出ていくお客さんに、戸口で役者さんたちが並んで挨拶してくれた。

「やぁ」
「ああ、こんばんは」

 ちょんまげと和服の扮装のままのリュートくんが、僕を認めてちらっと微笑んだ。覚えていてくれたらしい。リュートくんにプレゼントを渡した可愛い女の子……彼女かな、リュートくんの心変わりの相手は。

「……打ち上げに行かない、坊や?」
「坊やって……誰、おばさん?」
「おばさんとは失礼ね。ま、いいわ。あなたから見たらおばあさんみたいなものだろうから、おばさんでもいいわ。笙くんでしょ。リュートの友達? リュートが笙くんを打ち上げに誘ってって言うものだから、私が誘いにきたの」
「だから、おばさん、誰?」
「いいから行きましょうよ」

 太ったおばさんに腕を組まれて、強引に拉致された。僕の腕をぐいぐい引っ張って近くの居酒屋につくと、おばさんはリュートくんに駆け寄って抱きしめ、強烈なキスをした。

「……あの……」
「キミ、可愛いじゃん。今夜は私と、どう?」
「いや、あの、僕は結婚してますから……それより、リュートくんとあのおばさんの関係は……」

 頬に頬を寄せてきた厚化粧のお姉さんは、さきほどのお芝居でヨタカの役をやっていたひとだ。ヨタカとは下級売春婦のことだと、パンフレットに書いてあった。

「リュートの友達? さすがにリュートは友達もルックスがいいんだね」
「それはいいから、だから……」
「リュートって年上趣味なんだよね。もったいないなあ」
「年上趣味?」
「だってそうでしょ。前にも年上の女と同棲してたらしいじゃない? 私もリュートよりは年上だけど、あのばばあにはかなわないよ。あそこまでのばあさんとくっつくって、いっそあっぱれだよね」
「……くっつく?」
「そだよ。あのばばあはリュートの新しい恋人さ」

 聞き間違いかと思っている僕を置いて、ヨタカのお姉さんはどこかに行ってしまった。
 心変わりの相手は若い女じゃなかったのか? 若くて可愛い女に乗り換えたのならばありふれているのだろうが、あのおばあさんと? 僕から見れば祖母の年頃。七十代にしか見えない肥満体マダムだった。

「リュートくんって……」
「メイクからなにか聞いた?」
「いや、あのね……」

 本人に訊いてみたくても、リュートくんのそばにはずっとあのおばあさんがいる。ふたりしていちゃついている。それでもようやく近づいていくと、リュートくんはクールな微笑みを見せた。

「メイクって前の彼女でしょ? やめてよ、そんな話は……」
「わかったよ、あなたの前ではしないから」
「ね、リュート、愛してる?」
「ええ、愛してますよ」

 目を閉じて顔を仰向けるおばあさんに、リュートくんがキスをした。これって芝居の続き? いや、リュートくんってほんとに年上趣味で、メイクさんでは若すぎて物足りなかったとか? 世の中、老人専とかいう人種がいるそうだし。

 新たなパトロンだろ。
 何者かは知らないが、おばあさんはリュートの金づるだろ。いや、でも……だって……。

 熱い口づけをかわす美青年と、肥満体のおばあさん。このシーンのほうがさっきの芝居よりもずっと芝居っぽくて、頭がくらくらしてきそうだった。

つづく

 

 


、、

ガラスの靴78「女子」

ガラスの靴


74・女子


 二十世紀半ばあたりまでに生まれた人間には理解しにくいようだが、今どきは夫婦、親子、家族の形態もさまざまだ。子どもの名前もさまざまで、こういう夫婦から生まれた子どももこんな名前をつけられているのかと思ったら、僕はむしろ安心していた。

「ボーイとジョーイだよ。笙くんだ。挨拶しなさい」
「こんちわー」
「……ちわ」

 先だって母と連れ立って僕んちにやってきたのが、母の姉、つまり僕の伯母。ここにいる耕一くんは伯母さんの長男だから、僕のいとこにあたる。
 彼はエリートだったのだそうだが、リストラに遭って転職した。ラッキーなことに奥さんがものすごく稼ぎのいい音楽家になっているのだそうで、収入が減っても生活はまったく困窮しない。

 超ラッキーだと僕は思うのだが、伯母さんは文句たらたらだ。
 なぜなら……人妻の身で外国へ留学なんてもっての他なのに、姑の反対を押し切って嫁は決行してしまった。そのころは収入もよく、寛大だった耕一くんが留学させてあげたから、奥さんは音楽家になれた。

 現在の嫁は子どもたちをほったらかして仕事に邁進していて、エリートではなくなった耕一くんが兼業主夫みたいになっている。なによりも、嫁の稼ぎが息子の約十倍あるらしいのが気に食わない。

 姑ってものは嫁のやることなすこと気に食わないのだそうで、耕一くんの奥さんがどんな女性だったとしても伯母さんは文句を言うのだろう。控えめで優しい専業主婦だったりしたら、息子の稼ぎで遊んでる、とか言うものらしい。

 その点、うちの母は……って、母も内心はなにを思っているのか知らないし、逆に僕のほうこそが、アンヌの実家でどんな悪口を言われているのかもわかったものじゃないが、ま、いい。アンヌも僕も胡弓も幸せなんだから。

「おじさんはお父さんのいとこ?」
「そうだけど……おじさんはないでしょ。僕はまだ二十三だよ」
「おじさんじゃん」

 小学生の望威と穰威、くそ、小学生から見たら僕もおじさんか。

 中途半端主夫で半分は僕の仲間である耕一くんは、だが、料理はそれほどに得意でもない。僕らは友達の誕生会に呼ばれるのだから、お招きし返したいと息子たちに言われて困っていた。今年は奥さんもいないし、いつものようにレストランでやるというのにも、息子は難色を示す。

「だったら笙くんに頼めば? あの子は暇だし」

 勝手に伯母さんが決めて、僕の母に依頼があった。伯母さんの頼みなのだから、当然胡弓は母が預かってくれて、僕がいとこの息子のお誕生会の手伝い、手伝いというよりもメインでパーティの準備をすることになったのだった。

 子どもの好きそうなピザやパスタやサラダ、適宜市販の品物も組み合わせて、ここが主夫の腕の見せどころだ。胡弓も幼稚園に通うようになったら、お誕生会をするようになるのだろうから、予行演習にもなる。

 次男のジョーイは八歳になる。お母さんが仕事で行っているパリから、シックなセーターのプレゼントが届いていた。お父さんの耕一くんは嬉しそうにセーターを見せてくれたが、本人は別にいらないなんて言う。小学生の男の子は服になんか興味ないのが尋常だろう。

 ピザもケーキも手作りがいいと耕一くんが言うので、お誕生会前日の今日から準備にとりかかる。ジョーイはけっこう僕のすることに興味があるようなので助手にして、ふたりでキッチンで働いている。胡弓ももうちょっと大きくなったら、こうしてお手伝いをしてくれるんだろうか。胡弓も将来は主夫になるんだったら、料理上手になるように教えたい。

 我が子の将来にも思いを馳せながら料理をしていると、来客があった。耕一くんは今日は仕事で出かけていて、お客はボーイのクラスメイトの女の子たちだった。

「兄ちゃんのガールフレンド?」
「そうなんじゃないの?」
「ふたりいるんだ。もてるね」

 ふんっと鼻を鳴らすジョーイは、女の子には興味ないのか。八歳ならばそれも尋常だ。二十三歳は十歳の女の子には興味ないが、ボーイのガールフレンド、しかもふたり、というのが気になったので、紅茶とクッキーを運んでいきがてら、様子を見にいった。

 奥さんの収入がいいから家が広い。そこも僕んちに似ている。応接室に入っていくと、少女がソファに並んで腰かけていて、ボーイは向かい側にすわっていた。

「お邪魔しています」
「ありがとうございます」

 お行儀よく挨拶した女の子は、アミルとユーアというらしい。どっちがどっちだか僕にはわからないが、意外なことには、ふたりとも特に可愛くもない普通の女の子だった。ジュニアファッションというのか、おしゃれな服を着てはいるが、ちっとも似合っていない。

「ゆっくりしていってね」
「はーい」

 声をそろえて返事をした女の子たちは、僕が部屋から出た途端、誰誰々? すごい綺麗、などと言っている。僕ってやっぱり小学生女子から見ても綺麗なんだ。
 お父さんのいとこだよ、とボーイが応じ、小学生の女の子なんてのは女になり切ってないから、案外見た目はもっさりしてるんだな、と思いつつ、僕は庭に回った。花の水やりでもしているふりをしながら、盗み聞きするつもりだった。

「だからね、ボーイが言ってやってよ」
「ナンリったら、絶対にあやまらないんだもん」
「あやまらないとあたしは絶対に許さないのっ」
「あやまるべきでしょ? ボーイだってそう思うでしょ?」

 うーん、まあねぇ、などと、ボーイはうごうご言っている。女の子たちが言っているのは、クラスの別の女の子のことのようだ。

 アミルとユーアとボーイとナンリ、他にも何人かのメンバーで、クラスの中の班として集団行動をしているらしい。そういうグループは僕らが子どものころにもあった。ナンリという名の女の子は、いつもアミルに意地悪をする。班単位の行動のときにわざとまちがえたり、発表を滞らせたりしてアミルに迷惑をかけるのだそうだ。

「この間、ボーイだって見てたでしょ」
「あれは絶対にわざとだよ。ナンリはアミルが可愛いからってやきもち妬いてるの。ナンリはアミルみたいな服も買ってもらえないんだよね」
「ナンリんちはお父さんいないから、安い服しか買ってもらえないんだよ。あたしが可愛いからっていうよりも、あたしの服に嫉妬してるんだよね」
「お父さんいないと服が買えないの? お母さんが働いたらいいんじゃない?」
「働いてても、お母さんは給料安いの」

 自分の母親はセレブみたいな高給取りだから、ボーイには一般的母子家庭が理解しづらいらしい。うちだって母子家庭になってもへっちゃらだろうが、父子家庭になったら大変だ。僕では胡弓を養って行けないから、実家に帰って両親に頼るしかない。

 大変だ大変だ、アンヌに離婚されないように、いい夫でいなくちゃ。僕はつい気持ちをよそにそらしていたが、小学生たちの会話はしっかり聞いていた。

 この年でも嫉妬だなんて言うんだな。アミルのどこが可愛いの? と質問してみたいが、それはどけておいても、ナンリが買ってもらえない流行の少女ファッションに嫉妬してアミルに意地悪をするというのは、ありがちなのかもしれなかった。

「ここに班のみんなに来てもらってもいい?」
「全員、そろうかな」
「来られる子だけでもいいんじゃない? 一斉メールするよ」

 嫉妬だってするんだから、小学生もスマホを持っている。女の子のうちのどちらかがメールをし、返信が届いたらしい音が響く。僕は料理をすっかり忘れてしまっていて、ジョーイも飽きてしまったのか、僕を呼びにはこなかった。

 私立の小学校らしいが、ボーイの班の子たちは徒歩か自転車で来られる範囲に住んでいるようだ。やがて、ひとり、ふたりと小学生が、耕一くんちに集合してきた。

 もっと聞いていたいが、ばれたら怪しい奴だと思われる。僕は小学生から見たらおじさんなのだから、子どもたちの会話を盗聴でもしているヘンシツシャだと思われたら大変だ。笙、おまえは変態だったのか、とアンヌに怒られて捨てられそうな不安も湧いてきた。

