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しりとり小説

213「のびのび」

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213「のびのび」

 都会に憧れて、高校を卒業すれば生まれ育った町から出ていく。地方ではそういう若者のほうが多いのだろうが、加奈子の故郷の若者は地元が大好きだ。

 もはや若者とも呼べない三十すぎ。結婚していてもいなくても、小学校時代からの友達が周囲にはうじゃうじゃいる。泰司もそのひとりだった。

「直美が戻ってきたって、加奈子、知ってるか?」
「戻ってきた? 加奈子は東京で暮らしてたんだよね」
「そうだよ。東京でテレビ局のプロデューサーと結婚して、そいつが浮気したとかで離婚して戻ってきたんだ。さすがに東京の女になってて、あかぬけててかっこいいよ。駅前で雑貨屋を開くらしいから、女の子たちに宣伝しといてって頼まれたんだよ」
「雑貨屋ねぇ」

 こんな文化不毛の地で雑貨屋なんかやったってね、との気分は横にどけて、加奈子は泰司をちらっと睨んだ。

「泰司はなんでそんなに詳しく知ってるんだ?」
「ばったり会ったんだよ。いやぁなつかしいなぁ、ってことで、飲んだんだ」
「ここで?」
「ここみたいな泥臭い店じゃなくて、T市まで出て直美のいきつけの店に案内してもらった。その店もかっこよかったよ。東京の女ってセンスがちがうよな」

 泥臭くて悪かったね、とこのスナック「トーコ」のママである東子がぶすくれる。今どきスナックかよ、とみんなが笑いつつも重宝しているこの店のママも、加奈子や泰司の小学校時代からの同級生だ。

 小学校と中学校は同じ。高校で別々になるものの、距離的にはそう離れてもいない学校に通っているのだから、遊ぶときには地元で集まる。大学や専門学校に行く者は少数派で、たいがいは地元で就職する。男子には家業を継ぐ者も多く、女子はそんな男子と結婚して二代目の妻となり、夫の親と同居する。そんなケースが非常に多い町だ。

 T市の専門学校に進んだ者は都会派で、東京の大学に進学した者などは雲の上の存在。直美はその東京の大学進学派であった。

「大学っても短大だったよね?」
「そうだっけ。短大と大学ってどうちがうんだ?」
「短大は二年で大学は四年でしょ。泰司はそんなことも知らないのかよ」
「知ってるよ。知ってるけど、どっちだって同じじゃん」

 なんであっても、直美は東京の女などではない。小学校と中学校は泰司や加奈子と同じで、高校も加奈子と同じだった。小学校から高校まで同じとなると親しくなるか、逆に反目し合うか、知りすぎているからそうなる場合もよくあるが、加奈子と直美は後者だ。加奈子は直美が大嫌いだ。

 はるかな過去の話を今さらしても無意味なので、加奈子は言いたいことを飲み込む。

 建築屋の息子である泰司は、高校を卒業してT市の専門学校に行き、そこで知り合った女性と結婚して父親の会社に就職した。三十二歳にして末は社長。三人の子どもも小学生になり、妻も働いている。親と同居なので暮らし向きには余裕があり、加奈子にもたびたび気前よくおごってくれる。

 高校を卒業して地元の特産品である製麺工場の事務員になった加奈子は、なぜかいまだ独身だ。泰司の嫁はよそ者なので加奈子とは親しくなく、会うとイヤミを言われていた。

「いつもうちの主人がお世話になっております。キャバクラなんかに行くよりは、加奈子さんをはじめとするたかってくる同級生におごってるほうが安上がりだなんて申しますから、まあ、そのほうがましかなって思ってるんですよ」
「こちらこそ、お世話になります。おごらないと一緒に飲んでくれる女性はいないんですものね。こんな田舎のキャバクラ嬢よりはね、そりゃましですよね」

 おほほ、じゃ、またね、うふふ、ではでは、と毒を含んだ笑顔を向け合って別れ、次に会うとまた似た会話をする。軽いストレス解消にはなるのだった。

「住所、小学校のときのまんまなんだね。来てね」

 雑貨店「Sans Fausse Note」の開店案内状が届いて、加奈子も行ってみることにした。直美は大嫌いだが、おしゃれでかっこいい店となると好奇心をそそられた。

「……もしかしたら加奈子ちゃん?」
「うん、わぁ、直美ちゃん、ちっとも変わってないね」
「そんなことないよ。大人になったっていうか、いろいろ経験したから中身は変わったと思うんだけど、まだ三十二だもん。外見は変わらなくて普通でしょ」
「私はちょっと太ったから……」
「独身なのに太ったらいけないね。ダイエット指南しようか?」

 のっけから気分を害するようなことを言われて、加奈子はむっとした。

「……英語の名前ってしゃれてるね」
「店の名前? フランス語だよ」

 “fausse note”は「音程のはずれた」と言う音楽用語なのね。“Sans fausse note”は「音程のはずれない」つまり、「完璧な」と言う意味なの。直美の得々とした説明を聞いていると、加奈子のむかむか気分が高まっていった。

「素敵なお店だけど、こんな田舎でこんなおしゃれな店、流行るんだろうか」
「ああ、そこは大丈夫。T市にある家具店のショールームとタイアップしてるんだ。その店が大量に買ってくれるから、こっちは楽しんでやってればいいのよ。加奈子ちゃん、記念になにかプレゼントするわ。なにがいい?」

 いちいちむかむかする女だ。加奈子はぐるっと店内を見回して、目についたガラス細工を手に取った。

「わ、ごめん。それは高すぎるよ」
「こっちは?」
「加奈子ちゃん、だいたいの値段の見当がつかないんだったら、値札を見てね。常識の範囲でねだってね」
「ねだるって……」

 あんたがプレゼントするって言ったんじゃないかよっ!! 加奈子の「こいつ嫌い」気分に拍車がかかった。でも、プレゼントはほしい。

「直美ちゃんのセンスで選んでよ」
「そぉぉ? じゃ、これは? このおばさん、加奈子ちゃんに似てるし、笑いが取れるよ」

 ギャグみたいな布の人形だ。肥満体の西洋人の女が、両腕に子どもを抱えて必死の形相をしていた。

「直美の店、行ったか?」
「行った行った。ちょうど結婚記念日が近かったから、嫁にプレゼントを買ったんだ。そしたらずいぶんおまけしてくれて、娘にプレゼントって言って造花をくれたよ」
「直美ってほんと、太っ腹だよな。俺もスプーンのセットを買ったら、フォークもつけてくれたよ」
「いい店だよな。この町には似合わないくらいだ」
「いやいや、うちの町にも文化の香りのする店はあってもいいよ」

 今夜も同級生たちが、「トーコ」に集まっている。男たちが直美を話題にして盛り上がっていた。

「店もいいけど、直美は最高だよな」
「やっぱそこらへんの女たちとはちがうよな。さすが東京の女だよ」
「うちの娘が憧れちまって、東京の大学に行って将来は直美さんみたいになる、なんて言ってたよ」
「いや、おまえの娘とは顔が……」
「なんだって?」
「なんも言ってませんよ。いやいや、直美はもとから美人だったけど、東京の水で磨かれたんだろうな。俺らのもと同級生の女ったら、みんなもうおばさんだけど……」
「直美みたいのを大人の女っていうんだよな」
「おばさんと大人の女の差を見せつけられたぜ」
「うちの女房なんか直美よりも年下なのに、おばさんそのものだもんなぁ」

 そろってため息をつく男たちを見て、東子は不満げに頬をふくらませる。「トーコ」にも直美は来てくれるので、悪口は言えないらしい。今夜は他には女子はいないので、内緒話をするわけにもいかない。

 離婚して故郷に戻ってきた同級生。彼女が不幸なのならば、同情して昔の恨みは水に流してやってもいい。なのに、彼女は東京暮らしの残滓のおかげもあって、のびのび楽し気に暮らしている。それよりもなによりも、男たちが彼女を大絶賛するのが非常に気に食わない。

 あんなのただのバツイチじゃんかよっ!! と吠えるとひがんでいると笑われるのがオチだ。そこで加奈子は、とっておきの想い出話を持ち出した。

「小学校六年の運動会で、私がリレーのアンカーに選ばれたのは覚えてるよね? みんな、覚えてる? うんうん、よろしい。ちょっと、泰司、私の話がすむまで黙ってな」

 口を開きかけた泰司は、素直にうなずいた。

 運動会のクラス対抗学年別リレー競技は、娯楽に乏しい田舎町では相当に華やかなイベントだった。なのだから、同じ学年の者たちは、六年間のリレー選手を記憶している。おおむね同一人物だからもあるし、特にアンカーともなると特別なのだから、皆の記憶に刻まれていた。

「あのとき、私はリレーに出られなかったんだ。急遽代わりに選ばれたのが直美。直美は私の代理だってのに、普段は早いのを隠してたらしくて、三人抜きでトップになったんだよね」

 トップでゴールした直美に、お調子者の男子がインタビューの真似ごとをした。直美ちゃんがそんなに早いのは知らなかったよ、と言った男子に、直美は言ったものだ。

「だって、能ある鷹は爪を隠すって言うでしょ」

 あの言葉、加奈子は死んでも忘れない。
 だが、それはまだいいのだ。加奈子は重々しい口調になった。

「どうして私がリレーに出られなかったか知ってる? リレーの前に緊張してきて、トイレに行きたくなったんだ。大急ぎで走ってた私にぶつかってきたおばあさんがいたの。杖を突いてよたよた歩いてるばあさんに突き当たられて、私、足をどうかしちゃったんだよ」

 危ないねぇ、気をつけな、と言い放ったばあさんの憎々し気な口調も顔も、加奈子は死んでも忘れない。

「そのせいなんだよ。ごめん、ころんじゃった、リレーに出られないって言ったら、先生が真っ青になって、変わりを探したんだよね。そしたら直美が立候補したんだ。それで私、気づいて調べたんだ」

 どこの誰だかは知らなかったおばあさんは、いったいどこの誰だ? 小学生にできる限りで調べてみたところ、杖を突いた七十歳くらいのおばあさんといえば。

「運動会を見に来てた直美の親戚に、杖を突いたおばあさんがいたってわかったんだよ。だからさ……これ以上は言わない。今さら言ってもしようがないから言わないけど、そういうことだよね、きっと」

 店内がしーんとなり、へぇぇ、そんなことがねぇ、と東子が呟く。それで加奈子は直美が嫌いなんだ、と東子が加奈子の気持ちを代弁してくれていた。

「あーっと、それ、ちがうから」

 ところが、泰司が言い出した。

「俺、知ってるよ。まるっきり忘れちまってたけど、加奈子の話で思い出した。そのばあちゃん、直美の親戚なんかじゃねえよ。直美とはなんの関係もないばあちゃんなんだから、わざと加奈子をころばせるはずがない」
「だったら誰よ?」
「校長先生のお母さんだよ」
「へ? 嘘だぁ」
「嘘じゃねえよ。ちょっと待ってろ。写真があったはずだ」
「ってか、六年生のときの運動会の写真だったら、みんな持ってるよな。泰司が取りにいかなくても、東子んとこにはないのか」

 別の男子に言われた東子が、ちょっと待ってて、と奥に引っ込んだ。「トーコ」の奥と二階が東子一家の住まいになっている。東子はよそから引っ越してきた男と結婚していて、彼と彼の連れ子と二階で暮らしているのだった。

「あったよぉ。どれがそのおばあさん?」

 アルバムに貼られた二十年前の大判の写真には、大勢の人々が映っている。それでも全員の集合写真が撮れたのは、全人数が多くはなかったからだ。泰司が指さしたところには、校長の横に立つ狷介な雰囲気の老婦人がいた。

「加奈子が言わなかったら忘れてたんだけど、俺、見てたもん。ばあちゃんは別に怪我もしてなかったけど、痛い痛いって言うんだ。加奈子のほうが痛いんじゃないかって気になったけど、ほら、あの年頃って女子に優しくしたりしたらからかわれるだろ」

 気になったけれど加奈子は放っておいて、おばあさんの世話をしたと泰司は言う。泰司はおばあさんを医務係のもとに連れていき、呼ばれた校長が駆けつけてきた。

 お母さん、大丈夫ですか、大丈夫、ちょっところんだけだ、との会話も泰司は覚えていると言う。おばあさんは女の子とぶつかったとは口にせず、泰司も口にはせず、加奈子も特には他人には告げなかったので、些細な事件は時の流れの中に埋もれていった。

「……そしたら、直美はなんも関係ないな」
「加奈子の逆恨みだな」
「なーんだ、馬鹿馬鹿しい」

 これで話は終わり終わり、とばかりに、男たちが飲みのほうに戻る。で、直美はさ、と直美をもてはやすほうにも戻る。加奈子の恨みは宙に浮き、しかし、思ってはいた。
 そんなことはなかったのだとしても、故郷に戻ってきてのびのびしている直美は大嫌いだ。そんなことはなかったとしても、私があの女を嫌う理由はいーっぱいあるんだもんっ!!

