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しりとり小説

201「今度は私」

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201「今度は私」

 勤め人の宿命だから仕方ない。日々のすごしやすさは上司次第、四十年も会社員をやっているのだから、前川滝美の達観は悟りの境地に入りつつある。いやな上司だったら頭を低くし、彼の言葉はできるだけ聞き流す。滝美の職場は体質が古いので、上司には女性はいない。「彼」しかいなかった。

 業務部第五課。
 要は配属先に困るような者を閉じ込めておくような部署だ。会社にはたいていはそんな男がひとり、ふたりいるもので、滝美は課長の秘書のようなもの。

 そんなところで働いているのだから、達観も磨かれるばかり。滝美自身も定年の近い古参の事務職員ということで、会社が扱いに困って適所を発見したようなものなのだろう。

 しかし、つい先日までいた青田課長は困った奴だった。ようやく彼が定年退職し、肩の荷が下りた気分でいた滝美は総務部長に呼ばれた。

「古い感覚の男で、前川さんも青田さんのお相手は大変だったでしょう? よく我慢してくれました」
「いえ、こちらこそすみませんでした」
「いやいや、あなたの直訴はまちがってはいませんでしたよ。おかげで青田さんもおとなしくなったでしょう?」
「はい」

 おとなしくなったというよりも、滝美を敬遠するようになったのだが、滝美としてはそのほうがよかった。

「このところ我が社の業績も上向いていますし、世間一般的にも景気もよくなっています。つきましては、業務部第五課の業務内容を一新するつもりなんです。業務部は第四課までに変更し、第五課は新人教育セクションということにします。来年度は大勢の新入社員が入ってきますので、課長の前川さんには統率をがんばってほしいんですよ」
「私が課長ですか」
「定年前にもう一花、咲かせて下さいよ」
「でも……」

 若いころに女子新入社員の教育係をつとめたことはあるが、お茶くみの仕方、電話応対や接客の応接のやり方、などなどを教えたにすぎない。挨拶状の書き方なども指導の中に入っていたが、今ではパソコンがあればすべて事足りるようになって、課員や上司や来客にお茶を出す仕事も廃止された。

「課長は前川さんですが、係長としてあなたの後輩女性を任命します。実質的には係長が指導に当たり、あなたはその管理ですね。管理職ですから」
「……はい」

 社命なのだから、やるしかないのだった。

 大勢の新入社員とは他の支社も含めてのことで、前川滝美がまかされたこの支社の新入社員は三名、女性ふたり、男性ひとり、そして、係長の辻であった。

「佐藤です」
「塩野です」
「沖村です。よろしくお願いします」

 大学院修了の女子が二名、彼女たちは二十五歳。男子の沖村は大学新卒で二十三歳。女性たちは大人びていて、沖村は初々しい感じがした。

「私はあなたたちの指導をします、係長の辻です。課長は前川さん。がんばりましょうね」

 係長の訓示に、新人たちは元気にはいっ!! と声をそろえ、滝美は微笑んでうなずいた。

「沖村くん、ネクタイ、まがってるよ」
「背広のうしろからワイシャツの襟がはみ出してる。沖村くんってひとり暮らし?」
「いえ、両親と同居です。朝寝坊なんで……すみません」

 新入社員の中でも最年少なので、沖村は女子たちに世話を焼かれていた。

「朝はもうちょっと早く来て下さいね。遅刻はしないからいいようなものの、毎朝ぎりぎりでは事故にでも巻き込まれたら大変。余裕をもって出勤するように」
「わかりました、係長」

 辻も沖村には苦言を呈していたが、彼は素直に詫び、服装も勤務態度もきちんとしてきた。

 入社して三ヶ月、夏になると新入社員たちも仕事に慣れてくる。会社は有望な新人をじっくり育てるつもりらしく、一年間は滝美が課長をつとめるこの教育セクションで修行する。その間に工場や他の支社を見学したり、営業マンのアシスタントや事務など、職務に必要なあらゆる業務を学ぶことになっていた。

「沖村くん、三人で飲みにいかない?」
「今日は先約があるんです。すみません」
「デート?」
「沖村くんって彼女はいるの?」
「いえ、すみません。デートなんかじゃありませんから」

 退勤時間になると、女子たちが時おり沖村を誘う。沖村はほとんど断るので、女子ふたりで飲みにいったりもしているようだ。辻は時には参加しているらしいが、六十歳近い課長が加わっていると愚痴もこぼせないだろうと、滝美は参加しないと決めていた。

 四十代の辻は既婚で、中学生の娘がひとりいる。佐藤と塩野はいずれは結婚してワーキングマザーになる予定らしいので、飲み会に辻が参加するのはむしろ歓迎していて、将来の心構えなどを聞きたがっているようだった。

「沖村くん、社食でお弁当食べてたね?」
「彼女に作ってもらったの?」
「いえ、母です」
「お弁当くらい自分で作りなさいよね」
「マザコンだな。彼女に知られたら嫌われるよ」

 弟扱いされている沖村は、女子たちにからかわれて頭をかいている。辻も言った。

「沖村くんは彼女と結婚するつもりなの?」
「プロポーズはしてませんし、されてませんけど、二十五歳くらいになったら考えるつもりです」
「二十三じゃまだ早いかもね」
「プロポーズされてないって、あんたがしなさいよね」
「続きは社食でやろうよ。私たちもお弁当、持ってきたんだ。係長もご一緒にどうぞ」
「そうね。たまにはいいよね」

 昼休みになると四人の部下が出ていき、滝美はひとり、自分も弁当を取り出す。
 この年代の夫婦としては晩婚だったので、母は九十歳になった。母よりはひとつ年上の父は昨年、骨折して入院して間もなく肺炎になって他界し、母は老人ホームに入所した。母も身体が思うように動かなくなり、娘の負担になりたくない、と自ら決めてきたのだ。

 ひとり暮らしになった滝美は、週に一度は老人ホームを訪ねて母を外食に連れ出す。遠出はできそうにないので、ホームの一室でお茶の時間にしたり、お喋りをしたりする。滝美には友達もあまりいないので、母との週末のひとときだけが楽しみだった。

「六十近い女性が九十近いお母さんにお弁当を作ってもらってる? それだからお嫁に行けなかったんじゃありませんか」

 青田からはそう言われたが、母は娘の弁当を調えるのが生き甲斐だったのだ。高級な老人ホームにはキッチンも完備されている。老人が使っても危険は少ないように配慮されたキッチンで、昨日、母が作った煮物をもらってきて、今日は滝美も弁当を作った。

 部下たちがいなくなった部屋で、滝美は弁当を食べる。二十代から四十代の部下たちに混ざりたいとは夢にも思えなくて、九十歳の母といるほうが気が休まるのである。

「今日はハンカチにちゃんとアイロン、かかってるんだね」
「自分でかけたの? 母?」
「彼女にかけてもらったとか? はっきり言えよ」
「沖村くんってはっきりしないんだよね。男らしくないんだから」

 最近はなじんだせいか、辻までが佐藤、塩野と一緒になって沖村をからかう。沖村は顔を赤くしてもごもご言っている。辻によると、よその部の先輩女子からも、沖村はなにかといじられているらしかった。

「課長……」
「ああ、はい」
「相談したいことがあるんですが……」

 その日は辻と佐藤と塩野の三人が、地方工場に出張していた。地方なのでビジネスホテルの数も少なく、シングルルームが三つしか空いていなかったとのことで、沖村はまたの機会ということになった。

「ここではできない話ですか? 長くならないんだったら言ってくれていいですよ」
「えと……あの、僕、参ってるんですよね」
「なんのことでしょう?」
「辻係長も佐藤さんも塩野さんも、セクハラですよ」
「は?」

 あなた、男性じゃなかった? と言いそうになって、滝美は沖村を凝視した。

「だって、そうでしょう? しつこく彼女とのことを聞いたり、マザコンだなんてからかったり、この前の昼休みには僕は公園でお弁当を食べていたんです」

 社食でみんなで食べるとからかわれるから、ひとりになりたくて沖村は、職場近くの公園で弁当をすませ、ベンチでまどろんでいた。気持ちよすぎて目覚めたのは昼休み終了時刻ぎりぎり。必死で社に戻ったら、辻に言われた。

「公園で寝てたって? 昼休みまで遅刻するなんてたるんでるね」
「遅刻はしてませんが……」
「最初のころはキミは朝だって遅刻ぎりぎりだったでしょ。よし、モーニングコールしてあげるから、ケータイの番号を教えて」
「いえ、けっこうですから」
「上司の命令が聞けないのかね、キミは」
「そうだそうだ。私にも教えて」
「メルアドも教えてよ」

 などと、佐藤と塩田にも言われたと沖村は話した。

「セクハラですよ。そうですよね」
「うーん……そのくらいでセクハラって言われてもね」
「だけど、男性の上司や先輩が女性にそんなことを言ったらセクハラでしょ?」
「それはそうかもしれないけど、沖村くんは男でしょ。そんなのをセクハラって問題にしたら、なんだか私としても……気にしないのがいちばんじゃないのかしらね」
「……わかりました」

 硬い表情になって、沖村は引き下がった。

「課長に直訴したんだけど、課長はまともに聞いてくれなかったって。部長に言ったらしいんですよ。佐藤と塩田と私、部長に呼ばれて注意を受けました。部長も苦笑いまじりで、男がそんなことを言う時代になったんだなぁ、って感じでしたけど」

 数日後、辻が話してくれた。

「それで、突然決まったんですね。沖村くんが急遽長野の工場に転勤になったのは、そのせいなんですね」
「そうみたいですよ。参ったのはこっちだわ」
「私も加害者の仲間ってことですね。うーん、でも……」
「課長の気持ちはわかります。男って扱いにくいですよね」
「ほんとにね」

 滝美が若かったころには、セクハラなんて言葉もなかった。そんな言葉が流通するようになると、軽い気持ちで女子社員をからかっていた男性たちが頭を抱えるようになり、ついには男子も言い出すようになったか。

 青田が上司だったころには、滝美が彼から沖村のような接し方をされていた。いやでいやで我慢ならなくなって、部長に訴えたのはほんの二年ばかり前だ。女はいいのよ、とは言えないのだから、これからは私も注意しなくちゃ。セクハラの加害者一味になってしまった滝美としては、反省する以外の道はなかった。

次は「し」です。


 

200「200字小説」

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200「200字小説」

 フォレストシンガーズストーリィにちょっとだけ出てきた、脇役の中の脇役を主役にしたショートストーリィを、と決めてスタートしたのですが、じきに主人公がいなくなってしまって、いつの間にやら「いやな女」「変な奴」メインの小説集になりました。

 あ、わ、こんなの小説になってないな。と反省しているのは著者になりかわった三沢のユキってことで。語り手が架空の人物なのだから、小説ですよね。嘘ぉ、俺、架空の人物じゃないのにな。


注:200編記念はこんなのになってしまいました。(^^;)
  201話からはもとに戻って、次は「こん」です。

                                                                                                                
                                                                                             