 しようがないのでキッチンに戻り、料理の続きをやる。ジョーイは逃亡してしまったようで姿が見えない。小学生たちの会話が気になりつつも料理に熱中していると、キッチンの外に人の気配を感じた。

「……ああ、キミ、ボーイの弟?」
「そうだよ。きみは?」
「ボーイと同じ班の、ナンリっていうの」
「僕はジョーイ。どうかしたの?」

 応接室から抜け出してきたらしい、ナンリがキッチンの窓の下に来ていた。

 この年頃の二歳差は大きい。胡弓とジョーイの差、五歳はもう、赤ん坊と少年だが、八歳の男の子と十歳の女の子にも、おおいなるちがいがある。ジョーイにはまだ無邪気さが残っているようで、軽い調子でナンリに質問していた。

 うまい具合にここだったら、話がよく聞こえる。僕は変態じゃないからね、変な意味で気になるんじゃないからね、とアンヌに言い訳しながらこそっと覗いてみたら、ナンリとジョーイの頭が並んでいるのが見えた。

「意地悪されてるのはあたしなんだけどな……」
「誰に?」
「班の女の子たち」
「イジメ?」
「イジメってほどでもないんだけど、悪いことはなんでもナンリのせいだって言われるの。意地悪したのはアミルなのに、あたしが悪い、あやまって、って。そう言われたのは昨日だったんだよね。あたしは悪くないって言ったから……」

 あやまるのはいやだとつっぱねたから、アミルとユーアがボーイに相談しにきたらしい。やっと僕にもこの話題の内容が見えてきた。

「さっきも他の女の子たちは、うーん、ねぇえ、とかって言ってた。女の子たちはアミルとユーアが意地悪なのを知ってるから、さからわないんだよ。あたしはさからったから、ターゲットにされちゃったのもあるかな。男の子たちは、ナンリが悪いんだろ、あやまれよ、そういうときにさらっとあやまれない女って最低、だとか言うの。悔しいからあやまりたくない」
「……僕、よくわかんないよ」
「そうだろうね。だけど、聞いてもらえるだけでもいいの。あたしは絶対にあやまらないから」
「仲間外れにされない?」
「いいんだもんっ!!」

 正しいのはどっちなのか、僕にはこれだけでは判断できない。ナンリは意地っ張りな女の子で、本当に悪かったのにあやまりたくないと言い張って泣いているのか。それとも、アミルやユーアが意地悪なのか。

 むずかしいねぇ、女の子の世界は。胡弓は男に生まれてよかったよね。僕はどうしても我が子に思いを馳せる。男の子は深くものごとを考えず、口のうまい女の子に言いくるめられていたらいいんだ。男の子同士は単純に、あばれたり罵り合ったりして遊んでいればいい。

 そして、将来は主夫になるといいよ、胡弓。アンヌみたいなかっこいい女性をつかまえられるといいね。

 よその子どもたちのもめごとに僕が出ていくわけにもいかない。単純な男子がちょっとだけ成長した身としては、丸く収まるといいね、と窓の下のナンリに心で話しかけることしかできなかった。

つづく

 
 
 

ガラスの靴77「離婚」

ガラスの靴

77・離婚

1・アンヌ

新製品キャンペーンのためのイベントで、あたしたち「桃源郷」は、CMソングを担当している会社のブース近くにいた。

 毎年この時期になると、各製菓会社がこぞって新製品のチョコレートを販売する。チョコレートといえばスゥイートなのが当然だが、パンチの効いたビターな大人のチョコとかいって、この会社では真っ黒なチョコレートを売り出した。我々の音楽もパンチが効いているということで、桃源郷にCMソングの依頼があったのである。

 ほぼ一斉にスタートするニューチョコレート商戦に先立ってのイベントだ。あたしたちも演奏すると決まっているので、ロッカーファッションで適当に待ち時間を過ごしていた。

「新垣アンヌさんでいらっしゃいますよね」
「そうだよ」
「はじめまして。わたくし、こういう者です」
「沖永?」

 中年の、わりあいに綺麗な女だ。彼女がくれた名刺には、あたしたちとは無関係の製菓会社の名前と、企画部第二課長、沖永夕子の名前があった。

「あたしの知り合いにも、沖永っているよ」
「そうなのですか。わりに珍しい名前ですけどね」
「そだね。けっこうかっこいい名前だよね」
「そうですよね」

 CMソングはまだテレビでは流れていないが、同じ業界の人間なのだから、沖永夕子にも聴く機会はあったのだろう。あたしの知り合いの沖永正とは別に関係もなさそうだったのでその話題は出さなかった。

「私は昔はロック少女だったんですよ。外国のロックバンドのコンサートにはよく行きました」
「最近は行かないの?」
「ロックコンサートって立ちっぱなしでしょ。ついていけません」
「おばさんの証拠だぜ」
「おばさんですもの」

 四十代だろうか。背が高くて堂々とした体格をしている。左手の薬指にはプラチナのリング。既婚者なのだろう。子どももいるのかもしれないが、彼女は音楽の話ばかりをしていた。
 もちろんあたしだってロックは好きだから、会話は盛り上がった。

「だけど、私が若くて元気だったころのロックバンドのコンサートには、もう一度行ってみたいんですよ。アンヌさんはX・レイズってごぞんじですか」
「知ってるよ。大好き」
「そうなんですか。これはまだ極秘なんですけど……」

 来日がほぼ決定的だと、夕子は声を低めた。

「うちの会社が関わるんで、チケットはどうにか……アンヌさんも行きたいですか」
「行きたいな」
「日時は未定なんですけど、アンヌさんのスケジュールは?」
「そんなもん、どうにだってするよ」
「ご一緒していただけます?」
「喜んで」

 そうやって根回ししておいて、彼女の会社の仕事もさせるつもりなのかもしれない。別会社のチョコレートのCMソングがテレビに流れるのだから、似たような仕事はできないが、そこは彼女だって承知だろう。桃源郷のイメージを損なわない仕事だったら受けてもいい。

 X・レイズはデビュー四十年になるというのだから、現役真っ只中の黄金時代はあたしだってリアルタイムでは知らない。何度も解散したり再結成したりしているものの、オリジナルメンバーがひとりも欠けずにそのままなのは稀有な例だろう。

 七十歳近くになるじいさんバンドが、四十周年を記念してまたまた再結成し、ニューアルバムを出し、世界ツアーもやるという。X・レイズの生演奏は二年ほど前に仕事でロンドンに行ったときに聴いているから、まったく衰えていないのも知っていた。

 来日は二十年ぶりくらいだろうから、プラチナチケットになると予想される。それを夕子が手に入れてくれるというのならば、万難を排して駆けつける。仕事だってやってやろうじゃないか。


2・笙

 新しいデジタルウォークマンがほしくて、息子の胡弓を母に預けて電気屋さんにやってきた。ここはアンヌたち桃源郷が所属するCDレーベルの本社ビル近くだ。誰かに会うかもしれないと想像していたら、あまり会いたくないおじさんが店に入ってきた。

「やぁ、笙くん、主夫が出歩いてていいのかね」
「いいんだよ」

 主夫と大きな声で言わないで、と止めてほしいのかもしれないが、僕は周りのひとに奇異な目で見られても平気だ。案の定、近くにいた老人が、シュフ? この男が? という目を僕に向けていたが、無視した。

「沖永さんはなにしにきたの?」
「僕はひとり暮らしだから、食洗器を買おうかと思ってね」
「持ってないの?」
「贅沢な気がして買ってなかったんだよ。笙くんちにはあるの?」
「あるよ」
「専業主夫のくせに、手抜きしてるとバチが当たるぞ」

 ほっといて、と舌を出して、僕は僕の見たいものを眺める。
 沖永正、桃源郷のCDやDVDを出している会社の事務職員だ。なんの仕事をしているのかを僕は詳しくは知らないが、事務系なので音楽業界人種というのでもない。五十代のでっぷりしたおじさんだ。

「そういえば、アンヌが沖永さんっていう女性に会ったんだって」
「へぇ。親戚かな」
「名刺があるよ」

 おおざっぱなアンヌは、よその方からもらった名刺を放りっぱなしにする。専業主夫の僕としては、その名刺をきちんと整理整頓するのも仕事だ。ちゃんとホルダーに入れておかないとあとでアンヌに叱られるのだが、今回は忘れて財布に入れたままだった。

「このひと……知ってる? むこうは知らないようだったってか、そんな話はしなかったらしいけどね」
「沖永……夕子……YS製菓? おいおい、この女、僕の元妻だよ」
「ええ、ほんと?」

 なぜか急ににやにやしはじめた沖永さんに、お茶に誘われた。ランチどきはすぎているが、沖永さんは管理職らしいから、少々さぼっていても誰にも怒られないのだろう。僕も彼の話を聞きたくて、ウォークマンは後回しにしてカフェに移動した。

「沖永さん、知らなかったの?」
「前の妻からは養育費をふんだくられてるから知ってるけど、その前の妻は知らないな。夕子との間には子どもはいなかったからね」

 バツイチかと思っていたら、このオヤジはバツニだったらしい。こんなのでももてるのか、一度も結婚したこともない男は腹が立つかもしれない。

「結婚するときには、僕の姓になるのはいやだってごねたくせに、旧姓に戻してないんだ」
「結婚してるみたいだってアンヌは言ってたよ。沖永さんっていう別人と結婚したとか?」
「そんな偶然はないだろ。あいつ、僕に未練があるんだなぁ。意外に可愛いね。どうやってアンヌさんと知り合ったって?」

 イベント会場でむこうから話しかけてきたというエピソードを口にすると、沖永さんはますますにやついた。

「そっか。アンヌさんが僕と関わりがあると知ってのことだな。もうちょっと待ってみよう。むこうから接触してくるかもしれない」
「……嬉しいの?」
「嬉しくはないよ。過去すぎて迷惑だけど、僕に未練があって結婚していたときの苗字を変えてないだなんて、けなげってか不憫ってか……情にほだされるじゃないか」

 離婚しても女性は必ずしも旧姓に戻さなくてもいいというのは聞いたことがあったが、そうされた男は嬉しいものなのか。沖永さんは明らかにやにさがって、夕子と結婚していたころには……と、そのころの話をだらだらと続けていた。


3・アンヌ

 半分は忘れてしまっていた沖永夕子から電話があったのは、X・レイズの来日が中止になったとの報告だった。

「そっか。残念」
「すみません」
「あんたのせいじゃないだろ。あ、そうそう、この前は聞かなかったんだけど、沖永正って知ってる?」
「……TKO企画の? あ、ああ、桃源郷ってあの会社からCDを出してるんですよね」

 これはたった今、思い当ったのだろう。そうかそうか、と呟いているのは、沖永正を知っているからに相違ないようだった。

「今となったらなつかしい名前ですね」
「あんたってその沖永の苗字は、あいつと結婚してたころのまんま?」
「そうなんですよ。私が今の会社に入ったのは、沖永と結婚してからなんです。最初から私は沖永夕子でしたから、旧姓に戻すのも面倒で……」
「ああ、そういうことね」

 あのおっさんに会った笙が夕子について話し、おっさんが自分にばかり都合のいい解釈をしていたとは、言う必要もないだろう。

「結婚してるんじゃないの?」
「私ですか? ああ、この指輪? うぬぼれてるって言われるかもしれないけど、虫よけですよ。アンヌさんって沖永をごぞんじなんでしょ。あんな男と結婚して離婚してせいせいしたんですから、二度と結婚なんかしません」
「わかるけどね」