次は「び」です。


212「なんでそうなるの」

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212「なんでこうなるの」

 愚痴を綴ってブログにアップすればストレス解消になる。どうせ私のブログなんて読んでくれる人もいないし、友人知人には話してもいないのだし。そのつもりでブログをはじめた。日記帳に書くと夫に盗み読まれる恐れもあるが、もちろん夫にはブログをやっているなんて話していない。

 小学校時代から作文は得意だったので、文章を書くのは苦にならない。
 個人ブログなのだからアップしたければ毎日でもいいし、書く気にならなかったら放置すればいい。それも私には気楽でよかった。

 カウンターなどつけても無意味だから、アクセス数は知らない。ブログ開始から三ヶ月、コメントはひとつもつかない。それで当たり前だと思っているので、私は気持ちよく愚痴を書き散らしていた。

「息子が小学校に入学して三ヶ月。「ポチャリのブログ」も同じ三ヶ月。ブログは快調なんだけど、ママ友つきあいは不調かもしれない。

 幼稚園のときには私はパートをしていたから、仕事が終わって急いで息子を迎えにいき、買い物にいったり夜ご飯の支度をしたりで忙しくて、ママ友とは挨拶くらいしかしなかったんだよね。
 だから、同じ幼稚園から同じ小学校に入った顔見知りのママさんたちには、あんな人はママ友じゃないもんね、って思われてるのかもしれない。

 だったらそれでもいいんだけど、同じ幼稚園のママさんだけじゃないんだな。こそこそひそひそ、悪口言われてるみたいなんだ。好かれるようなこともしてないけど、嫌われるようなこともしてないつもりなのに。

 子どものころから友達は少なくて、人づきあいは得意なほうじゃなかったよ。だけど、嫌われるほどでもなかったのにな。どうするべきなのかな。こっちから仲良くしてもらうべき? すり寄っていくべき? 

 ママ友ができなかったら息子も友達ができないんだろうか。学校では遊んでる子もいるみたいだけど、放課後に一緒に帰ったりおうちに呼ばれたり、うちに遊びにきてくれたりってほどの友達はいないの。息子はひとり遊びも楽しいみたいだからいいんのかなぁ。悩むわ。

 それにしても、なんで私は陰口をきかれてるの?
 ほんとに嫌われてるの?」

 別段本気で悩んでいるのでもないが、ネタとしてそんな文章を書いてブログにアップした。すると、翌日、はじめてのコメントがついたのである。

「ポチャリさん、はじめまして。
 ママ友さんたちに嫌われたって? それは悩んでしまいますよね。
 私も子どもたちが幼稚園や小学校のころには、ママ友づきあいに悩んだものよ。

 嫌われる原因が自分ではわからないと言うんだったら、もしかして……と思ったの。
 ポチャリってハンドルームってことは、もしかして太ってない?
 太った女を嫌う女は多いみたいよ。
 もしも太ってるんだったら、ダイエットしたら?
 綺麗になったら意外と、ママさんたちにも好かれるかもしれないよ」

 はあ……私はそのコメントを見て苦笑いするしかない。

 本名でブログを書くのは芸能人や有名人だけだろう。一般人はハンドルネームというものを使う。私はなににしようか? パソコンの前で考えながら、そこに置いてあったスポーツドリンクを飲んだ。ああ、これにしよう、というわけで、ポカリをもじってポチャリ。なんの意味もないハンドルネームだ。

 しかし、ポチャリは「ぽっちゃり」を連想させる。まったく知らないこのコメントの人が、そんなふうに考えたとしても変ではない。さて、私は太っていない、と返事を書かなくちゃ。

 そのつもりだったのだが、そこにかかってきた一本の電話で、私は大忙しになってしまった。

「ご主人が会社で怪我をなさいまして……」
「え? あの……」
「いえ、脛を骨折なさっただけですので、骨折なさっただけ、という言い方は語弊がありますが、重症ではありませんので。でも、入院しなくてはならないのはまちがいありませんから、今から言うものを準備して病院までいらして下さいませんか」
「わかりました」

 夫の会社からの電話は、夫が事故に巻き込まれたというものだった。

 スーパーマーケットや弁当屋に卸すお総菜を作っている会社の、夫は現場主任である。食肉担当の夫は、鶏肉をカットする機械の事故で脛を骨折した。組み立て式の機械のボルトがゆるんでいたらしく、大きな部品が倒れてきたのに脚を挟まれたのだそうだ。

 幸いにも単純骨折だけですんだが、しばらくは入院。その準備やら手続きやらで大わらわで、私はブログどころではなくなってしまった。小学校一年生の息子と、ブログには書いていないが、幼稚園に入ったばかりの娘を抱えて、あちこちに連絡したり、夫が会社を休むための書類に記入したり、見舞客の対応に追われたり。

 ブログはスマホでだって操作できるが、精神的にそんな余裕はなかったから放置してしまった。
 というよりも、忘れ果てていたブログを、一週間後に夫が退院してきて、週明けから松葉杖を使ったら出勤もできるということで安心して、ようやく思い出した。

 パパが帰ってきた、と子どもたちも喜び、ささやかに退院祝いをして、夫も早く寝てしまった夜になって、私はパソコンに向かった。

「ええ? なに、これ?」

 おっとびっくり。私のブログのコメント欄には、ものすごくたくさんの書き込みがなされていたのだった。

「そりゃあそんなに太っていたら、嫌われもするよな。太った女って暑苦しいんだよ。そばに寄ってくんなって感じ。
 アタシの娘ちゃんの幼稚園のおかんにもいるわ。
 あの女のそばには寄りたくないぜ」

「太った人にはなにかと事情もあるんやから、それだけでそばに寄るなは言い過ぎとちゃうのん?
 けどなぁ、薬のせいやとか妊娠してるやとかって言い訳するのは見苦しいで。
 意志が強かったらダイエットはできるんや。ポチャリさんもがんばりや」

「あのね、方言で書き込みをするのってやめてもらえません?
 アタシの娘ちゃんとか書くのもやめてよ。
 あんたらは見苦しいんだよ」

「どうでもいいようなことばかり書いている人がたくさんいます。ブログ主はそういう書き込みは削除して下さい。
 私の情報は重要ですから、みなさん、注目!!
 
 痩せたい人はエステブルーラグーンへ。
 楽して美人になれる、近道はエステブルーラグーン!!
 ここは太字でよろしく!!」

「宣伝すんな、馬鹿野郎。
 俺はぽっちゃりさんが大好きさ。
 ポチャリさん、俺にメールちょうだいよ。
 ママ友なんかどうでもいいじゃん。
 俺がおまえを愛してやるぜ、ベイベイ」

「うげっ、キモっ!!
 ブログ主はなにやってんの? 一週間以上も放置かよ。
 あり得ない、出てきてお礼ぐらい言うのが筋じゃないの?
 そういう礼儀知らずだから嫌われるんだよ」

「ポチャリさんは一度も出てきてもいないのに、よくもこれだけ憶測で盛り上がれるものですね。
 暇人が多いなぁ」

 ざっと読んでいったコメントの中で、私の目はここで止まった。ハンドルネームは「アキレェ」。うんうん、アキレェさん、あなたには賛成だよ。

 ブログ大炎上ってこういうの? 話には聞くが、実体験としてははじめてだ。どうしてこうなったのかといえば、私の愚痴に反応したひとりの通りすがりの人物が、ポチャリってハンドルネームってことはぽっちゃりさん? と尋ねたこと。それでこれだけ盛り上がるのか。

 あのぉ、私、太ってないんですけど、みなさん、落ち着いて下さいね、今さらそんな返事を書くのも野暮かと思えてきた。
 炎上したブログ主のリアルがさらされることもあるらしいが、私はなにをしたわけでもない。誤解と揣摩臆測とで他人と他人が議論したりしているだけだ。その他人にしても見知らぬひとばかり。

 なんだか面白いから、もうすこし知らんぷりをして観察していようか。一抹の不安がなくもないのだが、それでいいよね? ほおっておいても大丈夫だよね? そのうちには自然鎮火するよね?

次は「の」です。

 


211「図に乗るな」

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211「図に乗るな」

 弁当持参の女子社員が、昼休みになると休憩室に集まる。自社ビルなので休憩スペースも広く、ゆったりした間を取ってデスクを配置してある部屋だ。気の合う者同士、何人かでランチタイム。新人教育教材などを小さな会社に売り込みにいく営業ウーマンたちなので、昼休みは安らぎのひとときだ。

「むかつくんだよね、あいつ」
「なになに? 喧嘩したの?」
「そうなのよ。聞いてくれる?」

 あちこちで彼氏や夫の悪口に花が咲く。悪口のふりをしたのろけなどもあるのだが、男のうわさ話がもっとも盛り上がる。町谷新子のいるテーブルは若手……三十代までの比較的若手がそろっているのだが、主婦たちのテーブルと話の内容に大差はなかった。

「トイレの掃除は週に一度、必ず俺がやるって約束したくせにさ」
「やらないの?」
「やらないの。俺はうちのトイレなんてほとんど使わないんだから、掃除しなくても汚れないよって。私もそんなには使わないけど、一週間以上も掃除しないなんていやじゃん? だから結局、私がしちゃうんだよね」
「わかるわかる。うちも彼が洗濯ものを取り入れるって約束になってるんだけど、天気がいいんだから外に干しっぱなしでも大丈夫だよってほっとくんだよね」
「そうそう。買い物を頼んだって、あ、忘れた!! 忘れたんだからしようがないだろ、って逆切れだよ」

 営業ウーマンなのだから、仕事は外回りだ。午前中の勤務がすむと一旦帰社して報告するというきまりになっているのだが、必ず昼に帰れるわけでもない。今日は新子のテーブルには五人、独身女性ばかりが集まっていた。

「空いてます?」
「あ、どうぞ」

 七、八人はすわれるテーブルなので、空席がある。そこへすわったのは照屋。四十歳くらいだろうか。名前からすると沖縄のひとか。沖縄らしいくっきりした目鼻立ちの美人で、前職は保険の外交員だったらしい。転職して新子たちの会社に来たばかりだから、新子はまだ照屋とはあまり話をしたこともなかった。

 テーブルで弁当を広げ、いただきます、と手を合わせて、照屋は食事をはじめる。新子たちは彼女は気にせずに、食べながら会話を続けていた。

「土日は食事の支度をするって言ったくせに、それだって嘘ばっかりだし」
「やっぱ一緒に暮らすとアラが見えてくるんじゃない? 同棲なんかしないほうが、いいとこだけ見ていられていいかもよ」
「でもさ、同棲解消ってイコールさよならじゃない?」
「そうだよね。同棲解消はさよならか結婚だな」
「私はあいつとは結婚はしたくないや」
「そうなの?」

 と、照屋が顔を上げた。

「結婚しているんじゃなくて、男性と暮らしてらっしゃるの? えーと、澤垣さん?」
「え、ええ、うん、そうだよ」

 名を呼ばれた澤垣はびっくり顔になり、照屋は同じテーブルの同僚たちを眺め回した。

「彼が、掃除が、って言ってた人たちは、結婚なさってるのよね?」
「いえ、今、ここにいる人たちは全員独身ですよ。彼女と彼女は彼氏と同棲中。彼女と彼女は半同棲ってところ」
「あなたは、町谷さん?」
「私は同棲はしていません。実家暮らしですから」
「すると、他の人たちは実家じゃなくて?」
「実家は私だけかな。自立してなくてすみません」

 五人のうちのふたりはひとり暮らし、ふたりは同棲中、新子だけが実家暮らしで恋人はいない。恋人はいない、と言うのも癪なのでそこまでは言わずにおいた。

「まあまあ、そうなのね。へぇえ……」

 校則が細かくてうるさい女子校出身の新子には、照屋が高校時代の生徒指導の女教師に見えてきた。

「ご両親には許しをもらってるの?」
「うちの両親はひとり暮らしよりも安心だって……」
「私は言ってないし」
「半同棲なんて、いちいち言わないし……」
「照屋さんにもいちいち言う必要なくない?」