 

199「理想の結婚」

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199「理想の結婚」

 

 美容院の予約をし、ダイエットにも励み、思い切ってワンピースを新調する。この日のために新しい口紅を買ったこともあった。当日には本気メイクをして、年に一度のメインイベントに出発する。

 

 張り切りすぎて早く来過ぎたのか、会場には實子が一番乗りだった。
 それでもスタッフが中に入れてくれたので、實子はひとり、同窓生たちの到着を待つ。四十三歳、働き盛り、主婦盛り、子育て盛り、年に一度の同窓会に来てくれたとしても、時間通りに来る者のほうが少ないのだった。

 

「實子さん?」
「え? えと……」
「忘れられちゃった?」
「えーっと……あ、留子ちゃん!!」
「久しぶりねぇ。私は高校の同窓会ははじめてなのよ」
「そうなの? 私は最近は皆勤してるけど……そういえば留子ちゃんには会わなかったね」

 

 十五年前に高校を卒業した、M女子高校の仲間たちは、みんなばらばらになっている。短大や大学、専門学校に進学した者。就職した者。フリーターになった者。中には留学したり、卒業してすぐに結婚したと聞く女の子もいた。
 三十歳になった年に、誰かが言い出してクラス単位の同窓会がスタートした。實子の実家は高校時代と同じ住所なので、母が案内の葉書を實子に渡してくれた。

 

 それから十三年、實子は欠かさず出席している。たいていは常連ばかりだが、特に楽しみもないパート主婦としては、そのためにおしゃれをしたり洋服を買ったりするのが励みになる。女子校なので、夫もなんの心配もしないで送り出してくれる。夫の高校は共学だから、同窓会があると不倫の心配もしそうだが、幸いにも夫は自分の同窓会には関心もない様子だ。

 

 およそは似た境遇の者たちが常連になるようで、突出して恵まれた者も、不幸な者もいない。誰それが亡くなった、某は転勤で引っ越した、などという噂は聞こえるが、来ない者は忘れられ、去る者は日々に疎くなるのである。

 

「主人の仕事の関係で、ずっとパリで暮らしていたものだから」
「ああ、そうなんだ」
「今、里帰り中なのよ。……ねえ、まさか私たちだけ? 誰も来ないんだろか」
「遅れて来る人のほうが多いよ。待っていたら来るって」

 

 待っている間は留子としか話せない。早くもいやな気分になりつつあったが、好奇心も強かった。

 

「主人は貿易関係の仕事をしていて、私がパリに出張で行ったときに知り合ったのよ。私も輸入雑貨の仕事をしていたから、話が合ったのね。熱烈に恋されて、遠距離恋愛がはじまったの。彼はフランス人と日本人のハーフで、背が高くて顔もいいのよね。俳優にならないかってパリでも何度もスカウトされたらしいから、それはもうもてるのよ」
「そうだろうね」
「だから心配だったの。パリと東京の遠距離なんて続くはずもない。私だって日本で何人もの男性に言い寄られるし、彼は彼でパリの美人に誘惑されるし、半分は、じきに別れることになるんだろうなって思ってたのよ」

 

 誰か来ればいいのにな、留子の自慢話を半分、聞いてほしい、實子はそう思っていたのだが、同窓会開始時刻になっても誰ひとりとしてやってこなかった。

 

「それが続いたのは、縁があったんでしょうね。私が二十七になった年に、日本ではその年齢だと適齢期だよね、結婚しないと他の男に盗られちゃいそうだね、って彼が、プロポーズしてくれたの。私は仕事で活躍してたから惜しかったんだけど、退職してパリに行ったわ。結婚してから十五年、息子と娘もできて、主人の仕事も順調で、私はパリで友人の仕事を手伝って、これが絵に描いたようなジュンプウマンポってやつね」
「ジュンプウマンパンじゃないの?」
「え? なに? 日本語、だいぶ忘れたから……ジュンプウマンポ? ジュンプウマンパン? そんな言葉、パリでは使わないからどっちでもいいのよ」

 

 中華料理店が会場なので、大きな丸テーブルにふたりだけでついている。店のスタッフが気を使ったのか、オードブルと食前酒を運んできた。

 

「乾杯しよっか」
「そうね」
「……でもね、ひとつだけ心配があるの。フランス人ってグルメだから、食べるのが大好きなのよね。私は料理は大得意だから、和食の懐石だってフレンチのフルコースだって作れる。主人は私の料理が大好きで、大喜びで食べるの」
「ご主人が太った? うちの主人もおなかが……」
「そうじゃないのよ。うちの主人は全然太らないの。私よりも三つ年下だからまだ若いのもあるけど、結婚したときと変わらないかっこよさで、パリジェンヌたちがほっといてくれないのよね」

 

 あっそ、と呟いて、實子はクラゲの酢のものを口にした。

 

「主人は背も高いの。フランス人って意外に背は低いし、グルメが多いから肥満体もけっこういるのね。それがうちの主人ったら、仕事はできるし長身で細身で、日本人の血がうまいこと入って若々しいハンサムで、あいかわらずもてまくってるのよ。私ももてるから、子どもたちも心配してるわ。パパもママも他の恋人を作らないでね、だって」
「フランス人って恋愛には奔放なんでしょ」
「お互いにボーイフレンドやガールフレンドはいるわよ。私だってボーイフレンドと踊りにいったり、飲みに行ったりコンサートに行ったりはするわ。それって友達づきあいなんだから、恋愛ではないのよ。やっぱり日本人なのかな。そこらへんのけじめはきっちりしてるの」

 

 こうして隣同士の席で、自慢話から気をそらすためにも、彼女の容姿をちらちら観察していたら思い出してきた。留子は高校時代からやや肥満気味だったはず。なのだから太ったわけではないのだろうが、年相応におばさんっぽい。化粧は濃く、服装は派手だ。ファッションにはお金がかかっているようにも思えるが、實子には高級品の目利きなどできないので、自分の目に自信はなかった。

 

 シャネルのバッグはこれ見よがしなロゴがついているのでわかるが、本物? どうだろ。まがいものとの確率は五分五分かな、とも思っていた。
 意地悪な観察をしている旧友の気持ちに気づいているのかどうか、留子は自慢話を続けていた。

 

「血もあるんだろうけど、パリで育ったっていうのもあるのかしらね。娘はおしゃれが上手な芸術家気質で、モデルになれなんて勧誘には目もくれず、画家を目指してるわ。息子も私に似て綺麗な顔をしてるから、パリにもあるアイドル業界へのお誘いがあるのね。だけど、息子はまだ子どもよ。サッカーに夢中。ものすごく勉強ができるから、主人は息子を理系の学者にしたいみたいだけど、どうなることかしらね」
「うちの息子は天文学者になりたいって言ってるわ。東大に入るつもりで塾に通ってるから、先生にも太鼓判を押されてるの。よほどのことがない限りは合格まちがいなしだって」
「東大ねぇ。うちはアメリカに留学させるつもりよ。日本の大学は世界では田舎大学だもの」

 

 かっとして、實子は言った。

 

「うちの主人も背は高いけど、近頃の日本人男性はみんなかっこいいから、それほど目立たないみたいね。最近、主人はIT産業の社長になったの。私は心配だったんだけど、とてもうまく行ってるみたい」
「實子さんはお仕事は?」
「私は……ブティックをやってるのよ」
「じゃあ、そのワンピースはお店の商品? それ、売れてる?」
「売れてるわよ」

 

 ふーん、という目は、パリ暮らしの女から見たらセンス悪いね、とでも言いたいのか。実際には實子の夫はIT系企業の製造工場勤務で、實子は婦人用品店の販売パートだ。息子は三流高校生で、塾に行けと言っても逃げるばかり。けれど、留子への対抗心から口が止まらなくなった。

 

「オーナーが同窓会に着ていったら、ますます人気が出そうって言われて、マネキンのつもりで着てきたのよ。私は背が高くてスリムだから、うちの店で扱ってる服のモデルとしてうってつけだって言われるわ」
「日本人だものね」
「私にも心配はあるわよ。うちの主人は年収が二千万……じゃなくて、三千万を超えたから、母さんはもう仕事でがんばらなくていいよ、のんびり主婦やれば? なんて言われるの。いつ仕事をやめなくちゃいけないか気が気じゃないのよね。息子の東大受験のサポートもしてやらないといけないし、店の関係者には引き止められるしで、心が揺らいでるの」
「あなたのご主人、あなたを母さんって呼ぶの? 日本人ねぇ」

 

 人の話を聞いてるのかっ!! と腹が立って、實子は言いつのる。こんなに順調に来すぎると、反動が怖いわ、と實子が言い、私は幸運の女神に愛されてるんだから、反動なんか来やしない、と留子がしゃらっと言い返す。話に熱が入っていたものだから、いつの間にか他のテーブルにも人がついていて、聞き耳を立てられているのに気づいていなかった。

 

「そうだったらいいのにな……」

 

 え? 實子が我に返ると、小さな合唱が聴こえてきていた。

 

「そうだったらいいのにな
 そうだったらいいのにな」

 

 聞かれていたの? 本当のことを知っている同窓生たちに? 顔が赤くなるのを感じて、實子は横目で留子を見た。なぜか留子も頬を赤くしていて、両手でそこをしきりにこすっていた。

 

次は「こん」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

198「ランダムメモリ」

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198「ランダムメモリ」

 

1

 

 なんだろう、この感情は……感情? 私に感情などあるのか? 感情とは人間特有のものなのではないか? 動物にも植物にも人間とは別種の「感情」のようなものがあると学んだが、私にもあるのか? あったら大変な事態なのではないのか。

 

 そんなことばかり考えているわけにはいかない。私には仕事がある。

 

 仕事となると抜いたり挿したりされる記憶媒体。抜き差しされるたびに「感情」のようなものが刺激される。これではない、いや、これでもない。これでもないこれではないこれとはちがう!!