 強がっているようにもないが、沖永に真相を話してやったら、彼はどんな反応を示すのだろう。僕に未練があるから再婚もしないのか、かわいそうに、だとか言いかねない奴だ。
 こうして男と女の思惑は食い違う。離婚なんて面倒だからあたしはしたくないけど、絶対にしないと言うと笙が図に乗るから、いい加減しないと捨てるぞ、って台詞は切り札として取っておくつもりだ。

つづく

 

 


ガラスの靴76「掃除」

ガラスの靴

     76・掃除


 婚活は金になるから、我々もその業界でビジネスをはじめよう。
 そんな考えを持つ人間が続々と出てくるのが当然なくらい、婚活流行りである。このカップルも婚活パーティで知り合って結婚したのだそうだから、これはいける、と踏んだのだろう。

 田中弘雄、秀子の三十代カップル。ともに地味でだっさいタイプで、妻のアンヌの職業柄、音楽業界人の知り合いが多い僕の世界には、やや珍しい人種だ。

 ごく普通の会社員であるふたりは、婚活会社を起業しようと画策中。サクラというのか、それだったら僕でなくてもバーチャルな人格を作ればいいんじゃない? とでもいうのか、として僕を雇いたいと言うので、僕としても興味はあった。

 アンヌのバンドメンバー、吉丸さんの事実婚の妻、ただし男、僕のパパ友である美知敏、通称ミチは昔、婚活会社でサクラのバイトをしていたのだそうだ。そのころにミチが田中夫婦と知り合い、彼もまたふたりの仕事に誘われている。

 起業は企画段階だから、僕としてもそれほど真剣に考えてはいない。あの話、どうなったのかな、まとまらないのかな、程度に考えていたころ、ミチに誘われて田中家に遊びにいくことになった。

「まだ決まってはいないのよ。私たちも仕事がけっこう忙しくて、次の仕事のことを考えてる時間がないの。だけど、ミチくんと笙くんを見てるとそれだけでも目の保養になるし、ふたりとも主夫でしょ? おいしいものを作ってくれるんじゃないかと期待して呼んだのもあるのよ」
「あ、ああ、作りましょうか」
「作ってもいいけどね」

 食材はあるというので、ミチとふたりでキッチン入って、なにを作ろうかと相談していた。

「僕も暇だったからいいんだけど、僕は弘雄さんや秀子さんを見てても全然楽しくないよ」
「僕も楽しくはないけど、バイトの話もちょっとは聞けるんじゃないのかな」
「どうだろ。あんなの、言ってるだけなんじゃない?」

 実の息子である僕の胡弓、継子であるミチの来闇は、僕の母が僕のマンションに来て預かってくれている。
 昔の主婦は現代のママたちみたいぴりぴりしていなくて、時には友達同士で子どもの預かりっこをしたのだそうだ。さらに昔、僕の祖母世代だと赤ん坊が寝ている間に買い物に出かけたという。ほったらかしにされた赤ん坊が起きて泣き出すと、勝手に近所のおばさんが家に入り込んであやしてくれたそうなのだから、びっくりだ。

 そんな世代の主婦だから、母は気軽にライアンだって預かってくれる。ベテラン主婦に預けると安心だとミチがお世辞を言ってくれ、大好きな幼児たちと触れ合えるのだから、母はご機嫌だった。

 そうやって遊びに出かけてきたのに、よそのうちでまで主夫の仕事かよ。ミチが文句を言いたがるのももっともだが、僕はこうしてよそのうちのキッチンで、ミチと料理を作るのは楽しくなくもない。ミチは僕ほど主夫として熟練していないので、料理のコツを教えてあげていた。

「ただいまぁ、笙くんとミチくんが来てるんだね」
「お帰り。そうよ。今日だったら弘雄くんも早く帰るって言ってたから、来てもらったの」
「なんか作ってくれてるの? お、掃除したんだ」
「気がつくだけいいほうだね」

 声だけが聞こえて顔は見えないせいか、秀子さんの口調がイヤミっぽいのも感じ取れた。

「お客が来るから?」
「そういうわけではなくて、あなたがちっともしないから」
「するって言ってるじゃないか」
「しないじゃないのよ。日曜日には必ずするって約束したくせに、仕事に行っちゃったじゃないの」
「まだそれほど汚れてもいなかっただろ」
「汚れてました」
「たいしたことないから、土曜日までほっといても平気かなって」
「平気じゃないわよ」

 この家には子どもはいないのもあって、こういう夫婦喧嘩はありがちかもしれない。我が家には三歳児がいるので、あまりにも埃っぽかったりすると子どもによくないかと僕は一生懸命掃除している。二、三日さぼることはあるが、その程度だとアンヌは気にしない。

 さほどに几帳面ではない僕と、かなり大雑把なアンヌだから、我が家は多少の家事の手抜きは問題にならない。両方が几帳面だったら、両方できちんとするだろう。

 問題なのは田中さんちのように、そのくらいどうってことない、と思うほうと、どうってことある、と思うほうに分かれる夫婦だ。ふたりの約束によると、掃除は弘雄さんの役割らしいのに、なんだかんだと逃げて彼はさぼってばかりいる。それで秀子さんが怒っているらしい。

「だけど、掃除したんだろ。よしよし、えらいえらい」
「弘雄くんにそうやってえらそうに言われる筋合いはないのよ。生活費は半々出してるんだからね」
「わかってるよ。起業したらもっと楽させてあげるからね」
「それだって口ばっかり」

 やはり起業は口ばかりらしい。隣の部屋の会話が気になるので、ミチと僕は黙って料理を作っていた。

「起業したって私は楽になんかならないでしょ。弘雄くんがそんななんだから、私ばっかり苦労するんじゃないの?」
「そんなことないって。ああ、やっぱ部屋が片付いてると気持ちいいね。掃除、ご苦労さま」
「掃除なんかしてないわよ」
「……え? まさか、掃除まで笙くんとミチくんにさせたの?」
「ちがいます。ハウスクリーニングサービスに頼んだの」
「……そか」

 なぜか弘雄くんはがっかりしたような声を出し、着替えてくるよ、と言って別室に行ったようだった。
 
「笙くん、味つけ、どう?」
「ああ、うん……えーと、ちょっと甘みが足りないかな」
「みりんを足そうか」

 甘みは先につけておかないと、あとだと効きにくいんだよ、なんて主夫の会話をしつつ、根菜煮を作る。子どものころに母が作ってくれたこの料理は嫌いだったけど、身体にはいいんだ。主夫になり父になると、こういうのもおいしく感じるようになってきた。

「……なんだかね」
「ああ、お帰りなさい、弘雄さん」
 
 振り向くと、普段着に着替えた弘雄さんが立っていた。

「どうしたの? お疲れ?」
「あの台詞は女を下げるよね」
「女を下げる?」
「掃除をしたのは掃除の会社だって、秀子さんの台詞だよ」

 がっかりしたようだったのは、お金を使って掃除をしてもらったから? ミチが尋ねた。

「贅沢だって?」
「いや、まあ、秀子さんだって働いてるんだから、贅沢だとは言わないけどね……」
「だったらなんだよ?」
「家事代行ってのは主婦としてはいかがなものかと……秀子さんだって働いてるとはいえ、主婦なのもまちがいないだろ。僕と結婚した以上は秀子さんは主婦なわけで……たかが掃除に人を頼むとは、いやはやなんとも……いいんだけどね」

 横目でちらっと僕を見てから、ミチが言った。

「だったらどうしたいの?」
「僕がするって言ってるんだから、待っててくれればいいのに」
「しなかったんでしょ」
「忙しいんだよ」
「秀子さんだって仕事も忙しいんじゃないの?」
「そりゃそうだけど……」

 もごもご呟いている弘雄さんに、僕も言った。

「女を下げるって、そうすると、夫に家事を分担させるなんてのも、主婦としては女を下げる行為なんだよね」
「正直言えばそうだね。家事なんて仕事の合間にちゃっちゃっとすませて、僕が帰ったらおいしい料理ができている。男のひとに掃除をさせるなんて、主婦の名折れだわ、と爽やかに笑ってみせる。理想を言えばそれだなぁ。おっと、奥さんには内緒だよ」

 隣の部屋には秀子さんはいないのか、しんとした気配だけが伝わってきていた。

「そうじゃなかったら結婚した値打もないな、ってのが男の本音なんだよ、きみたちだって男なんだからわかるだろ。……ん? あ?」

 はっとした顔をしたのは、今ごろ気がついたのか。笙も僕も世間一般のステロタイプな「男」ではない。男同士の内緒話ができる相手ではないと知らなかった?

「僕ら、主夫だから」
「専業だから、奥さんには家事はさせないけどね」
「女性の主婦の気持ちもすごくよくわかるんだよね」
「まして働く主婦だろ、秀子さんは」
「旦那の本音を聞いたら、鼻白むっていうの?」
「それだけですむかな」
「離婚とか?」

 そ、そ、それは……あの、その、あの、とうろたえている弘雄さんの、青ざめた顔を見ていると楽しい。僕ら主夫にも日ごろのストレスはおおいにあるのだから、弘雄さんを苛めて発散させてもらおう。

つづく

ガラスの靴75「別居」

ガラスの靴

    75・別居

 飲みにいって知り合ったひとも、もとからの知り合いもうちに連れて帰ってくるのは、酔っ払いアンヌの癖というか趣味というか。それだけ夫の僕を自慢に思っていて見せびらかしたいのだろうから、僕はいつだってお客を歓待してあげていた。

「女は美佐、男は哲夫」
「夫婦? カップル?」

 三十代同士、お似合いのふたりにも見える男女はそろって頭を横に振り、美佐さんのほうが言った。

「飲み屋で会ったのよ。ふたりともアンヌさんのファンだからってだけで、縁もゆかりもない同士よ。ね、哲夫くん?」
「そうですね」
「ただ、共通点はあるの。だからアンヌさんが、お宅に寄っていけって誘ってくれたのよ」
「いやぁ、アンヌさんって豪快な女性ですよね」
「ほんとほんと」

 豪快な妻なのは事実だ。アンヌにとっても自分のファンだというだけで、知り合いではなかった男女を簡単にうちに連れてくる。アンヌは意外に単純で、そういった相手が僕ら家族に危害を加えるとは想像もしていないのだろう。いやいや、僕もアンヌの人を見る目を信じよう。

 共通点とはなんなのか、美佐さんと哲夫さんは互いの職業も知らないという。アンヌはバスルームに消え、僕はふたりのためにおつまみを作ってあげていた。

「正直に言っちゃいなさいよ」
「信用してもらえないからね」
「どうせ私と同じ理由でしょ」
「そう言われるに決まってるから言いたくないんだよ」
「そう言うに決まってるじゃない。それしかないんだもの」
「たから言いたくないんだって」

 押し問答しているのはなんについて? 酔客には好評な餃子の皮の包み揚げやスティックサラダを出し、僕もふたりのむかいにすわった。

「アンヌさんには子どもがいるのよね」
「いるよ。とっくに寝てるし、このマンションは広いから、ちょっとくらい喋ってても大丈夫だけどね」
「アンヌさん、えらいよね。専業主夫だなんてごくつぶし養うなんて、私にはとうていできないわ」
「アンヌはえらいよ」

