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しりとり小説

211「図に乗るな」

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211「図に乗るな」

 弁当持参の女子社員が、昼休みになると休憩室に集まる。自社ビルなので休憩スペースも広く、ゆったりした間を取ってデスクを配置してある部屋だ。気の合う者同士、何人かでランチタイム。新人教育教材などを小さな会社に売り込みにいく営業ウーマンたちなので、昼休みは安らぎのひとときだ。

「むかつくんだよね、あいつ」
「なになに? 喧嘩したの?」
「そうなのよ。聞いてくれる?」

 あちこちで彼氏や夫の悪口に花が咲く。悪口のふりをしたのろけなどもあるのだが、男のうわさ話がもっとも盛り上がる。町谷新子のいるテーブルは若手……三十代までの比較的若手がそろっているのだが、主婦たちのテーブルと話の内容に大差はなかった。

「トイレの掃除は週に一度、必ず俺がやるって約束したくせにさ」
「やらないの?」
「やらないの。俺はうちのトイレなんてほとんど使わないんだから、掃除しなくても汚れないよって。私もそんなには使わないけど、一週間以上も掃除しないなんていやじゃん? だから結局、私がしちゃうんだよね」
「わかるわかる。うちも彼が洗濯ものを取り入れるって約束になってるんだけど、天気がいいんだから外に干しっぱなしでも大丈夫だよってほっとくんだよね」
「そうそう。買い物を頼んだって、あ、忘れた!! 忘れたんだからしようがないだろ、って逆切れだよ」

 営業ウーマンなのだから、仕事は外回りだ。午前中の勤務がすむと一旦帰社して報告するというきまりになっているのだが、必ず昼に帰れるわけでもない。今日は新子のテーブルには五人、独身女性ばかりが集まっていた。

「空いてます?」
「あ、どうぞ」

 七、八人はすわれるテーブルなので、空席がある。そこへすわったのは照屋。四十歳くらいだろうか。名前からすると沖縄のひとか。沖縄らしいくっきりした目鼻立ちの美人で、前職は保険の外交員だったらしい。転職して新子たちの会社に来たばかりだから、新子はまだ照屋とはあまり話をしたこともなかった。

 テーブルで弁当を広げ、いただきます、と手を合わせて、照屋は食事をはじめる。新子たちは彼女は気にせずに、食べながら会話を続けていた。

「土日は食事の支度をするって言ったくせに、それだって嘘ばっかりだし」
「やっぱ一緒に暮らすとアラが見えてくるんじゃない? 同棲なんかしないほうが、いいとこだけ見ていられていいかもよ」
「でもさ、同棲解消ってイコールさよならじゃない?」
「そうだよね。同棲解消はさよならか結婚だな」
「私はあいつとは結婚はしたくないや」
「そうなの?」

 と、照屋が顔を上げた。

「結婚しているんじゃなくて、男性と暮らしてらっしゃるの? えーと、澤垣さん?」
「え、ええ、うん、そうだよ」

 名を呼ばれた澤垣はびっくり顔になり、照屋は同じテーブルの同僚たちを眺め回した。

「彼が、掃除が、って言ってた人たちは、結婚なさってるのよね?」
「いえ、今、ここにいる人たちは全員独身ですよ。彼女と彼女は彼氏と同棲中。彼女と彼女は半同棲ってところ」
「あなたは、町谷さん?」
「私は同棲はしていません。実家暮らしですから」
「すると、他の人たちは実家じゃなくて?」
「実家は私だけかな。自立してなくてすみません」

 五人のうちのふたりはひとり暮らし、ふたりは同棲中、新子だけが実家暮らしで恋人はいない。恋人はいない、と言うのも癪なのでそこまでは言わずにおいた。

「まあまあ、そうなのね。へぇえ……」

 校則が細かくてうるさい女子校出身の新子には、照屋が高校時代の生徒指導の女教師に見えてきた。

「ご両親には許しをもらってるの?」
「うちの両親はひとり暮らしよりも安心だって……」
「私は言ってないし」
「半同棲なんて、いちいち言わないし……」
「照屋さんにもいちいち言う必要なくない?」

 冷笑的に澤垣が応じ、照屋はため息をついた。

「この会社の女性ってねぇ……独身女性はこれだけ?」
「他にもいますよ」
「あの彼女とか、あのひととか……」

 他のテーブルにいる若い女性、若くはない女性などをぽつぽつと指さす。今日は休憩室にいるのは二十人ほどで、既婚、未婚は半々くらいだった。

「みんなに彼氏がいるのかどうかは知らないけど、同棲してる子は他にもいるんじゃない?」
「いるよ。彼氏の実家で同棲してるって子もいる」
「そんなのいるの?」
「知らない? 彼氏が彼女の実家に入りびたりって話も聞いたよ」
「まあまあまあ……」

 なんと嘆かわしい、といったふうに、照屋は何度もため息をついていた。

 そうやって嘆くくせに、照屋はそれからは新子たちの会話に参加してくるようになった。水を向ければ照屋は前職の話もする。たまには照屋の仕事の話を聞くこともあったが、たいていは独身女性たちの男の話で、照屋は最初のうちは黙って聞いているだけだった。

「彼とは別れることにしたのよ」
「えーっ?! どうして? 結婚するって言ってたじゃん」
「聞かないでよ……ううん、聞いてほしい」

 はじめて照屋が会話に加わってきた日にはいなかった、別の女性が話した。

 彼女は同棲はしていなかったのだが、ラヴラヴの彼氏がいる。彼女の場合は他の女性とちがって彼の悪口はほとんど言わない。のろけが大半なので新子たちとしては聞いていて疲れるほどだったのに。が、そういえば、最近は彼女は彼の話をあまりしなくなっていた。

「この間のデートで、彼に言われたの。なんだか急にすーっと冷めちゃってさ……長くつきあいすぎたよな、別れようか、なんて言うから、私、逆上しちゃったの」

 頭が沸騰しそうになって、どうしてどうして、なんでなんで、と彼女は彼を攻め立てた。彼は逆にクールになり、おまえのそういうところが嫌いになったんだよ、と言い放ったのだそうだ。

「言えば言うほど彼は冷めていくみたいで、仕方ないから距離を置こうと思ったのね。彼だって私のことは好きなんだから、しばらく会わなかったら寂しくなるに決まってるって楽観してた……ってか、楽観してるふりをしてた。だけど、彼は会いたいとも言ってくれないの。思い余ってメールしたら……」

 別れるって言っただろ、しつこいな、との返事が届き、それきりブロックされてしまったのだと言う。彼女はうつむいて鼻をすすり、そのとき、照屋が発言した。

「あなたが浮気相手だったのね」
「照屋さん、そんな言い方はないでしょ」
「傷ついている女性にそんなふうに決めつけるってひどいんじゃありません?」

 当人をそっちのけにしてもめそうになっていると、当人が顔を上げた。

「照屋さん、鋭いね。彼、二股していたの。浮気相手はその女のはずだけど、近いわ。そっちの女が妊娠しちゃって、そっちと結婚するんだって」
「むこうが浮気相手だとは、そっちの女も思ってるわよ。これだから女ってのは……ううん、諸悪の根源は男よ」

 事実、彼女は別の女に乗り換えられて捨てられたのだから、新子たちもそれ以上はなにも言えなくなってしまった。

「あんなことを聞いたあとで言いにくいんだけど、私、彼と結婚するって決めたよ」
「あれ? 澤垣さんは彼とは別れるって言ってなかった?」
「それがね……」

 数日後、澤垣がはにかんだように言った、できちゃったんだ、と。
 あらら、おめでとう。それはよかったね。仕事はどうするの? 口々に祝福の言葉や質問を投げかける同僚たちの声が一段落すると、照屋が言った。

「けじめがないね。同棲もいやだけど、でき婚ってのもだらしないわね。そんなにまでして結婚したい? 俺は結婚なんかしたくなかったのに、できちまったから仕方なく、って一生言われるんじゃないの?」
「失礼ね。私はそんなことをたくらんだんじゃありません。私は彼とは別れようかと思ってたのに、できちゃったって彼に報告したら喜んでくれて、絶対に結婚しよう!! って張り切ってるのは彼のほうなんだよ」
「同じよ」

 言い捨てて、照屋は席を立ってしまった。

「ここのテーブルはこのごろ、おめでたい話で盛り上がってるのよね」

 ある日には、新子たちのテーブルに既婚者が加わってきた。

「私たちは主婦の会話ばっかりで、子どもがどうした姑がどうした、保育園がどうたらPTAがこうたら、受験がどうたらばっかり。それに、こんな話を主婦たちにすると妬まれるからね」
「なんの話?」

 興味津々で身を乗り出す新子たちに、私、恋をしたの、と既婚者はピンクに染まった声で告げた。

「彼が何者なのかは話せないけど、年下のイケメンよ。彼のほうからアタックしてきたのは当然で、私は結婚してるからって逃げようとしたのに逃がしてくれないの。私もまだまだ捨てたものじゃないんだなって。ここのテーブルだったらみんな彼氏がいるんだから、嫉妬したりはしないよね、ね、町谷さん?」

 名指しされて、新子はつい正直に言ってしまった。

「私は彼氏はいないんですよ。妬みますよ」
「まぁ、そうなの? 恋はしなくちゃ駄目よ。恋してこそ女なんだからね」

 そこへまたまた、照屋が口を出した。

「あなたは子どもさんがいるの?」
「いますけど……?」
「お母さんが母親じゃなくて女。そんな子どもは気の毒ね」
「……あなたに言われる筋合いはないよ。なによ、ひがんじゃってさ」

 ぷんぷん怒った既婚者も席を立ち、続いて照屋も立っていってしまう。どうやら照屋は言いたいことを言うと、反撃をかわして去っていくらしい。新子たちは言い合った。

「結婚しないって言っても、結婚するって言っても」
「結婚してる女だとしても」
「恋愛って聞くと照屋さんは怒るよね」
「諸悪の根源は男だって言ってたから、男嫌いかな?」
「照屋さんって独身?」

 さあ……とそろって首をかしげる。照屋は自分のことというと、仕事の話しかしないのだった。
 独身若手グループの中ではもっとも気が強く、できちゃった結婚をだらしないと言われた澤垣は言った。よーし、私が訊き出してやる、と。

「あのね、あなたたちってほんと、恋の話ばっかりよね。自分たちのことじゃなかったら、芸能人の誰かと誰かが結婚したの別れたのって。そんなにその話が好き? だから女は視野が狭いって言われるのよ。そんなだから男にいいように遊ばれたりするのよ。もうちょっと世界を広くしなくちゃ」

 そんな具合に、澤垣の質問ははぐらかされてしまった。

「その点、町谷さんだけはえらいよね」
「は? 私が?」
「あなたには彼氏はいないんでしょ。えらいわ」

 どういう意味で言ってるの? 悩んでいる新子に、照屋は明確な答えはくれなかった。
 二股彼氏に捨てられた彼女が新しい恋人を見つけたと嬉々として報告してくれたのは、新入社員が入ってくる季節。新子たちの部署に配属されてきたのは、高校を卒業したばかりの初々しい十八歳女子だった。

「だからね、杷野さんはあのひとたちみたいになったら駄目だよ」
「……はい」
「男は諸悪の根源なのに、まったく、男がいないと生きていけないんだろか。性懲りもなく……」

 研修が終わって営業活動に出るようになった十八歳、杷野の指導係となったのは照屋だ。近頃は照屋は杷野とばかり行動していて、昼休みにも新子たちのテーブルにはやってこない。あのひとたちみたいって、私たちみたいな? ふたりの会話を小耳にはさんだ新子は、杷野に尋ねてみた。

「ああ、そんなこと、言ってましたね。照屋さんって男嫌いっていうよりも、恋愛嫌いみたいですよ。四十歳はすぎてるらしいけど、美人ですよね? もてるでしょ? って訊いたら怖い顔して……」