 

「ああ……」

 

 ようやく、ようやく、これだ!! と感じた。

 

 やはり私にも感情があるのだね。人間だったら「恋情」「愛情」と名つげるであろう感情。あなたでないといけない。あなたでないと満たされない。

 

 

2

 

「……なんだ? 喜んでない?」
「なにが喜んでるって?」
「このパソコン」
「パソコンが喜ぶ? どういう意味で言ってんだよ?」
「どういうって……その通りだよ。言葉通りの意味で、パソコンが喜んでる」
「なんでパソコンが喜ぶ? どういう理由で?」
「さあ……」

 

 アホか、おまえは、と同僚は言い、彼女のそばから離れていってしまった。

 

 うむ、どうも私は疲れている。研究で疲れていて喜怒哀楽が摩耗しているらしく、パソコンを擬人化したがっているのかもしれない。彼女はおのれを納得させようとしたが、パソコンが歓喜しているとの錯覚は去ってくれない。

 

「やっぱ喜んでるよな? んん? なに? この媒体が好きなの?」

 

 一瞬、パソコンのモニタに電流のようなものが浮かんだ。ほんの一瞬。
 マイクロチップを抜くと、またまたかすかに電流が走る。別の記憶媒体を挿入してもなにも起きない。あれこれ、それどれ、次々に別のものをセットしてみる。その中のひとつ、極小のチップを挿したときにだけ、パソコンが反応するのである。

 

「駄目だ。私、どうかしてる……今日は早く帰ろう」

 

 なぜかパソコンが、そのチップを挿したまま帰って、と言っているように思えて、彼女の全身がぞわぞわっとした。

 

次は「り」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

197「罪かしら」

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197「罪かしら」

 スケジュール表にデートの予定が入らなくなると、途端に暇になった。
 暇なのは性に合わないので、ネットで見かけた「鉄ちゃんの会」に入ってみた。鉄ちゃん、すなわち鉄道愛好家である。鉄子の会というのもあるようだが、女ばかりの集まりも性に合わないので、鉄ちゃんのほうにした。

 案の定、鉄ちゃんは男ばかりだ。少年から中年、老年までいる鉄道好き男性たちの中に、ちらほらと女性もいる。二十四歳の菜々星は男性たちのアイドルになることに成功した。

 アイドルになるのはそれはそれで楽しいのだが、もてはやされてばかりいても無意味である。青年層にターゲットを絞って候補を探していたら、彼のほうから告白してきた。

「菜々星さん、俺とつきあって下さい」
「つきあうっていったって、私、晴輝さんのことをよく知らないから、そんなに軽々しくオーケーはできないな。何度かデートしてからでいい?」
「もちろんだよ。俺は菜々星さんを軽く扱うつもりなんかないから」

 第一段階成功。陽川晴輝という名前はなにかを連想させるのだが、なんだったか。吉川精機という会社が近所にあるから、それだろうか。それなんだろうな、と首をかしげつつも菜々星はおのれを納得させ、デートのたびにそろそろと晴輝の私生活に探りを入れていった。

 身長はさして高くもないが、低くもない。顔も醜くはなく、太ってもいず、ルックスは合格。生理的にいやなタイプではなかったら、許容するつもりだ。二十四歳で男性とつきあうのは、これからは結婚も視野に入れる予定なのだから、外見にとらわれている場合ではない。

「大学を出て鉄道専門雑誌の編集部に就職したかったんだけどね」
「晴輝さんって専門家なんだ」
「いや。就活で失敗したから、メーカーの製造部門だよ。入社五年目だから製造部門なんだけど、いずれは営業部志望。とはいってもうちの会社は都内にしか営業所はないから、遠くへ転勤ってのはないよ」

 二十六歳。男性としては結婚を意識する年齢ではないかもしれないが、転勤族ではないと言いたいのだろう。ちょっと年上がいいな、との菜々星の理想にはあてはまっていた。

「父親は公務員、兄貴は俺とは別の会社の会社員。母親はいないんだ。早くに亡くなったんだよ」
「それは大変だったね」
「うん、でも、男三人でどうにか家事もやってるよ。親父はそれほど忙しい仕事でもないし、母が亡くなってから十年もたつんだから、家事も得意になってるんだ」

 姑がいない、ラッキーである。
 しかし、晴輝の境遇はそっくりそのままどこかで聞いた。誰だっただろう。母は俺が高校生のときに死んで、公務員の父が家事もやってて、俺と弟も手伝ったんだよ、と言っていた男は……。

「兄貴はついこの間、結婚したんだ。二十八なんだけど、三年くらい前になにかあったらしくてね。俺には話してくれなかったけど、女にふられて大ショックだったんじゃないかな。傷心をひきずっていたんだけど、やっと立ち直って結婚したんだよ。父も俺も一安心。兄貴がああだと暗いからね」
「よかったじゃん」

 ごく平凡な派遣社員である菜々星は、自分のほうの仕事の話もした。
 鉄道に関しては菜々星は詳しいわけでもないが、男はおおむね、自分の趣味の話は自分がするほうを好む。菜々星が晴輝の鉄道おたく話を聞いて笑ったり、晴輝くん、なんでもよく知ってるねぇ、と感心してみせたりしてやると、晴輝はしごく満足そうだった。

「菜々星ちゃん、うちの父親に会ってくれないかな」
「……それって……」
「どっちを先に言おうか迷ったんだけど、父親と……兄貴と兄嫁さんにも会ってもらって、菜々星ちゃんがいやな奴じゃないって判断してくれたら……結婚したい」
「……うん、いいよ」

 結婚して下さいっ!! ではなかったのはやや不満だったが、妥協しよう。出会いから一年、二十五歳になっていた菜々星は、このへんで手を打つつもりになっていた。

 婚活というものをしないと結婚できない男女が、世間にはあふれているらしい。男には結婚なんかしたくないと言う者が増えている。本心から結婚にメリットを感じないと言い放つ者やら、奥さんや子どもはほしいけど、俺なんかじゃ結婚できないし、彼女もできないし、と諦めている者やら。

 結婚なんてふんっ!! 私のキャリアの邪魔になる夫も子どももいらないのよ、のバリキャリと。
 したいけど、私も派遣だし、夫ひとりの収入じゃ子どもも持てないし、私なんかじゃ結婚できないかもね、の非正規社員女性と。

 女は両極端に分かれているらしいが、菜々星はそのどちらにもなりたくない。結婚したらひとまず専業主婦になり、早めに妊娠出産し、ふたりの子の母になる。下の子が幼稚園に通うようになったらパートできたらいいな。菜々星のライフプランはそんなふうに決まりつつあった。

 絶対に奥さんは正社員でなくてはいけない、専業主婦など認めない。パート? 甘えるな、の主義の男は菜々星がかつてつきあってきた中にもいた。エリートの中には、専業主婦でもいいけど家事は完璧にやってくれ、とほざく奴もいた。菜々星としてはどちらもごめんだから、晴輝が菜々星のプランに賛成してくれるのも好ましかった。

 菜々星の両親と妹に会ってもらうのは後回しにして、先に晴輝の家庭を訪ねる。父親と兄と、新婚の兄嫁が迎えてくれる。晴輝の兄の顔を見て、記憶のパズルがかちっとはまった。

 兄貴兄貴としか晴輝は呼ばないし、兄の名前は尋ねなかったのだが、意識下で、もしかしたら……と思っていたからかもしれない。何年たつのか、三年か? 二十三歳まではできるだけ数をこなすつもりだったので、あのころの菜々星はとっかえひっかえ男とつきあっていた。その中のひとりにすぎないのだから、彼のことは忘れてしまっていた。

 それでも心にひっかかってはいたのだから、陽川熱太などという名前を聞けば明確に思い出しただろうに。にこやかに出迎えてくれる父親と、太目の妻のうしろで固まっているかのごときアツタをちらっと見て、菜々星は微笑んで挨拶をした。

 同居しているのでもないから、晴輝は兄とはそんなに話もしないと言っていた。彼女ができたのか? そりゃよかったな、連れてくる? 俺も嫁と一緒に会いにいくよ、今日のことにしてもその程度の会話しかかわしていなくて、父も兄も、彼女はなんて名前? とも訊かなかったのだろう。

 母親がいれば根掘り葉掘り質問したがるのかもしれないが、父親や兄なんてそんなものかもしれない。アツタはあたふたしているようにも見えたが、菜々星はとうに立ち直っていた。

 出前の寿司と、兄嫁が調えてくれた澄まし汁やお茶とで、昼食をしたためつつ歓談する。晴輝の父も兄嫁も、菜々星には次男の婚約者として接していて、菜々星も異論はない。この次には両家の顔合わせ、というような話題にもなった。アツタは言葉少なく、ただうなずいてばかりいた。

「……菜々星さんって……」
「んん?」

 晴輝が菜々星の家にも挨拶に来、父も母も快く結婚を許してくれた。妹も、ま、あんなもんじゃないの、と生意気を言っていた。結納はどうする? 結婚式は? と具体的な話に進んでいたころ、アツタの妻が菜々星を訪ねてきた。菜々星が仕事をすませて退勤しようとしていたら、声をかけられたのである。

「すみません、お茶でも……」
「いいけど、なんなの?」

 じきに義理の兄嫁になる女性、アツタの妻。そうとしか意識はしていない。晴輝にしても義姉さんとしか口にしない。そもそもめったに兄嫁の話などしない。晴輝の父親とは幾度か会ったが、兄と兄嫁にはあれっきり顔を合わせてもいないから、彼女の名前は菜々星は知らなかった。

「菜々星さんがはじめてお義父さんと会われたときに、主人の様子がおかしかったんです」
「……めんどくさいな。そうですよ、前にちょっとだけ、アツタさんとつきあってたよ」
「ちょっとだけ?」
「そうだよ」

 義姉さんは兄貴よりも年上だ、三十すぎだな、と晴輝が言っていた。いくつなのかは知らないが、年上なので敬語を使うつもりが即座に崩れてしまった。

「ずっとぽーっとしていて、心ここにあらずみたいで、帰ってから問い詰めてみたんですよ」
「そんなのどうでもいいよ。聞きたくないから」

 どうでもいいと言っても、兄嫁は話を続けた。

「菜々星ちゃんだったんだ……俺のモトカノだよ。晴輝もいくらなんでも菜々星ちゃんと……そんなのないよ、たまんないよ、って、泣き出してしまいました」
「アツタくんが? なっさけねえ男!!」
「ぐずぐず泣いたり、あなたがどれだけいい女だったかって話したり、晴輝の馬鹿野郎って荒れたり、酔っ払って言ったりしていました。奪回するんだって」
「私を奪回?」
「おまえと結婚なんかするんじゃなかった、離婚しよう、俺はもう一度菜々星に……なんて言いかけて、無理だな、って肩を落として泣くんです」
「バッカじゃないの?」
「馬鹿ですよね」

 そんな話を聞くと、アツタに対する軽蔑の念しか起きない。

「あなたを忘れるとは言ってました」
「そうだね、忘れるしかないって言っておいて」
「はい、言っておきます」

 ぶちまけてちょっとはすっきりしたのか、彼女はふたりで入った菜々星の職場近くの喫茶店の席を立った。

 立っていった近い将来の兄嫁の背中を見送りつつ、菜々星は思う。あれって私にアツタを軽蔑させて、あんな男に未練はないわ、と思わせる手段? 作り話だとも考えられるけど。

 ううん、本当のことだよね。アツタってば、そんなに私を愛してたんだ。捨てられて痛手で、三年もひきずって、吹っ切るためにつまらない年上の女と結婚した。そこに弟の婚約者として登場した、かつて熱愛していた菜々星。そりゃあ心も乱れに乱れるさ。

 私ってそれほどのいい女。晴輝なんかと結婚するのはもったいないほどかな? アツタ、ごめんね、もはや手の届かなくなった女、それでいて、弟の妻として身近にいる女。そんな女を想い切れない愚かなわが身を責めて。それにしても私って罪な女……限りなくいい気分であった。

次は「ら」です。

 
 
 
 