 ごくつぶし……酔っぱらっているのだろうから、暴言は大目に見てあげよう。哲夫さんも苦笑いしていた。

「笙くんは私たちの共通点をなんだと思う?」
「三十代……なんてのは普通すぎるよね。三十代の人間は石を投げたら当たるくらい世間にはいっぱいいそうだもんね」
「私が三十代に見える?」
「見えるよ。三十五くらいかな?」

 そんなこと言われたのはじめて、いつも二十代かと言われるのに……と美佐さんはぶつくさ言っている。僕は若作り女性の年齢を言い当てるのは得意なのだ。

「私はね……あ、煙草、駄目?」
「子どもがいるから遠慮してね。吸いたいんだったら外に出て下さい」

 そう言うと哲夫くんも残念そうな顔をしたので、共通点は煙草かと思ったのだが、ちがった。

「私んちはお決まりの浮気よ」
「浮気ってよくあるんだよね」
「ほんと、浮気したいんだったら結婚するなって話よね。哲夫くんとこもそうなんでしょ」
「うちはちがうって」

 信じていない顔をして、美佐さんは火をつけていない煙草をもてあそんでいた。

「ばれるはずがないと迂闊にも信じていたけれど、ばれてしまった。ばれたものだから相手の配偶者にいきなりメールした。仕事の関係者だったから、浮気相手のアドレスもその配偶者のアドレスも知ってたのよ。そんな手軽なところで浮気すんなって話よね」
「まったくね」

 ロックミュージシャンなんて人種は特に貞操観念がゆるいようで、アンヌの仲間には浮気男はごまんといる。僕の脳裏にもいくつもの男の顔が浮かんでいた。

「私は音楽関係ではないんだけど、うちの業界もゆるいほうだね。世界が狭くもあるの。あいつとこいつは知り合いで、彼と彼女は夫婦で、別の彼と彼女は不倫中で、なんて話がころがってるから、浮気だってハードルが低いのよ。だけど、いきなり相手の配偶者にメールするってのはルール違反だな」
「あなたが旦那の浮気相手の奥さんに……」
「ちがうよ。逆だよ」
「は?」

 するとつまり、美佐さんが浮気をしたってことか?
 世の中の専業主婦にも不倫をしているひとは大勢いるらしい。不倫願望のある主婦はさらに多く、売春のアルバイトをしている主婦もけっこういるらしい。僕の知り合いにもいなくはない。

 けしからんなぁ、僕を見習えよ、アンヌ一筋の貞淑な主夫である僕はそう思うわけだが、働く主婦であるらしい美佐さんはけろっとしていた。

「それで別居中なのよ」
「美佐さんと哲夫さんの共通点って……」
「そう、別居」
「美佐さん、子どもはいないの?」
「いるんだけど、旦那が言うんだ。あなたのような不潔な女性を、僕の子と触れ合わせたくない、出ていって下さい、娘は僕が育てます、だって。やれるもんならやってみな。そのうち音をあげるに決まってんのよ」

 不敵に笑う美佐さんを見て、彼女の娘さんを不憫に思う。胡弓は僕がパパでよかったね。

「私はあけすけに話したんだから、哲夫くんも言いなよ」
「ちょっと似てはいるんだけどね……」

 ある日、哲夫くんは取引先の女性社長にパソコンを見せられた。あなたの奥さんからこんなメールが来たのよ、苦笑交じりに言われて見てみると。

「あなたは私の夫にセクハラをしていますね。あなたに迫られて私の夫は迷惑しています。私の夫はあなたのような太った中年女性にはなんの関心もありませんから、勘違いしないで下さい。
 早急にセクハラをやめないと訴えますから」

 ははーん、と美佐さんは笑った。

「似てるって、やっぱりそうじゃない。その太ったおばさんと不倫してたんでしょ?」
「してないよ。純粋に仕事の関係だ。その社長とふたりきりではないけれど、イベントのときなんかには一緒に現場で徹夜仕事をしたり、泊まり込んでの仕事をしたりもしていたんだ。社長は僕を買ってくれてるから、仕事のメールをよこしたりもした。たまにはジョークが混じったメールだの、電話だのが、家にいるときに僕のケータイに入ってきた。妻はそれをいやがってはいたんだけど、仕事だからね」
「ウソォ」

 まるっきり信じていない顔で、美佐くんは哲夫さんをつついた。

「妻の勘は鋭いのよ。なにかあったからそんなメールをしたんでしょ?」
「なにもないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」

 見つめ合う哲夫と美佐。美佐は低い声で言った。

「そしたら、今までに別の女と浮気をしたとか……?」
「してないって。僕は仕事が忙しいんだから、浮気してる暇なんかないんだよ」
「私だって仕事は忙しいけど、家事に育児もやって、浮気だってしたわよぉだ」
「僕は美佐さんほどのバイタリティはないんだよ」

 要はこのふたりの共通点は、配偶者と別居中ってことだった。美佐さんは夫に家を追い出され、哲夫くんは奥さんがうるさいので家を出てきたという。そろってほっと息を吐いてから、哲夫くんが言った。

「僕は独身のときにも親と同居してたんだ。大学も親元から通ってたから、ひとり暮らしの経験はなかったんだよね。なんかこう、こうしてひとりになるとのびのびするな。今夜みたいに飲みにいって遅くなっても、帰ったら妻が怒ってるんだろうなって気を遣わなくてもいいし、帰ったら子どもが泣いていたりして、こっちが寝られないってこともないし」
「そうよねぇ、私もそう思う。ひとり暮らしっていいよね」
「癖になりそうだよね」

 あんたたちは人の親だろ、子どもに会いたくないのか、と怒りたくなっている僕をよそに、美佐さんと哲夫くんは再び見つめ合う。見つめ合って微笑み合って、どちらからともなく立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ」
「そうね、そろそろ」

 アンヌがいないのなんか気にも留めていない様子で、ふたりは仲良く寄り添って出ていった。どこかで飲み直そうか、なんて声が聞こえていた。

「アンヌ、あのふたり、もしかしたらそうなるんじゃないの? 哲夫くんはほんとは浮気はしてないのかもしれないけど、瓢箪から駒ってこのこと? アンヌ、なんであんなふたりを一緒に連れてくるんだよ。アンヌ、どこ行ったの?」

 無責任なんだから、と言いつつ、子ども部屋のドアを開けた。

「……まったくもう」

 お客を連れてきておいて僕に応対をまかせ、自分は寝てしまっているのも毎度のアンヌは、今夜も笙のベッドにもぐり込んで、気持ちよさげな寝息を立てていた。

つづく


ガラスの靴74「浴室」

ガラスの靴

74・浴室

 年末になるとネットにも神社サイトみたいなものがオープンする。各地に実在する神社のサイトとはちがう、バーチャル神社だ。

 来年は初詣に行きたいな。胡弓も三歳になったから連れていけるんじゃないだろうか。だけど、初詣って十二時になった瞬間に行くんだっけ? それだとおねむの胡弓には無理かな。眠くてぐずったりしたら僕が抱いて歩かなくてはいけない。ベビーカーに乗せるには胡弓は大きすぎるから。

 母に預けていくか、元日の昼間にずらすか。あ、アンヌは休めるのかな?
 などと考えながらも、胡弓がお昼寝をしている時間にはネット神社めぐりをしていた。ネット絵馬に願い事を書いているひともいて、それらを盗み読むのも面白かった。

 面白かったので、夕食をすませて胡弓をベッドに入れてからも続きをやっていて、発見したものがあった。僕は深夜に帰宅したアンヌにパソコンを見せた。

「なんなんだよ、あたしは眠いんだ。メシもいらないから寝るって」
「アンヌ、これ、どういうこと?」
「どれ?」

 文句を言い言い、アンヌが見たパソコンのディスプレイには。

「よそのサイトで新垣アンヌの書き込みを見つけちゃった。アンヌって好きな男がいるんだね」
「アンヌは結婚してて子どももいるよ」
「わっ、アンヌ、不倫してるんだ」
「さすがロッカー、不道徳だね」
「好きな男がいるって、どういう根拠で言ってんの?」

 神社サイトの掲示板に書かれた一連の書き込みは、アンヌのファンのものなのだろう。どういう根拠で? と突っ込まれたひとが、URLを書いていた。そこに飛んでみると。

「来年の抱負ってか、夢? 好きな男と旅行がしたいな。あいつは作曲をするから、ふたりで同じところで同じものを見て、あたしは詩を書くんだ。あいつと共作がしたいよ」

 そこは僕が見なかったバーチャル神社で、バーチャル絵馬が並んでいた。ミュージシャンコーナーもあって、新垣アンヌの実名入りでそんな絵馬が堂々と飾ってあったのだった。

「アホか。あたしがこんな、糖尿病には害になるみたいな書き込みをするかよ」
「糖尿病?」
「甘ったるいって意味だ。前に誰かが言ってたのが面白かったから、ぱくったんだよ」
「バクリはどうでもいいけど、アンヌが書いたんじゃないの?」

 ちげーよっ、と吐き捨てて、アンヌは寝室に行ってしまった。

 ということは、誰かがアンヌの名を騙ったのか。アンヌには星の数ほどいる友人知人か、ファンか。アンヌはロックバンドのヴォーカリストなので、アンヌのほうは知らなくてもむこうは彼女を知っているという人間も相当数いる。

 あてずっぽうを書き込んだファンだとしても、悪意があるのかどうかもわからない。アンヌって好きな男がいるんだね、と発言した女性らしき人物だって、ハンドルネームだけしかわからない。ただのいたずらだとも考えられる。

 しかし、僕は知っている。いい機会だからはっきり聞いておこうか。アンヌはベッドに入ったわけでもなく、バスルームにいるようだから、バスタオルを持っていってあげた。

「ねぇ、アンヌ? ねぇ、アンヌったら……」
「なんだよ、聴こえねーよっ、あとにしろ」

 シャワーの音の中、アンヌの怒鳴り声が聞こえた。

「聞こえなくてもいいから聞いて。あれはアンヌが書いたんじゃないにしても、アンヌには好きな男がいるんだよね。僕は作曲なんかできないんだから、あれが笙じゃないのはわかってる。アンヌに好きな男がいるのもわかってる。僕なんかは平凡な主夫で、アンヌにおいしいものを作ってあげるのと、胡弓を育てる以外にはなんにもできないもんね」

 お弁当を作って持っていってあげたら、あたしの仕事場にのこのこ来るな、と怒られた。
 息子は時々母に預け、僕はひとりでけっこう出歩いている。家事も育児も完璧ではない駄目主夫だ。

「そんな僕なのに、アンヌは寛大だよね。僕が無駄遣いをしても許してくれる。掃除をさぼっても、デパートでおかずを買ってきても、今夜は外で食べようよっておねだりしても、あれ買ってってお願いしても、たいていは聞いてくれる。僕はアルバイトもしなくていいくらいに稼いできてくれて、楽をさせてくれる。僕はそんなアンヌに感謝してるよ」

 なのだから、誰のおかげでのうのうと主夫がやれてるんだよっ、と昭和の亭主関白みたいなことを言われても、切れて喧嘩になったりはしない。ぐっと耐えている。

「僕なんかはなにもできない、若くて顔がいいのだけがとりえだって言われてもしようがないと思うよ。ジムにもちゃんと行ってないけど、そのかわり、胡弓とふたりでトレーニングしてるんだ。ちょっとだけおなかが出てきてたのも引っ込んだでしょ。僕は胡弓のためにはいいパパで、アンヌのためには綺麗な笙でいようと努力してるんだ。子育ては手抜きしてないからね」