 冷笑的に澤垣が応じ、照屋はため息をついた。

「この会社の女性ってねぇ……独身女性はこれだけ?」
「他にもいますよ」
「あの彼女とか、あのひととか……」

 他のテーブルにいる若い女性、若くはない女性などをぽつぽつと指さす。今日は休憩室にいるのは二十人ほどで、既婚、未婚は半々くらいだった。

「みんなに彼氏がいるのかどうかは知らないけど、同棲してる子は他にもいるんじゃない?」
「いるよ。彼氏の実家で同棲してるって子もいる」
「そんなのいるの?」
「知らない? 彼氏が彼女の実家に入りびたりって話も聞いたよ」
「まあまあまあ……」

 なんと嘆かわしい、といったふうに、照屋は何度もため息をついていた。

 そうやって嘆くくせに、照屋はそれからは新子たちの会話に参加してくるようになった。水を向ければ照屋は前職の話もする。たまには照屋の仕事の話を聞くこともあったが、たいていは独身女性たちの男の話で、照屋は最初のうちは黙って聞いているだけだった。

「彼とは別れることにしたのよ」
「えーっ?! どうして? 結婚するって言ってたじゃん」
「聞かないでよ……ううん、聞いてほしい」

 はじめて照屋が会話に加わってきた日にはいなかった、別の女性が話した。

 彼女は同棲はしていなかったのだが、ラヴラヴの彼氏がいる。彼女の場合は他の女性とちがって彼の悪口はほとんど言わない。のろけが大半なので新子たちとしては聞いていて疲れるほどだったのに。が、そういえば、最近は彼女は彼の話をあまりしなくなっていた。

「この間のデートで、彼に言われたの。なんだか急にすーっと冷めちゃってさ……長くつきあいすぎたよな、別れようか、なんて言うから、私、逆上しちゃったの」

 頭が沸騰しそうになって、どうしてどうして、なんでなんで、と彼女は彼を攻め立てた。彼は逆にクールになり、おまえのそういうところが嫌いになったんだよ、と言い放ったのだそうだ。

「言えば言うほど彼は冷めていくみたいで、仕方ないから距離を置こうと思ったのね。彼だって私のことは好きなんだから、しばらく会わなかったら寂しくなるに決まってるって楽観してた……ってか、楽観してるふりをしてた。だけど、彼は会いたいとも言ってくれないの。思い余ってメールしたら……」

 別れるって言っただろ、しつこいな、との返事が届き、それきりブロックされてしまったのだと言う。彼女はうつむいて鼻をすすり、そのとき、照屋が発言した。

「あなたが浮気相手だったのね」
「照屋さん、そんな言い方はないでしょ」
「傷ついている女性にそんなふうに決めつけるってひどいんじゃありません?」

 当人をそっちのけにしてもめそうになっていると、当人が顔を上げた。

「照屋さん、鋭いね。彼、二股していたの。浮気相手はその女のはずだけど、近いわ。そっちの女が妊娠しちゃって、そっちと結婚するんだって」
「むこうが浮気相手だとは、そっちの女も思ってるわよ。これだから女ってのは……ううん、諸悪の根源は男よ」

 事実、彼女は別の女に乗り換えられて捨てられたのだから、新子たちもそれ以上はなにも言えなくなってしまった。

「あんなことを聞いたあとで言いにくいんだけど、私、彼と結婚するって決めたよ」
「あれ? 澤垣さんは彼とは別れるって言ってなかった?」
「それがね……」

 数日後、澤垣がはにかんだように言った、できちゃったんだ、と。
 あらら、おめでとう。それはよかったね。仕事はどうするの? 口々に祝福の言葉や質問を投げかける同僚たちの声が一段落すると、照屋が言った。

「けじめがないね。同棲もいやだけど、でき婚ってのもだらしないわね。そんなにまでして結婚したい? 俺は結婚なんかしたくなかったのに、できちまったから仕方なく、って一生言われるんじゃないの?」
「失礼ね。私はそんなことをたくらんだんじゃありません。私は彼とは別れようかと思ってたのに、できちゃったって彼に報告したら喜んでくれて、絶対に結婚しよう!! って張り切ってるのは彼のほうなんだよ」
「同じよ」

 言い捨てて、照屋は席を立ってしまった。

「ここのテーブルはこのごろ、おめでたい話で盛り上がってるのよね」

 ある日には、新子たちのテーブルに既婚者が加わってきた。

「私たちは主婦の会話ばっかりで、子どもがどうした姑がどうした、保育園がどうたらPTAがこうたら、受験がどうたらばっかり。それに、こんな話を主婦たちにすると妬まれるからね」
「なんの話?」

 興味津々で身を乗り出す新子たちに、私、恋をしたの、と既婚者はピンクに染まった声で告げた。

「彼が何者なのかは話せないけど、年下のイケメンよ。彼のほうからアタックしてきたのは当然で、私は結婚してるからって逃げようとしたのに逃がしてくれないの。私もまだまだ捨てたものじゃないんだなって。ここのテーブルだったらみんな彼氏がいるんだから、嫉妬したりはしないよね、ね、町谷さん?」

 名指しされて、新子はつい正直に言ってしまった。

「私は彼氏はいないんですよ。妬みますよ」
「まぁ、そうなの? 恋はしなくちゃ駄目よ。恋してこそ女なんだからね」

 そこへまたまた、照屋が口を出した。

「あなたは子どもさんがいるの?」
「いますけど……?」
「お母さんが母親じゃなくて女。そんな子どもは気の毒ね」
「……あなたに言われる筋合いはないよ。なによ、ひがんじゃってさ」

 ぷんぷん怒った既婚者も席を立ち、続いて照屋も立っていってしまう。どうやら照屋は言いたいことを言うと、反撃をかわして去っていくらしい。新子たちは言い合った。

「結婚しないって言っても、結婚するって言っても」
「結婚してる女だとしても」
「恋愛って聞くと照屋さんは怒るよね」
「諸悪の根源は男だって言ってたから、男嫌いかな?」
「照屋さんって独身?」

 さあ……とそろって首をかしげる。照屋は自分のことというと、仕事の話しかしないのだった。
 独身若手グループの中ではもっとも気が強く、できちゃった結婚をだらしないと言われた澤垣は言った。よーし、私が訊き出してやる、と。

「あのね、あなたたちってほんと、恋の話ばっかりよね。自分たちのことじゃなかったら、芸能人の誰かと誰かが結婚したの別れたのって。そんなにその話が好き? だから女は視野が狭いって言われるのよ。そんなだから男にいいように遊ばれたりするのよ。もうちょっと世界を広くしなくちゃ」

 そんな具合に、澤垣の質問ははぐらかされてしまった。

「その点、町谷さんだけはえらいよね」
「は? 私が?」
「あなたには彼氏はいないんでしょ。えらいわ」

 どういう意味で言ってるの? 悩んでいる新子に、照屋は明確な答えはくれなかった。
 二股彼氏に捨てられた彼女が新しい恋人を見つけたと嬉々として報告してくれたのは、新入社員が入ってくる季節。新子たちの部署に配属されてきたのは、高校を卒業したばかりの初々しい十八歳女子だった。

「だからね、杷野さんはあのひとたちみたいになったら駄目だよ」
「……はい」
「男は諸悪の根源なのに、まったく、男がいないと生きていけないんだろか。性懲りもなく……」

 研修が終わって営業活動に出るようになった十八歳、杷野の指導係となったのは照屋だ。近頃は照屋は杷野とばかり行動していて、昼休みにも新子たちのテーブルにはやってこない。あのひとたちみたいって、私たちみたいな? ふたりの会話を小耳にはさんだ新子は、杷野に尋ねてみた。

「ああ、そんなこと、言ってましたね。照屋さんって男嫌いっていうよりも、恋愛嫌いみたいですよ。四十歳はすぎてるらしいけど、美人ですよね? もてるでしょ? って訊いたら怖い顔して……」

 もてるかどうかなんてどうでもいいの、男なんかとは関わらないほうがいい、恋なんかしないに限る、照屋は杷野にそう言ったのだそうだ。

「もてすぎていやな思いでもしたんですか」
「もてるというか、言い寄られたことはあるけど、ぴしゃっと断ったわ」
「恋愛経験ないんですか」
「ありません。だからね、杷野さんも恋になんかうつつをぬかさずに、仕事に邁進しなさいね」

 はいと素直に答えたと、杷野は舌を出した。

「ああいうおばさんは適当にあしらっておけばいいんですよね。町谷さんを見習うようにって言われたけど、見習いたくなんかなーい。三十前で彼氏もいないなんて惨めだもん」
「あの、町谷って私なんですけど……」
「知ってますよ」

 けろっと言い返されて、新子は絶句した。
 そうね、世の中にはこんな女もあんな女もいる。若くて可愛くて口のききようも知らない杷野と較べれば、いっぷう変わってはいても照屋のほうがいいかもしれない。恋愛至上主義みたいな世の中にも同僚たちにも違和感がなくはなかった新子としては、近い将来は照屋のようになるのがいいように思えてきた。


次は「な」です。


210「しずやしず」

しりとり小説

210「しずやしず」

 新婚家庭に遊びにきたがる、夫の同僚たち。小田巻久人と優歩は結婚式はしていないので、同僚たちにお披露目もしていない。優歩は在宅仕事なので同僚というものはなく、友人たちには夫を紹介している。なのだから、夫の同僚たちを一度くらい招くのはしようがないかと受け入れた。

 やってきたのは合計十名。夫の久人はメーカーの研究室勤務で、そういった職場についてはよくわかっていない優歩は、こんなにたくさん同僚がいるんだといささか驚いた。

「奥さん、お手伝いします」
「いいんですよ。お客さんにそんなことはしてもらわなくていいから、みなさんはすわってて下さい」
「志津ちゃん、ほんとにいいよ。僕がやるから」

 女性は三名いて、あとのふたりは中年、既婚だそうだが、ひとりだけが若い。既婚女性たちはむしろ、見知らぬ人に等しいような人間に台所に入ってほしくない、との優歩の気持ちを察したようだが、もっとも若い志津は手伝いたがった。

「いいんですよ。洗い物なんかあとでしますから」
「でも……あのね、奥さん、聞いてほしいことがあって……」
「はい?」

 ほぼ見知らぬ相手なのに、相談ごと? 訝しみつつも、優歩は志津の横に立ってふたりで皿洗いをすることにした。

「奥さんはデザイナーなんですってね。私はデザイナーっていえば洋服かと思ってたけど、ちがうんですか」
「意匠デザインっていうのかな」
「衣装?」
「あ、そっちの衣装じゃなくて、商品パッケージだとか、簡単に言ったらそういうものよ」
 
 二十一歳だと聞いている志津は優歩よりもひと回り年下なので、このくらいの口のききようでいいかと判断した。

「いいなぁ。才能あるんですね」
「……で、相談ってなんですか?」
「相談というか、聞いてほしくて」

 高校を卒業してアルバイトとして、志津は久人の職場に入った。アルバイトだから入社とは言わないのかもしれないが、若い志津にはみんなが親切にしてくれて居心地がよく、志津も楽しく働いていた。

「それがね、だんだん苦しくなってきたんです」
「苦しく?」
「好きなひとができて……」

 恋愛相談か。そんなのをなんで私に? 見返した優歩の目をじっと見つめて、志津は続けた。

「私は高卒の資格もなんにもないアルバイト。コピーやお使いをするだけの、高校生バイトと変わらない仕事です。母がずっと小田巻さんの会社で働いていて、定年退職したんで、そのコネで入れてもらったんですね」
「ああ、そうなんですね」
「私は勉強が最悪にできなかったから、大学なんか行きたくもなかったから、母も諦めたんです。無職ってわけにはいかないから、アルバイトでもいいから働きなさいって、母が決めてきたんです」

 そうなのね、としか優歩にも相槌の打ちようはなかった。

「年だってまだやっと二十歳をすぎたところで、私の好きなひととは十もちがうの。三十一歳の男性から見れば二十一なんて小娘でしょう?」
「そうでもないんじゃないかな。男性は若い女性が好きでしょ?」
「その男性は若い女性よりも、ちょっと年上の女性が好きなんです」
「は、はあ、そうなのね」

 ざあざあと水道を流しっばなしにしてはいるものの、志津は食器を洗っているというよりもただ喋っていた。

「だけど、苦しくて苦しくて、告白しましたよ。好きになってもらえるはずもないけど、好きだって言いたかった。「しずやしず、しずのおだまき繰り返し、むかしを今になすよしもがな」って、静御前の詠んだ歌があるんですってね。静御前は卑しい白拍子。義経の妻になれるような身分ではなかった。なんだか似てるなぁって。私は高卒のただのアルバイト。好きなひとは大学院まで出たエリート研究員です。現代の身分ちがいですよね」

 そうね、とも言えなくて、優歩は返事のしようもなくなる。なにかがひっかかる気がするのだが、なんだろう?