 もてるかどうかなんてどうでもいいの、男なんかとは関わらないほうがいい、恋なんかしないに限る、照屋は杷野にそう言ったのだそうだ。

「もてすぎていやな思いでもしたんですか」
「もてるというか、言い寄られたことはあるけど、ぴしゃっと断ったわ」
「恋愛経験ないんですか」
「ありません。だからね、杷野さんも恋になんかうつつをぬかさずに、仕事に邁進しなさいね」

 はいと素直に答えたと、杷野は舌を出した。

「ああいうおばさんは適当にあしらっておけばいいんですよね。町谷さんを見習うようにって言われたけど、見習いたくなんかなーい。三十前で彼氏もいないなんて惨めだもん」
「あの、町谷って私なんですけど……」
「知ってますよ」

 けろっと言い返されて、新子は絶句した。
 そうね、世の中にはこんな女もあんな女もいる。若くて可愛くて口のききようも知らない杷野と較べれば、いっぷう変わってはいても照屋のほうがいいかもしれない。恋愛至上主義みたいな世の中にも同僚たちにも違和感がなくはなかった新子としては、近い将来は照屋のようになるのがいいように思えてきた。


次は「な」です。


210「しずやしず」

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210「しずやしず」

 新婚家庭に遊びにきたがる、夫の同僚たち。小田巻久人と優歩は結婚式はしていないので、同僚たちにお披露目もしていない。優歩は在宅仕事なので同僚というものはなく、友人たちには夫を紹介している。なのだから、夫の同僚たちを一度くらい招くのはしようがないかと受け入れた。

 やってきたのは合計十名。夫の久人はメーカーの研究室勤務で、そういった職場についてはよくわかっていない優歩は、こんなにたくさん同僚がいるんだといささか驚いた。

「奥さん、お手伝いします」
「いいんですよ。お客さんにそんなことはしてもらわなくていいから、みなさんはすわってて下さい」
「志津ちゃん、ほんとにいいよ。僕がやるから」

 女性は三名いて、あとのふたりは中年、既婚だそうだが、ひとりだけが若い。既婚女性たちはむしろ、見知らぬ人に等しいような人間に台所に入ってほしくない、との優歩の気持ちを察したようだが、もっとも若い志津は手伝いたがった。

「いいんですよ。洗い物なんかあとでしますから」
「でも……あのね、奥さん、聞いてほしいことがあって……」
「はい?」

 ほぼ見知らぬ相手なのに、相談ごと? 訝しみつつも、優歩は志津の横に立ってふたりで皿洗いをすることにした。

「奥さんはデザイナーなんですってね。私はデザイナーっていえば洋服かと思ってたけど、ちがうんですか」
「意匠デザインっていうのかな」
「衣装?」
「あ、そっちの衣装じゃなくて、商品パッケージだとか、簡単に言ったらそういうものよ」
 
 二十一歳だと聞いている志津は優歩よりもひと回り年下なので、このくらいの口のききようでいいかと判断した。

「いいなぁ。才能あるんですね」
「……で、相談ってなんですか?」
「相談というか、聞いてほしくて」

 高校を卒業してアルバイトとして、志津は久人の職場に入った。アルバイトだから入社とは言わないのかもしれないが、若い志津にはみんなが親切にしてくれて居心地がよく、志津も楽しく働いていた。

「それがね、だんだん苦しくなってきたんです」
「苦しく?」
「好きなひとができて……」

 恋愛相談か。そんなのをなんで私に? 見返した優歩の目をじっと見つめて、志津は続けた。

「私は高卒の資格もなんにもないアルバイト。コピーやお使いをするだけの、高校生バイトと変わらない仕事です。母がずっと小田巻さんの会社で働いていて、定年退職したんで、そのコネで入れてもらったんですね」
「ああ、そうなんですね」
「私は勉強が最悪にできなかったから、大学なんか行きたくもなかったから、母も諦めたんです。無職ってわけにはいかないから、アルバイトでもいいから働きなさいって、母が決めてきたんです」

 そうなのね、としか優歩にも相槌の打ちようはなかった。

「年だってまだやっと二十歳をすぎたところで、私の好きなひととは十もちがうの。三十一歳の男性から見れば二十一なんて小娘でしょう?」
「そうでもないんじゃないかな。男性は若い女性が好きでしょ?」
「その男性は若い女性よりも、ちょっと年上の女性が好きなんです」
「は、はあ、そうなのね」

 ざあざあと水道を流しっばなしにしてはいるものの、志津は食器を洗っているというよりもただ喋っていた。

「だけど、苦しくて苦しくて、告白しましたよ。好きになってもらえるはずもないけど、好きだって言いたかった。「しずやしず、しずのおだまき繰り返し、むかしを今になすよしもがな」って、静御前の詠んだ歌があるんですってね。静御前は卑しい白拍子。義経の妻になれるような身分ではなかった。なんだか似てるなぁって。私は高卒のただのアルバイト。好きなひとは大学院まで出たエリート研究員です。現代の身分ちがいですよね」

 そうね、とも言えなくて、優歩は返事のしようもなくなる。なにかがひっかかる気がするのだが、なんだろう?

「それでも告白しましたよ。志津、えらい、勇気があったねって、自分で自分を褒めてやりました。静御前って私と似た名前で、好きなんですよね。静御前もこの歌を、うんとうんと身分が上の人の前で口ずさんだんですよ。でも、もちろん告白にうなずいてもらえるわけもなくて、ありがとう、嬉しいけど、僕は結婚するんだよって言われました」
「……そうなの」

 息が詰まったようになっていた優歩は、ようやくそれだけを言った。

「ご結婚、おめでとうございます。どんな方が奥さんなんですか? 結婚式に招待してもらえたら嬉しいな、って頼んでみたら、僕らは結婚式なんてものに価値を見出せないからやらないんだって。なんかかっこいい。奥さんもウェディングドレスに憧れたりもしないんですね。私は着てみたいな。あのひとと結婚するなんて夢を見て、真っ白なドレスにも憧れてました」

 水音にまぎれて、皆が集まっている部屋までは会話は届かないだろう。久人も優歩も収入はいいほうなので、賃貸とはいえマンションは広い。キッチンと客間までは距離もあった。

「だったらね、いつか新居に遊びに行っていいですか、っておねだりしたんです。それまで断ったらかわいそうだと思ってくれたのかな。みんなで遊びにいくってときに混ぜてもらったんです。想像通りの奥さんだったな。背が高くて綺麗で大人で。かっこいいひと。こんな大人でかっこいい女性なんだから、結婚なんかしなくてもひとりで生きていけるくせに。神さまって不公平だな。なんでも持ってる女性と、私みたいになんにもない女と……ひとつくらい、私に譲ってくれてもいいと思いません?」

 でも、あなたは若いから……鈍い頭痛を感じながらも、優歩は呟いた。

「若い女には興味なくて、彼は年上のかっこいい女性の好きな男性なんですよ。だから小田巻さんは奥さんと結婚したんですもの」
「……え?」
 
 理学部と芸術学部だったが、久人は優歩とは同じ大学のふたつ後輩だ。学園祭で展示されていた優歩のイラストを見て、久人が近づいてきた。ともに大学院に進んでからも、社会人になってからも十年以上もつきあって、結婚はしなくてもいいつもりでいたのだが、久人が言い出した。

 やっぱり結婚しようよ、お互いにただひとりのひと、として一生、つきあっていこうよ、と。

 いいけどね……私には結婚願望なんかないけど、久人がそんなに言うならしてあげるよ。
 そう返事をしたときの、久人の嬉しそうな顔。結婚式なんかしなくていいよね、と優歩が言い、親たちが式は挙げてほしいと懇願したのも、久人が退けた。僕は優歩ちゃんのしたいようにしたいんだ、と。

 子どもはいらない、優歩ちゃんがほしがっていない。
 気が変わるかもしれない? 優歩ちゃんが変わらない限り、僕も変わらないよ。
 
 久人はそう言うので、姑には疎まれているふしもある。そんなものは優歩にはなにほどでもない。私が幸せならば久人も幸せ。ふたりはそんな夫婦なのだから。

 頭の中に小さな虫が入り込んだような気分だ。
 奥さーん、ビール、もっとあったっけ? 久人の声が聞こえてきたのを潮時にしたかのように、志津は洗いかけの食器をそのままにキッチンから出ていった。

「今日はお疲れさま。片づけは僕がするから、優歩ちゃんは先に休んでくれていいよ」
「片づけは一緒にしましょ」
「そう? そのほうが僕は助かるけどね」

 それきり志津は優歩には近づいてこず、年上の仲間たちに溶け込んで楽しそうにふるまっていた。優歩は頭の中を整理しようとつとめつつ、皆が帰るのを待っていた。

「告白されたんだってね」
「へ?」
「で、久人は断った。それはいいんだけど、そんな相手の女の子をうちに招く?」
「なんのこと?」
「とぼけんなよ」

 ぐっと久人を睨んで、優歩はまくしたてた。

「久人はもてるほうなんだから、独身のときに会社の若い女の子に告白されるってことはあったかもしれない。ひとりやふたりじゃなかったのかもしれない。私とずっとつきあってたんだから、二股なんかししないと信じてるけど、女に恋されるのは止められないもんね。ちゃんと断ったんだったら私もしようがないと思うよ。だけど、そういう女をうちに連れてくるってどういう了見? 申し開きがあるんだったら聞こうじゃないの」
「優歩ちゃん……意味わかんないよ。なんのこと? 誰のこと?」
「とぼけんな。ひとりしかいないだろっ!!」

 激するつもりはなかったのだが、言っているうちに腹が立ってきた。本気で怒ると優歩ちゃんって言葉遣いが悪くなるよね、そんなところも魅力的だ、と久人が言っていたのを無意識で意識していたのかもしれない。

「……ひとり? 若い女の子? 志津ちゃん?」
「そうだよっ」
「志津ちゃんがどうかしたの?」
 
 とぼけんなっ!! と叫ぼうとして思いとどまった。理系男子の常として、久人は鈍感である。鈍感とはいっても直接告白されたのならば、知らないわけはない。するとつまり?

「告白されてないと?」
「就職したばっかりのころには誰かに告白されたな。だけど、僕には優歩ちゃんがいるからって断ったよ。そのあとも二、三度あったんだけど、あれってからかわれたんじゃないかと思わなくもない。どっちにしたってみんな断ったよ。志津ちゃんになんか告白されてないよ」

 心の中で小さく、優歩は叫んだ。しまった!! 言わないほうがよかったのに。
 あの日から一年ほど後に、久人が言った。
 
「優歩ちゃんは結婚なんかしたくなかったんだよね」
「願望はなかったよ」
「だったら、独身に戻ればいいよ。僕は優歩ちゃんに悪いことをしたみたいだ。結婚なんかしたくないあなたを僕の妻にしてまった。優歩ちゃんはそういう女性だよね。だけど、世の中には結婚したくてたまらない女性もいるんだ」
「誰のことを言ってるの?」
「こんなにも一途に愛されるってはじめてだよ。僕は優歩ちゃんを愛するほうがいいと……いや、そんなに深く考えてもいなくて、優歩ちゃんには悪いことをした。ごめんね、解放してあげるから」

 世にもありふれた台詞だ。
 あなたはひとりで生きていける女だけど、彼女には僕がついていてあげないといけないんだ。

 通常、妻だのモトカノだのにその台詞を言ってのける男は、罪悪感を持って口にするはず。だが、久人は本当に、優歩のために、と思っている。優歩のためにも志津のためにも、僕はベストの選択をするんだと信じている。そして、久人は優歩に告げた。僕らは別れようね、と。

「久人は本当に、志津ちゃんがあなたに恋してるって知らなかったの?」
「知らなかったよ。優歩ちゃんが教えてくれてよかった。志津ちゃんは僕の子どもがほしいって言う。そんなふうに言われるのもいいものだね」
「……そう」

 しまった、との心の叫びは正解だったのだろう。言わなければよかった。聞かなかったことにして口をぬぐっていれば、志津だってそれ以上は久人に言い寄らなかったであろうに。

 志津の捨て身の作戦にうまうまとひっかかった私が馬鹿。
 だけど、こんな浮世離れした男とは一生をともにするなんてできっこないだろうだから、これでよかったのかもしれない。優歩は思う。何年か後に後悔するのはどっちかしらね、志津ちゃん?