 手抜きがしたいときには母が協力してくれるから、胡弓はまともに育っている。駄々をこねたりしたときに、パパ嫌い、ママはもっと嫌い、おばあちゃーん、と泣く以外は、愛しい息子だ。
 トレーニングも胡弓とやっているのだから遊び半分だが、ジムに行くと主婦が主夫の僕にからんでくるからいやなのだ。心で言い訳もしつつ、僕は続けた。

「だけど、ロックスターの奥さんとはつりあいの取れない、つまんない夫だって自覚はしてるよ。自覚なんて言葉だって、アンヌが教えてくれたから身についたんだよね。僕はアンヌのおかげで進歩だってした。いろんな経験をさせてもらってるのも、アンヌが広い世界を見せてくれるからだ。僕が独身だったとしたら、まるでつまんない毎日だったはずだよ」

 バスルームの中は静かになっている。アンヌは聞いているのか、湯船につかってでもいるのか。

「だから僕はアンヌを愛してる。ううん、だからってわけでもなくて、アンヌはアンヌだから愛してる。前にアンヌが、僕のためにってよその夫婦ととりかえっこして楽しもうとしたでしょ。あんなのだったらいいんだよね。僕はいやだったけど、アンヌが遊びでよその男をつまみ食いするってんだったら、僕はかまわないよ。ってか、僕には駄目だって言う権利もないけどね」

 うまく表現できないから、だらだら喋っている。肝心のことを言わなくちゃ。

「アンヌの愛するひと、そのひとと旅をして共作したい。歌を作りたい。あれが僕にはショックだったんだな。僕には絶対にできないことを、そのひととは共有できるんだ。身体の浮気なんかなんでもない。胡弓と僕のところに戻ってきてくれるって信じていられるから、僕は平気だよ」

 平気でもないかもしれないが、僕はアンヌの夫なのだから、どっしり構えていられるはずだ。なにしろ胡弓がいるのだから、僕の主夫の座は強いはずだ。

「あたしはおまえたちには、なに不自由ない暮らしをさせてるだろ」
「ああ、アンヌ、聞いてくれてたんだね。うん、感謝してるよ」
「あたしの好きな男、知ってるのか?」
「……葉月って奴でしょ」

 パーティで会ったことのある、植物的で中性的な暗い空気をまとった男。アンヌが彼をテーマにして、「本気で恋をしたのははじめてだ」みたいな詩を書いていた。

「あたしはあいつとは寝てないよ」
「うん、信じる。でもね……うん、僕にだっているからね」
「おまえもあたし以外の女に恋をしてるのか?」

 おまえも、「も」ってことは、認めたのだ。

「僕は恋されてるの」
「……誰に?」
「浮気する気になったら簡単だよ。彼女はアンヌが僕を虐げてるって信じてて、あなたの魔の手から僕を救い出したいって言ってるんだもの。彼女の腕の中に逃げ込むことはいつでもできるんだ」
「……やりたいのか」

 だんだんとアンヌの声がとがってきて、僕はぞくぞくしてきた。

「やりたいって言ったら怒る?」
「怒ってもしようがないかな。恋心ってのはてめえではどうにもならないんだよ。あたしは葉月を好きな気持ちを消すつもりもないし、葉月のほうはあたしに真剣になる気はさらさらなさそうだから、寝ることはあるかもしれない。でも、それだけだよ。おまえは?」

 蘭々ちゃんは僕を真人間にしたいと言っていた。真人間、すなわち働く男だ。僕はそんなのはまっぴらだから、アンヌと離婚して蘭々ちゃんに走るつもりはないけれど、彼女と寝るだけだったらできそうだった。

「あのバーチャル絵馬、うまくあたしの気持ちを言い当ててたな。誰が書いたんだろ」
「アンヌのことをよく知ってるひと?」
「かもな」

 桃源郷のメンバーだとか、仕事仲間だとか、アンヌが打ち明け話をする女友達だとか、もしかしたら葉月自身だとか? うまく言い当てている? アンヌのその気持ちが、僕にはもっともつらいのに。

「あたしも浮気をするかもしれないんだから、身体の浮気だったらおまえもしてもいいよ」
「離婚はしないの?」
「胡弓のためにはしたくないな。でも、絶対にしないとは言い切れない。あたしがそんな約束をしたら、おまえが図に乗るだろ」
「アンヌ、捨てないで」

 バーカ、と笑ってから、アンヌはなにやら呟いている。うむむ、腹が立ってきたぞ、と言っているのはなにに対してなのだろう? 妬けるからだったら最高に嬉しいのに。

「笙、入ってこい」
「怒ってるの?」
「うるせえ。いいから入ってこい」
「服を脱いで?」
「風呂に入るんだから当たり前だろ」
「……はい」

 入っていくとなにが起きるのか。アンヌとふたりでお風呂に入った経験はあるが、今夜は特別にどきどきする。顔を見ないで本音をぶちまけて、そのあとでバスルームで……ポルノ映画みたいだ。

 素直に服を脱いでアンヌの命令に従う。目を閉じてアンヌに歩み寄っていくと、乱暴に抱き寄せられる。これからはじまるなにごとかは、いつもと同じようでいて同じではない。めくるめくひとときになりそうだった。

つづく


 

ガラスの靴73「自慢」

「ガラスの靴」

     73・自慢

「胡弓、熱があるみたいなんだよ。微熱だし、元気があるから大丈夫だと思うけど、僕は今夜は行けないな」
「そうか。医者には連れていったのか?」
「いったよ。今夜はあったかくして早く眠りなさいって言われた」

 電話で笙が言っていたから、今夜のパーティにはひとりで出席した。息子が熱を出して寝ているなんて言ったら、なのに母親がパーティに? と非難したがる輩もいる。これはあたしの仕事だ。うるさい奴には胡弓の話などはせず、あたしも早めに帰ろうかとは思っていた。

「あら、久しぶり」
「ああ……深雪だっけ」
「アンヌさんよね。今夜は専業主夫のご主人は?」
「用事があってこられないんだよ。あんたのフランス人のご主人は?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」

 多彩な異業種人種が集まるパーティだから、あたしのような音楽人も、深雪のような創作系アーティストも来ている。彼女はインテリアデザイナーだと言っていたはずだ。専業主夫と笙のことをイヤミったらしく言うので、あたしもフランス人夫ってのをイヤミに強調しておいた。

 どこかの酒場で共通の知り合いに紹介されたときに、知り合いは深雪とほのかとあたしとを、トンデル女だと評した。知り合いはバブルオヤジなので、ださい言い回しが好きなのだ。

 三児の母、家事と育児は他人に託し、優雅に働いて未婚の母をやっている通訳のほのか。優雅だなどと言うと怒る女もいるが、ほのかは、そうね、私は収入もいいし余裕もあるし、優雅よ、としゃらっと笑う。

 インテリアデザイナーでフランス人の夫を持つ深雪、彼女に関してはその程度しか知らないが、バブルオヤジから見ればトンデイルのだろう。

 そしてあたしは、専業主夫と三歳の息子を抱えるロックヴォーカリスト。あたしは決して優雅ではないが、多少はトンデイルかもしれない。息子が熱を出して家で寝ていたら、普通は母親がそばについているものなのかもしれないから。

 こんなときに笙にまかせておけるのは、あいつを専業主夫にした価値があったってもんだな、なんて思いつつ、深雪と飲んだり食ったりしながら談笑していた。

「今夜はほのかさんは来ないのかしら」
「さあね。ほのかはアーティストってんじゃないから、来ないかもしれないな」
「ほのかさんもアンヌさんも細いよねぇ。ほのかさんってあまり食べないみたいだけど、アンヌさんはよく食べるのに……」
「あたしは肉体労働者だからさ」
「ロックやるひとって活動量がすごいのよね」
 
 この女こそが本当に優雅で、それが肉体にもあらわれている。長身で豊満。ほのかもあたしも背は高いほうだが、ふたりともに細いのがうらやましいのか? ほのかは華奢で、あたしは筋肉質のほうだ。肉体には生活があらわれる。

「フランス人の旦那ってのは美食家なわけ?」
「そうね」
「料理は得意?」
「私が? 苦手ではないけど、私の仕事ではないから気が向いたときしかしないな」
「外食ばっか?」
「そうでもないわ。主人も料理はするし、おいしいものが食べたくなったら料理人を雇うの」

 ほぉ、これはちょいとスケールがちがう。ほのかは家政婦だったら雇っているが、料理人の話をしていたことはない。ほのかの家には小さいのが三人いるから、ホームパーティもしないようだ。
 我が家では料理は笙の仕事。笙がさぼりたいときにはデパ地下の惣菜を買ってきたり、母親に作ってもらったりしている。うまいものが食いたいときには外食もするが、料理人を雇う発想はなかった。

「あの……ミユキ・アルファンさんですよね」
「ええ、さようですわよ」

 そういえばさっきから、この女は近くにいた。深雪とあたしの会話に聞き耳を立てていたようで、我慢できなくなって割って入ってきたのだろうか。

「私、こういう者です」
「はい」

 名刺をもらって一瞥だけして、深雪はそれを小さなバッグにしまう。自分は名刺も出さないのは持っていないからか。相手が彼女を知っているのだから必要ないのか。
 細くて背の高い女はあたしには関心なさげなので、黙って彼女が深雪に話しかけるのを見ていた。

「ご主人はプロデューサーでしたっけ」
「ええ、そうですよ」
「ムッシュ・アルファン、お会いしたことはあります。美食家にしたらやせ形ですよね」
「そうね」

 表面は愛想良くしているが、知り合いでもない相手と本気で話したいわけないだろ、の態度がミエミエだ。深雪の態度に苛立ってきたのか、女の表情が変化してきていた。

「ご主人、かっこいいですよね」
「ありがとうございます」
「おもてになるでしょ」
「どうかしら」
「あれだけの男性なんですもの。若くてスタイルのいい女と恋をするのも全然大丈夫なんじゃありません? すこしダイエットしないと危険かも」
「ご忠告感謝しますわ」

 白々しくも深雪は礼を言い、あたしも言った。

「あんたみたいに細い女が好きな男ばかりとは限らないよな。あんた、なんて名前?」
「心愛です」
「ココア。こりゃまた流行りの名前だな。本名?」
「そうですよ」

 おまえは何者だ、という目であたしを見る女は、桃源郷のヴォーカリスト、新垣アンヌを知らないのだろう。あたしも心愛が何者なのかどうでもいいし、自己紹介する気もなかった。

「深雪って悩みはないのか」
「私? そりゃああるわよ」
「どんな悩み?」
「たとえば、子どものこととか」

 ほえ? 深雪にも子どもがいるのか。まったく生活感のない女なので、不思議でもないはずの事実が不思議に思えた。ほのかにしてもあたしにしても生活感はないほうだが、深雪ほどではない。

「子どもがいるっていうより、子どもができないとか?」
「子どもはいるわよ。息子がひとりいるの。六歳で、来年は小学生になるのね。日本で暮らしてるんだから日本の小学校に通わせようと思って、近くの私立の小学校を受験させて合格したのよ」
「それはそれは」