「それでも告白しましたよ。志津、えらい、勇気があったねって、自分で自分を褒めてやりました。静御前って私と似た名前で、好きなんですよね。静御前もこの歌を、うんとうんと身分が上の人の前で口ずさんだんですよ。でも、もちろん告白にうなずいてもらえるわけもなくて、ありがとう、嬉しいけど、僕は結婚するんだよって言われました」
「……そうなの」

 息が詰まったようになっていた優歩は、ようやくそれだけを言った。

「ご結婚、おめでとうございます。どんな方が奥さんなんですか? 結婚式に招待してもらえたら嬉しいな、って頼んでみたら、僕らは結婚式なんてものに価値を見出せないからやらないんだって。なんかかっこいい。奥さんもウェディングドレスに憧れたりもしないんですね。私は着てみたいな。あのひとと結婚するなんて夢を見て、真っ白なドレスにも憧れてました」

 水音にまぎれて、皆が集まっている部屋までは会話は届かないだろう。久人も優歩も収入はいいほうなので、賃貸とはいえマンションは広い。キッチンと客間までは距離もあった。

「だったらね、いつか新居に遊びに行っていいですか、っておねだりしたんです。それまで断ったらかわいそうだと思ってくれたのかな。みんなで遊びにいくってときに混ぜてもらったんです。想像通りの奥さんだったな。背が高くて綺麗で大人で。かっこいいひと。こんな大人でかっこいい女性なんだから、結婚なんかしなくてもひとりで生きていけるくせに。神さまって不公平だな。なんでも持ってる女性と、私みたいになんにもない女と……ひとつくらい、私に譲ってくれてもいいと思いません?」

 でも、あなたは若いから……鈍い頭痛を感じながらも、優歩は呟いた。

「若い女には興味なくて、彼は年上のかっこいい女性の好きな男性なんですよ。だから小田巻さんは奥さんと結婚したんですもの」
「……え?」
 
 理学部と芸術学部だったが、久人は優歩とは同じ大学のふたつ後輩だ。学園祭で展示されていた優歩のイラストを見て、久人が近づいてきた。ともに大学院に進んでからも、社会人になってからも十年以上もつきあって、結婚はしなくてもいいつもりでいたのだが、久人が言い出した。

 やっぱり結婚しようよ、お互いにただひとりのひと、として一生、つきあっていこうよ、と。

 いいけどね……私には結婚願望なんかないけど、久人がそんなに言うならしてあげるよ。
 そう返事をしたときの、久人の嬉しそうな顔。結婚式なんかしなくていいよね、と優歩が言い、親たちが式は挙げてほしいと懇願したのも、久人が退けた。僕は優歩ちゃんのしたいようにしたいんだ、と。

 子どもはいらない、優歩ちゃんがほしがっていない。
 気が変わるかもしれない? 優歩ちゃんが変わらない限り、僕も変わらないよ。
 
 久人はそう言うので、姑には疎まれているふしもある。そんなものは優歩にはなにほどでもない。私が幸せならば久人も幸せ。ふたりはそんな夫婦なのだから。

 頭の中に小さな虫が入り込んだような気分だ。
 奥さーん、ビール、もっとあったっけ? 久人の声が聞こえてきたのを潮時にしたかのように、志津は洗いかけの食器をそのままにキッチンから出ていった。

「今日はお疲れさま。片づけは僕がするから、優歩ちゃんは先に休んでくれていいよ」
「片づけは一緒にしましょ」
「そう? そのほうが僕は助かるけどね」

 それきり志津は優歩には近づいてこず、年上の仲間たちに溶け込んで楽しそうにふるまっていた。優歩は頭の中を整理しようとつとめつつ、皆が帰るのを待っていた。

「告白されたんだってね」
「へ?」
「で、久人は断った。それはいいんだけど、そんな相手の女の子をうちに招く?」
「なんのこと?」
「とぼけんなよ」

 ぐっと久人を睨んで、優歩はまくしたてた。

「久人はもてるほうなんだから、独身のときに会社の若い女の子に告白されるってことはあったかもしれない。ひとりやふたりじゃなかったのかもしれない。私とずっとつきあってたんだから、二股なんかししないと信じてるけど、女に恋されるのは止められないもんね。ちゃんと断ったんだったら私もしようがないと思うよ。だけど、そういう女をうちに連れてくるってどういう了見? 申し開きがあるんだったら聞こうじゃないの」
「優歩ちゃん……意味わかんないよ。なんのこと? 誰のこと?」
「とぼけんな。ひとりしかいないだろっ!!」

 激するつもりはなかったのだが、言っているうちに腹が立ってきた。本気で怒ると優歩ちゃんって言葉遣いが悪くなるよね、そんなところも魅力的だ、と久人が言っていたのを無意識で意識していたのかもしれない。

「……ひとり? 若い女の子? 志津ちゃん?」
「そうだよっ」
「志津ちゃんがどうかしたの?」
 
 とぼけんなっ!! と叫ぼうとして思いとどまった。理系男子の常として、久人は鈍感である。鈍感とはいっても直接告白されたのならば、知らないわけはない。するとつまり?

「告白されてないと?」
「就職したばっかりのころには誰かに告白されたな。だけど、僕には優歩ちゃんがいるからって断ったよ。そのあとも二、三度あったんだけど、あれってからかわれたんじゃないかと思わなくもない。どっちにしたってみんな断ったよ。志津ちゃんになんか告白されてないよ」

 心の中で小さく、優歩は叫んだ。しまった!! 言わないほうがよかったのに。
 あの日から一年ほど後に、久人が言った。
 
「優歩ちゃんは結婚なんかしたくなかったんだよね」
「願望はなかったよ」
「だったら、独身に戻ればいいよ。僕は優歩ちゃんに悪いことをしたみたいだ。結婚なんかしたくないあなたを僕の妻にしてまった。優歩ちゃんはそういう女性だよね。だけど、世の中には結婚したくてたまらない女性もいるんだ」
「誰のことを言ってるの?」
「こんなにも一途に愛されるってはじめてだよ。僕は優歩ちゃんを愛するほうがいいと……いや、そんなに深く考えてもいなくて、優歩ちゃんには悪いことをした。ごめんね、解放してあげるから」

 世にもありふれた台詞だ。
 あなたはひとりで生きていける女だけど、彼女には僕がついていてあげないといけないんだ。

 通常、妻だのモトカノだのにその台詞を言ってのける男は、罪悪感を持って口にするはず。だが、久人は本当に、優歩のために、と思っている。優歩のためにも志津のためにも、僕はベストの選択をするんだと信じている。そして、久人は優歩に告げた。僕らは別れようね、と。

「久人は本当に、志津ちゃんがあなたに恋してるって知らなかったの?」
「知らなかったよ。優歩ちゃんが教えてくれてよかった。志津ちゃんは僕の子どもがほしいって言う。そんなふうに言われるのもいいものだね」
「……そう」

 しまった、との心の叫びは正解だったのだろう。言わなければよかった。聞かなかったことにして口をぬぐっていれば、志津だってそれ以上は久人に言い寄らなかったであろうに。

 志津の捨て身の作戦にうまうまとひっかかった私が馬鹿。
 だけど、こんな浮世離れした男とは一生をともにするなんてできっこないだろうだから、これでよかったのかもしれない。優歩は思う。何年か後に後悔するのはどっちかしらね、志津ちゃん?

次は「ず」です。


209「秘密の打ち明け話」

しりとり小説

209「秘密の打ち明け話」

 アシスタントスタッフとは、要するになんでも屋、雑用係だ。正社員はお茶くみや掃除やコピー、文書清書などはやりたがらないので、晴陽たち派遣社員がすることになっている。総務部のアシスタントスタッフは晴陽と、もうひとり、六十代の女性だったのだが、その女性が退職し、派遣会社から別の女性がやってきた。

「よろしくお願いします」
「こちらこそ。晴陽さんっておっしゃるんですよね」
「ええ、そうですが」
「晴陽さんってお兄さん、いません? 陽光さんってお兄さん。旧姓は田島さんじゃありません?」
「そうですけど」
「わぁ、やっぱりあの晴陽さんだ。嬉しい」
「嬉しいって、なにが?」

 明るいのがいちばん、という主義だそうで、両親は息子には陽光、娘には晴陽という名前をつけた。ヨウコウ、ハルヒと読み方はそのままなのでいいといえばいいのだが、彼女はどうしてヨウコウ、ハルヒの兄妹を知っているのか。晴陽には見覚えのない女性だ。

「私は加絵っていうんですよ。覚えてません? 陽光くんは私のことはカエ、カエって呼んでたから、晴陽ちゃんは旧姓は知らないかな」
「兄と知り合いなんですか?」
「そうなんです、あとでね」

 初出勤の挨拶をした加絵は部署へと行ってしまい、あとで、と言われたのだから、昼休みに晴陽から声をかけた。

「お昼はお弁当? どこで食べたらいいんだろ」
「社員の人たちは社員食堂や空いてる会議室で食べてますけど、派遣が入るといやな顔をされるんで、今日は天気がいいから公園で食べましょうか」
「あの公園ね。オッケー」

 ぼってりした身体つきの愛嬌のある女性だ。高い声でよく喋るので、仕事中にも加絵の声は時々聞こえていた。兄の友達か……ならば年上なのかと、晴陽は丁寧に喋り、加絵はタメ口で、今日は暑いよね、そろそろ冷房が入りますかね、などと話をしながら公園まで歩いていった。

 わりあいに大きな自社ビルを持つ製造業の、晴陽たちが働いているのは事務部門。大きな会社の正社員となるとプライドが高く、派遣社員は見下される傾向にある。そんな者ばかりではないが、晴陽としても身近に同じ立場のアシスタントスタッフがいるほうがいい。前任者は年上すぎたので、同年輩の加絵は歓迎したかった。

「高校のときに、私、陽光くんに告白したんだ」
「兄とつきあっていたんですか?」
「ちょっとだけね。陽光くんは一年生で、私は三年生だった。私が先に卒業したから、それで自然消滅。陽光くんはいい大学に行ったんだろうね」
「いいって言うか、普通ですけど」
 
 とすると、三つ年上の兄のふたつ年上。加絵は晴陽よりも五つ年上の三十六歳だ。

「晴陽ちゃんも大卒?」
「ええ、まあ」
「でも、大学出て派遣のアシスタントスタッフだったら、高卒の私と一緒だね。もったいないよね。結婚してるんでしょ?」
「してます」
「だよね。田島じゃなくなってるもんね。初婚? 子どもは?」

 さりげなく無礼なことも言いつつ、質問する加絵に、晴陽は適当に応えていた。

「私も結婚してるの。一年前に出産して、保育園に入れたから働きに出たんだよ。専業主婦なんてつまんないからいいんだけど、子育てと家事と仕事ってしんどいわ。晴陽ちゃんは子どもがいなくて楽でいいよね。残業なんかあったら替わってくれるでしょ?」
「残業はあまりないから……」
「そうなの? 子どももいないのにとことん楽してるんだね」

 夫の転勤でやむなく前職をやめ、妊娠を待ちつつ働いている。家事だって夫以上にしている。正社員には簡単にはなれない時代だから、派遣社員に甘んじている。自己責任と言われれば否定できないし、子持ちの働く主婦よりは楽だろうから、反論する気にはなれなかった。

 ちくちくと失礼な台詞を吐く加絵とは親しくなりたくもなかったのだが、総務部のアシスタントスタッフはふたりきり。歳も近くて立場も同じで、その上に兄のモトカノともなると、晴陽も邪険にはできにくいのだった。

「うちの旦那、子どもにつめたいんだよね」
「そうなんですか」
「子どもができてから、加絵は僕をないがしろにする。もっと僕にかまってって感じ」
「言っちゃ悪いけど旦那さんが子どもみたい」
「でしょう? 言ってやってよ」