次は「ず」です。


209「秘密の打ち明け話」

しりとり小説

209「秘密の打ち明け話」

 アシスタントスタッフとは、要するになんでも屋、雑用係だ。正社員はお茶くみや掃除やコピー、文書清書などはやりたがらないので、晴陽たち派遣社員がすることになっている。総務部のアシスタントスタッフは晴陽と、もうひとり、六十代の女性だったのだが、その女性が退職し、派遣会社から別の女性がやってきた。

「よろしくお願いします」
「こちらこそ。晴陽さんっておっしゃるんですよね」
「ええ、そうですが」
「晴陽さんってお兄さん、いません? 陽光さんってお兄さん。旧姓は田島さんじゃありません?」
「そうですけど」
「わぁ、やっぱりあの晴陽さんだ。嬉しい」
「嬉しいって、なにが?」

 明るいのがいちばん、という主義だそうで、両親は息子には陽光、娘には晴陽という名前をつけた。ヨウコウ、ハルヒと読み方はそのままなのでいいといえばいいのだが、彼女はどうしてヨウコウ、ハルヒの兄妹を知っているのか。晴陽には見覚えのない女性だ。

「私は加絵っていうんですよ。覚えてません? 陽光くんは私のことはカエ、カエって呼んでたから、晴陽ちゃんは旧姓は知らないかな」
「兄と知り合いなんですか?」
「そうなんです、あとでね」

 初出勤の挨拶をした加絵は部署へと行ってしまい、あとで、と言われたのだから、昼休みに晴陽から声をかけた。

「お昼はお弁当? どこで食べたらいいんだろ」
「社員の人たちは社員食堂や空いてる会議室で食べてますけど、派遣が入るといやな顔をされるんで、今日は天気がいいから公園で食べましょうか」
「あの公園ね。オッケー」

 ぼってりした身体つきの愛嬌のある女性だ。高い声でよく喋るので、仕事中にも加絵の声は時々聞こえていた。兄の友達か……ならば年上なのかと、晴陽は丁寧に喋り、加絵はタメ口で、今日は暑いよね、そろそろ冷房が入りますかね、などと話をしながら公園まで歩いていった。

 わりあいに大きな自社ビルを持つ製造業の、晴陽たちが働いているのは事務部門。大きな会社の正社員となるとプライドが高く、派遣社員は見下される傾向にある。そんな者ばかりではないが、晴陽としても身近に同じ立場のアシスタントスタッフがいるほうがいい。前任者は年上すぎたので、同年輩の加絵は歓迎したかった。

「高校のときに、私、陽光くんに告白したんだ」
「兄とつきあっていたんですか?」
「ちょっとだけね。陽光くんは一年生で、私は三年生だった。私が先に卒業したから、それで自然消滅。陽光くんはいい大学に行ったんだろうね」
「いいって言うか、普通ですけど」
 
 とすると、三つ年上の兄のふたつ年上。加絵は晴陽よりも五つ年上の三十六歳だ。

「晴陽ちゃんも大卒?」
「ええ、まあ」
「でも、大学出て派遣のアシスタントスタッフだったら、高卒の私と一緒だね。もったいないよね。結婚してるんでしょ?」
「してます」
「だよね。田島じゃなくなってるもんね。初婚? 子どもは?」

 さりげなく無礼なことも言いつつ、質問する加絵に、晴陽は適当に応えていた。

「私も結婚してるの。一年前に出産して、保育園に入れたから働きに出たんだよ。専業主婦なんてつまんないからいいんだけど、子育てと家事と仕事ってしんどいわ。晴陽ちゃんは子どもがいなくて楽でいいよね。残業なんかあったら替わってくれるでしょ?」
「残業はあまりないから……」
「そうなの? 子どももいないのにとことん楽してるんだね」

 夫の転勤でやむなく前職をやめ、妊娠を待ちつつ働いている。家事だって夫以上にしている。正社員には簡単にはなれない時代だから、派遣社員に甘んじている。自己責任と言われれば否定できないし、子持ちの働く主婦よりは楽だろうから、反論する気にはなれなかった。

 ちくちくと失礼な台詞を吐く加絵とは親しくなりたくもなかったのだが、総務部のアシスタントスタッフはふたりきり。歳も近くて立場も同じで、その上に兄のモトカノともなると、晴陽も邪険にはできにくいのだった。

「うちの旦那、子どもにつめたいんだよね」
「そうなんですか」
「子どもができてから、加絵は僕をないがしろにする。もっと僕にかまってって感じ」
「言っちゃ悪いけど旦那さんが子どもみたい」
「でしょう? 言ってやってよ」

 その調子で、加絵は晴陽に夫の悪口を言うのがストレス解消法らしい。合間には、陽光くんと結婚していたらなぁ、と遠い目をしていた。

 兄は大学を卒業して新聞記者になり、一度結婚はしたものの、離婚して今は独り身だ。正直に言うと、え、そんなら私も離婚して陽光くんと再婚しようかな、と言い出しそうな女に思えたので、晴陽は兄が結婚したことだけを加絵に話した。案の定、新聞記者、かっこいい!! と加絵は目を輝かした。

「特派員としてタイに赴任してるんですよ」
「単身赴任?」
「いえ、家族帯同です」
「なあんだ、だったら遊びに行って誘惑するってのは駄目か」
「加絵さん、それはないでしょ」
「冗談だよ」

 タイだと物価も安くて、メイドさんが雇えるんだよね、楽でいいなぁ、と羨ましがっているのは、よほど子持ち兼業主婦の日々に疲れているのか。反論すれば、あんたは楽でいいよねっ、と言われるのが目に見えているので、晴陽はいつだって曖昧に微笑んでいた。

「息子が入院しちゃってさ、旦那はつめたいからますますてんてこまいしてるんだよ。明日は休むから、晴陽ちゃん、お願いね。みんなによろしく言っておいて」
「わかりました。お大事に」

 みんなによろしく、と伝言されたにしても、欠勤の連絡はしているのだろうと晴陽は思い込んでいた。ところが。

「そういうことはあなたからの連絡だけでは困るな。彼女がちゃんと電話してくれなくちゃ」
「え? してないんですか」
「電話はありませんよ」

 そんな日が一週間続き、派遣会社からも頼まれた。

「晴陽さんは彼女と仲いいんでしょ? このままじゃクビになりますよって、伝えてきて下さい」
「ええ? うう、でも、一度は息子さんのお見舞いにも行きたいから……」
「そうですよね。友達ですものね」

 友達のつもりはないが、浮世の義理ならある気がして、晴陽は加絵にメールをした。一歳をすぎたばかりの加絵の息子が入院している、不憫な幼児を元気づけてやりたいのもあった。

「晴陽ちゃん、ありがとう。よく来てくれたね」
「入院って、病気なんですか?」
「ちがう。事故。ってかね、旦那がちゃんと見てなかったから階段から落ちたの。頭は打ってなくてよかったよ」
「そうなんですか」

 頭をよぎったのは、虐待じゃないの? だったのだが、そうは言えない。一歳の子だと身内が泊まりこまなくてはならないきまりだそうで、これでは加絵も出社できないだろう。きちんと会社に連絡するように、それだけは晴陽としても強く頼んでおいた。

「旦那さんは?」
「お見舞いにも来ないよ」
「ひどいなぁ。自分の不注意で階段から落ちたんでしょ」
「私が悪いって旦那は言ってる。どっちでもいいんだけど、旦那がつめたいのはほんとだよね。あれ? そう言ってたら来たみたいよ」
「旦那さん?」

 怪我をしたり骨折したりしている子どもたちが入院している大部屋に、若い男が入ってきた。二十代ではないのだろうか。ひょろっと背の高い彼は晴陽を見て軽く会釈し、加絵には言った。

「一度くらい来いって言うから来たよ。じゃ」
「ちょっと待って下さい、もう帰るんですか」
「帰りますよ。あなたには関係ないでしょ」

 ほっときなよ、と加絵が止めるのにはかまわず、晴陽は加絵の夫を追いかけた。病院内で大きな声を出してはいけないので、彼について外に出た。

「なんなんですか、その態度は。あなたの息子さんでしょっ」
「ちがいますよ」
「は?」
「俺の子じゃない。だまされたんだ」
「え? ええ? すると、加絵さんって再婚?」

 そんな話は聞いていないが、再婚で連れ子だとしても、だまされたとはおかしいではないか。彼は病院の庭のベンチに腰を下ろし、晴陽も隣に腰かけた。

「再婚にしたって、わかってて結婚したんでしょ」
「再婚じゃないよ。加絵さんも俺も初婚」
「なのにあなたの子じゃないって……」
「DNA鑑定はしたよ。俺の子じゃなかった。だけど、俺は加絵さんが……加絵さんが好きなんだよ。好きだから別れられない。そんなら潔く俺の子だと思えばいいのに、それもできない」

 泣きながら、彼が話した。

「DNA鑑定なんかしなかったらよかったんだ。そしたら……疑いながらも俺の子だって信じられたのに。なんであっても加絵さんの子なんだから、俺も可愛がろうとしたよ。でも、駄目なんだ。この間も別れようとか言ってもめて、目を離した隙に坊主が階段から落ちた。俺にも罪の意識はなくもないんだけど、俺の子じゃないのはまちがいないんだから。俺は加絵さんが好きなだけで、ガキまでは好きじゃないんだよ、嫌いなんだよ。それでも見舞いにきただろ。なぁ、あのガキの親父って誰だ? あんたが晴陽さん? あんたの兄貴があのガキの親か?」

 ガキ、坊主、名前も呼びたくないのか。しかし、そういう事情ならば彼の気持ちもわからなくもない。

「うちの兄は三年ほどタイに行ってます。日本には帰ってきていませんから」
「加絵さんがタイに行ったってことは……」

 絶対にないとは言い切れないが、加絵の言動を考えるとないはずだった。

「ありません」
「だったら、あのガキの親父は誰?」
「知りませんよ」
「……俺は苦しいんだよぉ」

 両手で顔を覆って本気で泣き出してしまった彼を見やって、晴陽も悩んでしまう。子どももだろうが、この男は加絵というひとりの女に丸ごとだまされている。それでも幸せだったらいいけれど、いや、そんな女がそんなにも好きだなんて、それはそれで幸せなのかもしれなかった。

次は「し」です。


208「あの日」

しりとり小説

208「あの日」

 直感で気がつくものだと俗に言われているが、定岡越美は気づかなかった。別件で頭がいっぱいで、夫どころではなかったからもある。当事者から打ち明けられたときにはびっくり仰天してしまった。

「私が先にご主人を好きになったんです」
「あなたが、うちの主人を?」
「そうなんです。いつも行くスーパーマーケットの副店長さん。親切にしてもらって、私の顔を憶えてもらって、買ったものを自転車に積もうとしていたら手伝ってもらったり、箱ごとのお茶を買おうかな、重いしな、って迷っていたら、お届けもできますよって言ってもらったり」

 そんなこと、スーパーマーケットの副店長ならば当たり前かと思えるが、四十代の主婦であるらしい彼女は、よほど夫にも世の中の男たちにもないがしろにされていたのだろう。越美の夫の親切がホストクラブの恋愛営業のごとくに身にしみたらしい。

「それで、好きになってしまって私から告白したんです」
「告白、ねぇ」
「私は男性に告白するなんてはじめてでした。主人とはお見合い結婚で、お互いに、まあこんなもんだろ、でしたから……結婚して十年になるんですけど、冷めたもので」
「そうなんですか」
「定岡さんはご主人にプロポーズされたんですか」
「ええ、まあね」

 二十八歳の春、恋人というほどにも思っていなかった七つ年上の哲夫にプロポーズされた。二十代のうちに結婚するのはいいかもしれないと、哲夫には特に不満もなかったので結婚し、子どももふたりできた。哲夫のほうは越美に恋をし、いまだ恋しているらしいと越美は思っていたが、越美は夫には特に恋愛感情を抱いたことはない。