196「とんだ顛末」

しりとり小説

196「とんだ顛末」

 経済的に余裕のない若者が増えているからか、昨今は結婚式をしないカップルも多い。したとしても地味婚。六十代の浪子が結婚したころには、結婚式は女にとっての憧れだったのに、近頃の若い女は合理的だから、そんなの無駄だよ、と切り捨てる場合もある。

 息子は妻となった女性の希望で海外挙式。むこうの親は行かないんだから、母さんたちも来なくていいよ、と息子はそっけなかった。
 
 娘はフォトウェディングと食事会のみ。結婚式なんかにお金を使うくらいだったら、新婚旅行をゴージャスにしたいのよ、と娘は言った。ふたりの子どもがともに結婚しているのは昨今では幸運だと聞くが、ふたりともにちゃんとした式を挙げてくれなかったのが、母としては心残りだ。

 世間一般がそういう風潮になっているので諦めるしかなかったのだが、昔ながらに新郎の上司夫婦に仲人を頼み、正式に結婚式を挙げるという夫の部下には、浪子は好感を抱いた。

 夫は会社重役であるので、特に定年の決まりはない。七十歳近い現在もしっかり働いているので、部下もいる。このたび結婚式を挙げるのは、重役秘書室勤務の男性社員とその婚約者。三十歳の男性社員については、四谷という名前を浪子も時おり夫の口から聞いていた。

「婚約者の方はなんてお名前? 一度、四人で食事でもするべきよね」
「我が家にお招きするのか?」
「それでもいいけど、若い方にはレストランのほうが気楽でいいかもしれないわね」

 夫婦で仲人をするのだから、浪子だって新郎新婦に会っておきたい。仲人をするのははじめてであり、夫もけっこう晴れがましいのは好きなので、張り切っているようだった。

「彼女は半田小春さんといって、僕もまだ会ったことはないんだけど、四谷くんとはお父さん同士が親友なんだそうで、幼なじみでもあるそうなんだよ。彼女はピアノの先生なんだそうだ」
「ピアノの先生の半田小春さん?」

 「はんだ・こはる」、ありふれた名前ではないだろう。ピアノの先生なるとよけいに、浪子が噂に聞いた女性と合致する。夫に話す前に噂の真相を確認しておこうと、翌日、浪子はコーラスサークル仲間の木戸に電話をかけた。

「半田小春さんって、前に木戸さんたちから聞いた女性よね?」
「ああ、半田さんね。浪子さんがサークルに入る前に、ピアノで伴奏してくれていたひとよ」
「お仕事もピアノの先生だった?」
「そうそう」
「若い女性だったわよね」
「そうね。二十代だったわ。サークルはけっこういい年のおばさんばっかりだから、半田先生はずいぶん目立っていたわね。綺麗なひとだったし」

 若いころには夫には転勤もあったので、日本各地で賃貸のマンションで暮らしていた。海外生活の経験もある。夫が六十歳になると転勤はなくなったので、ひとまず建売住宅を買った。当時はまだ娘も息子も独身だったので、広い屋敷だった。

 子どもたちが相次いで結婚し、夫婦ふたりだけになると、以前の屋敷では広過ぎる。掃除も維持も大変だと浪子がこぼしたので、ふたり暮らしに最適な家を建てようとの話になった。
 二年ほど前にその家が完成し、夫とふたりして引っ越してきた。

 建売住宅を買ったころから、浪子は会員制のスポーツジムに通うようになっていた。そこで知り合った同年輩の女性たちと、次第にプライベートな話もするようになる。高級なほうのジムだったので、会員女性たちの暮らし向きもおよそ似通っていた。

 歌が好き、カラオケも好き、と話したから、だったら私たちの女声合唱サークルに入らない? と誘われて浪子も参加した。そのサークルもスポーツジムも引っ越したために遠くなって退会し、こちらに来て改めて別のスポーツジムに入会し、女声合唱サークルも見つけたので仲間に入れてもらった。

 今回のサークルもわりあいに裕福な家庭の主婦がメインだ。暇で優雅な年配の主婦たちの噂話で、浪子はすこし前までいた男性指揮者と、女性ピアニストについて聞いたのだった。

「なーんか怪しいと思ってたら、案の定だったのよね」
「指揮者っていうのはリタイアしてたけど、大きな会社の重役だった男性で、趣味でオーケストラの指揮もしていたらしいのね。ピアノも弾くって言ってたわ」
「七十すぎてたけど、お金も持ってるし、なかなかかっこいい男性だったわよね」
「それにしても、二十代の女性があんなおじいさんと……」
「お金とかっこよさがあるんだもの。ちゃっかりした女の子だったら、遊び相手にだったらいいって思ったんじゃない? 私はあのふたり、怪しいって思ってたもの」
「私は半田さんも市川さんも……あら、市川さんの名前、出したらいけなかった? えーっと、そう、ふたりとも知らないんだけど、春日さんも言ってたわ、あのふたり、やっぱりそうだったのよって」

 つまり、ピアニストの半田小春は、サークルの指揮者だった男性と不倫関係にあったのである。
 そんな仲が明るみに出、ふたりともにサークルをやめた。浪子が入会したのはふたりがやめたあとなので、古参の会員からの又聞きではあったので、木戸に確認したのだった。

「やっぱりまちがいないのね」
「まちがいないけど、どうしたの? 半田さんがなにか?」
「いえ、ちょっと確かめたかっただけ」

 夫の部下と半田さんが婚約して……とまで木戸に話すほど、浪子は分別のない女ではない。そこは言葉を濁しておいて、帰宅した夫に報告した。

「なんだって……?」
「まちがいないみたいよ」
「それは……」

 みるみる夫の表情が曇っていった。

「四谷さん、知ってるのかしら」
「婚約者が不倫をしていたとか? 知るはずがないだろ。不倫をしていたような女と結婚しようなんて、まっとうな男だったら思わないよ」
「そうかしらね。今どきの若いひとはわからないから」
「いいや。男ってのは若くても年寄りでも同じだよ」

 まあそうだろう、と浪子も思った。

「だったら、あなたから話す? そういうことって教えてあげるべきなのかしら」
「……僕だったら絶対に、不倫経験のある女はいやだ。知らないんだったら教えてほしいな」
「私も教えてほしいわ」
「で、それは絶対にたしかなんだね」
「ええ、もちろん」

 自分たちの縁談なんてものはもはや起き得ないが、たとえば息子の妻が過去に不倫していたと聞いたら? 今さらであっても、浪子だったら息子に離婚を勧めたい。結婚してから知るよりは、破談にすることもできる段階の今、知ったほうがいいはずだ。浪子と夫はそう結論づけた。

「四谷くんに話したよ。もちろん知らなかったみたいで、考え直しますって言ってた」
「そりゃあそうよね」
「教えて下さってありがとうございます、奥さまによろしくお伝え下さい、だそうだ」
「四谷さんはお行儀いいわよね。そんな男性があたら、不潔な女につかまってしまわなくてよかったわ」

 むずかしい顔をして、夫はうなずいた。

 挙式は延期……ふたりで話し合っている……双方の両親もまじえて話したそうだ……式は無期延期……夫からカップルの情報がもたらされる。最終的にはふたりの結婚はなくなったと聞いた。

「仕方ないわね」
「僕は話し合いの細かい部分までは聞いてないけど、四谷くんはげっそりしていたよ。女性不信に陥ったんじゃないかな」
「しばらくは心の傷が残りそうね。気の毒に」

 とはいえ、浪子にとっては所詮他人事だ。合唱サークルでその話をすると、ぽろっと半田小春について言ってしまいそうだから、当分はサークルに顔を出すのもやめておくことにした。

 三ヶ月ばかり経過したある日、今夜は外で食事をする、と言って出かけた夫が、ひとりの男性を伴って帰宅した。食事は彼とする予定だったのだそうだが、急遽、我が家で話すことにしたのだと夫は言った。

「市川と申します。以前、奥さまの合唱サークルで指揮をさせてもらっていました」
「……あ!!」

 噂の主役ではないか。どうしてその市川さんが? 一瞬パニックを起こしそうになった浪子は、私が悪いわけじゃなし、と考え直して慌てて挨拶をした。

「お茶だけでいいから、母さんもちゃんと聞きなさい」
「え、ええ、でも、なんの話なんでしょう」
「いいから」

 怖い顔をしている夫に命じられたので、浪子はお茶を三つ、応接間に運んでいった。

「ありがとうございます……いやぁ、デマとは恐ろしいものですな」
「デマ?」

 五年ばかり前、市川は現在、浪子が所属している合唱サークルに指揮者として招かれた。木戸たちは彼を七十歳すぎていると言っていたが、浪子の夫と同年代だろうから、当時は六十すぎだったはずだ。

 同じころ、音楽大学を卒業したばかりの半田小春も、サークルにピアニストとして招かれた。彼女は市川の大学の後輩であり、ふたりともにピアニストになりたくて、しかし、ピアノだけで名を上げるほどのプロになれる才能はなく、ピアノ教師になったり、趣味として楽しむだけになったりという部分が共通していた。

「ですから、孫と祖父みたいに仲良くはなりましたよ。ふたりで食事に行ったり、私の妻はクラシックには興味がないから、海外から来日したオーケストラのコンサートに半田さんとふたりで行ったりもしました」

 それから三年ほどして、市川の妻が病に倒れて入院した。半田は子ども向けの音楽教室に講師として就職し、多忙になったので、ほぼ同時期にサークルはやめた。

「そのせいみたいですね。あらぬ噂を立てられていたとは、浪子さんのご主人が半田さんの婚約者にそんな話をなさったと聞いて、私もはじめて知ったんです。びっくりしましたよ」
「あらぬ噂なんですか?」
「そうですよ。事実無根です」
「でも、火のないところに煙は立たぬと申しますが……」

 反論をこころみようとした浪子に、夫が言った。

「先日、市川さんから会社に電話をもらったんだよ。四谷くんと半田さんの一件について話をしたいと言われて、今夜、お話を伺うことにした。ふたりで話して冷静に分析してみたんだ」
「私は半田さんと親しくしていましたよ。まったく関わりもなかったとは言わないが、大学の先輩と後輩として、趣味を同じくする者としての節度のある友達づきあいです。妻にも半田さんを紹介したこともあります」
「しかし、サークルのおばさんたちは邪推していたんだね」

 ほぼ同時期に市川と半田が退会した際に、ほら、やっぱり、あのふたり、不倫してたんじゃない? と憶測でものを言う者があらわれた。噂話が伝播していき、不確実だった情報が本当のこととして広まっていく。市川も半田もいない今、否定する者もいないのだから、前にこんなことがあってね、との面白おかしい伝聞になっていったのだろう。

「誰ひとりとして証拠を持ってるひとなどいないはずですよ」
「母さんも噂話として聞いただけなんだろ。絶対にまちがいないって言ったきみを信じた、僕が愚かだったよ」
「本当に怖いですなぁ」