 その調子で、加絵は晴陽に夫の悪口を言うのがストレス解消法らしい。合間には、陽光くんと結婚していたらなぁ、と遠い目をしていた。

 兄は大学を卒業して新聞記者になり、一度結婚はしたものの、離婚して今は独り身だ。正直に言うと、え、そんなら私も離婚して陽光くんと再婚しようかな、と言い出しそうな女に思えたので、晴陽は兄が結婚したことだけを加絵に話した。案の定、新聞記者、かっこいい!! と加絵は目を輝かした。

「特派員としてタイに赴任してるんですよ」
「単身赴任?」
「いえ、家族帯同です」
「なあんだ、だったら遊びに行って誘惑するってのは駄目か」
「加絵さん、それはないでしょ」
「冗談だよ」

 タイだと物価も安くて、メイドさんが雇えるんだよね、楽でいいなぁ、と羨ましがっているのは、よほど子持ち兼業主婦の日々に疲れているのか。反論すれば、あんたは楽でいいよねっ、と言われるのが目に見えているので、晴陽はいつだって曖昧に微笑んでいた。

「息子が入院しちゃってさ、旦那はつめたいからますますてんてこまいしてるんだよ。明日は休むから、晴陽ちゃん、お願いね。みんなによろしく言っておいて」
「わかりました。お大事に」

 みんなによろしく、と伝言されたにしても、欠勤の連絡はしているのだろうと晴陽は思い込んでいた。ところが。

「そういうことはあなたからの連絡だけでは困るな。彼女がちゃんと電話してくれなくちゃ」
「え? してないんですか」
「電話はありませんよ」

 そんな日が一週間続き、派遣会社からも頼まれた。

「晴陽さんは彼女と仲いいんでしょ? このままじゃクビになりますよって、伝えてきて下さい」
「ええ? うう、でも、一度は息子さんのお見舞いにも行きたいから……」
「そうですよね。友達ですものね」

 友達のつもりはないが、浮世の義理ならある気がして、晴陽は加絵にメールをした。一歳をすぎたばかりの加絵の息子が入院している、不憫な幼児を元気づけてやりたいのもあった。

「晴陽ちゃん、ありがとう。よく来てくれたね」
「入院って、病気なんですか?」
「ちがう。事故。ってかね、旦那がちゃんと見てなかったから階段から落ちたの。頭は打ってなくてよかったよ」
「そうなんですか」

 頭をよぎったのは、虐待じゃないの? だったのだが、そうは言えない。一歳の子だと身内が泊まりこまなくてはならないきまりだそうで、これでは加絵も出社できないだろう。きちんと会社に連絡するように、それだけは晴陽としても強く頼んでおいた。

「旦那さんは?」
「お見舞いにも来ないよ」
「ひどいなぁ。自分の不注意で階段から落ちたんでしょ」
「私が悪いって旦那は言ってる。どっちでもいいんだけど、旦那がつめたいのはほんとだよね。あれ? そう言ってたら来たみたいよ」
「旦那さん?」

 怪我をしたり骨折したりしている子どもたちが入院している大部屋に、若い男が入ってきた。二十代ではないのだろうか。ひょろっと背の高い彼は晴陽を見て軽く会釈し、加絵には言った。

「一度くらい来いって言うから来たよ。じゃ」
「ちょっと待って下さい、もう帰るんですか」
「帰りますよ。あなたには関係ないでしょ」

 ほっときなよ、と加絵が止めるのにはかまわず、晴陽は加絵の夫を追いかけた。病院内で大きな声を出してはいけないので、彼について外に出た。

「なんなんですか、その態度は。あなたの息子さんでしょっ」
「ちがいますよ」
「は?」
「俺の子じゃない。だまされたんだ」
「え? ええ? すると、加絵さんって再婚?」

 そんな話は聞いていないが、再婚で連れ子だとしても、だまされたとはおかしいではないか。彼は病院の庭のベンチに腰を下ろし、晴陽も隣に腰かけた。

「再婚にしたって、わかってて結婚したんでしょ」
「再婚じゃないよ。加絵さんも俺も初婚」
「なのにあなたの子じゃないって……」
「DNA鑑定はしたよ。俺の子じゃなかった。だけど、俺は加絵さんが……加絵さんが好きなんだよ。好きだから別れられない。そんなら潔く俺の子だと思えばいいのに、それもできない」

 泣きながら、彼が話した。

「DNA鑑定なんかしなかったらよかったんだ。そしたら……疑いながらも俺の子だって信じられたのに。なんであっても加絵さんの子なんだから、俺も可愛がろうとしたよ。でも、駄目なんだ。この間も別れようとか言ってもめて、目を離した隙に坊主が階段から落ちた。俺にも罪の意識はなくもないんだけど、俺の子じゃないのはまちがいないんだから。俺は加絵さんが好きなだけで、ガキまでは好きじゃないんだよ、嫌いなんだよ。それでも見舞いにきただろ。なぁ、あのガキの親父って誰だ? あんたが晴陽さん? あんたの兄貴があのガキの親か?」

 ガキ、坊主、名前も呼びたくないのか。しかし、そういう事情ならば彼の気持ちもわからなくもない。

「うちの兄は三年ほどタイに行ってます。日本には帰ってきていませんから」
「加絵さんがタイに行ったってことは……」

 絶対にないとは言い切れないが、加絵の言動を考えるとないはずだった。

「ありません」
「だったら、あのガキの親父は誰?」
「知りませんよ」
「……俺は苦しいんだよぉ」

 両手で顔を覆って本気で泣き出してしまった彼を見やって、晴陽も悩んでしまう。子どももだろうが、この男は加絵というひとりの女に丸ごとだまされている。それでも幸せだったらいいけれど、いや、そんな女がそんなにも好きだなんて、それはそれで幸せなのかもしれなかった。

次は「し」です。


208「あの日」

しりとり小説

208「あの日」

 直感で気がつくものだと俗に言われているが、定岡越美は気づかなかった。別件で頭がいっぱいで、夫どころではなかったからもある。当事者から打ち明けられたときにはびっくり仰天してしまった。

「私が先にご主人を好きになったんです」
「あなたが、うちの主人を?」
「そうなんです。いつも行くスーパーマーケットの副店長さん。親切にしてもらって、私の顔を憶えてもらって、買ったものを自転車に積もうとしていたら手伝ってもらったり、箱ごとのお茶を買おうかな、重いしな、って迷っていたら、お届けもできますよって言ってもらったり」

 そんなこと、スーパーマーケットの副店長ならば当たり前かと思えるが、四十代の主婦であるらしい彼女は、よほど夫にも世の中の男たちにもないがしろにされていたのだろう。越美の夫の親切がホストクラブの恋愛営業のごとくに身にしみたらしい。

「それで、好きになってしまって私から告白したんです」
「告白、ねぇ」
「私は男性に告白するなんてはじめてでした。主人とはお見合い結婚で、お互いに、まあこんなもんだろ、でしたから……結婚して十年になるんですけど、冷めたもので」
「そうなんですか」
「定岡さんはご主人にプロポーズされたんですか」
「ええ、まあね」

 二十八歳の春、恋人というほどにも思っていなかった七つ年上の哲夫にプロポーズされた。二十代のうちに結婚するのはいいかもしれないと、哲夫には特に不満もなかったので結婚し、子どももふたりできた。哲夫のほうは越美に恋をし、いまだ恋しているらしいと越美は思っていたが、越美は夫には特に恋愛感情を抱いたことはない。

「哲夫さんも、僕は女性に告白されたのなんてはじめてで感激ですよ、と言って下さいました」
「はあ、そうですか」

 あの野郎、私に惚れてるふりをしていたくせに、よその女に告白されて舞い上がったんだな。どうしてやろうか、夫からもこの女からも慰謝料を取って離婚してやろうか。自分の持ち物に手を出されたような不快感から、越美はそう考えていた。

「内緒の恋って楽しいみたいな……哲夫さんはその程度だったんでしょうけど、私が夢中になってしまったんです。でも、奥さんに……越美さんに対する罪悪感で耐えられなくなって……すみません。泥棒猫みたいな真似をして」
「それで、あなたはなにをしたいんですか」
「奥さまにお詫びをして、身を引きます」
「そのために告白しにきたの?」
「だって、奥さまもうすうす気づいてるらしい、別れどきかな、って哲夫さんが言うんですもの。奥さまは挙動不審だ、あれはまちがいなく気づいてるって、そう聞くと怖くなってきて……お願いですから、絶対にもう旦那さんとは会うのもやめますから、主人にだけは言わないで下さい」
「そういうことね」

 不倫相手の妻が察していると聞いて怖くなり、夫への露見を恐れて自ら告白と詫びをしにきた女。これっきりで身を引くと越美に誓った女。越美は彼女に重々しくうなずいてみせた。

「気の迷いってありますよね。あなたがそうやって誠実に打ち明けてくれたんだから、本当に二度と会わない、別れるって言うんだったら受け入れます。念書を書いて下さいね」
「……わかりました。本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした」

 なにもなかったような顔をして帰宅した夫に、越美はその念書を見せた。

「こんなこと……こんなこと、やらせたのか?」
「彼女がやるって言ったのよ。あなただって彼女と別れたって痛痒は感じないんでしょ」
「そんなに簡単に……きみは気づいてたんだよな」
「気づいてはいたけど泳がせてたの」

 まるっきりの嘘だが、夫は信じたらしい。

「きみのような完璧な女と暮らしてると、俺は息が詰まるんだよな。俺だってきみにプロポーズしたときには、大会社の前途有望な社員だったよ。スーパーマーケットの店員だったら結婚なんかしてくれなかっただろ」
「そんなことはないって、何度も言ったじゃないの」
「ああ。きみは最高の妻だよ」

 大会社だって大銀行だって倒産する世の中だ。夫の会社も業績がひどく落ち込み、四十代になって間もなく哲夫はリストラされた。越美の会社は幸いにも順調で、哲夫よりも年収は多かったから、夫の失業だって乗り越えられた。

 いっそ専業主夫になる? それはいやだ。
 とのやりとりの末、越美の会社の子会社のような立場のスーパーマーケットに夫を就職させてもらった。夫の前職とはまるで別業種だったのだから、四十歳をすぎて修行して副店長にまでなった彼を、それなりによくやったと越美は評価していた。

 完璧というほどではなく要領がいいだけなのだが、越美は主婦業も母親業も会社員の仕事も器用にこなす。良妻賢母の鑑、おまけにキャリアウーマン。夫は越美を尊敬し、愛情も深めていっていると越美は信じていた。

「だからさ、たいしたこともないあの女に惹かれたってのがあるんだ。あの女は遅くに結婚して、子どもが小学生になったからパートをしてるって平凡な平凡な主婦だよ。きみみたいにスタイルがいいわけでもない、美人でもない」
「この目で見たから外見は知ってるけどね」
「だろ。だけど、安らぐんだよな」
「あなたは私と離婚して、あのひとと結婚したいの?」
「そんなはずはない。俺は越美を愛してる!! あんな下等な女に乗り換えたいわけないだろ」

 けれど、と夫は頭を抱えた。

「きみがうすうす気づいてるなんて言ったのは、本当に気づかれてると思ったのもあるけど、あの女がどういう反応を示すか、知りたかったからもあるんだ。きみにばれてしまって、あの女とは別れるしかないところに持っていきたかった。ああ、でも、わからないよ。わからなくなってきた。きみを愛してはいるけど……子どもたちとだって離れたくなんかないけど……でも……越美、俺はどうしたらいい?」
「ひとりで自分に酔ってれば?」

 苦悩する夫像を演じていればいい。越美につめたく突き放されて、哲夫はしばらく悩んでいたらしい。が、結局は彼も謝罪した。

「悪かった。捨てないで。俺はきみとやり直したい。小遣いを半分に減らしてくれていいよ。家事だって今までみたいな手伝いレベルじゃなくて、俺がメインになってやる。きみは子どもたちのために、出張なんかも減らしてたんだろ。これからはどんどんやって。きみのように有能で完璧な女性が俺たちの犠牲になるのはまちがってたんだ。これからは俺がきみのサポートをするから、捨てないで」
「そうね。考えてみるわ」

 自分の所有物に手を出すよその女、というのはたいへんに癪に障るが、夫があの女と別れるのならばいい。越美としては夫との仲を修復することに異論はない。子どもたちだって父親が好きなのだし、両親が離婚したりしないほうがいいに決まっている。