「哲夫さんも、僕は女性に告白されたのなんてはじめてで感激ですよ、と言って下さいました」
「はあ、そうですか」

 あの野郎、私に惚れてるふりをしていたくせに、よその女に告白されて舞い上がったんだな。どうしてやろうか、夫からもこの女からも慰謝料を取って離婚してやろうか。自分の持ち物に手を出されたような不快感から、越美はそう考えていた。

「内緒の恋って楽しいみたいな……哲夫さんはその程度だったんでしょうけど、私が夢中になってしまったんです。でも、奥さんに……越美さんに対する罪悪感で耐えられなくなって……すみません。泥棒猫みたいな真似をして」
「それで、あなたはなにをしたいんですか」
「奥さまにお詫びをして、身を引きます」
「そのために告白しにきたの?」
「だって、奥さまもうすうす気づいてるらしい、別れどきかな、って哲夫さんが言うんですもの。奥さまは挙動不審だ、あれはまちがいなく気づいてるって、そう聞くと怖くなってきて……お願いですから、絶対にもう旦那さんとは会うのもやめますから、主人にだけは言わないで下さい」
「そういうことね」

 不倫相手の妻が察していると聞いて怖くなり、夫への露見を恐れて自ら告白と詫びをしにきた女。これっきりで身を引くと越美に誓った女。越美は彼女に重々しくうなずいてみせた。

「気の迷いってありますよね。あなたがそうやって誠実に打ち明けてくれたんだから、本当に二度と会わない、別れるって言うんだったら受け入れます。念書を書いて下さいね」
「……わかりました。本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした」

 なにもなかったような顔をして帰宅した夫に、越美はその念書を見せた。

「こんなこと……こんなこと、やらせたのか?」
「彼女がやるって言ったのよ。あなただって彼女と別れたって痛痒は感じないんでしょ」
「そんなに簡単に……きみは気づいてたんだよな」
「気づいてはいたけど泳がせてたの」

 まるっきりの嘘だが、夫は信じたらしい。

「きみのような完璧な女と暮らしてると、俺は息が詰まるんだよな。俺だってきみにプロポーズしたときには、大会社の前途有望な社員だったよ。スーパーマーケットの店員だったら結婚なんかしてくれなかっただろ」
「そんなことはないって、何度も言ったじゃないの」
「ああ。きみは最高の妻だよ」

 大会社だって大銀行だって倒産する世の中だ。夫の会社も業績がひどく落ち込み、四十代になって間もなく哲夫はリストラされた。越美の会社は幸いにも順調で、哲夫よりも年収は多かったから、夫の失業だって乗り越えられた。

 いっそ専業主夫になる? それはいやだ。
 とのやりとりの末、越美の会社の子会社のような立場のスーパーマーケットに夫を就職させてもらった。夫の前職とはまるで別業種だったのだから、四十歳をすぎて修行して副店長にまでなった彼を、それなりによくやったと越美は評価していた。

 完璧というほどではなく要領がいいだけなのだが、越美は主婦業も母親業も会社員の仕事も器用にこなす。良妻賢母の鑑、おまけにキャリアウーマン。夫は越美を尊敬し、愛情も深めていっていると越美は信じていた。

「だからさ、たいしたこともないあの女に惹かれたってのがあるんだ。あの女は遅くに結婚して、子どもが小学生になったからパートをしてるって平凡な平凡な主婦だよ。きみみたいにスタイルがいいわけでもない、美人でもない」
「この目で見たから外見は知ってるけどね」
「だろ。だけど、安らぐんだよな」
「あなたは私と離婚して、あのひとと結婚したいの?」
「そんなはずはない。俺は越美を愛してる!! あんな下等な女に乗り換えたいわけないだろ」

 けれど、と夫は頭を抱えた。

「きみがうすうす気づいてるなんて言ったのは、本当に気づかれてると思ったのもあるけど、あの女がどういう反応を示すか、知りたかったからもあるんだ。きみにばれてしまって、あの女とは別れるしかないところに持っていきたかった。ああ、でも、わからないよ。わからなくなってきた。きみを愛してはいるけど……子どもたちとだって離れたくなんかないけど……でも……越美、俺はどうしたらいい?」
「ひとりで自分に酔ってれば?」

 苦悩する夫像を演じていればいい。越美につめたく突き放されて、哲夫はしばらく悩んでいたらしい。が、結局は彼も謝罪した。

「悪かった。捨てないで。俺はきみとやり直したい。小遣いを半分に減らしてくれていいよ。家事だって今までみたいな手伝いレベルじゃなくて、俺がメインになってやる。きみは子どもたちのために、出張なんかも減らしてたんだろ。これからはどんどんやって。きみのように有能で完璧な女性が俺たちの犠牲になるのはまちがってたんだ。これからは俺がきみのサポートをするから、捨てないで」
「そうね。考えてみるわ」

 自分の所有物に手を出すよその女、というのはたいへんに癪に障るが、夫があの女と別れるのならばいい。越美としては夫との仲を修復することに異論はない。子どもたちだって父親が好きなのだし、両親が離婚したりしないほうがいいに決まっている。

 ただ、考えてみると言ったのは、越美にもひとつ懸念があるからだ。これがあったからこそ、越美は夫の浮気にみじんも気づかなかったのだ。

「別れよう。これ」
「なにこれ? 手切れ金?」
「それって人聞き悪いよ。だけど、そんなようなものかな。今までありがとう。男らしく潔く別れてね」
「……こんなときだけ男らしくなんて、越美さんは勝手だな。だけど、そんなこと、知ってて好きになったんだよね。これ、ほんとにくれるんだな? あとで返せって言わない?」
「私はあなた以上に男らしい女なんだから、あげたものを返せなんて言わないよ」
「うん、だったら……さよなら」

 手切れ金だって? 馬鹿にするな!! と怒る男だったら、越美にも未練心が生まれたかもしれない。けれど、こんな男なのだから一時の遊びでいい。子どもたちのためにも、万が一夫にばれて越美の有責で離婚するなんて羽目にならないためにも、こんな男は切ったほうがいいに決まっていた。

次は「ひ」です。


207「ワーキングプア」

しりとり小説

207「ワーキングプア」

 不運が続いたとしか言いようがない。

 大学を卒業して勤めた会社では、企画部に回された。美弥は事務職希望でクリエィティヴな仕事などできるはずもない。総務か人事か経理にでも異動させてほしいと上司に訴えてみても、一年はがんばれと言い逃れられて心を病みそうになって退職した。

 次に勤めたのは弁護士事務所の事務員。待望の事務職であったのだが、主な仕事はコピー、清書、来客の接待であって、こんなものは事務だとは思えない。親戚の伝手で就職させてもらったので、親戚に泣きついてやめさせてもらった。

 心機一転、ちがった仕事をしようと、次は接客業に就いた。弁護士事務所でもお客の応対はしていたから大丈夫かと思ったのだが、百円ショップに買い物にくる客とは人種がちがっている。美弥にしてみれば無理難題だとしか思えないことばかりが続いて、耐え切れなくなって退職した。

 接客はこりごりだと続いて勤めたのは、出版社のアルバイト。雑用ばかりで腹が立ってきてやめた。
 ベーカリーの製造部門にも就職してみたが、あまりにも肉体的に疲れるのでじきにやめた。
 その調子でざっと十社くらいで働いたのだが、どれもこれも美弥には合わない。そうこうしているうちに美弥も二十九歳になり、親には言われるようになった。

「就活は諦めて婚活をしたら?」
「無職の女を嫁にもらってくれる男なんていないのっ」
「どうして? 結婚したら主婦になるんじゃないの?」

 古い考え方しかできない母がわずらわしいのもあり、実家にいるとがんばって仕事をしなくても生活がなんとかなって甘えてしまうのもありで、美弥は独立を決めた。両親は美弥のひとり暮らしを反対したが、結局は折れてくれてお金も出してくれた。

 ひとりになって就職したのは、実家のあるところよりは都会の建築事務所。ここには身内の息もかかっていない。事務も雑務もありとあらゆる細かい仕事をしなくてはならないのだが、それだけに多忙で、いやだなぁと思っている暇もないのがかえって美弥にはよかった。

「月那って書いてルナって、かっこいい名前ね」
「美弥ちゃんも可愛い名前だよね」

 ひとつだけルナのほうが年下だが、田舎から出てきてひとり暮らしをしているのも同じ。事務所には女性はふたりきりで、ルナとは気が合って、美弥はじきに彼女と親しくなった。

「給料安いよねぇ」
「全国的に見たら田舎だから、最低賃金ってのも安いんだよね。こんなもんなのかもしれない」
「雑用係だしね、しようがないよね」

 生活レベルも似たようなもののはずで、ルナとは愚痴のこぼし合いもできた。

「うちの父はこの間、定年退職したのよね。高卒だから四十年以上の勤続だよ。そんなに長くひとつのところで働けるってすごいとは思うんだけど、馬鹿じゃないかとも思うの」
「馬鹿じゃないじゃない。えらいよ」
「えらいんだろうけど、高卒だからかたいした会社じゃなくて、退職金も思ったほどは出なかったんだって。再就職先を世話してもらえるとか言ってたのも駄目になって、年金だってまだちょっとしかもらえないし、母もパートに出るとか言ってたけど、ふたりとも六十すぎてるんだから仕事もないよね」
「大変だよね。仕送りとかするの?」
「そんな余裕、私にだってないよ」

 持ち家なので家賃とローンがないのは幸いであろう。母としては美弥にうちに戻ってきてもらって、食費を入れてもらったほうが楽になると言いたいらしかったが、メリットもない実家暮らしは美弥がお断りだ。

「ルナちゃんとこも似た感じ?」
「う、うん、まあね。うちの両親も六十すぎてるしね」
「私はひとりっ子だから、弟や妹がいたらもっとお金がかかって、もっともっと大変だったんだろうな。私がちゃんと働いて独立してるのを感謝してほしいよ」
「うちは弟がいるんだけど、あの子も社会人だから、親はなんとかやってるみたいだよ」

 お金、ないよね、お金、ほしいよね、が美弥の口癖になり、いつもルナも一緒にうなずいていた。

「私たちみたいのって貧困女性? 侘しいよねぇ」
「うん……そうだね」
「ルナちゃんってどんなところに住んでるの? 遊びにいっていい?」
「狭いし、片づけるの下手だから……」
「じゃあ、うちに来ない?」
「そんなのより外でごはんを食べるほうがいいな」

 とはいえ、この会社では続いているのは、ルナという仲間がいるからもある。年ごろも似た近い境遇の女同士。ルナにも彼氏はいないようで、婚活しようか、だけど、婚活の場ってろくな男がいないらしいよ、との愚痴も共通していた。

 あとひとつ、もはや気楽にやめられないのは、ひとり暮らししているからだ。実家にいたら甘えてしまう、というのも父も母も経済的に苦しい生活になっているので不可能になり、生活費を捻出するためには簡単に仕事をやめられない。独立したのは正解だった。

「故郷のほうで用事があるらしくて、ルナちゃんは里帰りなんだ。一週間ばかり休むそうだから、美弥ちゃんはがんばって」
「そうなんですか。私は聞いてないよぉ」

 一週間も休暇を取るのならば美弥にも告げるべきではないのか。不満ではあったが、所長が認めているのだからやむを得ない。用事ってなんだろう? 法事らしいよ、と所長からは聞いていたので、メールをしたり電話をかけたりするのも控えたほうがいいのかと判断していた。

「急なことでね、ルナちゃん、辞めるって言ってきたんだよ」
「え? なにかあったんですか?」
「故郷に帰る理由は法要だって聞いていたんだよね」

 困った顔をして、所長が話してくれた。

「それがちがったらしくて、お見合いをセッティングされていたらしいんだ」
「お見合い?」
「そうなんだよ。美弥ちゃんは仲良くしてたんだから知ってるんだろうけど、ルナちゃんの家ってほら、あれでしょ?」
「あれってなに? ルナちゃんの故郷の話なんてほとんど聞いてませんよ。うちの両親は生活が苦しいって話したら、うちも同じようなもんだとは言ってたけど」
「ルナちゃんの家が苦しい? そんなはずないでしょ」