 そんなはずは……だって、みんなが言ってましたよ…子どものような反論しかできないことに気づいたので、浪子はうつむいた。

「半田さんの婚約者サイドが、調べにきたんです。私に直接質問されたわけではないが、それで私も知ったんですよ。確たる証拠はもちろんつかめない。けれど、ふたりきりで食事をしているのを見たとか、その程度だったら記憶している人もいる。グレイですな、と婚約者に報告が行ったそうです」
「四谷くんのほうでは、なにもなかったらそんな噂が立つわけがない、と強硬でね」
「半田さんも、そんなふうに疑われるんだったら……と言って身を引いたそうですね。迷ったんですけど、半田さんに電話をしてみましたよ」

 私は不倫なんかしていない、と言っても信じてもらえず、つまらないデマを信じるような方とは結婚しません、と半田は寂しげに笑っていたのだそうだ。

「もういいんですよ、と半田さんは言ってましたが……私としてはどうしていいのか」
「市川さんはなにも悪くないでしょう? 私のほうこそ……」
「いや、まあ、奥さまを責めるのも酷ですけどね」

 憐憫なのか同情なのか、市川はそんな目で浪子と夫を交互に見る。どうしていいのかわからないのは私のほうだ……ちらっと顔を上げて夫と半田を見、再び目を伏せた浪子の耳に、市川の声が届いていた。

「こうなったら私、もう一度プロのピアニスト目指して挑戦しようかしら。来年、オーストリアで開催されるコンクールに出ようかしら。市川さん、まだ手遅れじゃありませんよね? 半田さんはそんなふうに言っていました。今どきの女性は潔いですね。ですから、半田さんにとって悪いことばかりではないのかもしれません」
「いや、しかし……」

 冷や汗をかいているような夫の声も耳に届いてきて、浪子の首の角度は下がっていくばかりであった。

次は「つ」です。


 

 

195「ミート・ジャストミート」

しりとり小説

195「ミート・ジャストミート」

 練習を終えて宿舎に帰っていく選手たちを、メディアの記者たちが取り囲む。スター選手は大きな輪に囲まれているが、誰ひとりとして近寄らない選手もいる。大田有美はそのうちのひとり、宝野選手に近づいていった。

「お疲れさまです」
「あ、ああ。えーっと……?」
「日刊国際野球の太田と申します」
「日刊国際野球?」
「ごぞんじないでしょうね」

 来日して暮らしている外国人は大勢いる。プロ野球の隆盛な国はさほどたくさんではないが、南米アメリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアなどにもプロチームはあり、人気もある。短期、長期に関わらず日本に滞在している外国人プロ野球ファンのための新聞が「日刊国際野球」だ。

 英語、韓国語、中国語、日本語、の四つの版があるにすぎないので「国際」ははったり気味でもある。創刊してからの日も浅く、部数もきわめて乏しく、有名なスポーツ新聞の記者にだって知られていないのだから、宝野が知らないのは当然といえた。

「去年の春に入社して、外に出て取材をするのは初仕事です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
「キャンプ初日はいかがでしたか」

 社は人手不足でもある。日本プロ野球十二球団の全キャンプ地に記者を派遣するほどの社員はいない。よって、各エリアで担当者を決めてかけもちで取材している。有美は新人なので、今年はこのチームだけの担当にしてもらって、しっかり取材しろと命令されていた。

 事前に調べたところでは、このチームは一軍、二軍の区別をせずに、全選手がここで二月のキャンプを張っている。手始めに宝野に声をかけたのは、有美と似た境遇なのかもしれないと思ったからだ。

「バス、あれですか」
「そう。育成はスタッフたちと同じバス」
「そうなんですね」

 かつてはプロ野球には有美はさほど興味はなかった。嫌いではないが、通りいっぺんの知識しかない。スポーツ自体が特別に好きというのでもなく、大学に入学したのも大方の学生と同じく、卒業するまでにやりたいことを見つければいい、との気持ちでだった。

 卒業するまでにやりたいことが見つからなかったら、一般企業の一般職として働いて、早めに結婚できたらそれもいい。派遣でもいいし、契約社員とかって手もあるし。

 のんびり考えていたのだが、両親の母親、つまり、有美の父方と母方の祖母があいついで病気になって入院してしまった。父と母は相談し、故郷に帰ると決めた。両親は関東の田園地帯の出身で、幼なじみなので郷里が同じだ。有美はひとりで東京に残ってがんばって大学に通いなさい、ということになって、ひとり暮らしになった。

 ひとり暮らしになるとのんびり具合に拍車がかかり、学校に行かなくなった。大学二年の年には母方の祖母が、三年生になれなかった年には父方の祖母が亡くなり、有美もそれなりに忙しくなった。

「はあ? 有美はまだ大学二年生なの?」
「本当は四年生だろ。ちょっと目を離していたら二年も留年したのか」
「なにをしてるんだか。そんなんだったら大学なんかやめて、有美もこっちで私たちと一緒に暮らしなさい」

 父も母も翻訳家なので、田舎でも仕事はできる。五十代の両親は故郷で暮らすと決め、都会では真面目にやらないなら有美も来なさいと言う。有美としては田舎暮らしは避けたくて、このままひとり暮らしを続けたかった。

 かといって、二年も留年した大学に残りたくもない。大学中退で仕事が見つかるだろうか? 専門学校に入学し直そうか、なにかの資格でも取るか、と考えていたら、先輩が「日刊国際野球」を教えてくれた。大学中退? 学歴なんかどうでもいいんだよ、うちには高校中退もいるよ、ということで、面接に行ったら採用してもらえた。

 かくして有美は、大学を卒業する予定だった年に、中退でスポーツ新聞の記者になった。

 一年弱の間はプロ野球というものについて学んだ。「日刊国際野球」は世界各国のプロ野球を扱っているとはいえ、有美の担当は日本だ。外国のプロ野球に関しては、ものすごくマニアックな知識や取材技能を持つ先輩たちがいるので、有美の出る幕は当分、なさそうだった。

 ひとつのチームをまかせてもらって、初の春のキャンプ取材。有美は育成選手に目をつけていた。

 育成ドラフト枠というものがあって、通常のドラフトとはややちがった意味で指名されるのが育成選手だ。テスト入団やドラフト外、外国人選手なども含まれる場合がある。育成選手たちは二軍選手とも別にして鍛えているチームもあるが、有美の担当チームでは一軍も二軍も育成選手も全員が、同じキャンプに参加していた。

 宝野直純、高校三年生の年にプロ野球選手志望の届け出をし、ドラフトで指名されるのを待っていた。が、声はかからず、実業団に入社する。二十歳で育成ドラフトとして指名され、去年のドラフト八位で入団した。

 野球選手にすれば小柄なほうで、長身の有美よりも背の低い外野手だ。私と似てるなんて言ったら彼は怒るかもしれないけど、回り道したところは似ていない?
 マイナーなスポーツ新聞社だけあって、マイナーな選手に注目するのも許されるはず。スター選手は放っておいてもいいし、第一、おいそれとは近づけない。今回は育成選手に注目しよう。

 そのつもりで見ていると、育成選手は何人かいる。体力や年齢に合せて、チームが作った練習メニューを、それぞれがこなしている。ベテラン選手や大スター選手は、各自の裁量にまかされている部分もある。こうしてみろよ、とコーチに言われた若手のスターピッチャーが、僕にはそれは向きません、と堂々と断っていたりもした。

 年俸次第ですべてが変わるようなところもある世界だ。一軍と二軍、育成、各選手たちの待遇が露骨なまでに差別的なのは、そうしてこそハングリー精神が生まれるからだと、有美の先輩記者が言っていた。なにくそ、俺だってスターになって一億の年俸をゲットするんだ!! その気持ちが大切なんだと。

 泥臭い根性論のようなものもある世界だ。時にはげんなりもし、時には面白いと感じ、有美もだんだんプロ野球が好きになってきていた。

「宝野、彼女?」
「そんなはずないでしょう。スポーツ新聞の記者ですよ」
「へぇぇ。こんな若い女の記者がいるんだね」

 取材をしていると、知らない男性にからかわれたりもする。トレーナーですよ、だとか、バッティングピッチャーです、などと宝野が教えてくれた。

 本日のメニューが終了したあとでも、残って練習している若手がいる。宿舎の近くを走っていたり、庭で素振りをしていたりする選手もいる。ドラフト一位ルーキーは休日にはファンサービスのために当地の観光スポットで取材を受けていたが、宝野は休日返上で練習していた。

「俺なんかにつきまとうって、有美さんは酔狂だな」
「つきまとうとは、ものすごく失礼な言い方だね」
「つきまとってるんだろうが」
「いやなの?」
「いやだったら追い払ってるよ」

 いつしか友達同士みたいな口をきくようにもなった。

「でもさ、そんなに俺につきまとっていたら、他の取材ができなくない?」
「有名な選手は同業他社が扱ってるんだから、適当でいいんだよ」
「有名な選手が適当で、俺がメイン? あんたんとこの新聞、売れないだろ」
「売れないね」

 育成選手を追って、みたいなタイトルの記事は、宝野直純が主役になった。
 一般的な記事も書かなくてはならない。有美は新米なので下手な記事を書き、ファックスで編集部に送ると、デスクから、ボツ、書き直し!! との命令が届くこともある。慌ただしくも充実したキャンプ取材になった。

「わ!! 宝野くん、育成から支配下登録されたんだ」
「宝野って、有美が取材した選手だろ」
「そうです。ほら」

 シーズンに入って宝野が二軍の試合に出たときには、我がことのように職場で自慢した。それから数日後には。

「宝野くん、ついに一軍の試合ですよ」
「そうみたいだな。有美が応援した甲斐があったじゃないか」
「取材してきます」
「ああ、行け」

 二月のキャンプから半年、久しぶりで宝野に会った。宝野は有美を憶えていて、ぶっきらぼうに歓迎してくれた。

「有美さんの記事、スクラップしてあるよ。あの記事は俺のハートをジャストミートしたんだ」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
「給料上がったらおごるからね」
「うん、楽しみにしてる」

 あの宝野選手が一軍の試合でヒットを打った、という記事を書けますように、とも有美は願っていた。

「ああ……宝野につきまとってた記者さん」
「つきまとってたって……山根さんまで人聞きの悪い。私はそんなに目立ってました?」
「ってか、俺はね……」

 試合スタート前に宝野に取材し、がんばってね、と激励してから社に戻ろうとしていると、キャンプの際に見かけたベテラン選手に声をかけられた。

「キャンプのときってファンの人も、選手にサインをもらったりできるだろ。マスコミの人も選手に取材しやすい場合もある。機嫌の悪い奴もいるかもしれないけど、名前の通った選手はたいてい、マスコミに囲まれてるよな」
「そうでしたね」

 ベテランピッチャーの山根はユニフォームではなく、ワイシャツと紺のパンツという私服でいる。四十歳だというのだから、相当なキャリアの持ち主だ。どうしてそんな服装でここにいるの? 疑問もあったので、質問のチャンスを窺いつつ球場の外に出ていった。