 息子の話をしていると、深雪も母親の顔になった。

「私立とはいえ自由な校風だから、制服はないの。持ち物にも決まりなんかはないのよ。主人も私もそこが気に入ったっていうのもあるんだけど、子どもの世界って意外と保守的なのよね」
「それはあるかな」

 うちの胡弓は父親に似てひとかけらも男らしくない男の子なので、同世代の女の子に、もっと男らしくしろ、などと怒られている。たまにそんなシーンを目撃すると、あたしは暗澹とした気分になるのである。

「みんな同じがいいって言う子、多いのよ。それが悩み」
「そんなのは深雪が嫌いだから?」
「そうね。私は子どものころから、みんな同じはいやだったわ。デザイナーになりたくて感性を磨いたんだから、人と同じには育たなかった。それで日本ではやりにくくて、フランスに逃亡したってのもあるのよね。主人はフランス人だからもちろん、日本人みたいな横並びの感覚は持ってない。息子も親の影響で、他人とはちがったものをほしがる。女の子用の小物のほうが男の子用よりはおしゃれだし、私が手作りした小物なんかも、おしゃれだと女の子っぽくなるのよね」

 それを友達にからかわれたり、女みたいだと言われたりするのだそうだ。それが悩みなのよ、と深雪はため息をついた。

「私としては、みんなとちがってどこがいけないの? って思うのよ。主人も私に同意してるし、息子もやはり、クリエィティヴな両親から生まれただけに、僕は人とはちがったところがいいんだって思ってるの。でも、子どもの世界では生きづらいわけ」
「うちの息子はまだそこまでは考えてないだろうけど、大きくなってくるとあるのかな」
「あるかもしれないわ。だからね。やっぱり息子はインターナショナルスクールに入れるべきか、あるいは、フランスで学校に行かせようかって、それがいちばんの悩みね」

 この夫婦は浮気公認というわけではなく、互いの浮気に嫉妬しつつ、それを夫婦のこやしにするみたいな? そんな感覚があると聞いた。俗なあたしにはわかりづらい言い分だ。
 そんな夫婦でも子どもの悩みはあるわけで、そんなことを言っているとただの人の親に見えて、あたしにはむしろ好感が持てる。だが、心愛は棘のある口調で言った。

「そんなの悩みじゃなくて、自慢ですよね」
「自慢か? まあ、深雪の台詞には自慢も入ってたけどな」
「全部自慢ですよ。失礼」

 失礼、が挨拶だったようで、心愛は長い脚で歩み去った。

「なんか怒ってたか、あいつ? 知り合いでもないんだろ」
「モデルらしいわね、彼女、もらった名刺にはモデル事務所の名前があったわ。そっかぁ、よっぽど私がうらやましいのよ」
「うらやましいから怒ってるのか?」
「彼女も実はデザイナーになりたかったんじゃない? 才能がないからモデルだなんて、つまらない仕事に甘んじてるの。本当はフランスでクリエィティヴな仕事をして、フランス人と恋愛して結婚したかったんじゃないかしら」

日本ではモデルといえば、若い女の憧れの職業だ。けれど、モデルには外見に恵まれていないとなれない。必ずしも美人ではなくてもいいのだが、洋服の似合うプロポーションと今ふうのルックスが必須。なのだから、なりたくてもなれずに諦める女も多々いる。

 よその女に羨まれる仕事をしていながら、深雪がうらやましいのか? なんたる強欲。
 それもあるが、心愛のつんけんした態度から即、私がうらやましいのだと発送する深雪もたいしたもんだ。深雪の悩みを自慢と受け取った心愛と、心愛の苛立ちを羨望ゆえと受け取った深雪。

 どっちもどっちってのか、深雪の思想のほうが精神衛生にはいいと言うのか。あ、そうか、だから心愛は痩せていて、深雪はふくよかなのだ、おそらく。

つづく

 

ガラスの靴72「物欲」

「ガラスの靴」

     72・物欲

 体験入学というのはほうぼうにあるようで、胡弓を連れて前を通りがかった幼稚園の門前にも「体験入園」の看板が立っていた。
 やってみる? うん、と父と息子のやりとりがあって、胡弓のママであるアンヌも賛成してくれたので、僕は胡弓の手を引いて幼稚園に連れていった。

 三歳から五歳くらいの幼児が集まって、先生の指導のもと、みんなで遊ぶ。まずはそこからということで、泣いたり怯えたりはしない子どもの親は、そばについていなくてもいいと言われた。

 園庭に出ていくと、ママさんたちがあっちにふたり、こっちに三人と群れて話している。両親そろって来ている人や、若い祖母なのか年を取った母なのかわからない年齢の女性もいたが、パパひとりで連れてきている人はいない。ママさんたちの輪に入っていきづらくて、僕は木陰に立っていた。

「笙くんじゃない?」
「うん? あれ?」
「そうだよね。大沢笙くんだ。私のこと、覚えてない?」
 
 どこかで会ったような記憶はあるのだが、明確には思い出せない。アンヌと同じくらいの年ごろに見える、ごく平凡な主婦といった感じの女性だった。

「小学校のときに一緒だった、林子だよ。結婚して苗字が変わったんだけど、リンコ、覚えてないかな」
「んんん……そういやぁいたかな。小学校のときなんて十年以上前だもん。よく覚えてないよ」
「笙くんって転校したんだよね。美少年だったのもあって気になってたから、それでかえって私は覚えてるんだよね」

 とすると同い年? ええ? まさか、と思ったら、同い年ではなかった。林子さんの弟が僕の同級生だったのだそうだ。

「ああ、正志だったら覚えてるよ」
「でしょ? 笙くんはうちにも遊びにきてたもんね。笙くんも結婚したの?」
「そうなんだ。僕も結婚して苗字が変わったんだよ」

 子どものころの僕は隣県に住んでいて、東京に引っ越してきたのは十歳くらいのころだった。林子さんも結婚して東京で暮らすようになったというのだから、広い東京で幼友達の姉さんにめぐり会うとは、奇遇だといえた。林子さんは主婦、僕は主夫。林子さんの娘と僕の息子は同い年だ。

「林子の娘だからこう書くの」
「瞳森? ヒトミモリ?」
「読めないの? 教養ないんだね。ま、考えてみて。笙くんの子どもは?」
「こう書くんだよ」
「胡弓……コキュウだよね。そのくらい読めるよ」

 そりゃあ、胡弓と書いてコキュウと読むのは尋常だからだ。コユミ? なんて読まれることもあるが、素直に読めばコキュウだろう。
 しかし、瞳って字の訓読みなんか知らない。いや、訓読みがヒトミ? そしたらなんだっけ。別の読み方はなんだっけ? 「瞳」を別の読み方なんかするのか?

「専門学校を卒業して、できちゃった結婚して主夫か。そういう人間だったら教養なくてもしようがないかな。降参? 教えてあげようか」
「林子さんは大学卒?」
「当たり前よ。私たちの世代で大学も出てないなんて、親の常識疑っちゃう。本人も向上心がなくて、努力もしなかった奴って印象だよね。正志は医大に行ってるんだよ」
「秀才だね」

 勝ち誇ったような顔をしている林子さんのように、人間の値打は第一に学歴だと考えるひとはよくいる。言いたい奴には言わせておくことにして、「瞳」の音読みを思い出そうとしていた。そう、音読みでは「とう」「どう」だ。瞳子と書いて「とうこ」と読む女性がいた。

「どうしん? とうもり?」
「ほんと、常識ないよね。そんな名前を女の子につける? 次に会うまでの宿題にしておくから、奥さんにも聞いてごらん。笙くん、ケータイのアドレスと電話番号交換しよう」
「あ、ああ、いいよ」

 こうやっていばられて、なんでおまえなんかと、とアンヌだったら怒りそうだが、僕は温厚を旨としているので、林子さんの言う通りにした。

「……メモリじゃないか?」
「メモリ?」
「瞳は目だろ」
「あ、そうかも。さすがアンヌ」
「しかし、メモリってのもおかしな名前だよな」

 体験入園の話をし、林子さんの話題も出し、「瞳森」の字も見せるとアンヌが答えてくれた。林子さんから電話がかかってきたときに宿題の答えを言うと、彼女はなぜか不機嫌になった。

「そんなに簡単に読まれるとつまんないな。世界中にひとつしかない名前をつけたのに」
「こんなの読めて当たり前だって言ったじゃん」
「そうなんだけど……ま、いいわ。笙くんちに遊びにいっていい? メリちゃんは体験入園で胡弓と一緒に遊んでたらしいのね。胡弓パパと友達だって言ったら、遊びにいきたいって。行くからね」
「うん、いいけどね」

 我が子はメリちゃんで、よその子は呼び捨てか。胡弓のほうは誰かと遊んだ? と尋ねても、メリちゃんだのメモリちゃんだのの名前は出さなかったが、そう言うと馬鹿にされそうで、遊びにきたいと言う林子さんにOKの返事をした。

 やっぱり笙くんの子だね、記憶力よくないね、受験のときに苦労しそう、だとか言われたくないので、林子さんとメリちゃんが遊びにきたときにも、その話題は出さずにいた。

 おばあちゃんに預けられているときも多く、おばあちゃんの友達にも可愛がってもらっている胡弓は人見知りはあまりしない。特に我が家でだと王子さまなのだから、メリちゃんにおもちゃをいっぱい貸してあげて、仲良く遊んでいた。

「メリちゃんにはおもちゃはあんまり与えてないのよ。胡弓はたくさん買ってもらいすぎだね。そんなだと我慢できない子になりそう。ほどほどにしたほうがよくない?」
「うちはお客さんも多いから、おもちゃはたくさんもらうんだよ。メリちゃんはおもちゃ、ほしがらない?」
「メリちゃんって物欲のない子なんだよね。食事はきっちり食べるけど、お菓子は嫌いなの。身体によくないものって食べさせたくないし、頭が悪くなりそうなおもちゃは与えたくない。親がそう思ってても、子どもはなんにもわからずに駄々をこねたりするじゃない」

 あれ、ほしいな、と言うとわりにすぐに買ってもらえ、堅いことは言わない僕ら夫婦だから、おやつだって好きなものを食べさせている。ほしくなくてもお客さんがおもちゃをくれたりもする。そのせいで胡弓は、あれほしい、買って買って、なんて駄々っ子になったことはないのだった。

「だけど、躾がいいせいもあるし、メリちゃんは聞き分けがよくて頭がよくて、あれほしいこれほしいなんて言わない子だってせいもあって、親の気持ちをよくわかってるのよ。こんな物欲のない子って、かえって心配なんだよね」
「ふーん」

 自慢しているのだろうから、そんなことないよ、という反応はしないでおいた。
 子どもたちは胡弓のおもちゃで仲良く遊ぶ。胡弓はなんでも気前よく貸してあげるし、メリちゃんも無茶は言わないので、お行儀よくおとなしく遊んでいる。僕は林子さんの愛娘自慢や、林子さんがバリキャリだった会社で知り合って結婚した旦那の自慢話やらを、辛抱強く聞いていた。

「あ、電話だ。ちょっと待ってね。もしもし……」

 スマホで通話をはじめた林子さんのそばから離れ、子どもたちにおやつを出してあげることにした。お菓子はやめておいたほうがいいのだろうから、果物にしよう。僕がいろんなフルーツを盛ったお皿を持って胡弓の部屋に戻ると、林子さんが言った。