 所長とルナの父親は大学で同期の友達だったのだそうだ。娘がどうしても都会で働きたいと言う。三十歳になったら帰ってきて結婚して、婿養子をもらって家を継ぐから、とまで言う。必ず約束を守ると誓わせたから、面倒見てやってくれないか? 学生時代の友人、すなわちルナの父親に頼まれて、社長は引き受けた。

「……」
「その約束の三十歳が迫ってきてるって、僕は忘れてたよ。約束通りにルナちゃんはお父さんのところに帰り、縁談が決まったらしい。短い間に決まったんだけど、相手がルナちゃんを気に入ったそうだし、田舎の旧家だったらそんなものなのかもしれないね」
「旧家?」
「そうだよ。ほんとに知らなかったの? ルナちゃんのお父さんは田舎の大地主だよ。彼も大学は僕と同じで都会に出てたんだけど、卒業して故郷に帰って結婚して、父親の跡を継いだんだ。よくは知らないけど、ガソリンスタンドや旅館やなんかんや、不動産をたくさん持ってるはずだよ」
「ルナちゃんの弟ってのは?」
「最年少市会議員誕生、とかって言われてたっけね」
「市会議員……」

 嘘つきっ!! 裏切り者っ!! 美弥はルナに向かって叫びたかった。

 似た境遇の彼氏もいない貧困女性? それは美弥だけではないか。実はルナはゴージャスなマンションに住んでいたようで、だからこそ美弥を招くのを渋ったのだ。

 社会人の弟って、市会議員? 親は地主? そんな貧困女性がいるものか。
 ずるいずるいっ!! とも叫びたくなったが、ルナは美弥の前から消えてしまった。友達のつもりでいたけれど、結婚式に招待などはしてくれないだろう。

 けれど、ルナは美弥に嘘をついてはいない。いつでも言葉を濁していたのは、本当のことが言えなかっただけなのだと今になればわかる。そんなルナがいつまでも近くにいるよりは、いなくなってくれたほうが精神衛生上はよさそうだ。あーあ、私もがんばろっ、と呟いてみても、どうがんばればいいのかすらも美弥にはわからなかった。

次は「あ」です。


206「リクエストアワー」

しりとり小説

206「リクエストアワー」

 祖父が愛用していたラジオを形見としてもらい、祖父が愛聴していたと教えられた放送を聴いていた。古いヒット曲ばかりかかるので、徳馬にはむしろ新鮮だったのもある。そんな時間にこんな葉書が読まれるとは。

「偶然にしたってすげぇよね。これぞじいちゃんのお導きっていうの?」
「そうなのかもしれないね」

 視聴者からの葉書を読み、リクエストに応える。昭和の時代には一般的だったらしきラジオ放送なのだそうだが、近頃はどうなっているのか、音楽にはさして興味のない徳馬は知らない。が、祖父お気に入りのラジオ番組は長期間に渡ってそんな形で放送されていた。

 黒い小さなラジオは何年使っていたのかも知らないが、元気に動いている。コンセントに挿せば使える形なので、電池もいらない。充電の手間も不要なので、めんどくさがりの徳馬も気軽に使っていた。

「たまには勉強しようかと思って……」
「たまに、なんだ」
「たまに、だろ? おまえはいつも勉強なんかしてるのか?」
「忙しくて勉強なんかしてる暇ないよ」
「だろ」

 彼女というほどでもないが、つきあっていないとも言い切れない相手と校内のカフェでお喋りしている。徳馬はあの日のびっくりを彼女に語った。

 デスクに向かって参考書を広げ、勉強しようとしていても気が乗らない。普段は聞き流しているラジオにむしろ集中してしまっていたら、DJの読み上げる葉書の内容が耳に入ってきた。

「十年近く前になります。結婚を前提に彼と同棲をはじめたのです。小さなハイツの一室で、毎日が遊びみたいに楽しかった。ハイツのお隣は一軒家で、おじいさんがひとりで暮らしていたみたい。挨拶に行ったら言われたんです。

「新婚さんですか」
「ええ、まあ……」

 同棲中だなんてお年寄りに言うと変に受け取られそうで、言葉を濁しておいたんですけど、彼氏があとから正直に言っちゃったんですよね。それからはおじいさんがとっても親切にして下さって、おかずをたくさん作ったからって届けてくれたり、忠告もしてくれたりしました。

「奥さん……じゃないのか、あなたも働いてるんでしょ。それで家事もやってるんでしょ」
「やってますけど、彼もちょっとはしますよ」
「ちょっとって、男に家事なんかやらせたらいけませんな。そんなことをしてると彼はあなたと結婚したがらないんじゃないかな? 結婚しても家事をやらされるんじゃうんざりだって言いそうですよ。もっとも、私も妻と死に別れて家事ができなくて困ったものですが、今は家事サービスの会社にお願いして解決してるんです。男にとっては家庭は安らぎの場なんだから、家事なんかさせてはいけません」

 なんてね。
 そのおかずも実は、お弁当宅配サービスから届いたものだったみたい。おじいさん、寂しかったのかな。私を話し相手にしたかったのね。私も引っ越してきたばかりで仕事も替わって友達がいなかったから、おじいさんとお話しするのは楽しかった。おかずもおいしかったです。

「彼氏はあなたに花を買ってきますか」
「そんなの、もらったことはありません」
「そうですか。じゃあ、私がかわりに……」

 って、庭に咲いたっていう白いバラをもらったりもしました。おじいさん、しゃれたことをするのよね。

 彼氏と喧嘩したときには、そんなときには男を立てるものです、あなたがあやまらなくちゃ、あやまってから甘えたら彼氏はイチコロですよ、なんてアドバイスもしてもらったり。男心についてもいっぱいアドバイスしてもらいました。

「老人ホームに入ることになりましてね、ひとり暮らしは少々つらくなってきたんで、息子がいい施設を見つけてきてくれたんです。有料だからわりに豪華なところで、それなりにいい暮らしはできそうですよ。あなたは彼との結婚は?」

 さよならの挨拶にきてくれたおじいさんに、私は正直に言いました。お隣さんになってから二年ほどすぎていたかな。

「私ももうじきここからは出ていきます」
「あ……そうなんですか。あなたが私の忠告を守っていたら、捨てられるようなこともなかったんでしょうに。年寄りの言うことをきかないから」
「そうですね」

 認めておいたけど、ほんとは私に他に好きな男性ができたから、だったんですけどね。
 
 ついこの間、仕事で関わっている有料老人ホームで、ひとりのおじいさんが亡くなったと聞きました。そのおじいさんっていうのがなんと、あのころに親しくしてもらっていた隣家の老人だったんだからびっくり。偶然っていうのもあるものなんですね。

 親切で優しいおじいさんだもの、ホームのお仲間とも楽しくやっておられたんでしょうね。おばあさんたちにもてていたりして? ホームのスタッフの恋愛相談を受けて、私にしたようなアドバイスをしてあげて、ためになっていたんじゃない? 私はあれから三度くらい恋はしたけど、四十すぎても独身です。

 今も彼氏はいるけど、結婚はもういいかな。
 言われそうですね、おじいさんにだったら。私の忠告を聞かないから、あんたはいい年して独身なんですよ、って叱られそう。こんな暮らしも楽しいって言ったら、負け惜しみだって笑われるかな。

 でも、はじめて同棲したあのころも楽しかったから、おじいさんとのお喋りとともに大切な想い出として、心の中にしまっておきます。

 おじいさん、ありがとう。おじいさんのご冥福を心よりお祈りします」

 ラジオネーム・タギョール、と名前を読み上げ、DJが言った。

「いいお話ですね。都会の人間関係は希薄だと言われますけど、若い女性と老人の心温まるエピソード。敬老の日も近い今日にふさわしいお話でした」

 これってうちのじいちゃん? 祖母に先立たれてひとり暮らしをしていた祖父の家には、十年近く前だったら徳馬も時おり遊びにいった。徳馬はあのころは小学生で、隣のハイツのお姉さんにもらったんだ、と祖父がケーキを出してくれたこともある。母にそのお姉さんの話をしていたこともあった。

「あんまりお節介焼くと嫌われるわよ」
「嫌うはずがないだろ。好かれとるよ。だからケーキをくれるんじゃないか。しかし、あのお姉さんは買ってきたものしかくれない。女なんだから手作りの料理でもくれればいいのに。私があげるもののわりにはお返しがしょぼくて、ケチなのか気が利かないのか」

 文句を言っていた祖父の口調も覚えている。

 ハイツのお姉さんは結婚していないらしい、とも聞き、それってどうして? と徳馬が尋ね、子どもは知らなくていいんだよ、と母に言われた記憶もあった。祖父が老人ホームに入所したのは八年ばかり前。先日、ホームで亡くなったのもその通りで、時期的にも合う。

 まちがいなくうちのじいちゃんだろう、と決めて、ラジオ局に問い合わせてみたら、放送で読み上げた葉書の部分の録音を送ってくれた。母に聞かせてやろう、と思っていたSDカードにおさめられたものを、徳馬は彼女にも聞かせてやった。

「葉書のコピーとか送るわけにもいかないだろうけど、こうやって送ってくれたんだよな」
「親切だね。ふーん、へぇぇ」
「なんだよ、なにか言いたい?」
「そのラジオネームの意味、わかる?」
「タギョール? 中近東の言葉みたいだな」
「フランス語だよ」

 海外旅行が大好きだから、大学でも英語を専攻している。フランス語と韓国語も勉強している彼女は、おかしな笑みを浮かべた。

「フランス語のスラングで、「その汚い口をふさげ!」って意味なんだよ。ものすごくうるさい相手に口汚く、黙れ!! うるさい!! ってときに使うの。徳馬が喋りすぎるときに、うっせえんだよ、って言いたくて軽い気持ちでも使うけど、レディが口にしたらいけない言葉なの。こんな葉書を出してそのラジオネームがそれって、はたして彼女の真意は……DJさんが言うみたいな心温まるエピソードなのかなぁ」
「……うわ、性格わるっ!!」
「知らなかった?」

 そんな連想をするということは、彼女の性格が悪いせいだ。性格わるっ!! と言われて、知らなかった? と切り返す奴なのは知っていたが、ここまでだったとは。
 が、彼女の言う通りなのかもしれなくて、母に録音を聞かせてやるつもりが急速に失せていった。

次は「ワー」です。

 


 

 

205「手がかり」

しりとり小説

 

205「手がかり」

 

 可もなく不可もなくだったのかもしれないが、どうにかはじめての仕事を一年間やり遂げられた。昨年度は飛ぶようにすぎていったとしか思えない。入学式では校長の訓辞がラストになされるので、副校長である久水の挨拶が先だ。去年は来賓も父兄も子どもたちの顔もまともに見えていなかったな、と久水は去年の自分を思い出す。

 

 今年はそうでもなく、緊張していたり張り切っていたり、元気が良すぎて近くの席の子どもにちょっかいを出したり、なぜかべそをかいていたりする、新入生たちの様子もよく見えた。

 

「出雲先生、面会したいとおっゃる方が見えてるんですけど……」
「はい、どなたでしょうか?」
「二年生のお母さまで、石飛さんとおっしゃるそうです」

 

 お通ししてもよろしいですか、と尋ねる事務員に承諾の返事はしたものの、久水は首を傾げた。
 独身時代には小学校教諭として十年弱勤務し、結婚して妊娠したので一旦退職した。教師の仕事は育児とも両立できなくもなかったのだが、久水の母も教師で、よその子どもにばっかり愛情を注いでいるように見えたのが不満だった記憶があった。

 

 私は我が子の母親に専念したい。夫も賛成したので、十五年ほどは専業主婦として暮らしていた。下の娘が来春に中学生になる予定だった一昨年、母方の親戚から依頼を受けたのであった。

 