 ただ、考えてみると言ったのは、越美にもひとつ懸念があるからだ。これがあったからこそ、越美は夫の浮気にみじんも気づかなかったのだ。

「別れよう。これ」
「なにこれ? 手切れ金?」
「それって人聞き悪いよ。だけど、そんなようなものかな。今までありがとう。男らしく潔く別れてね」
「……こんなときだけ男らしくなんて、越美さんは勝手だな。だけど、そんなこと、知ってて好きになったんだよね。これ、ほんとにくれるんだな? あとで返せって言わない?」
「私はあなた以上に男らしい女なんだから、あげたものを返せなんて言わないよ」
「うん、だったら……さよなら」

 手切れ金だって? 馬鹿にするな!! と怒る男だったら、越美にも未練心が生まれたかもしれない。けれど、こんな男なのだから一時の遊びでいい。子どもたちのためにも、万が一夫にばれて越美の有責で離婚するなんて羽目にならないためにも、こんな男は切ったほうがいいに決まっていた。

次は「ひ」です。


207「ワーキングプア」

しりとり小説

207「ワーキングプア」

 不運が続いたとしか言いようがない。

 大学を卒業して勤めた会社では、企画部に回された。美弥は事務職希望でクリエィティヴな仕事などできるはずもない。総務か人事か経理にでも異動させてほしいと上司に訴えてみても、一年はがんばれと言い逃れられて心を病みそうになって退職した。

 次に勤めたのは弁護士事務所の事務員。待望の事務職であったのだが、主な仕事はコピー、清書、来客の接待であって、こんなものは事務だとは思えない。親戚の伝手で就職させてもらったので、親戚に泣きついてやめさせてもらった。

 心機一転、ちがった仕事をしようと、次は接客業に就いた。弁護士事務所でもお客の応対はしていたから大丈夫かと思ったのだが、百円ショップに買い物にくる客とは人種がちがっている。美弥にしてみれば無理難題だとしか思えないことばかりが続いて、耐え切れなくなって退職した。

 接客はこりごりだと続いて勤めたのは、出版社のアルバイト。雑用ばかりで腹が立ってきてやめた。
 ベーカリーの製造部門にも就職してみたが、あまりにも肉体的に疲れるのでじきにやめた。
 その調子でざっと十社くらいで働いたのだが、どれもこれも美弥には合わない。そうこうしているうちに美弥も二十九歳になり、親には言われるようになった。

「就活は諦めて婚活をしたら?」
「無職の女を嫁にもらってくれる男なんていないのっ」
「どうして? 結婚したら主婦になるんじゃないの?」

 古い考え方しかできない母がわずらわしいのもあり、実家にいるとがんばって仕事をしなくても生活がなんとかなって甘えてしまうのもありで、美弥は独立を決めた。両親は美弥のひとり暮らしを反対したが、結局は折れてくれてお金も出してくれた。

 ひとりになって就職したのは、実家のあるところよりは都会の建築事務所。ここには身内の息もかかっていない。事務も雑務もありとあらゆる細かい仕事をしなくてはならないのだが、それだけに多忙で、いやだなぁと思っている暇もないのがかえって美弥にはよかった。

「月那って書いてルナって、かっこいい名前ね」
「美弥ちゃんも可愛い名前だよね」

 ひとつだけルナのほうが年下だが、田舎から出てきてひとり暮らしをしているのも同じ。事務所には女性はふたりきりで、ルナとは気が合って、美弥はじきに彼女と親しくなった。

「給料安いよねぇ」
「全国的に見たら田舎だから、最低賃金ってのも安いんだよね。こんなもんなのかもしれない」
「雑用係だしね、しようがないよね」

 生活レベルも似たようなもののはずで、ルナとは愚痴のこぼし合いもできた。

「うちの父はこの間、定年退職したのよね。高卒だから四十年以上の勤続だよ。そんなに長くひとつのところで働けるってすごいとは思うんだけど、馬鹿じゃないかとも思うの」
「馬鹿じゃないじゃない。えらいよ」
「えらいんだろうけど、高卒だからかたいした会社じゃなくて、退職金も思ったほどは出なかったんだって。再就職先を世話してもらえるとか言ってたのも駄目になって、年金だってまだちょっとしかもらえないし、母もパートに出るとか言ってたけど、ふたりとも六十すぎてるんだから仕事もないよね」
「大変だよね。仕送りとかするの?」
「そんな余裕、私にだってないよ」

 持ち家なので家賃とローンがないのは幸いであろう。母としては美弥にうちに戻ってきてもらって、食費を入れてもらったほうが楽になると言いたいらしかったが、メリットもない実家暮らしは美弥がお断りだ。

「ルナちゃんとこも似た感じ?」
「う、うん、まあね。うちの両親も六十すぎてるしね」
「私はひとりっ子だから、弟や妹がいたらもっとお金がかかって、もっともっと大変だったんだろうな。私がちゃんと働いて独立してるのを感謝してほしいよ」
「うちは弟がいるんだけど、あの子も社会人だから、親はなんとかやってるみたいだよ」

 お金、ないよね、お金、ほしいよね、が美弥の口癖になり、いつもルナも一緒にうなずいていた。

「私たちみたいのって貧困女性? 侘しいよねぇ」
「うん……そうだね」
「ルナちゃんってどんなところに住んでるの? 遊びにいっていい?」
「狭いし、片づけるの下手だから……」
「じゃあ、うちに来ない?」
「そんなのより外でごはんを食べるほうがいいな」

 とはいえ、この会社では続いているのは、ルナという仲間がいるからもある。年ごろも似た近い境遇の女同士。ルナにも彼氏はいないようで、婚活しようか、だけど、婚活の場ってろくな男がいないらしいよ、との愚痴も共通していた。

 あとひとつ、もはや気楽にやめられないのは、ひとり暮らししているからだ。実家にいたら甘えてしまう、というのも父も母も経済的に苦しい生活になっているので不可能になり、生活費を捻出するためには簡単に仕事をやめられない。独立したのは正解だった。

「故郷のほうで用事があるらしくて、ルナちゃんは里帰りなんだ。一週間ばかり休むそうだから、美弥ちゃんはがんばって」
「そうなんですか。私は聞いてないよぉ」

 一週間も休暇を取るのならば美弥にも告げるべきではないのか。不満ではあったが、所長が認めているのだからやむを得ない。用事ってなんだろう? 法事らしいよ、と所長からは聞いていたので、メールをしたり電話をかけたりするのも控えたほうがいいのかと判断していた。

「急なことでね、ルナちゃん、辞めるって言ってきたんだよ」
「え? なにかあったんですか?」
「故郷に帰る理由は法要だって聞いていたんだよね」

 困った顔をして、所長が話してくれた。

「それがちがったらしくて、お見合いをセッティングされていたらしいんだ」
「お見合い?」
「そうなんだよ。美弥ちゃんは仲良くしてたんだから知ってるんだろうけど、ルナちゃんの家ってほら、あれでしょ?」
「あれってなに? ルナちゃんの故郷の話なんてほとんど聞いてませんよ。うちの両親は生活が苦しいって話したら、うちも同じようなもんだとは言ってたけど」
「ルナちゃんの家が苦しい? そんなはずないでしょ」

 所長とルナの父親は大学で同期の友達だったのだそうだ。娘がどうしても都会で働きたいと言う。三十歳になったら帰ってきて結婚して、婿養子をもらって家を継ぐから、とまで言う。必ず約束を守ると誓わせたから、面倒見てやってくれないか? 学生時代の友人、すなわちルナの父親に頼まれて、社長は引き受けた。

「……」
「その約束の三十歳が迫ってきてるって、僕は忘れてたよ。約束通りにルナちゃんはお父さんのところに帰り、縁談が決まったらしい。短い間に決まったんだけど、相手がルナちゃんを気に入ったそうだし、田舎の旧家だったらそんなものなのかもしれないね」
「旧家?」
「そうだよ。ほんとに知らなかったの? ルナちゃんのお父さんは田舎の大地主だよ。彼も大学は僕と同じで都会に出てたんだけど、卒業して故郷に帰って結婚して、父親の跡を継いだんだ。よくは知らないけど、ガソリンスタンドや旅館やなんかんや、不動産をたくさん持ってるはずだよ」
「ルナちゃんの弟ってのは?」
「最年少市会議員誕生、とかって言われてたっけね」
「市会議員……」

 嘘つきっ!! 裏切り者っ!! 美弥はルナに向かって叫びたかった。

 似た境遇の彼氏もいない貧困女性? それは美弥だけではないか。実はルナはゴージャスなマンションに住んでいたようで、だからこそ美弥を招くのを渋ったのだ。

 社会人の弟って、市会議員? 親は地主? そんな貧困女性がいるものか。
 ずるいずるいっ!! とも叫びたくなったが、ルナは美弥の前から消えてしまった。友達のつもりでいたけれど、結婚式に招待などはしてくれないだろう。

 けれど、ルナは美弥に嘘をついてはいない。いつでも言葉を濁していたのは、本当のことが言えなかっただけなのだと今になればわかる。そんなルナがいつまでも近くにいるよりは、いなくなってくれたほうが精神衛生上はよさそうだ。あーあ、私もがんばろっ、と呟いてみても、どうがんばればいいのかすらも美弥にはわからなかった。

次は「あ」です。


206「リクエストアワー」

しりとり小説

206「リクエストアワー」

 祖父が愛用していたラジオを形見としてもらい、祖父が愛聴していたと教えられた放送を聴いていた。古いヒット曲ばかりかかるので、徳馬にはむしろ新鮮だったのもある。そんな時間にこんな葉書が読まれるとは。

「偶然にしたってすげぇよね。これぞじいちゃんのお導きっていうの?」
「そうなのかもしれないね」

 視聴者からの葉書を読み、リクエストに応える。昭和の時代には一般的だったらしきラジオ放送なのだそうだが、近頃はどうなっているのか、音楽にはさして興味のない徳馬は知らない。が、祖父お気に入りのラジオ番組は長期間に渡ってそんな形で放送されていた。

 黒い小さなラジオは何年使っていたのかも知らないが、元気に動いている。コンセントに挿せば使える形なので、電池もいらない。充電の手間も不要なので、めんどくさがりの徳馬も気軽に使っていた。

「たまには勉強しようかと思って……」
「たまに、なんだ」
「たまに、だろ? おまえはいつも勉強なんかしてるのか?」
「忙しくて勉強なんかしてる暇ないよ」
「だろ」

 彼女というほどでもないが、つきあっていないとも言い切れない相手と校内のカフェでお喋りしている。徳馬はあの日のびっくりを彼女に語った。

 デスクに向かって参考書を広げ、勉強しようとしていても気が乗らない。普段は聞き流しているラジオにむしろ集中してしまっていたら、DJの読み上げる葉書の内容が耳に入ってきた。

「十年近く前になります。結婚を前提に彼と同棲をはじめたのです。小さなハイツの一室で、毎日が遊びみたいに楽しかった。ハイツのお隣は一軒家で、おじいさんがひとりで暮らしていたみたい。挨拶に行ったら言われたんです。

「新婚さんですか」
「ええ、まあ……」

 同棲中だなんてお年寄りに言うと変に受け取られそうで、言葉を濁しておいたんですけど、彼氏があとから正直に言っちゃったんですよね。それからはおじいさんがとっても親切にして下さって、おかずをたくさん作ったからって届けてくれたり、忠告もしてくれたりしました。

「奥さん……じゃないのか、あなたも働いてるんでしょ。それで家事もやってるんでしょ」
「やってますけど、彼もちょっとはしますよ」
「ちょっとって、男に家事なんかやらせたらいけませんな。そんなことをしてると彼はあなたと結婚したがらないんじゃないかな? 結婚しても家事をやらされるんじゃうんざりだって言いそうですよ。もっとも、私も妻と死に別れて家事ができなくて困ったものですが、今は家事サービスの会社にお願いして解決してるんです。男にとっては家庭は安らぎの場なんだから、家事なんかさせてはいけません」

 なんてね。
 そのおかずも実は、お弁当宅配サービスから届いたものだったみたい。おじいさん、寂しかったのかな。私を話し相手にしたかったのね。私も引っ越してきたばかりで仕事も替わって友達がいなかったから、おじいさんとお話しするのは楽しかった。おかずもおいしかったです。

「彼氏はあなたに花を買ってきますか」
「そんなの、もらったことはありません」
「そうですか。じゃあ、私がかわりに……」

 って、庭に咲いたっていう白いバラをもらったりもしました。おじいさん、しゃれたことをするのよね。

 彼氏と喧嘩したときには、そんなときには男を立てるものです、あなたがあやまらなくちゃ、あやまってから甘えたら彼氏はイチコロですよ、なんてアドバイスもしてもらったり。男心についてもいっぱいアドバイスしてもらいました。