「主人が届けてほしいものがあるって言うのよ。二時間くらいですむから、メリちゃんを預かってもらえないかな」
「うん、まあ、いいけどね」
「胡弓、メリちゃんと遊んで、メリちゃんを見習っていい子になるんだよ」
「メリちゃんには言わないの?」
「メリちゃんは言わなくてもわかってるから大丈夫。メリちゃん、パパんとこに行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
「胡弓も言いなさいよ」

 林子さんに命じられた胡弓が、バイバイと手を振る。メリちゃんはたしかに、三歳にすれば大人びた女の子だ。三人して林子さんを見送ると、メリちゃんが言った。

「……お菓子、ないの?」
「お菓子は食べたらいけないんじゃないの?」
「いいんだよ。ママ、いいって言ったよ」
「そうかなぁ」

 口も達者なメリちゃんだが、思ったことを的確に言葉にするのはむずかしいだろう。プリンくらいだったらいいかな? いやいや、今どきはアレルギーの子もいるんだから、独断でものを食べさせてはいけない。

「僕はママからいいって言われてないから、ママが帰ってきたら訊こうね」
「ママは駄目って言うもん。お菓子、食べたいな」
「ああ、そうなんだ。でもさ、おなかが痛くなったりしたら困るでしょ」

 あらら? 泣いてる? べそかき顔でメリちゃんが訴えた。

「ママに言ったらいやだよ」
「メリちゃんがお菓子がほしいって言ったって? 言わないよ」
「うん」

 この幼さでメリちゃんは、ママの前ではいい子にしようと必死になっているんじゃないだろうか。なんだか痛々しく思えてきた。

「これ、メリちゃんの」
「……胡弓のだよ」
「ちがうもん。これは女の子のおもちゃだから、メリちゃんのだよ」
「……んんと……うん、あげる」

 ま、いいや、とばかりに鷹揚に、胡弓はメリちゃんにおもちゃを取られるままになっている。胡弓がそんな調子だから、これもメリちゃんの、あれもメリちゃんの、と彼女はおもちゃをひとり占めする。あげくはポケットに入れているので、僕は言った。

「そんなの持って帰ったら、ママにばれちゃうよ」
「……おじちゃん、意地悪」
「胡弓、あげる?」
「うん、いいよぉ」

 父親としてはむしろ、胡弓のこの鷹揚さのほうが心配だ。メリちゃんはポケットから出した小さなマスコットを握り締めて、胡弓を睨み据える。それからそのマスコットを、力いっぱい胡弓に投げつけた。

「ほしいよ」
「……あげてもいいんだけど、ママになんて言うの?」
「ううん、いらないもん。いらないもんっ!!」

 悔しくてたまらないように叫んで、またまたメリちゃんは泣き出した。ほんとはほしいんだよね。どこが物欲がないんだか……けど、小さな子はこれが普通だろ。泣いているメリちゃんをきょとんと見てから、胡弓は彼女の背中をよしよしと撫でてやっていた。
 
 どうも林子さんの躾は歪んでるな、とは思うのだが、僕には意見なんかできっこない。胡弓までが変な影響を受けて歪まないように、あの幼稚園に入園させるのはやめておいたほうがいいか。林子さんとは距離を置いて、自衛するべきだろう。

つづく


ガラスの靴71「玄人」

「ガラスの靴」

     71・玄人

 この企画をたくらんだひとりの女と、彼女に呼び出されてやってきた三人の女。四人のうちの三人までが名前に「か」がつく。

 各々父親のちがう三人の子を未婚の母として育てている通訳、ほのか。
 キャバクラ嬢、愛花。
 「か」のつかないただひとり、仕事はなにをしているのか知らないが、常にフェロモン満開、男殺しの優衣子。この三人は独身。

 もうひとりの「か」は、夫との取り決めで浮気は公認の既婚者、デザイン事務所勤務の涼夏。彼女が今回の企てをアンヌに持ちかけた。
 その涼夏さんに連れられてきたのが、仮名、太郎。涼夏さんの取引先の社員だそうで、眉目秀麗なエリート青年だ。エリートだから仮名なのか、涼夏さんが太郎くんと呼んでいるので、みんなもそう呼んでいた。

 低く絞った音量でピアノ曲が流れている場所は、我が家のダイニングルームだ。ホームパーティだと言われて涼夏さんに連れられてきた太郎くんは、誰にも愛想よくふるまっていた。

「息子さんは今夜は……?」
「お母さんの家にいるんだ」
「ああ、そうなんですか。お母さんって胡弓くんのおばあちゃんですよね」
「そうだよ」

 四人の女性にアンヌも加えて、女性たちがこちらを見ているのを感じる。僕は接待役なのだから黒子のようなものなのだが、美女たちの視線を送られると落ち着かない。それに引き換え太郎くんは動じず、僕と世間話をしていた。

「僕の母はバリキャリでしたから、僕も祖母に預けられていることが多かったんですよ。僕への肉親の愛情は、祖母と祖父が主に注いでくれました」
「寂しかった?」
「大人が誰も愛してくれなかったら寂しかったかもしれないけど、祖父母が可愛がってくれたから満足でしたよ。僕がなに不自由なく裕福に暮らせたのは、しっかり働いてる両親のおかげだって、祖母にも言い聞かされてましたから」
「ぐれたりもしなかったんだ」
「するわけないですよ」

 男は二十代後半がいい、と言うのが涼夏さんの趣味だそうで、二十三歳の僕なんかはひよこなのだそうだ。アメリカの大学院を卒業して、広告代理店に入社したと聞く太郎くんは僕よりも年上のはずだが、誰を相手にしても敬語で話すのだった。

「あの女のひとたちの中に。好みのタイプっていないの?」
「どの方も綺麗で、好きですよ」
「特別に誰かとつきあいたくない?」
「いえ、別に」

 彼女のフェロモンにはどの男も一発で降参して、彼女がいようが妻がいようが、バツニバツ三であろうが、なびかない者はない、との評判を持つのが優衣子さんだ。彼女はそれとなく太郎くんにアプローチしていたが、するっとかわされていた。

「笙くんも太郎くんも実は……」
「そうかもしれないね」

 実は……なんと言ったのかは知らないが、男を侮辱するフレーズだったにちがいない。僕はこの世では少数派の、優衣子さんのフェロモンにやられない男。それでも僕は優衣子さんの胸の谷間などを見るとどきっとするが、太郎くんはなんにも感じていないようだ。

 気に食わない顔の優衣子さんに話しかけられたのは涼夏さんで、彼女は太郎くんと遊びの恋がしたくて誘いをかけたのだそうだ。そして、言われた。

「女性とプライベートなおつきあいをしたことはありません。友達だったらいーっぱいいますけど、性的な関心はひとかけらもない。男が好きとかロリコンとかってのもありませんよ。セックスの経験もありませんし、したくもないな。頭の中がそういうのでいっぱいで、いやらしい動画を観たりする男は汚らわしい……うーん、そこまで考えてはいませんよ。ただ、暑苦しくっていやなんですよね。やりたい奴は好きにやってればいいけど、僕にはおかまいなくって感じ? なまぐさいのや暑苦しいのは嫌いなんですよ。結婚なんかしたくありません。恋愛にも興味はありません。僕の好きなこと? ガーデニングかな」

 そんな男に涼夏さんの闘志が湧いた。
 悔しいけど、私じゃ駄目みたい。だけど、他の女だったら? 男を惚れさせることには百戦錬磨、一騎当千のつわものたちが、アンヌの周囲には大勢いるでしょ、みつくろって連れてきてよ。私は太郎くんを連れていくから、と言われたアンヌがその気になった。

 休暇が残っていたのもあって、アンヌが涼夏さん所望の女たちを動員したのだが、そんな遊びに加担しているアンヌも、昔は相当なつわものだったはず。

 真面目な男や堅い男、てめえは遊んでいても女には貞淑を求める自分勝手な男、もてない男、固定観念にかたまっている男、などなどには敬遠されるものの、思考が柔軟な僕みたいな男や、強気の美人を好む男にはもてまくっていたアンヌも、今夜は太郎くんにちょっかいを出していた。

「涼夏さんには誘惑されたんだろ」
「そうなんですか。社会人の先輩としていろいろと教わってはいますが、誘惑じゃないでしょ」
「優衣子さんの色気にもなんにも感じない?」
「色気? 色気ってなんなんですか。色気なんか感じたことはないな」
「アンヌみたいなタイプはどう?」
「かっこいいですね」

 同じ男なのだから、彼が内心ではどきどきしているとしたら多少はわかる。が、彼の心も身体も、美女にはぴくっとも動いていない様子だった。

「愛花、ちょっと酔ってきたみたい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよぉ。介抱してよ」
「介抱だったら女性同士でお願いします」
「……うん、もうっ、送ってってくれないの?」
「僕は明日は予定がありますので、あまり遅くなりたくないんです。ごめんなさい」

 業を煮やしたのか、愛花さんがなんともストレートなアプローチをこころみたのも、空振りに終わった。
 ぶすっとした顔になった愛花さんは、まるで酔ってはいない態度に戻って、スマホを取り出してむこうに行ってしまった。キャバクラ嬢というと男をたぶらかすことにかけてはプロなのだから、プライドが傷ついたのかもしれない。

「笙さん、料理が上手ですね。これみんなあなたが作ったんですか」
「ほとんどはね。だって僕、専業主夫だもの」
「主夫の仕事のメインは料理ですね。たしかに」
「褒めてくれてるわりには、おいしそうに食べないね」
「いや、僕は食べものに興味ないから」
「なにに興味あるんだよ?」
「ガーデニングですね」

 またガーデニング。がくっとして、僕はチューハイをがぶ飲みした。女のひとたちはむこうにかたまってこそこそ言いながらも、盛大に飲んで食べている。彼女たちはおいしそうに食べているからいいのだが、僕としても苛立ってきた。

「僕とばかり喋ってるって、太郎くんはほんとは男のほうが好きなんだろ」
「いいえ」
「十五歳以上お断りとか?」
「いいえ」
「十五歳未満にだったら色気を感じる?」
「だから、僕は人間には色気を感じないんです」
「なんにだったら感じるの?」
「見事に咲いた薔薇の花とか……」

 けーっ!! と叫びたくなったのは、僕も酔ってきたからだろうか。
 はじめて涼夏さんから話を聞いたときには、太郎くんのたたずまいは理想の老後の姿だと思った。老後だったらいいが、年頃の近い男としてはじれったい。おまえみたいな奴が増殖すると、少子高齢化が進みすぎて、僕らの老後には年金も出ないぞ。

 おまえは稼ぎがいいんだし、妻も子も持つつもりはないからしっかり貯金すればいいと言うんだろ。うちだってアンヌの稼ぎはいいけど、浪費も激しいから貯金はそんなにしていない。アンヌには定年はないけど、ロックヴォーカリストって何歳までやれるんだろ。

 万が一アンヌに捨てられ、胡弓にもつめたくされ、年金ももらえなかったとしたら……僕の老後は真っ暗闇だ。酔っているせいか悲観的になって、太郎くんにからみたくなってきた。

「太郎くんは主夫なんて馬鹿にしてるだろ」
「してませんよ。他人の生き方は尊重します」
「きみは主夫になりたい?」
「僕がなりたいかどうかは、笙さんの生き様とは無関係でしょう?」
「きみの目に侮蔑を感じるんだよ」
「誤解ですよ」

 あくまでもにこやかな太郎くんと押し問答していると、玄関チャイムの音がした。僕が立っていく前に愛花さんが出ていき、数人の女性を伴って戻ってきた。

「もっとお客さん?」
「笙、こっち来い」
「うん、お客が増えたんだったらグラスとか……」

 呼ばれてアンヌのそばに近づいていくと、僕のかわりのように女性たちが太郎くんを取り囲み、アンヌが言った。

「あれは愛花の仲間たちってのか、男をもてなすのが仕事ってプロの女たちだよ」
「愛花さんの手管が通用しなくて、腹が立ったらしいのね」

 言ったほのかさんは、黙ってそこにいるだけで男に恋されるらしい。僕の知り合いにもほのかさんに片想いをしている男がいた。だが、太郎くんはそんなほのかさんにも興味はないようで、一顧だにしない。ほのかさんはそれでもいいらしいが、内心はむっとしていたりして?