「再就職するつもりなんでしょ? だったらうちの学校に力を貸してくれないかな」
「私立青葉学院ですよね」
「そうですよ。青葉学院小学校のほうね。久水さんはもとは小学校の先生なんだし、児童のお母さんとは年頃も近いでしょう? 副校長のポストが空席になるんで、お願いしたいのよ」
「副校長なんて私につとまりますか」
「正直言って激務でもないし、それほどには大変じゃないのよ」

 

 悩みはしたのだが、夫も娘たちも勧めてくれたので、久水はその仕事を承諾した。
 肉体的にはたしかにそれほど大変でもなかったが、精神的には疲労した。それでも副校長なのだから、児童の担任をするわけでもなく、責任者としても校長の手助けが主な仕事だ。一年がすぎて久水もようやく一息つけるようになった。

 

 ポスト柄、児童の親と面接するようなこともめったにない。石飛亜衣という名の新二年生の女の子。その母、桐子。名簿を見つつ久水は石飛桐子を待っていた。

 

「お忙しいところ、どうもすみません」
「いえ、こちらこそ」
「出雲先生、私を憶えておられませんか?」
「えと、お母さまを、ですか」
「旧姓は黒木というのですよ。先生の旧姓は織田さんですよね。織田久水さん」
「ええ、そうですけど……」

 

 昔なじみなのか? 改めてまじまじと彼女の顔を見たが、久水は桐子を思い出せなかった。

 

「中学校のときに同じ学校でした」
「……同じクラスでした?」
「いいえ。クラスが同じになったことはありません」
「……同じ学年ですか?」
「そうですが、クラスは別です」

 

 人口密集地の大きな中学校だった上に、中学時代には特に印象的な出来事もなかったので、久水の記憶には十二歳から十五歳までの年頃があまり残っていない。黒木桐子という名の女生徒も思い出せなかった。

 

「副校長の出雲先生……先生も結婚なさって苗字が替わってるから、私もすぐに思い出さなかったんですよ。でも、去年の運動会のときだったかしら。先生をお見かけして記憶がぱーっと戻ってきました。あの織田さんだっ!! ってね」
「すみません。石飛さんと私の間になにかありました?」

 

 目を細めて久水を凝視してから、桐子はほっと吐息をついた。

 

「そういうものなのかもしれませんね。わかりました。先生は覚えていらっしゃらないと」
「すみません。申し訳ありません。詳しく教えて下さいな」
「いいんです。では、失礼します」
「石飛さん、待って下さい」

 

 待ってはくれず、桐子は帰っていってしまった。
 個人的な用件、しかも児童のことではなく、母親と久水が中学生のころに同じ学校で同じ学年だったというだけだ。放っておいてもいいのかもしれないが、桐子の暗い瞳が気になった。

 

 子どもたちの母親と久水が同年輩だと、親戚の者は言った。久水は四十六歳なので、小学生の母親はもっと若いのではないかと思ったのだが、そうとも限らない。昨今は晩婚晩産の女性も多く、桐子だって四十五歳で七歳児の母だ。名簿によると石飛亜衣には別の小学校に通う十歳の兄がいるようだが、それでも桐子の出産は遅いほうだろう。

 

 私立青葉学院は女子校で、小学校から大学まである。生徒は裕福な家庭のお嬢さまがほとんどで、桐子の夫も弁護士だ。勉学優秀な女子校として、青葉学院はエリートの妻養成校のようにも言われていた。

 

 母親の職業は主婦となっている。久水は石飛亜衣の名簿を詳しく読んでみたが、たいした事実は判明しなかった。

 

 胸の中にわだかまりは残ったものの、家族や同僚に相談するほどのことでもなさそうだ。桐子は娘の通う小学校の副校長が同窓生だと知って訪問してきたものの、久水のほうが覚えていないと言ったのでがっかりしたのだろう。それだけだと思っておいた。

 

「こんな手紙が届いてるんですよ」

 

 ところが、それから一週間ほどしたある日、久水は校長から封書を手渡された。校長の名前のみの宛名しかないので、直接学校のポストに入れていかれたのだろう。

 

「出雲先生は教育者としていかがなものなのでしょうか。
 彼女の子どものころの素行を調査なさいましたか? 問題ありですよ」

 

 短い文面の手紙で、久水にはさっぱり意味がわからない。なんなんですか、これは? と校長を見返した。

 

「先生方の間に噂が起きてるんです。先生方は誰かのお母さんから聞いたらしいんですが、出雲先生が子どものころにひどいイジメをしていたと」
「イジメ?」
「なにをなさったんですか?」

 

 子どものころにイジメの加害者になった、この私が? 久水は思い出そうとした。

 

 幼稚園のころに友達と喧嘩をして、その子の名前も忘れてしまったが、あんたとは遊んであげない!! と意地悪を言ったことならある。いいもんいいもん、と相手も言ってしばらくは仲違いしていたのだが、いつしか仲良しに戻っていた。

 

 同じころに男の子に髪を引っ張られたり、帽子を取られたりしたこともあるが、母や先生は、あの子、久水ちゃんが好きなんじゃない? と笑っていた。好かれていたのかどうかは知らないが、あれは久水が苛めたのではなく苛められたのだ。そのくらいの細かな出来事だったらあったが、誰にでもあるのではなかろうか。

 

 小学校のころにも近いことはあった。グループが半々に分かれて反目し合ったり、男の子たち対女の子たちで喧嘩腰の議論をしたり。

 

 中学生のときには……それほど子どもっぽいことはしなくなったので、久水は軽いイジメにも巻き込まれたことはない。高校生ともなると、子どものころとは言わないだろう。

 

「覚えてませんけど……」
「意外とイジメはね、苛めたほうは忘れてるんですよ。よーく思い出してみて下さい」
「そう言われましても……」

 

 老人といっていい年頃のいかめしい女性校長は、きびしい表情で久水をねめつける。彼女は手紙も噂も信じ込んでいるようだが、どれだけ記憶を探っても思い当らない。久水は幼稚園や小学校のころの諍いを口にした。

 

「そのくらいのことではないと思いますけどね」
「私にはそれしか思い出せません」
「その程度だったらここまでは……あなたが忘れているのかもしれませんよ。出雲先生、しっかり考えて下さい」
「すこし時間を下さい。思い出してみます」

 

 そうとしか答えようのない久水に、これは深刻な事態なのですよ、と校長は宣告した。

 

 いじめ事件は学校としては大問題だろう。過去のことであっても、副校長がイジメの加害者となれば由々しき事態だ。教師たちにも遠巻きにされているように感じる。久水は頭が痛くなるほどに、想い出を掘り起こした。

 

 ひとつだけ思い当るふしがある。石飛桐子、旧姓黒木。彼女との面接が無関係だとは思えなくなってきて、久水はいとことの国際テレビ電話での通話を選択した。

 

「……久実ちゃん、覚えてない?」
「久水の中学のときのことねぇ。同じクラスじゃなかったもんね」
「黒木桐子って子、覚えてない?」
「知らないな」

 

 父親同士が兄弟なので、姓も同じ織田、祖母の名前からひと文字もらった「久」の字もかぶっていて、中学校も同じだった久実と久水。ただし、読み方は「くみ」と「ひさみ」だ。

 

 高校は別々になり、大学は久実のほうがイギリスに留学してしまったので、疎遠になっていたいとこ。久水としては久実を忘れかけていたのもあったのだが、藁をもすがる気分で彼女に連絡を取ってみた。久実は現在ではイギリスで結婚し、夫とふたりしてロンドン郊外でオリジナル家具を作っている。五人もいる子どもたちも、自然豊かな土地でのびのびと育っているようだ。

 

「思い出してみるよ」
「うん、お願いね」

 

 毎日毎日、思い出しましたか? と校長に責められる。ママ、やつれてない? と心配してくれる家族には、イジメ問題など迂闊に口にできない。児童とは触れ合わない仕事だが、教師たちにも白い目で見られているような気がしていた。久水は再び、久実にテレビ電話をかけた。

 

「黒木、黒木桐子。思い出したよ」
「そうなの? 黒木さんって嘘つき?」
「いやぁ、あのさ……」

 

 長年リアルでは会っていない、テレビ電話だってめったにしないので久実の顔を見るのは実に久しぶりだが、近頃はやつれ気味の久水よりは十も若いのではないかと思えた。同い年なのに、気ままな芸術家はいいわね、と久水は言いたい。

 

「かなり巧妙にやっていたのかな、誰も気づいていなかったんだね。久水も知らなかったよね?」
「なんのこと?」
「あたしだよ、あたし」
「ええ?」
「執念深いなぁ。怖いなぁ。三十年も前だろうが。あたしだって忘れてたさ。そんなことでねちねち言ってくるなんて、あの女は今でもそんな性格か」
「久実ちゃん、なんのことよ?」

 

 のらくらしているのを聴き出してみると。

 

 三十年以上前、中学校の工芸クラブに所属していた久実は、同い年の黒木桐子と知り合った。工芸クラブなのだから女子は少なくて、久実としては友達ができたみたいで嬉しかったのだそうだ。

 

「あたしも忘れてたんだけど、あいつ、陰湿な性格なんだよね。綺麗な子ではあったけど性格最悪。あたしの好きだった先輩にぶりっ子して取り入って彼女になっちまいやがったのもあって、仕返ししたの」
「仕返しってどんな?」
「忘れたけど、いやがらせとかさ。いやぁ、あたしもあのころは思春期の意地悪少女で、けっこうあくどい真似もしたかもね。ったって、過去じゃん、しつこいんだよ」
「久実ちゃん……」

 

 まったくの他人ならば、人違いですっ!! と叫べるだろう。冤罪ですっ!! 私はイジメなんかしていませんっ!!
 けれど、実際に黒木桐子を苛めていた者がいる。人違いなのは事実だが、まちがえた相手が悪すぎる。外見も名前もよく似た織田久実。冤罪を晴らそうとすれば、桐子はなんと言うだろうか。

 

「そうですか。出雲先生のいとこ……身内にそのような女性がいらっしゃる方なのに、教育者としてはいかがなものでしょうか? みなさん、どう思われますか?」

 

 公衆の面前で身の潔白を証明しようとしたら、そう反論されそうで、久水の気分は暗澹としてきた。

 

次は「り」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

204「もっと愛して」

しりとり小説

204「もっと愛して」

 ソファに並んですわって、琴子と宗平はテレビを観ていた。映画館に行きたかったのに見逃してしまった恋愛映画のDVDを借りてきて、琴子のマンションでふたりで観る、初のおうちデートだ。この映画がロードショーとして話題になっていたころには、琴子には前の彼がいた。

 前の彼のことを思い出すとむかっ腹が立つので、画面に集中しようとする。が、宗平も熱心に見てはいなかったようで、琴子の頭のてっぺんを指先で撫でた。

「ここ……」
「なにかついてる?」
「いや、やっぱり琴子さんは若くないんだなって思って……」
「そりゃあ、宗平くんよりは年上だけどね……それがどうしたの?」
「いやぁ、全然違うなって思って……」
「違うって誰と? 誰と較べてるの?」
「僕のこと、好きだって告白してくれた女の子と……」
「告白されたの?」

 DVDはどうでもよくなってしまって、口論になった。口論というよりも、琴子が宗平を責め、宗平は逃げ腰で防戦一方だったのだが。

 こうして並んですわっていると、宗平のほうが背が高くて座高も高いので、琴子のつむじを見下ろす姿勢になる。三十六歳の琴子は髪が薄くなる年齢ではないが、宗平に告白してきた彼の職場の後輩は二十代なのだそうだから、その女の子と較べればつむじは寂しいのかもしれない。

 この映画のDVDを借りたのは琴子なのだから、宗平にはさして興味もなかったのだろう。テレビ画面ではなく琴子のつむじを見て、つい正直に言ってしまった。琴子のほうはモトカレを思い出したのもあって、やや過剰反応してしまった。