「老人ホームに入ることになりましてね、ひとり暮らしは少々つらくなってきたんで、息子がいい施設を見つけてきてくれたんです。有料だからわりに豪華なところで、それなりにいい暮らしはできそうですよ。あなたは彼との結婚は?」

 さよならの挨拶にきてくれたおじいさんに、私は正直に言いました。お隣さんになってから二年ほどすぎていたかな。

「私ももうじきここからは出ていきます」
「あ……そうなんですか。あなたが私の忠告を守っていたら、捨てられるようなこともなかったんでしょうに。年寄りの言うことをきかないから」
「そうですね」

 認めておいたけど、ほんとは私に他に好きな男性ができたから、だったんですけどね。
 
 ついこの間、仕事で関わっている有料老人ホームで、ひとりのおじいさんが亡くなったと聞きました。そのおじいさんっていうのがなんと、あのころに親しくしてもらっていた隣家の老人だったんだからびっくり。偶然っていうのもあるものなんですね。

 親切で優しいおじいさんだもの、ホームのお仲間とも楽しくやっておられたんでしょうね。おばあさんたちにもてていたりして? ホームのスタッフの恋愛相談を受けて、私にしたようなアドバイスをしてあげて、ためになっていたんじゃない? 私はあれから三度くらい恋はしたけど、四十すぎても独身です。

 今も彼氏はいるけど、結婚はもういいかな。
 言われそうですね、おじいさんにだったら。私の忠告を聞かないから、あんたはいい年して独身なんですよ、って叱られそう。こんな暮らしも楽しいって言ったら、負け惜しみだって笑われるかな。

 でも、はじめて同棲したあのころも楽しかったから、おじいさんとのお喋りとともに大切な想い出として、心の中にしまっておきます。

 おじいさん、ありがとう。おじいさんのご冥福を心よりお祈りします」

 ラジオネーム・タギョール、と名前を読み上げ、DJが言った。

「いいお話ですね。都会の人間関係は希薄だと言われますけど、若い女性と老人の心温まるエピソード。敬老の日も近い今日にふさわしいお話でした」

 これってうちのじいちゃん? 祖母に先立たれてひとり暮らしをしていた祖父の家には、十年近く前だったら徳馬も時おり遊びにいった。徳馬はあのころは小学生で、隣のハイツのお姉さんにもらったんだ、と祖父がケーキを出してくれたこともある。母にそのお姉さんの話をしていたこともあった。

「あんまりお節介焼くと嫌われるわよ」
「嫌うはずがないだろ。好かれとるよ。だからケーキをくれるんじゃないか。しかし、あのお姉さんは買ってきたものしかくれない。女なんだから手作りの料理でもくれればいいのに。私があげるもののわりにはお返しがしょぼくて、ケチなのか気が利かないのか」

 文句を言っていた祖父の口調も覚えている。

 ハイツのお姉さんは結婚していないらしい、とも聞き、それってどうして? と徳馬が尋ね、子どもは知らなくていいんだよ、と母に言われた記憶もあった。祖父が老人ホームに入所したのは八年ばかり前。先日、ホームで亡くなったのもその通りで、時期的にも合う。

 まちがいなくうちのじいちゃんだろう、と決めて、ラジオ局に問い合わせてみたら、放送で読み上げた葉書の部分の録音を送ってくれた。母に聞かせてやろう、と思っていたSDカードにおさめられたものを、徳馬は彼女にも聞かせてやった。

「葉書のコピーとか送るわけにもいかないだろうけど、こうやって送ってくれたんだよな」
「親切だね。ふーん、へぇぇ」
「なんだよ、なにか言いたい?」
「そのラジオネームの意味、わかる?」
「タギョール? 中近東の言葉みたいだな」
「フランス語だよ」

 海外旅行が大好きだから、大学でも英語を専攻している。フランス語と韓国語も勉強している彼女は、おかしな笑みを浮かべた。

「フランス語のスラングで、「その汚い口をふさげ!」って意味なんだよ。ものすごくうるさい相手に口汚く、黙れ!! うるさい!! ってときに使うの。徳馬が喋りすぎるときに、うっせえんだよ、って言いたくて軽い気持ちでも使うけど、レディが口にしたらいけない言葉なの。こんな葉書を出してそのラジオネームがそれって、はたして彼女の真意は……DJさんが言うみたいな心温まるエピソードなのかなぁ」
「……うわ、性格わるっ!!」
「知らなかった?」

 そんな連想をするということは、彼女の性格が悪いせいだ。性格わるっ!! と言われて、知らなかった? と切り返す奴なのは知っていたが、ここまでだったとは。
 が、彼女の言う通りなのかもしれなくて、母に録音を聞かせてやるつもりが急速に失せていった。

次は「ワー」です。

 


 

 

205「手がかり」

しりとり小説

 

205「手がかり」

 

 可もなく不可もなくだったのかもしれないが、どうにかはじめての仕事を一年間やり遂げられた。昨年度は飛ぶようにすぎていったとしか思えない。入学式では校長の訓辞がラストになされるので、副校長である久水の挨拶が先だ。去年は来賓も父兄も子どもたちの顔もまともに見えていなかったな、と久水は去年の自分を思い出す。

 

 今年はそうでもなく、緊張していたり張り切っていたり、元気が良すぎて近くの席の子どもにちょっかいを出したり、なぜかべそをかいていたりする、新入生たちの様子もよく見えた。

 

「出雲先生、面会したいとおっゃる方が見えてるんですけど……」
「はい、どなたでしょうか?」
「二年生のお母さまで、石飛さんとおっしゃるそうです」

 

 お通ししてもよろしいですか、と尋ねる事務員に承諾の返事はしたものの、久水は首を傾げた。
 独身時代には小学校教諭として十年弱勤務し、結婚して妊娠したので一旦退職した。教師の仕事は育児とも両立できなくもなかったのだが、久水の母も教師で、よその子どもにばっかり愛情を注いでいるように見えたのが不満だった記憶があった。

 

 私は我が子の母親に専念したい。夫も賛成したので、十五年ほどは専業主婦として暮らしていた。下の娘が来春に中学生になる予定だった一昨年、母方の親戚から依頼を受けたのであった。

 

「再就職するつもりなんでしょ? だったらうちの学校に力を貸してくれないかな」
「私立青葉学院ですよね」
「そうですよ。青葉学院小学校のほうね。久水さんはもとは小学校の先生なんだし、児童のお母さんとは年頃も近いでしょう? 副校長のポストが空席になるんで、お願いしたいのよ」
「副校長なんて私につとまりますか」
「正直言って激務でもないし、それほどには大変じゃないのよ」

 

 悩みはしたのだが、夫も娘たちも勧めてくれたので、久水はその仕事を承諾した。
 肉体的にはたしかにそれほど大変でもなかったが、精神的には疲労した。それでも副校長なのだから、児童の担任をするわけでもなく、責任者としても校長の手助けが主な仕事だ。一年がすぎて久水もようやく一息つけるようになった。

 

 ポスト柄、児童の親と面接するようなこともめったにない。石飛亜衣という名の新二年生の女の子。その母、桐子。名簿を見つつ久水は石飛桐子を待っていた。

 

「お忙しいところ、どうもすみません」
「いえ、こちらこそ」
「出雲先生、私を憶えておられませんか?」
「えと、お母さまを、ですか」
「旧姓は黒木というのですよ。先生の旧姓は織田さんですよね。織田久水さん」
「ええ、そうですけど……」

 

 昔なじみなのか? 改めてまじまじと彼女の顔を見たが、久水は桐子を思い出せなかった。

 

「中学校のときに同じ学校でした」
「……同じクラスでした?」
「いいえ。クラスが同じになったことはありません」
「……同じ学年ですか?」
「そうですが、クラスは別です」

 

 人口密集地の大きな中学校だった上に、中学時代には特に印象的な出来事もなかったので、久水の記憶には十二歳から十五歳までの年頃があまり残っていない。黒木桐子という名の女生徒も思い出せなかった。

 

「副校長の出雲先生……先生も結婚なさって苗字が替わってるから、私もすぐに思い出さなかったんですよ。でも、去年の運動会のときだったかしら。先生をお見かけして記憶がぱーっと戻ってきました。あの織田さんだっ!! ってね」
「すみません。石飛さんと私の間になにかありました?」

 

 目を細めて久水を凝視してから、桐子はほっと吐息をついた。

 

「そういうものなのかもしれませんね。わかりました。先生は覚えていらっしゃらないと」
「すみません。申し訳ありません。詳しく教えて下さいな」
「いいんです。では、失礼します」
「石飛さん、待って下さい」

 

 待ってはくれず、桐子は帰っていってしまった。
 個人的な用件、しかも児童のことではなく、母親と久水が中学生のころに同じ学校で同じ学年だったというだけだ。放っておいてもいいのかもしれないが、桐子の暗い瞳が気になった。

 

 子どもたちの母親と久水が同年輩だと、親戚の者は言った。久水は四十六歳なので、小学生の母親はもっと若いのではないかと思ったのだが、そうとも限らない。昨今は晩婚晩産の女性も多く、桐子だって四十五歳で七歳児の母だ。名簿によると石飛亜衣には別の小学校に通う十歳の兄がいるようだが、それでも桐子の出産は遅いほうだろう。

 

 私立青葉学院は女子校で、小学校から大学まである。生徒は裕福な家庭のお嬢さまがほとんどで、桐子の夫も弁護士だ。勉学優秀な女子校として、青葉学院はエリートの妻養成校のようにも言われていた。

 

 母親の職業は主婦となっている。久水は石飛亜衣の名簿を詳しく読んでみたが、たいした事実は判明しなかった。

 

 胸の中にわだかまりは残ったものの、家族や同僚に相談するほどのことでもなさそうだ。桐子は娘の通う小学校の副校長が同窓生だと知って訪問してきたものの、久水のほうが覚えていないと言ったのでがっかりしたのだろう。それだけだと思っておいた。

 

「こんな手紙が届いてるんですよ」

 

 ところが、それから一週間ほどしたある日、久水は校長から封書を手渡された。校長の名前のみの宛名しかないので、直接学校のポストに入れていかれたのだろう。

 

「出雲先生は教育者としていかがなものなのでしょうか。
 彼女の子どものころの素行を調査なさいましたか? 問題ありですよ」

 

 短い文面の手紙で、久水にはさっぱり意味がわからない。なんなんですか、これは? と校長を見返した。

 

「先生方の間に噂が起きてるんです。先生方は誰かのお母さんから聞いたらしいんですが、出雲先生が子どものころにひどいイジメをしていたと」
「イジメ?」
「なにをなさったんですか?」

 

 子どものころにイジメの加害者になった、この私が? 久水は思い出そうとした。

 

 幼稚園のころに友達と喧嘩をして、その子の名前も忘れてしまったが、あんたとは遊んであげない!! と意地悪を言ったことならある。いいもんいいもん、と相手も言ってしばらくは仲違いしていたのだが、いつしか仲良しに戻っていた。

 

 同じころに男の子に髪を引っ張られたり、帽子を取られたりしたこともあるが、母や先生は、あの子、久水ちゃんが好きなんじゃない? と笑っていた。好かれていたのかどうかは知らないが、あれは久水が苛めたのではなく苛められたのだ。そのくらいの細かな出来事だったらあったが、誰にでもあるのではなかろうか。

 

 小学校のころにも近いことはあった。グループが半々に分かれて反目し合ったり、男の子たち対女の子たちで喧嘩腰の議論をしたり。

 

 中学生のときには……それほど子どもっぽいことはしなくなったので、久水は軽いイジメにも巻き込まれたことはない。高校生ともなると、子どものころとは言わないだろう。

 

「覚えてませんけど……」
「意外とイジメはね、苛めたほうは忘れてるんですよ。よーく思い出してみて下さい」
「そう言われましても……」

 

 老人といっていい年頃のいかめしい女性校長は、きびしい表情で久水をねめつける。彼女は手紙も噂も信じ込んでいるようだが、どれだけ記憶を探っても思い当らない。久水は幼稚園や小学校のころの諍いを口にした。

 

「そのくらいのことではないと思いますけどね」
「私にはそれしか思い出せません」
「その程度だったらここまでは……あなたが忘れているのかもしれませんよ。出雲先生、しっかり考えて下さい」
「すこし時間を下さい。思い出してみます」

 