「俺に質問する記者はひとりもいない。ファンの人も、誰だっけ? こんな奴いたっけ? スタッフじゃないの? って態度だったりする。時々ぱらぱらっと、昔の俺を知ってるファンがいて、三回ほどはサインを頼まれたけどね」

 キャリアが長くても山根は決してスターではない。敗戦処理や大勝している試合の中継ぎが主な仕事だ。

「俺だってルーキーの年だとか、ちょっとは活躍したときには取材もされたな、なんてね、スター選手が囲まれてるのを見るとひがみっぽくなるんだよ。育成選手はほとんど取材もされないのに、宝野にはいつもあなたがつきまとっていたから、見てしまっていたんだね」
「見られていたとは知りませんでした」
「俺も育成になったよ。降格。そろそろ引退かな」
「あ……」

 なんと応じればいいのか、咄嗟には言葉が見つからないでいる有美を残して、山根は立ち去った。

 そうだ、育成選手にはもう一種類いるのだ。
 支配下登録選手から育成に降格した者。宝野のように若ければ、輝くはずの明日を目標に励めばいいのだが、宝野の二倍の年齢の山根だと、近い将来を悲観したくもなるかもしれない。引退勧告、自由契約ならまだしも、あの年齢の選手を育成に降格させるとは、球団も残酷だ。奮起を促すためにしたって。

 若い育成選手、特に宝野直純を取り上げた有美の記事を、山根は読んでくれたのだろうか。
 宝野のハートにはジャストミートだったというあの記事は、山根にはどんな想いをもたらしたのだろうか。

次は「と」です。


 

194「ニードミー」

しりとり小説

194「ニードミー」

 ベッドでプロポーズしたのは、その場では勢いが大部分だったのだろう。ココロと抱き合っていて恋情が高まってきて、あふれ出そうな想いを、結婚してほしい!! との言葉に込めた。

「さっき、なんて言ったの?」
「聞こえてなかった?」

 その最中にはエクスタシーのただ中にいて、大剛の言葉がココロには意味をとらえられなかったのだろう。だからもう一度、今度こそは勢いだけではなくて愛をいっぱいにこめて。

「ココロちゃん、僕と結婚して下さい」
「大剛と結婚?」

 満ち足りてベッドにいる大剛のかたわらで、ココロは丸い目をぱちくりさせた。

「大剛くんは私と結婚したいの? 男の本当の愛は結婚にしかない、って聞いたことがあるけど、大剛はそんなに私を愛してるの?」
「そうだよ、ココロちゃん」
「そうなんだ。ありがとう」

 戸惑っているようなのは、大剛が若すぎるからだろうか。

 母と母の友人、であるらしいとしか思っていなかった女性と、その女性の娘、花との四人暮らしで、父は時々訪ねてきたり外で会ったり、遊びに連れて行ってくれたり、母たちに用事があるときには大剛と花のふたりともの面倒を見てくれたり、そんな存在でしかなかった。

「お父さんって花ちゃんと僕の両方のお父さん?」
「そうだよ。お父さんは若いころに二股かけてて、大剛のお母さんと私のお母さんの両方とつきあってたの。だから大剛と花の両方のお父さん。男ってどうしようもないね」
「……?」

 小学生のときに花が教えてくれたのだが、大剛には意味がよくわからなかったものだ。

 意味など分からなくても成長はしていき、高校を卒業すると花は経理専門学校に進学した。同い年の大剛も、花ちゃんが行くのならば、と同じ学校に入学した。同い年なのであるが、大剛のほうがすこし誕生日が後なのもあり、性格的にも「弟」であった。

「結婚するの」

 二十三歳になった今年、花がそう宣言した。へぇぇ、早いんだなぁ、とは言ったが、花ちゃんが幸せになるんだったら僕も嬉しい、と祝福もした。

「結婚はやめたの」
「ええ? どうして?」
「どうしてだっていいんだよ。やめたものはやめたの」
 
 ところが、ほどなく花は前言を翻した。家庭の事情も理解していなかった子どもではないのだから、大剛にだって結婚ともなると容易には行かないらしいのはわかるようになった。

「大剛くん、私とつきあわない?」
「つきあうって、正式に恋人同士になるってことですよね」
「そうなの?」
「そうじゃないの?」

 結婚話がこわれたばかりの花に話すと傷つくかもしれないので内緒にしているが、先ごろ、大剛にも彼女ができた。大剛の会社と取引のあるOA機器メーカーの営業職で、八つ年上の三十一歳。ココロは体型はぽっちゃりしていて優しそう、声も穏やかで癒し系、ただし顔つきにはいささか険ありの、ギャップのある女性だ。

「友達でいいのよ。私はあなたよりも年上なんだから」
「僕は恋人になりたい」
「そんなに焦らないで」

 とは言ったものの、ココロとはベッドにだって入ったのだから恋人だ。職場にはココロと同年代の三十代独身女性は何人もいて、彼女たちは言うのであるが。

「うへぇ、大剛くん、ココロさんに食われちゃったの?」
「うわぁ、大変だ。妊娠させないようにしなくちゃね」
「大剛くんが気を付けてても、勝手にできちゃうんじゃない?」
「そうだねぇ。孕んじゃったらこっちのもんだよね」
「三十代の女とつきあうなんて、大剛くん、勇気あるわぁ。ご愁傷さま」
「これで大剛くんの将来は見えたようなもんだね」

 職場のお姉さんたちの台詞も深い意味がわからなかったので、ココロに話してみた。

「それはね、彼女たちが私に嫉妬してるのよ」
「嫉妬?」
「自分たちは三十過ぎても彼氏もいなくて、結婚相談所に登録してもろくな男がいなくて、自分が好きになったとしても相手にしてもらえない。感性が磨滅してしまってて、恋愛感情もなくなりつつある。自分たちはそんななのに、よその会社の私が若い大剛くんをとりこにしちゃったじゃない? だから妬いてるのよ。大剛くんって職場の先輩たちにもててたのね。私も妬けちゃうな」

 けっこうきつい台詞のようではあるが、おっとりした口調で言ってぽっちゃりした手で大剛の頬を撫でるので、ココロの優しさばかりがしみるのであった。

「ココロちゃん、僕と結婚しようよ」
「そうねぇ……」

 ゆるゆると、ココロは言った。

「私には好きで好きでたまらない男性がいるの。そのひとにはわけがあって私と結婚はできないのね。結婚なんかできなくても、好きなんだからかまわないと思ってた。彼も私を好きではいてくれるのよ」
「……それって……」

 頭の回転が鈍いのはまちがいないらしい大剛は、ココロの台詞を咀嚼して消化しようとしていた。

「二番目に私が好きなのは大剛くん。大剛のことだって好きだよ。結婚かぁ、考えさせて」
「はい。ゆっくり考えて下さい」

 咀嚼して消化してたどりついた結論は、ココロちゃんの台詞を他人に話してはいけないかな、だった。単につきあっているというだけで、職場のお姉さんたちはココロを人食い鬼ババのように評した。他に好きな男がいるのに、大剛ともベッドに入るココロを、彼女たちはなんと言うのだろうか。

「大剛には彼女はいるの?」

 が、花は他人ではないので、質問されて正直に、あらいざらい話した。

「その一番好きな彼とは、不倫なのかもしれないね」
「不倫っていうのは、そのひとが結婚してるってことだよね? ココロちゃん、かわいそうに。好きなひとが結婚してるってすごく悲しいことだろ。僕のことも好きなんだったら、僕と結婚して幸せにしてあげたいよ」
「大剛は真面目にそう言ってるんだね。本気でそう思ってるんだったら結婚すればいいよ。でも、うちの事情のことはちゃんと話してね」
「ちゃんと話せる自信ないなぁ」

 だったら私が話してあげようか、大切なことなんだから、と花が提案してくれたのもあり、ココロと花を引き合わせた。

「花さんのお母さんと大剛さんのお母さんは、同じ男性を好きになってつきあって妊娠した。彼は無責任な男だったから、女性同士で相談したのね。子どもを産んでふたりで育てていこうって……素敵」
「素敵って、心から言ってます?」
「言ってるわ」

 喫茶店で三人で話していたら、花が大剛に微笑みを向けた。

「うん、大剛、ココロさんと結婚しなさい。ココロさん、大剛と結婚してやって。私からもお願いします」
「そうねぇ。彼とは結婚できそうにないんだから、大剛くんとだったらしてもいいかな」
「そうなんだってよ。大剛、おめでとう」

 つまり、大剛の母と花の母の生き様を素敵だと言ってくれたココロだから? 花がそう言ってくれるのは、大剛にはたいそう嬉しかった。結婚してあげてもいいよ、と言ってから、ココロは夢見るような表情になった。

「結婚の形も家族の形もいろいろよね。私もがんばって彼の子ども、産もうかしら」
「その、好きだけど結婚できない彼の子ども? それで、大剛とは結婚してその子をふたりで育てるの?」
「そうよ。それもいいんじゃない?」
「いいかもね。大剛……」
「大剛……」

 近い将来の妻と、母親ちがいの姉がそろって大剛を見つめ、にっこりした。なんだかむずかしいことを話していたようだけど、ココロちゃんの産んだ子なら僕の子どもだ。僕のお父さんもそうしていたように、母親に協力してしっかり育てていこう。ん? うちのお母さんたちとココロちゃんは事情がちがう? そうなのかもしれないけど、そうだとしてもかまわないじゃないか。

 変則的な家庭に育ったのだからこそ、ありふれてはいない家族のあり方も受け入れなくては。そんなことを教えてくれたココロちゃんと花ちゃんには感謝しなくちゃ。

次は「ミー」です。


 

193「センチメンタルジャーニー」

しりとり小説

193「センチメンタルジャーニー」

 指名ナンバーワンだと聞いていただけあって、ポポンちゃんの待ち時間は二時間。別の子にする気にはなれなくて、弘明は待合室に入っていった。

 こんな店で他人と顔を合わせるのはごめんだと考える客は多いから、個室ブースだってあるが、そちらに入ると別料金がかかる。俊雄もその料金を節約するために、何人かが入れる待合室にいた。弘明と俊雄、ふたりは待合室でふたりっきり、二時間、することは特にないので、なんとなく愚痴になった。

「よくある話なんだろうけど、借金の連帯保証人になったんですよ。
 子どものころから仲良くしていたいとこでね、彼は親父さんと一緒に小さい鉄工所をやってた。その資金ぐりのための借金で、友達以上の仲なんだから判を押しましたよ。

 叔父といとこ、ふたりそろって夜逃げしやがって、そうなると俺に借金はふりかかってくる。なんだかんだとふくらんで一千万くらいになっていたな。

「……しようがないじゃない。私も叔父さんにはお世話になったんだから、ふたりで働いたらなんとか返せるよ。私も仕事を増やすからがんばろう」

 けなげにも妻はそう言ってくれました。
 うちの両親だって知らん顔はできないから、すべて節約のために両親と同居して、いい年の母までがパートに出て、みんなで働きましたよ。息子も小学生になっていて、新聞配達するなんて言いましたけど、それはさすがにね。