「私はどうせ宗平くんよりも年上のおばさんよ。その子はいくつ? 二十六? そんなに若くはないけどね」
「琴子さんよりは十も年下だよ」
「宗平くんだって三十はすぎてるんだから、そんな若い子から見たらおじさんじゃないのよ」
「男の三十一はおじさんじゃないよ。琴子さん、さっきから支離滅裂じゃん。そんなに若くないって言ってみたり、そんな若い子だって言ってみたり」
「二十五すぎたら女はみんな同じよ」
「そんなはずないでしょ」
 
 そこから喧嘩になって、琴子は宗平を部屋からほっぽり出した。帰ってよっ!! とヒステリックに怒鳴られた宗平も怒ってしまい、帰ればいいんだろ、二度と来ないよっ!! と言い返して足音も荒く出ていった。

「うーっ、むかつくっ!!」

 モトカレと別れて一年半、新しい彼氏の宗平とはこれからゆっくりじっくり深くなっていきたかった。今夜、はじめて宗平を琴子のマンションに招き、できることならベッドに誘い込んで、とりこにしてしまいたかった。妊娠するなんて姑息な手段ではなく、琴子さんと結婚したい、と彼に心から思わせるように運びたかったのに。

 今どき、二十六歳の女は結婚に焦る必要なんかない。二十八くらいまでは遊びの恋もして男を見る目を養い、三十歳くらいで結婚すれば十分だ。なのに、宗平に告白してきた女は若いくせにがっついてみっともない。それとも、近頃どんどん男が結婚したがらなくなっているから、宗平程度でもなんとかしてつかまえたい二十六歳もいるのだろうか。

 考えてみれば琴子だって、二十代のころにはそのつもりだった。短大を卒業して信用金庫に勤め、転職して派遣社員として大会社にも派遣され、いい男はよりどりみどり、のはずだったのだが。

 二十代のころには三人ほどどつきあったが、結婚はどちらも言い出さなかった。三十を過ぎてからつきあったモトカレの佳士には、私は若くはないんだから結婚したいの、とはっきり言ったが、のらりくらりと逃げられ、ついに業を煮やして琴子のほうから別れを切り出した。

「琴子のためには別れたほうがいいんだね。つらいけどさよなら。琴子、幸せになってね」

 さよならを言い合ったときには、佳士はたしかに涙ぐんでいた。
 なのになのになのに、先日、共通の知り合いから聞いたのだ。そのせいで、モトカレを思い出すとむかっ腹が立つ状態になっていたのだった。

「佳士くん、結婚したみたいよ」
「結婚? あいつ、結婚願望なんかないって言ってたのに……」
「私も別の友達から聞いたの。琴子は佳士くんとはSNSでもつながってないんだっけ?」
「つながってないよ」
「見てみたら? 結婚式の写真をアップしてたよ」

 そんなもん、見たくもないっ!! と友人には言ったのだが、宗平と喧嘩をしたせいもあって見たくなってきた。佳士が結婚したと教えてくれた友人の友人、とたどっていくと、佳士のアルバムが見られる。全公開になっていたので、友達にはなっていない琴子にもたやすく見ることができた。

「つきあってから二年の記念日と、結婚記念日が同じです」

 キャプションにはそう綴られていて、満面の笑顔の新郎新婦の写真がアップされている。ツルちゃん、二十六歳、ケイちゃん、三十五歳とも書かれている。ツルという名前だか愛称だかの佳士の妻が、宗平に告白した女と同い年なのも気に障った。

「若いっていいねぇ。ちょっとだけ年上の女とつきあってたこともあるけど、やっぱり二十代は最高だわ」
「三十代が泣くと怖いけど、二十代の女だと可愛い。甘えられるとほにゃほにゃになっちゃうんだ」
「できちゃった婚じゃないよ。ベイビーちゃんはこれからがんばるからね」
「ツル、愛してるぜーっ!!」

 何枚かの結婚式写真には、臆面もなくのろけたキャプションが添えられている。そこに佳士の友人連中、琴子にも誰なのかわかる者も混ざっている者たちが、いいねぇ、素敵、ケイちゃんかっこいい、奥さん可愛らしすぎ、芸能人? モデル? ケイちゃんの果報者!! などなどのコメントを寄せていた。

 こんなもの、見るんじゃなかった。どこが可愛らしすぎなんだよ。こんな二の腕の太いモデルがいるもんか。袖のないウェディングドレスから覗くたくましめの腕を見て、毒づくのも虚しい。

「ん?」

 ふと、琴子は気づいた。結婚したのが三ヶ月ほど前で、その日が交際二年の記念日。琴子が佳士と別れたのは一年半ほど前なのだから、一年近くだぶっている時期があるではないか。

「この二股男……」

 ぎりぎりっと歯がみをして、琴子はツルという名の女のアカウントを探した。ケイちゃん、佳士のハンドルネームはそのままで、彼の友達の中にツルちゃんを容易に発見できた。

「はじめまして。ツルちゃん、結婚おめでとう。
 ツルちゃんがケイちゃんとつきあいはじめたころ、彼には別の彼女がいたって知ってる? 私は知ってるよ。だって、それって私なんだもの。

 ケイちゃんに聞いてみて。コトコって誰? って。彼、青くなると思うよ。
 二度あることは三度あるって言うじゃない? あんな浮気男と結婚したって、おめでとうじゃなくてご愁傷さまかもしれないね。
 またあいつがよそ見しないように、しっかり見張ってなさい。
 見張ってても無駄だろうけどね」

 知らない相手にでもメッセージは送れるのだから、勢いのままに書いた文章を衝動的に送信した。

「琴子……写真、見たんだね。見ろって言ったのは私だけど、やっちゃったね。
 ツルちゃんの日記も見た?」

 翌日、佳士が結婚したと教えてくれた友人からのメールをもらい、琴子はツルの日記ページにアクセスしてみた。

「ケイちゃんがもてるのは知ってたけど、やっぱいたんだね。
 そりゃあね、もてるんだから他の女にだって言い寄られるよね。

 そんなケイちゃんが選んだのは私。
 コトコちゃん、ご愁傷さまはあんたのほうに言ってあげる。
 ケイちゃんにふられてまだ独身? 

 キーキーしてると一生独身だお。
 キーキーしてないでがんばって、早くお嫁に行けるといいね」

 むろん琴子は、他の人間の目に触れないように個人的なメッセージでツルにメールを送った。なのに、あろうことかツルは、公開日記で琴子に返信していた。ケイちゃんからのコメントは。

「俺がアイしてるのはツルだけだぜ。
 だから結婚したんだもんな」

「うん、知ってるよ、ケイちゃん。
 もっともっと、ずっとずっと愛してね」

 ごちそうさまぁ、なんて素敵なカップルなんだろ、あてられちゃうわ、コトコなんかに負けるな、などというコメントが、今回もたくさんついていた。

次は「て」です。


 

 

203「血も涙も」

しりとり小説

203「血も涙も」

「博也くん、久しぶり。あなたの子、保育園に入ったのよ」

 知らない女、というのは波津美から見た場合であって、博也にとってはモトカノなのか。博也も青ざめたが、波津美だってショックを受けた。

「僕の……子? そんなはずは……だって、あのとき、避妊したはずじゃないか」
「避妊なんて万全じゃないって知らないの? そういうことだから……」

 そういうことだから……の後をなんと続けたいのかは知らないが、女は首を振り振り立ち去ろうとした。
 ふたりで映画を観ようと、繁華街にやってきた休日。映画館の前で博也のモトカノに出会ったまではしようがないのかもしれないが、彼女の台詞は衝撃的すぎる。羽津美は彼女を呼び止めて質問した。

「子どもさん、いくつですか?」
「二歳になったの。やっと保育園に入れて、私もきちんと働けるわ。あなたには……」

 ご愁傷さま、と小声で言い、流し目と微笑を波津美に向けて、彼女は映画館に入っていった。

「二歳ってことは妊娠したのは三年前くらいね」
「え、えーと……僕はそんなことは……」
「したって認めたじゃない? 私たちは正式な夫婦じゃないけど、三年前だったらもう同棲してたよね? 裏切りだよね」
「波津美ちゃーん」
「ちょっと、しばらく考えさせて」

 結局、波津美は博也と別れたので、その後の展開は知らない。博也とは結婚するつもりで同棲をはじめたのがずるずる行っていて、このままではいけないな、と思っていたのだが、結果的にはバツがつかなくてよかったのだった。

 当時、波津美は二十九歳。二十代のうちはまだのんびりしていられたのだが、三十歳を目前にすると少々焦ってくる。結婚はしたい、出産もしたい、と考えると、女にはタイムリミットがあるのだから、そこからは積極的に結婚相手を探すことにした。ただの彼氏ではなく結婚できる相手だ。

 条件的にも心情的にも、この男ならいいか、と思えたのが俊二。波津美だって女としての容姿も条件も悪くはない。細身中背、そこそこの美人で、しっかりした会社で働く正社員だ。俊二も波津美との結婚に乗り気になった。

「ひとつだけ、心配があるんだよね」
「なんだろ」

 どちらからプロポーズしたというのでもなく、三十歳同士のカップルならば結婚に進むのが自然だよね、といった感じで結婚が決まると、俊二が言い出した。

「心配だったんで、ネットの匿名相談を見てみたんだ」
「だから、なんの心配?」
「見て」

 自ら相談してみようかとも思ったのだそうだが、類似の相談はいくつもあった。俊二はスマホでその匿名掲示板を見せてくれた。

「彼に同棲しようって誘われています。私も彼が好きだから同棲したいんだけど、みなさんはどう思われますか?」

 同棲なんて女にとっては不利になるばかりだよ。
 結婚が決まったあとだったらまだいいけど、婚約もしていないのに同棲? だらしない、ふしだらな。

 私があなたのお母さんだったら大反対するわ。ちゃんとした家庭のお嬢さんは同棲だなんて、軽いことはしないものです。好き合ってるんだったら結婚しなさい。

 もしも別れてしまったらどうするの? 同棲すると結婚しないことも多いらしいよ。別れてしまったときに傷がつくのは女性なんだからね。軽々しく同棲なんかするものじゃないの。

「彼女と同棲したいんだけど、彼女はためらっています。僕としては大好きな彼女と一緒に生活できるなんて最高だと思うんだ。僕は二十一、彼女は二十三、結婚なんて考えられる年齢じゃないんだから、楽しく同棲できたら幸せなのに、どうして彼女はうんと言ってくれないんだろ」

 なんて無責任な男。そんなに好きなら結婚しなさい。
 私が彼女の友達だったら忠告してあげたいな。そんな男からは早く逃げろって。

 あなたはまだ若くて結婚なんて考えられないだろうけど、彼女のほうは結婚するには決して早くない。同棲じゃなくて結婚したいって言ってるんでしょ? 結婚したくないなら別れなさい。

 いいんじゃない? キミは男なんだから、同棲していた過去は武勇伝みたいなものだよね。けど、彼女はどうかなぁ。同棲経験のある女なんて汚れものだよ。キミと別れたら彼女は傷物ってことで、まともな男とは結婚できなくなるよ。日本人ってそういうところ、堅いってかなんてか。

 彼女がいやがるってことは、一緒に暮らすとあなたに欠点を見られるからじゃないかな。実は彼女、他にも男がいるとか? 結婚なんて男にとってはなんのメリットもないんだから、同棲で十分だよ。愛してる、愛してるんだからっ、っと説得して、それでもいやがったら、なにか僕に隠してることでも? って追及してみたら?