 そうとしか答えようのない久水に、これは深刻な事態なのですよ、と校長は宣告した。

 

 いじめ事件は学校としては大問題だろう。過去のことであっても、副校長がイジメの加害者となれば由々しき事態だ。教師たちにも遠巻きにされているように感じる。久水は頭が痛くなるほどに、想い出を掘り起こした。

 

 ひとつだけ思い当るふしがある。石飛桐子、旧姓黒木。彼女との面接が無関係だとは思えなくなってきて、久水はいとことの国際テレビ電話での通話を選択した。

 

「……久実ちゃん、覚えてない?」
「久水の中学のときのことねぇ。同じクラスじゃなかったもんね」
「黒木桐子って子、覚えてない?」
「知らないな」

 

 父親同士が兄弟なので、姓も同じ織田、祖母の名前からひと文字もらった「久」の字もかぶっていて、中学校も同じだった久実と久水。ただし、読み方は「くみ」と「ひさみ」だ。

 

 高校は別々になり、大学は久実のほうがイギリスに留学してしまったので、疎遠になっていたいとこ。久水としては久実を忘れかけていたのもあったのだが、藁をもすがる気分で彼女に連絡を取ってみた。久実は現在ではイギリスで結婚し、夫とふたりしてロンドン郊外でオリジナル家具を作っている。五人もいる子どもたちも、自然豊かな土地でのびのびと育っているようだ。

 

「思い出してみるよ」
「うん、お願いね」

 

 毎日毎日、思い出しましたか? と校長に責められる。ママ、やつれてない? と心配してくれる家族には、イジメ問題など迂闊に口にできない。児童とは触れ合わない仕事だが、教師たちにも白い目で見られているような気がしていた。久水は再び、久実にテレビ電話をかけた。

 

「黒木、黒木桐子。思い出したよ」
「そうなの? 黒木さんって嘘つき?」
「いやぁ、あのさ……」

 

 長年リアルでは会っていない、テレビ電話だってめったにしないので久実の顔を見るのは実に久しぶりだが、近頃はやつれ気味の久水よりは十も若いのではないかと思えた。同い年なのに、気ままな芸術家はいいわね、と久水は言いたい。

 

「かなり巧妙にやっていたのかな、誰も気づいていなかったんだね。久水も知らなかったよね?」
「なんのこと?」
「あたしだよ、あたし」
「ええ?」
「執念深いなぁ。怖いなぁ。三十年も前だろうが。あたしだって忘れてたさ。そんなことでねちねち言ってくるなんて、あの女は今でもそんな性格か」
「久実ちゃん、なんのことよ?」

 

 のらくらしているのを聴き出してみると。

 

 三十年以上前、中学校の工芸クラブに所属していた久実は、同い年の黒木桐子と知り合った。工芸クラブなのだから女子は少なくて、久実としては友達ができたみたいで嬉しかったのだそうだ。

 

「あたしも忘れてたんだけど、あいつ、陰湿な性格なんだよね。綺麗な子ではあったけど性格最悪。あたしの好きだった先輩にぶりっ子して取り入って彼女になっちまいやがったのもあって、仕返ししたの」
「仕返しってどんな?」
「忘れたけど、いやがらせとかさ。いやぁ、あたしもあのころは思春期の意地悪少女で、けっこうあくどい真似もしたかもね。ったって、過去じゃん、しつこいんだよ」
「久実ちゃん……」

 

 まったくの他人ならば、人違いですっ!! と叫べるだろう。冤罪ですっ!! 私はイジメなんかしていませんっ!!
 けれど、実際に黒木桐子を苛めていた者がいる。人違いなのは事実だが、まちがえた相手が悪すぎる。外見も名前もよく似た織田久実。冤罪を晴らそうとすれば、桐子はなんと言うだろうか。

 

「そうですか。出雲先生のいとこ……身内にそのような女性がいらっしゃる方なのに、教育者としてはいかがなものでしょうか? みなさん、どう思われますか?」

 

 公衆の面前で身の潔白を証明しようとしたら、そう反論されそうで、久水の気分は暗澹としてきた。

 

次は「り」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

204「もっと愛して」

しりとり小説

204「もっと愛して」

 ソファに並んですわって、琴子と宗平はテレビを観ていた。映画館に行きたかったのに見逃してしまった恋愛映画のDVDを借りてきて、琴子のマンションでふたりで観る、初のおうちデートだ。この映画がロードショーとして話題になっていたころには、琴子には前の彼がいた。

 前の彼のことを思い出すとむかっ腹が立つので、画面に集中しようとする。が、宗平も熱心に見てはいなかったようで、琴子の頭のてっぺんを指先で撫でた。

「ここ……」
「なにかついてる?」
「いや、やっぱり琴子さんは若くないんだなって思って……」
「そりゃあ、宗平くんよりは年上だけどね……それがどうしたの?」
「いやぁ、全然違うなって思って……」
「違うって誰と? 誰と較べてるの?」
「僕のこと、好きだって告白してくれた女の子と……」
「告白されたの?」

 DVDはどうでもよくなってしまって、口論になった。口論というよりも、琴子が宗平を責め、宗平は逃げ腰で防戦一方だったのだが。

 こうして並んですわっていると、宗平のほうが背が高くて座高も高いので、琴子のつむじを見下ろす姿勢になる。三十六歳の琴子は髪が薄くなる年齢ではないが、宗平に告白してきた彼の職場の後輩は二十代なのだそうだから、その女の子と較べればつむじは寂しいのかもしれない。

 この映画のDVDを借りたのは琴子なのだから、宗平にはさして興味もなかったのだろう。テレビ画面ではなく琴子のつむじを見て、つい正直に言ってしまった。琴子のほうはモトカレを思い出したのもあって、やや過剰反応してしまった。

「私はどうせ宗平くんよりも年上のおばさんよ。その子はいくつ? 二十六? そんなに若くはないけどね」
「琴子さんよりは十も年下だよ」
「宗平くんだって三十はすぎてるんだから、そんな若い子から見たらおじさんじゃないのよ」
「男の三十一はおじさんじゃないよ。琴子さん、さっきから支離滅裂じゃん。そんなに若くないって言ってみたり、そんな若い子だって言ってみたり」
「二十五すぎたら女はみんな同じよ」
「そんなはずないでしょ」
 
 そこから喧嘩になって、琴子は宗平を部屋からほっぽり出した。帰ってよっ!! とヒステリックに怒鳴られた宗平も怒ってしまい、帰ればいいんだろ、二度と来ないよっ!! と言い返して足音も荒く出ていった。

「うーっ、むかつくっ!!」

 モトカレと別れて一年半、新しい彼氏の宗平とはこれからゆっくりじっくり深くなっていきたかった。今夜、はじめて宗平を琴子のマンションに招き、できることならベッドに誘い込んで、とりこにしてしまいたかった。妊娠するなんて姑息な手段ではなく、琴子さんと結婚したい、と彼に心から思わせるように運びたかったのに。

 今どき、二十六歳の女は結婚に焦る必要なんかない。二十八くらいまでは遊びの恋もして男を見る目を養い、三十歳くらいで結婚すれば十分だ。なのに、宗平に告白してきた女は若いくせにがっついてみっともない。それとも、近頃どんどん男が結婚したがらなくなっているから、宗平程度でもなんとかしてつかまえたい二十六歳もいるのだろうか。

 考えてみれば琴子だって、二十代のころにはそのつもりだった。短大を卒業して信用金庫に勤め、転職して派遣社員として大会社にも派遣され、いい男はよりどりみどり、のはずだったのだが。

 二十代のころには三人ほどどつきあったが、結婚はどちらも言い出さなかった。三十を過ぎてからつきあったモトカレの佳士には、私は若くはないんだから結婚したいの、とはっきり言ったが、のらりくらりと逃げられ、ついに業を煮やして琴子のほうから別れを切り出した。

「琴子のためには別れたほうがいいんだね。つらいけどさよなら。琴子、幸せになってね」

 さよならを言い合ったときには、佳士はたしかに涙ぐんでいた。
 なのになのになのに、先日、共通の知り合いから聞いたのだ。そのせいで、モトカレを思い出すとむかっ腹が立つ状態になっていたのだった。

「佳士くん、結婚したみたいよ」
「結婚? あいつ、結婚願望なんかないって言ってたのに……」
「私も別の友達から聞いたの。琴子は佳士くんとはSNSでもつながってないんだっけ?」
「つながってないよ」
「見てみたら? 結婚式の写真をアップしてたよ」

 そんなもん、見たくもないっ!! と友人には言ったのだが、宗平と喧嘩をしたせいもあって見たくなってきた。佳士が結婚したと教えてくれた友人の友人、とたどっていくと、佳士のアルバムが見られる。全公開になっていたので、友達にはなっていない琴子にもたやすく見ることができた。

「つきあってから二年の記念日と、結婚記念日が同じです」

 キャプションにはそう綴られていて、満面の笑顔の新郎新婦の写真がアップされている。ツルちゃん、二十六歳、ケイちゃん、三十五歳とも書かれている。ツルという名前だか愛称だかの佳士の妻が、宗平に告白した女と同い年なのも気に障った。

「若いっていいねぇ。ちょっとだけ年上の女とつきあってたこともあるけど、やっぱり二十代は最高だわ」
「三十代が泣くと怖いけど、二十代の女だと可愛い。甘えられるとほにゃほにゃになっちゃうんだ」
「できちゃった婚じゃないよ。ベイビーちゃんはこれからがんばるからね」
「ツル、愛してるぜーっ!!」

 何枚かの結婚式写真には、臆面もなくのろけたキャプションが添えられている。そこに佳士の友人連中、琴子にも誰なのかわかる者も混ざっている者たちが、いいねぇ、素敵、ケイちゃんかっこいい、奥さん可愛らしすぎ、芸能人? モデル? ケイちゃんの果報者!! などなどのコメントを寄せていた。

 こんなもの、見るんじゃなかった。どこが可愛らしすぎなんだよ。こんな二の腕の太いモデルがいるもんか。袖のないウェディングドレスから覗くたくましめの腕を見て、毒づくのも虚しい。

「ん?」

 ふと、琴子は気づいた。結婚したのが三ヶ月ほど前で、その日が交際二年の記念日。琴子が佳士と別れたのは一年半ほど前なのだから、一年近くだぶっている時期があるではないか。

「この二股男……」

 ぎりぎりっと歯がみをして、琴子はツルという名の女のアカウントを探した。ケイちゃん、佳士のハンドルネームはそのままで、彼の友達の中にツルちゃんを容易に発見できた。

「はじめまして。ツルちゃん、結婚おめでとう。
 ツルちゃんがケイちゃんとつきあいはじめたころ、彼には別の彼女がいたって知ってる? 私は知ってるよ。だって、それって私なんだもの。

 ケイちゃんに聞いてみて。コトコって誰? って。彼、青くなると思うよ。
 二度あることは三度あるって言うじゃない? あんな浮気男と結婚したって、おめでとうじゃなくてご愁傷さまかもしれないね。
 またあいつがよそ見しないように、しっかり見張ってなさい。
 見張ってても無駄だろうけどね」

 知らない相手にでもメッセージは送れるのだから、勢いのままに書いた文章を衝動的に送信した。

「琴子……写真、見たんだね。見ろって言ったのは私だけど、やっちゃったね。
 ツルちゃんの日記も見た?」

 翌日、佳士が結婚したと教えてくれた友人からのメールをもらい、琴子はツルの日記ページにアクセスしてみた。

「ケイちゃんがもてるのは知ってたけど、やっぱいたんだね。
 そりゃあね、もてるんだから他の女にだって言い寄られるよね。

 そんなケイちゃんが選んだのは私。
 コトコちゃん、ご愁傷さまはあんたのほうに言ってあげる。
 ケイちゃんにふられてまだ独身? 

 キーキーしてると一生独身だお。
 キーキーしてないでがんばって、早くお嫁に行けるといいね」

 むろん琴子は、他の人間の目に触れないように個人的なメッセージでツルにメールを送った。なのに、あろうことかツルは、公開日記で琴子に返信していた。ケイちゃんからのコメントは。

「俺がアイしてるのはツルだけだぜ。
 だから結婚したんだもんな」

「うん、知ってるよ、ケイちゃん。
 もっともっと、ずっとずっと愛してね」

 ごちそうさまぁ、なんて素敵なカップルなんだろ、あてられちゃうわ、コトコなんかに負けるな、などというコメントが、今回もたくさんついていた。

次は「て」です。


 

 

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