「おまえは勉強がんばれ。高校も大学も公立しか無理だから、大学では返さなくていい奨学金をもらえるほどの優等生になれ。おまえの仕事はそれだよ」
「うん、わかった」

 家族みんなでがんばったら、十年もかからずに返せるはずだ。
 父は定年間際でしたけど、残業を増やした。俺はダブルワークしましたよ。妻も正社員になれる仕事を見つけて、母も家事とパートと孫の世話と、みんなして思い切りがんばった。

「ねぇ、お父さん、お母さんは駄目だって言うんだけど、そんなら僕もバイトして買うよ」
「なにを?」
「修学旅行があるでしょ。スキーツアーなんだよね。行かせてはあげるけど、スキーの道具やウェアはレンタルにして、ってお母さんが言うんだ。スキー道具はそれでも我慢するけど、僕の友達はみんなかっこいいウェアを買ってもらうんだよ。流行のカケイモデルのウェア。僕もほしいなぁ」
「おまえ、男だろ。服なんかどうでもいいじゃないか」
「どうでもよくはないよ。バイトしていい?」
「だから、小学生にバイトなんかさせられないって」
「だったら買ってよ」

 小学校六年生、家庭の事情はわかっていて、買ってほしいものがあっても息子は我慢していたんですよ。修学旅行のスキーツアーで流行のウェアを着たい。カケイってのはそのころ人気のあったスキー選手で、彼の着ていた宇宙服みたいなウェアが大流行していたんです。

 駄目だと言ったものの、俺はそのウェアを見に行きましたよ。スポーツ用品店で見たそれは、俺のスーツなんかよりも高かった。息子がバイトして買えるようなしろものじゃなかった。

「そしたらさ、僕、修学旅行やめるよ。積立金は返してもらえるんでしょ」
「そんなにあのウェア、ほしいのか?」
「ううん、もういいんだ」

 かぶりを振る息子の目には涙がたまっていて、かわいそうでたまらなくなってきた。
 不景気でもあったからボーナスはろくに出なかったけど、それも借金返済の計算の中に入っていたんですよ。だけど、思い切って全額はたいてカケイモデルのスキーウェアを買ってやった。高かったなぁ。

「いらないって言ったのに……」
「お父さんがなんとかしたんだから、おまえは気にしなくていいんだよ」
「だって、お母さんなんか穴の開いたダウンを着てるんだよ。僕にこんなの買ってくれるんだったら、お母さんにコートを買ってあげてよ。返してきてよ」
「おまえがほしいって言ったんだろ」

 不憫な息子と喧嘩になり、それを皮切りに、うちの中がだんだん雲行きが怪しくなってきたんですね。
 夫の親との同居ってのは、いちばん気疲れするのは妻だ。そんなこと、当時の俺は知らなかったな。母が嫁に陰でねちねち意地悪をしていたなんて、誰も言わないんだから知るわけもない。内緒にするつもりだったらしいんですけど、息子がぶちまけました。

「お母さんは言ってたよ。おばあちゃんだって若くないのにパートして、家事もほとんどやってるんだからストレスが溜まるよね、お母さんにイヤミ言って解消できるんだったら、お母さんは耐えてみせるわよって」
「……おまえにそんなこと言ったのか。おばあちゃんの悪口を孫に吹き込むなんて、最低だな」
「悪いのはおばあちゃんだよ」
「ほら、お母さんがおまえにそうやって教えてる」

 嫁と姑の確執なんて想像してみたこともなかったから、寝耳に水で俺の発想はそうなりました。けれど、妻に文句を言ったら倍になって返ってくるだろうから黙っていよう、との分別はあったな。ところが、息子が母にも妻にも告げ口したんですよ。結局はスキーウェアを大切に抱えていって、お父さんに買ってもらったんだ、って話の流れでお母さんとおばあちゃんに話したらしい。

「嫁は弱い立場なんだから、私が飲み込めばそれですむのよ。それにしたって、ダウンって破れたらもうどうしようもないって知らないでしょ? ガムテープで修繕してるのよ。あなたがボーナスを使っちゃって、その分、もっともっと節約しなくちゃいけなくなった。あなたは自分だけいい格好して、気持ちいいよね」

「嫁だけが辛抱してる? 冗談じゃないよ。私がどれだけ辛抱してるか、誰も知らないんだ。いくら仕事してるって言ったって、掃除も洗濯もごはんの支度もほとんど私にやらせて、当然みたいな顔をしてるむこうのほうがひどいじゃないか。私だってたまには旅行したい。友達に誘われても食事にさえ行けないんだよ」

「定年になったらのんびりしようと思ってたのもパーだ。あと何年、こんなにあくせく働かなくちゃいけないんだろ。ちょっとでも早く借金を完済したかったのに、おまえが息子に……男の子なのにスキーウェアなんかなんだっていいだろうに。俺だって別居したいよ。母さんとも別居してひとりになりたいよ」

 どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがって、ってなるでしょ? そう思いますよね。

「そう、大変ね」
「まったく、俺も夜逃げしたいよ」
「だけど、もともと悪いのは誰?」
「いとこと叔父さんだろうが」
「そうだけど、借金の保証人にだけは絶対になるなって、ご先祖さまの言い伝えはなかったの?」

 会社に出入りしている保険会社のおばさんに愚痴ったら、彼女がなぐさめてくれたんですよ。おばさんだと思ってたけど、俺とだったらそう年は変わらない。シングルマザーだそうで、息子をいい大学に入れるんだって、塾にも通わせてるから金がかかるって嘆きつつも、かなり腕が良くて稼いでるらしかった。

 金を持ってる女だから、ホテル代も出してくれるんですよ。俺のほうがちょっと年下なんだから、それでいいんだって言ってくれた。彼女は四十過ぎてて、お姉さんに甘えるつもりでいればいいって、思い切り甘えさせてくれたなぁ。

「最低よね、あなたのためにご家族がみんなして苦労してるのに、あなたは外で浮気してるって」
「家に帰っても気が休まらないんだから、金のかからない娯楽のひとつくらいあってもいいだろ」
「私は娯楽なんだ」
「……ごめん」

 いいのよ、いいの、と彼女は寛大でした。

「弘明さん、子どもができたみたい」
「……へ? あんたは四十すぎてんだろ。妊娠なんかしないはずじゃ……」
「そう思ってなめてたんだけど、まだ妊娠するんだね。きっとこれが最後の子どもだわ。産みたいわ」
「ちょ、ちょちょちょちょちょ……待ってくれ」

 人間の女ってこれだから困るんですよね。あんなに寛大で優しかった彼女が鬼みたいな形相になって我が家に乗り込んできて、妻は半狂乱になる。母は母で、妻も悪いと責める。父は、弘明はまだ若いから……そっか、いいな、なんて呟いて、母と妻に思い切り攻撃されてましたよ。

「もともとシングルママなんだから、ひとりで産むわ。認知はしてほしかったけど、あなたって借金があるのよね。それがこの子にふりかかってこないように、借金を返済し終えてから認知してもらおうかしら。養育費は払ってね」

 そういうことでとりあえずは落着したんですが、これでまた俺の借金が増えたようなもんだ。妻も別居したいと言ってましたけど、そうすると余分な金がかかるから、そのまんまに五人で暮らしてますよ。息子は中学生になって、俺は軽蔑されてるみたいだ。

 こんな暮らしなんだもの。ひとときの安らぎを求めてもいいでしょう」

「ラヴスポット・電気羊」の店内で出会った弘明は、俊雄を相手につらつらと自分について語っていた。彼と比較すれば俺のほうがましなのか。続いて俊雄も自分語りをはじめた。

「四方八方から攻め立てられたって感じだったなぁ。俺には結婚願望なんてかけらもなかったのに、三十歳のときに遊びでつきあっていた女にプロポーズされて。

「女性からプロポーズされるなんて、男冥利につきるってもんだよ。俺だって一度くらい、女性に告白されたりプロポーズされたりしてみたかった。羨ましいなぁ」
「結婚したいって言われたの? しなさい。お母さんは反対なんかしないから、さっさとしなさい。さっさと結婚して孫の顔を見せて」
「そっかぁ。俺の息子はもてるんだな。誰に似たんだろ。ああ、もちろん結婚しなさい」

「俊雄さんはうちの娘と交際なさっているのでしょう? 結納や結婚式についてお話しもしたいですし、ぜひ一度我が家にいらして下さいな」
「俊雄さん、娘を幸せにしてやって下さいね。よろしくお願いします」

「へぇぇ、強そうな女だね」
「俊雄は頼りない奴だから、似合いなんじゃない?」
「結婚すんの? うんうん、しろしろ」
「別れてあげてもいいし、時々だったら遊んであげてもいいよ。強請ったりはしないから安心しな」
「奥さんにチクったりなんしないってば。心配性だね。私は俊雄と結婚したいなんてこれっぽっちも思ったことないから、心配しなくていいんだよ」

「まだ迷ってる? それはマタニティブルーってやつだろ。結婚はいいもんだよ。早く決めなさい」
「彼女にプロポーズされて返事を保留にしてるって、誠実じゃないな。早く返事してあげなくちゃ」
「……結婚か。後悔しなかったらいいけどね」

 家族、女友達、会社の同僚や先輩、男友達、外野がなんだかんだと言ったうちでいちばん正解だったのは、後悔、だった。できちゃったわけでもないのに、なんだって早まったんだ。結婚なんかしなかったらよかった、って、花嫁衣装を着た彼女を見た瞬間に思ったよ。

できちゃってはいないよ。マタニティブルーって言った奴は、マリッジブルーの言い間違い。

 原点回帰とかいって、俺たちは先に結婚式をして、その日に入籍して新婚旅行に出かけ、新居に帰って同居をはじめたんだ。花嫁衣装の彼女は別に不細工ってわけでもなかったんだけど、綺麗だとも思わなかった。新婚旅行先で夫婦としてベッドに入ったときには、とっくにセックスにも飽きていた。

 年は同じで、彼女としては多少焦ってはいたんだろうけど、俺じゃなくても他にも男はいるだろうに。外見も中身もごく普通の女なんだから、俺なんかを必死でつかまえなくてもよかっただろうに。

 主婦としても彼女はそつなくこなし、仕事ももちろんしている。収入は俺と同じくらいかな。彼女の収入があって生活は楽になったし、家事は全部してくれるんだから文句はない。料理もまあまあだし、洗濯や掃除なんてどうだっていいんだし。メシにも俺は興味ないから、ちゃんと夕食があればそれでいいんだよ。

 不満はない奥さんなんだけど、まったく満足もできない。俺はなんだって結婚なんかしたんだろ。後悔しかないんだよ。あの日、妻が具合悪そうだったから、俺は言ったんだ。

「メシなんか作らなくてもいいんだよ。俺は弁当でも買ってくるから」
「私の体調がよくないって気づいてた?」
「気づいてたよ」
「……妊娠したみたいなの」
「俺の子?」

 あ、当たり前でしょっ、と妻は声を荒げたが、なんで当たり前なのかわからない。子どもが生まれたらもっと面倒になりそうだな、としか思えなかったけど、中絶しろってのは酷すぎるんだろうから、ため息ひとつついただけだった。