 いいなぁ、俺も無料の夜のお相手、ほしいなぁ。
 がんばって彼女を説得しなよ。ただし、妊娠だけはさせないようにね。
 なんでって? 責任取って結婚なんてことになったら地獄だからだよ。

「……私の同棲経験?」

 そのあたりまで読むと辟易してきたので、波津美はスマホから顔を上げて俊二を見た。

「心配ごとってそれ?」
「そうなんだ。俺はそんなに重くは考えてなかったんだけど、職場の先輩に相談してみたら、世間では女が同棲してたってのはいやがられるよ、ご両親には内緒にしておいたほうがいいよ、って言われたんで……」
「私は悪いことはしていないから」
「そうなんだけどね……」

 歯切れ悪く、俊二はむにゃむにゃ呟いていた。

「要するに日本では、同棲していた相手と結婚できなかった女を、ふしだらだの軽いだの傷ものだのと見なし、次につきあった男性の両親が知ると眉をひそめるという風潮があるわけですね。そのために反対する人が多い。ってことはつまり、偏見があるってことです。今どき、モトカレやモトカノがいたりするくらいは当然でしょう? それもいたらいけない、女は過去が真っ白じゃなかったらいけない、なんて言う人もいるかもしれないけど、そこまで言うのはお笑い沙汰じゃないですか。三十過ぎてモトカレやモトカノもいないほうが異常です」

 だからさ、内緒にしておこうよ、俺はそれほど深く考えてないけど、親は六十代なんだから……と俊二は言ったが、波津美はすべてを正直に話すほうを選んだ。

「俊二さんのお父さまやお母さまは、そんな偏頗な思想の持ち主ではないと信じています。私はかつて同棲していたことがありますが、過去とはすっぱり決別しているのです。そんなの、気になさいませんよね?」

 横で冷や冷やしているらしき俊二、苦虫をかみつぶしたような顔でいる父親、波津美が鮮やかに言ってのけると、ややあって俊二の母親が発言した。

「その件については我が家でも話し合ってみますので」
「……そうですか。偏見なんてあるわけないわ、って言っていただけると思っていましたが……いえ、はい、よろしくお願いします」

 俊二の両親に挨拶に行き、辞去した波津美を駅まで送ってくれる道で、俊二は深々と吐息をついた。

「堂々としてて、波津美ちゃん、かっこよかったけどね」
「ご両親は気に食わなかったみたい?」
「そうだねぇ。親父はこそっと言ってたよ。そんなこと、話してくれなくていいのに、って」
「私は隠し事は嫌いなんだよ」
「うん、波津美ちゃんらしい……俺はそんな波津美ちゃんが好きだけどね」

 でもさ、と俊二はいたずらっぽく言った。

「いいなぁ、ずるいなぁ、波津美ちゃんにばっかりそんな華々しい過去があって。うらやましいな。俺とも同棲しない? 俺はまだ急いで結婚なんかしなくてもいいんだから、波津美ちゃんと同棲して別れてからだっていいわけだよ。そしたら俺にも華やかな過去ができる」
「……ちょっと、俊二くん」
「だって、波津美ちゃんばっかり、ずるいんだもん。俺も同棲したいよ」

 同棲は初体験の女ならば、世間体がどうのこうのと逃げられるかもしれない。けれど、波津美の場合はなんの口実もつけられない。俊二は冗談を言っているのか、にしても、真実味もある。こんなことを言い出して波津美との結婚から逃れようとしているのならば、高等戦術? 

 どちらなのかを見定めるために、波津美はもう一度同棲するべきなのだろうか。

次は「も」です。


 

 

 

202「仕打ち」

しりとり小説

202「仕打ち」

 クールなつもりでいたけれど、生まれてはじめての恋に、兼子は我を忘れた。
 三十一歳にして初恋だなんて、そんなはずはないでしょう? と周囲の皆は笑う。子どものころには好きな男の子がいた記憶もあるし、大学生まではちょっとしたつきあいだったらしたが、あんなものは恋ではなかった。

 なのだから、初恋なのだ。初恋を成就させて結ばれたなんて、私はなんて幸せ者なのだろう。こっちから好きになって、追いかけて告白してプロポーズして、私のものにする、兼子にはそんな恋が性に合っていたらしい。

「会社、やめてきたよ」
「え? そうなの?」
「そう。俺はもう働くのに疲れたんだよ」
「そ、そうなんだね。まあ、しばらく休めばいいよね。次のあてはあるんでしょ」
「ないよ。働くのに疲れたって言っただろ」
「そしたら……どうするの?」

 寝耳に水とはこのことだ。兼子は外食産業で働いていて、一店舗をまかされている。正社員なので年収も悪いほうではないから、夫の収入がなくても暮らしてはいけるだろうが、ひとこと、相談くらいするものではないのだろうか。

 バツイチだけど子どもはいない、前の妻とは性格の不一致で離婚した、兼子は三次からそう聞いていた。三次は兼子よりもふたつ年下の二十九歳。若すぎた結婚だったんだろうな、と解釈して、兼子は三次にプロポーズした。今度こそ、私が幸せにしてあげるから、と。

「主夫になるよ」
「はぁ……」
「男女同権だろ。男にだってその権利はあるはずだよ」
「私は女性の主婦ってのも嫌いだけど、私がそんなものになるつもりはないけど、妊娠出産、子育て時期だけだったら主婦はかまわないと思うのよ。女性の主婦ね。だけど、男性は出産はしないんだから……」
「兼子、子どもがほしくなった? 産んでもいいよ。俺が育てるから。それだったらいいんだろ」

 今はそんな話はしていないんだけど……と言いかけた兼子に背を向けて、三次はソファに伸びてしまった。

 会社員としての日々に疲れてしまったのだろう。三次は薬品会社の営業マンで、医者やナースを相手にする営業活動の苦労についても、兼子にこぼしていた。そんな会社はやめてもかまわない。転職するのだったら兼子は反対などしない。けれど、子どももいないのに主夫って……三次が出産するわけでもないのに。

「しばらく休んでゆっくり考えて」

 そうとしか言えなくて、兼子は静観することにした。

「掃除、洗濯、料理が主婦の三大家事だよな。俺は掃除も洗濯も前からけっこうやってるけど、料理はあまりやったことがない。買い物に行かなくちゃなんないだろ。食費、ちょうだい」
「早速主夫をやるつもりなのね。がんばって」

 仕事をやめたからといってだらだらするのではなく、主夫業をこなすのだったらいいではないか。一週間分の食費のつもりで、兼子は夫になにがしかの紙幣を手渡した。

 共働きなのだから、三次は以前から多少の家事はやっていた。料理だけは苦手だと言うので、宅配サービスやスーパーの惣菜なども駆使して、主に兼子が食事担当だった。たいしておいしくもないものを食べていたのだが、三次も兼子も食にはさして関心がない。三次の料理も上手ではなかったが、食べられればそれでいいのだった。

「今日のシチュー、うまくできてるね」
「だろ? ネットで研究したんだよ。うんうん、おいしいよね」
「家に主夫がいてくれるって、悪くないかも」
「そうなの……?」
「あなたがそれでいいんだったら、再就職なんかしなくてもいいよ」
「あっ、ああ」

 意外そうな顔をする三次に、兼子はにっこりしてみせた。

「へぇぇ、あなたがね……」
「なにかご用でしょうか」
「そんな警戒しなくてもいいのよ。どうぞすわって」

 平和にすぎていく日々に身をゆだねていたら、さざ波が立った。美樹と名乗る女性からの突然のメール。彼女は三次の前妻で、三次つながりで仲良くしましょうよ。一度会わない? とのメールだったのだ。

 気の強い女でね、それ以外にもなんだかんだで合わなかったんだ。子どもはいなかったんだから、二度と顔を合わせることもないよ。だけど、俺、女にはこりごりした部分もあるから、結婚はしたくないかなぁ。
 そう言っていた三次を強引にその気にさせたのだから、勝者は私だ。美樹の顔を見てみたかったのもあって、兼子は彼女の誘いを了承した。

 会社帰りの喫茶店。三次が言っていた通り、すらっと背が高くてセンスのいい、メイクも上手なきつい顔立ちの女だ。見ようによっては美人かもしれない。年齢は三次からは聞いていなかったが、二十五、六といったところに見えた。

「三次って稼ぎのいい女が好きなんだよね」
「そうなんですか」
「私も三次と結婚する前は、モデルクラブでアルバイトしてたの。収入はよかったんだよ」

 売れないモデル、言われてみればいかにも、だ。

「三次は働く女が好きでしょ。彼の母親は専業主婦で、のんびりしすぎてて太ってる。そういう女に嫌悪感があるんだよね。そのくせ、私を見て言うのよ。そんなに痩せてて子どもが産めるの? モデルだなんていかがわしい仕事よね。ふしだらな生活をしていそう、だとかって」

 ひとしきり三次の母親の悪口を言ってから、美樹は話題をずらした。

「モデルとしては売れなくなってたから、転職したんだ。だけど、私には地味な仕事なんて合わないの。三次が働けって言うから働いてたよ。無職の女となんか結婚しない、とも言われたんだもんね。でも、とうとうある日、仕事をやめてきて言ったの。専業主婦になりたい、子ども作ろうよ、そしたら私、主婦になれるもの、って」

 どこかで兼子も似た台詞を聞いた。

「結果的にはそれが離婚の原因になったんだよね。美樹は美人でスタイルもよくて、独身のときにはモデルだった、俺はそこに惚れたんだ。モデルは若いときにしかできないんだから仕方ないのかもしれないけど、そしたら別の仕事を見つけてしっかり働けばいい。もとモデルなんだったらその人脈とかもあるだろ、ってがみがみ怒るの。おまえの専業主婦宣言はショックだったよ、って」

 そうは言っても、惚れた弱みで許してくれるだろうと美樹は思っていた。そのうちに妊娠してしまえば、大きな顔で専業主婦ができる。ところが、三次に離婚届を突き付けられた。

「契約違反だ。俺はおまえが好きだけど、理想からかけ離れた専業主婦は許せない。絶対にいやだ、って言うんだよ。そしたら子どもができるまではパートで……って妥協したんだけど、それもいやだって。バリバリキャリアウーマンか、派手な仕事をしてる女がいいらしいんだね」

 そこで、美樹はうふっと笑った。

「めんどくさくなって離婚したよ。でも、三次は私に惚れっぱなしだから、いろいろ報告してくるんだよ。ファミレスの店長だからキャリアなんかじゃないけど、けっこう稼ぐ女に結婚を迫られてるんだ。結婚なんかしたくない、あんな地味な女はごめんだ、って思ってたんだけど、いいこと思いついた、ってメールをよこしたの。それからその女と結婚して、いいことってなんだろ、って思ってたら、幼稚な復讐だなぁ。あのときのショックを逆の立場で女房に味わわせてやりたいって」

 声を立てて笑っている美樹の台詞の、意味がわからない。前半はわかるが、後半はどういう意味だ? 幼稚な復讐?

「なのに、奥さんは意外にもけろっとしてる。家に主夫がいるっていいもんだよね、まで言う。俺はいったいなんのために……って、三次、暗いらしいね。バッカじゃん?」
「あの……それ……」
「安心していいよ。私は三次と浮気もするつもりはないから。今はただの友達。兼子さんとの変わった夫婦の様子とか聞いて、私も再婚したときの参考にしようと思ってるだけ。勉強になるわぁ」
「……あの、復讐って?」
「わかんない? 鈍いんだ」

 あ、私、デートの約束があるんだ、と言って美樹が席を立ってから、兼子はつらつら考えた。
 ファミレスの店長、すなわち兼子と結婚したのは、美樹から与えられたショックを別の立場で今度の妻に与えて復讐するため? そんな動機で結婚する男がいるのか? どうして前妻への復讐を私に?

 復讐、復讐、ショック、逆の立場。

 何度も考えてやっと思い当った。専業主婦になりたい? 結婚した相手にそう言われて離婚したくなるほどのショックを受けたとは、それもかなり兼子には意外だったが、復讐のターゲットを自分が向けられていたとは、人の考えってのは多様すぎて気が遠くなりそうだ。

 じゃあ、三次はこれからどうするつもり?
 気が済んだんだったら離婚する? それとも、専業主夫って居心地がいいな、なんて思って、その座にすわり続ける? 兼子としては、主夫と暮らすのは悪くないと思う。本音でそう思えるようになったのは、案外三次が主夫として有能だからだ。

 彼の本音を知っても、彼への恋心は幻滅などは感じていない。惚れた男のためならば、多少の理不尽にも耐えてみせる。それが恋かしら? 女友達がいたってどうってこともないけどね……自分の発想外の事実を知らされて、兼子の思考能力がうまく働かなくなっているようだった。

次は「ち」です。

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