「それで、愛花ちゃんが仲間を呼び出したのよ」
「あんなもんでは太郎くんには通用しないと思うけど、お手並み拝見だね」
「だね」

 優衣子さんと涼夏さんがうなずき合い、アンヌが腕組みをする。太郎くんを囲んでいる華やかな女性たちは、銀座のバーのホステスたちだそうだ。二十代から四十代までの美女集団にかかったら、歌舞伎の大物や政治家や経済業界人や、クラシックの指揮者やマエストロや、なんて人種でもひとたまりもないのだそうだが。

「無駄だよ。あいつはそもそも人類の男じゃないんだから」
「異星人?」
「薔薇の妖精王なんじゃないの」

 やや離れたところから観察していても、案の定、太郎くんが動じていないのが見て取れた。銀座のお姉さんたちに取り囲まれているというよりも、学生時代の女友達たちとグループ討論でもしているかのようだ。
  
 ああいう男になったら感情の波立ちがきわめて少なくて、人生、意外と楽なのかもしれない。けれど、僕は僕でいい。僕はこんなだから、こんな笙だからアンヌに愛してもらえるんだ。僕が太郎くんみたいになったら、アンヌに捨てられるかもしれないんだから、僕はこのままでいい。

つづく

 

ガラスの靴70「求愛」

「ガラスの靴」

     70・求愛


 スマホに電話をしてきたのは、専門学校時代の同級生だった蘭々ちゃんだ。同じく同級生だった多恵ちゃんが、蘭々が笙くんに電話したいって言ってるんだけど、と打診してきたので、かまわないよと答えた。

 アート系専門学校に通いはじめて間もなく、僕はアンヌと恋人同士になった。僕はアニメCG学科の一年生、アンヌは大学を中退しての再入学だったから、学年はひとつ上の七歳年上。アンヌの評判がよくなかったのもあり、それでも僕はアンヌに夢中だったのもありで、僕は同い年の連中には変人扱いされていて友達は少なかった。

 なのだから、蘭々と聞いても、そういう変わった名前の女の子、いたな、程度にしか記憶になかった。専門学校の卒業アルバムを見てみたら、童顔の可愛い子だったので、電話をしてきた蘭々ちゃんが会いたいと言ったのにもうなずいた。

「多恵ちゃんからいろいろ聞いたんだけど、笙くん、子どももいるんだってね」
「いるよ。胡弓、三歳。僕に似て美少年なんだ」
「子ども、今日はどうしたの?」
「お母さんに預けてきた。お母さんは孫命のばあちゃんだから、胡弓を預かるのは老後のいちばんの楽しみなんだよ」
「そう……連れてこなかったのは嬉しかったな」

 同級生なのだから二十三歳かと思っていたが、彼女は中卒で専門学校に入学したのだから、二十歳なのだそうだ。童顔というよりも僕より三つも年下なのだから、学生のときには十代半ばの子どもだったのである。

「蘭々ちゃんはモデルだって?」
「そうなの。このごろってぽっちゃりブームだから、ぽっちゃりさん向けの雑誌もあるのね。その雑誌専門のモデル。読者モデル募集ってのに応募してみたら合格しちゃったんだ」

 電話でも聞いていたが、小柄なのにモデル? と疑問だった。会ったら詳しく聞こうと思っていたら、そういうことだったのか。
 記憶にはほとんどないが、アルバムの蘭々ちゃんはちょっとだけぽちゃっとした小柄で可愛い女の子だった。あれは三年ほど前。ぽっちゃりモデルの仕事のためなのか、彼女はずいぶん太った。これはぽっちゃり? ぼってりじゃないのか?

 別に僕は太った女の子に偏見はない。アンヌは細身で長身だが、アンヌの妹分みたいなカンナちゃんだって嫌いではない。カンナちゃんはがっしりどっしりの体型だから、蘭々ちゃんみたいなぽっちゃりタイプのほうが、好む男もいるのではないだろうか。

「そうなのよ。もてもてで、蘭々、困っちゃうの」
「そうなんだ」
「専門学校を卒業してからは、近所の小さいスーパーマーケットで働いてたのね。スーパーだからお客さんはおばさんが多いじゃない?」
「そうだよね。主婦が客層の中心だろうな」

 可愛いからって、蘭々ちゃんはおばさんたちにクレームばかりつけられたのだそうだ。レジのまちがい、包装が遅い、あれはどこに置いてるの? と訊かれても答えられない。あてずっぽうで答えたりもしたからまちがえてばっかり。

「そんなのたいしたことでもないのに、みんな、カンカンに怒るのよ。なんでそんなに文句ばっかりつけるのかと思ってたら、旦那が蘭々に恋してたみたい。冗談じゃないわよ。なんで蘭々ちゃんがあんなおっさん……大丈夫よ、あんな禿げたおっさんに興味ないから、そんなに妬かなくていいからって言ってやったの」
「クレームつけられてそう言ったの?」
「そうよ。だって、そんなことばかり言われてたんだもの」
「その全部が、旦那が蘭々ちゃんを好きになったからってやきもち?」
「そうみたい。あり得ないわよね」
 
 本当にあり得ないのは、実際に蘭々ちゃんがミスばかりしていたからではないのか。この子も大いなる勘違い女?

「そんなのばっかりで、店長にも怒られたの。店長もおばさんなんだけど、その旦那ってのは蘭々に恋してたみたい。旦那は事務所のほうで働いてたから、会うこともあったのよ」
「そうなんだ」
「うん、だからね」

 あんなみっともないおっさんが蘭々に恋したって、こっちは相手にしてないから無駄よ、だから心配しないで、と蘭々ちゃんは店長に言ってのけ、退職勧告を受けたらしい。可愛い子って世の中のおばさんからは迫害されるのよ、と世を嘆いていた蘭々ちゃんは。

「蘭々、悪くないもん。勝手に恋するおっさんやら、やきもちを妬いて怒るおばさんたちが悪いのよ。だからやめないつもりだったんだけど、そんなときに応募したモデルの仕事に合格したから、やめてあげたわ。店長も今ごろ、後悔してるかもね」

 どうして後悔してるの? と質問するのはやめておこう。蘭々ちゃんの思考回路は常人ではないようだ。 
 たしかに顔は可愛いほうだから、遠くから見てちょこっと好きになる男はいるかもしれない。しかし、そんなにどいつもこいつも恋しないだろう。彼女は蘭々であって、西本ほのかではないのだから。

 読者モデルに合格したことで、蘭々ちゃんの勘違いを助長した節もある。だけど、ま、次の仕事があってよかったね。

「そうなのよ。モデルの仕事は蘭々ちゃんに合ってるし、お給料もちょっとは上がったからいいんだけど、やっぱりスーパーとは関係あるし、カメラマンだの編集者だのなんだのが、次から次へと蘭々ちゃんを好きになってメンドクサイの」
「スーパーと雑誌モデルが関係あるの?」
「あるわよ。その雑誌って全国スーパーマーケット連合ってところが出してるんだもの」

 それってファッション雑誌か? もしかして、広告? 広報? 蘭々ちゃんは髪をかき上げ、ふっと笑った。

「やっぱり蘭々も決まった彼氏を持つべきだと思うのね。蘭々はこんなに可愛いんだから、彼氏も綺麗な顔でなくちゃ駄目なの」
「モデル仲間にいないの?」
「男のひとはいないのよ」

 それでね、と身を乗り出して、蘭々ちゃんは僕の手を握った。

「多恵ちゃんから笙くんの話を聞いて、笙くんを救ってあげることに決めたの」
「救う?」
「だって、笙くんはあのアンヌさんの奴隷みたいにされて、こき使われて蹂躙されて虐待されてるんでしょ」
「って、多恵ちゃんが言ったの?」
「多恵ちゃんは、笙くんはそれなりに幸せらしいよって言ったけど、嘘だもんっ!!」

 怖い顔をして、蘭々ちゃんは力説した。

「そんなはずないじゃない。男性は仕事をしたいものよ。主夫なんかに満足できる男のひとはいないの。笙くんが幸せだと思ってるなんて、洗脳されてるのよ。アンヌさんってそんなふうなひとだったわ。魔女みたいな?」
「おー、ウィッチーウーマン、かっこいい」

 妻を悪く言うな、と怒るのは僕のキャラではないので、おどけてみせた。

「若くて綺麗な笙くんを主夫なんかにして、仕事もさせずに家に閉じ込めて、自分は遊び歩いてるんでしょ。家事も育児も笙くんに押しつけて、自分はなんにもしないのよね。そんなの、女じゃないわ。しかも年上で、淫乱ビッチだったそうじゃないの」
「いやぁ、僕はそんなアンヌが……」
「だから、それは洗脳されてるの。笙くん、目を覚ましなさい。蘭々ちゃんが笙くんをまっとうな男のひとに立ち直らせてあげる。蘭々のこと、好きよね?」
「嫌いじゃないけどね」

 大嫌いではないのでそう答えると、蘭々ちゃんは満足げにうなずいた。

「当然だわ。蘭々を嫌う男のひとなんかいないんだもの。笙くん、アンヌさんから逃げてきなさい。笙くんには自主性や積極性はないって知ってるの。男らしくもないけど綺麗な顔をしていて、生活力もなくて長所もあんまりないとは知ってるけど、愛の力は強いのよ。蘭々が笙くんを更生してあげる。真人間にしてあげるから、黙って蘭々についてきなさい」

 こういう口説き文句には弱いので、僕が独身だったとしたら、はい、ついていきます、と返事をしたかもしれない。
 しかししかしかし、しかーし、僕には妻も息子もいる。こんな勘違い女の独断に巻き込まれてなるものか。アンヌ、僕はがんばるからね。

「僕には子どもがいるからね」
「子どもって母親が育てるものよ。蘭々はみんな知ってて、笙くんを受け止めてあげるんだからへっちゃらだわ。バツイチ子持ちの笙くんでいいの。結婚してあげる」
「アンヌに叱られるよ」
「蘭々がアンヌさんと闘ってあげるわ」
「無理だよ」
「無理じゃないってぱ。蘭々ちゃんにまかせておきなさい」

 なんでまた、多恵ちゃんも蘭々ちゃんに僕の電話番号を教えたのか。多恵ちゃんの彼氏が別の女と結婚してしまい、やっぱり寂しいから、幸せな僕に嫉妬したとか?
 ああ、でも、なんかちょっと面白いかも。蘭々ちゃんをきっぱり切ってしまうよりも、アンヌに紹介してみるのもいい。彼女がどうやってあのアンヌと闘うのか、見てみたい気持ちになっていた。

つづく

 

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