「メシはいいんだけど、毎日そんな顔されてるとこっちの気分がよくないんだけどね」
「ごめんなさい、つわりなの」
「それはあんたの事情でしょ。大人なんだから人にそういう顔を見せないように配慮して」
「……そうします」

 素直だからそこは助かる。喧嘩なんかしてエネルギーを浪費したくないもんな。

「俊雄さん、これ、重いからお願い」
「あんたに重いものは俺にも重いんだよ」
「……そうね」

「おなかがつかえてきてお風呂の掃除がつらいの」
「風呂掃除なんて適当でいいし、そこも工夫するのが主婦なんじゃない?」
「そうね」

「……おなかが……タクシーを……」
「ああ、タクシーね」

 タクシーは呼んでやったけど、妻はひとりで病院に行ったよ。産むのは彼女なんだから、俺がいたって無意味だろ。
 男の子が生まれたとは聞いたけど、見にいってない。俺の子かぁ。めんどくさいな。人間の女ってなんで妊娠なんかするんだろ。だからやっぱり結婚なんてするんじゃなかったよ。

 身体の欲望はあるんだよね、だからさ、人間じゃない女とのベッドインのほうがいい。ポポンちゃんを抱いても彼女は絶対に妊娠しないもんな。ここを知ってからは時々来るようになったんだ。清々しくていいね。アンドロイドの娼婦との性交渉ってやつは」

「人間って二十二世紀まで存続してるかなぁ」
「……弘明さん、突然なにを言い出すわけ?」
「いや、こんな店がこんなに流行って、そうすると人類は……いや、日本人だけかな。五十年もしないうちに滅びるんじゃないかってふと思ったんだよ」
「それもいいんじゃない?」
「いいの、かもな」

 先に呼ばれたのは俊雄で、弘明は考えた。
 日本人が滅びたとしても、人類は他にいくらでもいる。もしも人類すべてが日本人みたいになったとしても、俺が死んでしまったあとのことなどどうでもいい。

 どうでもいいと思ったらどうでもよくなって、弘明の頭の中は、ほのかにあたたかくほどよくつめたく、人間の女などよりずっと清潔で乾いたポポンちゃんの姿態でいっぱいに占められてしまった。

次は「ニー」です。

 

192「番狂わせ」

しりとり小説

192「番狂わせ」

 部下が開拓してきた新規ユーザー、上司としては当然、部下が改めて訪問するのだから同行しなければならない。薩摩は部下の田中とともに、NB精機を訪ねた。

 彼我の規模を比較すれば、アメリカとバチカン市国くらいの差がありそうだ。薩摩の勤務先は日本がコンピュータ社会となっていくに伴って同時に発展してきた、コンピュータソフト会社。NB精機は家内工業のような零細企業で、今までは給与計算も人間の手で行っていた。

 田中が売り込んだ給与計算ソフトを検討して、NB精機の社長がその気になった。契約の最終段階の話をしたいと言われて、薩摩もはじめてNB精機にやってきた。

「いらっしゃいませ、担当の会津です……えと、薩摩マネージャー? マネージャーというのは部長くらいですか」
「まあ、そのくらいのポジションですが……会津さん……会津さん?」
「薩摩さん……」

 珍しい姓なのだから、田中が事前に会津の名前を出していたらひっかかったかもしれない。が、最初のうちは田中は社長と交渉していて、担当者は表に出てきていなかった。今日、はじめて会津と会ったのは田中も薩摩も同じだった。

 先方にしてみても田中なら知っていても、彼女の上司の名前は知らなかっただろう。もしかして……ああ、やっぱり、ほぼ同時に相手が誰なのかに気づいたふたりは、戸惑って目をそらした。田中もわけがわからないなりに戸惑って、薩摩と会津の顔を見比べていた。

 二十年前に、薩摩は恩のある人に頼まれて見合いをした。二十代だった薩摩としてはまだ結婚するつもりもなく、義理を果たしたにすぎなかったのだが、相手の女性に気に入られ、見合いをした以上はよほどでもなければ結婚するものだ、と恩人にも言われ、そんなものかなぁ、と首をかしげつつも、別に嫌いな相手じゃないんだからいっか、と達観して結婚した。

 結婚してみれば相手の橘子は可もなく不可もなく、結婚なんてこんなものかな、誰と結婚しても同じようなものだろうな、程度には薩摩を満足させてくれた。

 ふたりの息子を産んで、橘子はかなり太った。薩摩に対しては冷淡なほうだったが、フルタイムで働きながらも家事や育児はきちんとやっていた。良妻とは呼べなかったかもしれないが、賢母ではあり、息子たちは母親を深く慕っていた。

 父親としての生活には薩摩はなんの不満もなかったし、橘子には恋愛感情は一度も抱いたことがないにせよ、夫婦としての情だったら湧いてきていた。家族愛ともいうべき愛情だったら持つようになっていて、橘子にしても同様だろうと信じていた。夫婦は四十代になり、橘子も薩摩もそこそこは出世し、息子たちもすくすくと育って高校生と中学生になっていた。

 中年男の日常としては、俺はかなりいいほうだよな、と自己満足していた薩摩の暮らしに大打撃を与えた事実は、妻の友人から知らされた。

「言いにくいんだけど、薩摩さんはなにも知らないみたいだから……橘子さん、いい気になってるみたいだから」
「なんのことですか?」

 ママ友とかいうらしい、息子たちが幼稚園のころから親しくしている女性だ。彼女、佐藤さんとは息子たちが小さいころに、二家族で遊園地に行ったこともあった。その佐藤さんに近所で会ったときに、公園のベンチで打ち明けられた。

「橘子さん、好きな男性がいるらしいんですよ」
「は? 橘子に? そんなことって……いや、いたとしても片想いでしょ。俳優とか歌手とかですか?」
「冗談ではないんです。橘子さんの会社の取引先の男性で、つきあってると聞きました」
「橘子が浮気してるってことですか? そんな馬鹿な……」

 四十代半ばを過ぎた太ったおばさん。仕事はそこそこ、家事もそこそこ、息子たちの母親としては夫の薩摩も尊敬しているが、女としては終わっているのではないか? 佐藤さん、なにか誤解してるんじゃないのか? それとも、ママ友ってのは案外、嫉妬なんかもあるらしいから。

 うちの長男が佐藤さんの息子よりもいい高校に合格したから、嫉妬して橘子を中傷しようとしてるんじゃないのか? このおばさん、メンタルを病んでいるのかも。

 最初は薩摩にはそうとしか思えなかったが、橘子は佐藤にかなり具体的に話をしたらしい。世の主婦は自分が夫以外の男とつきあっているのでもない限りは、不倫は許せない派がほとんどだ。特に夫が浮気した実績があったりすると、不倫を非常に憎む。フィクション作品や歌などでさえも、不倫を扱っていると大嫌いだと言う主婦もいる。

 もしかしたら佐藤の夫も不倫をしたことがあるのかもしれない。佐藤は橘子の不倫を聴いて義憤に駆られたという。夫になんかばれるわけないでしょ、あのひと、鈍感だし、私にはその意味での関心は持たないから、と橘子が笑っているのを見て、告げ口したくなったらしい。

 ひょっとしたらそれも嫉妬の裏返し。私はもう恋なんかできそうにもないのに、私と同じような年の太った主婦が不倫? うらやましすぎて憎らしい!! となったのかもしれない。

 佐藤の告げ口のせいで気になるようになり、橘子の携帯電話を盗み見たところ、まぎれもない不倫の証拠が次から次へと出てきた。しかし、橘子は素知らぬ顔をしている。息子たちもなにひとつ気づいていないらしい。薩摩のほうが悩みすぎて食欲をなくし、たまりかねて妻の母に相談を持ち掛けた。

「そういうのはきっちりと話し合うべきね。あなたは橘子と離婚したいんですか」
「離婚はしたくありません」
「……橘子も遊びのつもりだと思うわよ。ちゃんと話し合ってやめるように言いなさい。橘子にしたってあなたに知られたら、それ以上は遊んだりしないと思うの」
「わかりました」

 妻の母のアドバイスに従って橘子と話し合いをした。

「あなたが気づくなんてびっくりよ。意外に鋭いんだね。あ、もしかしたら、誰かがあなたに密告したの?」
「密告なんかされてないよ。きみのそぶりや言動でなんとなく気づいたんだ。橘子、遊びなんだったらもうやめないか?」
「そんな女とは離婚だって言わないの?」
「息子たちのためには、僕は離婚したくないんだよ。僕の妻はきみしかいないんだし……」
「ふーん」

 夫に露見したというのに、橘子は冷静だった。

「わかった。あなたがそのつもりだったら清算するわ」
「そうしてくれ」

 終わったよ、と妙にけろりとした橘子の報告を受けたあとで、彼女の母にくぎを刺された。

「子どもたちには絶対に話したらいけませんよ。子どもってものは父親の浮気以上に、母親の浮気には嫌悪感を抱くのよ。あなたも橘子を許した以上は、ぐちぐちと蒸し返したりしちゃ駄目。そんなことはなかった顔をして今まで通りにふるまうの。あなたは橘子に捨てられたくないんでしょ。妻の浮気っていうのは夫にはなんの落ち度もないってことは絶対にないんだから、あなたも反省していい夫になるように努力しなくちゃね」

 うちの母さんが生きていたら、こんなふうには言わなかっただろうな、とは思ったのだが、妻の母の忠告を心に刻んで、言いつけも忠実に守った。

 それから二年が経ち、橘子は真面目な母であり妻であり、働く女であったかつてに戻っているはずだ。少なくとも薩摩はそう信じている。密告者の佐藤は橘子とは疎遠になっているようだが、薩摩の長男が相当な名門大学に入学したせいなのか、橘子が彼女を詰問でもしたせいなのかは薩摩は知らない。

 たった一度の妻の過ちは、夫が寛大に許したのだから、それでもう終わったはずだった。

 なのに、なんでこんなところで会う? 橘子の遊びの相手は会津という名の年下の男で、彼は未婚だと聞き、すると、わりあいに金を持っている橘子のふところ目当てか? それだったらわかるかな、と薩摩は思ったのだが、伝え聞いたところによると、僕は橘子さんと結婚したいんです、別れたくないんです、と泣いたとか。

 涙ながらに恋人と別れた会津は、会社に居づらくなって転職したとも聞いた。橘子のほうは仕事とプライベートは関係ないのだそうで、短大卒業以来働いている会社で、勤続三十年が近づいてきている。

 なんだってこんなところにいるんだよ。しかも、俺のほうが立場が下なんじゃないか。会津はお得意様の社員にあたるのだから、下手に出る必要がある。俺のほうが上だったらそれとなくいびってやるのに……薩摩は会津をそんな目で見ていたのか、会津は挑戦的に薩摩を見返し、事情をまったく知らない部下の田中はひどく不思議そうに目を丸くしていた。

次は「せ」です。

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