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2020年8月

213「のびのび」

しりとり小説

213「のびのび」

 都会に憧れて、高校を卒業すれば生まれ育った町から出ていく。地方ではそういう若者のほうが多いのだろうが、加奈子の故郷の若者は地元が大好きだ。

 もはや若者とも呼べない三十すぎ。結婚していてもいなくても、小学校時代からの友達が周囲にはうじゃうじゃいる。泰司もそのひとりだった。

「直美が戻ってきたって、加奈子、知ってるか?」
「戻ってきた? 加奈子は東京で暮らしてたんだよね」
「そうだよ。東京でテレビ局のプロデューサーと結婚して、そいつが浮気したとかで離婚して戻ってきたんだ。さすがに東京の女になってて、あかぬけててかっこいいよ。駅前で雑貨屋を開くらしいから、女の子たちに宣伝しといてって頼まれたんだよ」
「雑貨屋ねぇ」

 こんな文化不毛の地で雑貨屋なんかやったってね、との気分は横にどけて、加奈子は泰司をちらっと睨んだ。

「泰司はなんでそんなに詳しく知ってるんだ?」
「ばったり会ったんだよ。いやぁなつかしいなぁ、ってことで、飲んだんだ」
「ここで?」
「ここみたいな泥臭い店じゃなくて、T市まで出て直美のいきつけの店に案内してもらった。その店もかっこよかったよ。東京の女ってセンスがちがうよな」

 泥臭くて悪かったね、とこのスナック「トーコ」のママである東子がぶすくれる。今どきスナックかよ、とみんなが笑いつつも重宝しているこの店のママも、加奈子や泰司の小学校時代からの同級生だ。

 小学校と中学校は同じ。高校で別々になるものの、距離的にはそう離れてもいない学校に通っているのだから、遊ぶときには地元で集まる。大学や専門学校に行く者は少数派で、たいがいは地元で就職する。男子には家業を継ぐ者も多く、女子はそんな男子と結婚して二代目の妻となり、夫の親と同居する。そんなケースが非常に多い町だ。

 T市の専門学校に進んだ者は都会派で、東京の大学に進学した者などは雲の上の存在。直美はその東京の大学進学派であった。

「大学っても短大だったよね?」
「そうだっけ。短大と大学ってどうちがうんだ?」
「短大は二年で大学は四年でしょ。泰司はそんなことも知らないのかよ」
「知ってるよ。知ってるけど、どっちだって同じじゃん」

 なんであっても、直美は東京の女などではない。小学校と中学校は泰司や加奈子と同じで、高校も加奈子と同じだった。小学校から高校まで同じとなると親しくなるか、逆に反目し合うか、知りすぎているからそうなる場合もよくあるが、加奈子と直美は後者だ。加奈子は直美が大嫌いだ。

 はるかな過去の話を今さらしても無意味なので、加奈子は言いたいことを飲み込む。

 建築屋の息子である泰司は、高校を卒業してT市の専門学校に行き、そこで知り合った女性と結婚して父親の会社に就職した。三十二歳にして末は社長。三人の子どもも小学生になり、妻も働いている。親と同居なので暮らし向きには余裕があり、加奈子にもたびたび気前よくおごってくれる。

 高校を卒業して地元の特産品である製麺工場の事務員になった加奈子は、なぜかいまだ独身だ。泰司の嫁はよそ者なので加奈子とは親しくなく、会うとイヤミを言われていた。

「いつもうちの主人がお世話になっております。キャバクラなんかに行くよりは、加奈子さんをはじめとするたかってくる同級生におごってるほうが安上がりだなんて申しますから、まあ、そのほうがましかなって思ってるんですよ」
「こちらこそ、お世話になります。おごらないと一緒に飲んでくれる女性はいないんですものね。こんな田舎のキャバクラ嬢よりはね、そりゃましですよね」

 おほほ、じゃ、またね、うふふ、ではでは、と毒を含んだ笑顔を向け合って別れ、次に会うとまた似た会話をする。軽いストレス解消にはなるのだった。

「住所、小学校のときのまんまなんだね。来てね」

 雑貨店「Sans Fausse Note」の開店案内状が届いて、加奈子も行ってみることにした。直美は大嫌いだが、おしゃれでかっこいい店となると好奇心をそそられた。

「……もしかしたら加奈子ちゃん?」
「うん、わぁ、直美ちゃん、ちっとも変わってないね」
「そんなことないよ。大人になったっていうか、いろいろ経験したから中身は変わったと思うんだけど、まだ三十二だもん。外見は変わらなくて普通でしょ」
「私はちょっと太ったから……」
「独身なのに太ったらいけないね。ダイエット指南しようか?」

 のっけから気分を害するようなことを言われて、加奈子はむっとした。

「……英語の名前ってしゃれてるね」
「店の名前? フランス語だよ」

 “fausse note”は「音程のはずれた」と言う音楽用語なのね。“Sans fausse note”は「音程のはずれない」つまり、「完璧な」と言う意味なの。直美の得々とした説明を聞いていると、加奈子のむかむか気分が高まっていった。

「素敵なお店だけど、こんな田舎でこんなおしゃれな店、流行るんだろうか」
「ああ、そこは大丈夫。T市にある家具店のショールームとタイアップしてるんだ。その店が大量に買ってくれるから、こっちは楽しんでやってればいいのよ。加奈子ちゃん、記念になにかプレゼントするわ。なにがいい?」

 いちいちむかむかする女だ。加奈子はぐるっと店内を見回して、目についたガラス細工を手に取った。

「わ、ごめん。それは高すぎるよ」
「こっちは?」
「加奈子ちゃん、だいたいの値段の見当がつかないんだったら、値札を見てね。常識の範囲でねだってね」
「ねだるって……」

 あんたがプレゼントするって言ったんじゃないかよっ!! 加奈子の「こいつ嫌い」気分に拍車がかかった。でも、プレゼントはほしい。

「直美ちゃんのセンスで選んでよ」
「そぉぉ? じゃ、これは? このおばさん、加奈子ちゃんに似てるし、笑いが取れるよ」

 ギャグみたいな布の人形だ。肥満体の西洋人の女が、両腕に子どもを抱えて必死の形相をしていた。

「直美の店、行ったか?」
「行った行った。ちょうど結婚記念日が近かったから、嫁にプレゼントを買ったんだ。そしたらずいぶんおまけしてくれて、娘にプレゼントって言って造花をくれたよ」
「直美ってほんと、太っ腹だよな。俺もスプーンのセットを買ったら、フォークもつけてくれたよ」
「いい店だよな。この町には似合わないくらいだ」
「いやいや、うちの町にも文化の香りのする店はあってもいいよ」

 今夜も同級生たちが、「トーコ」に集まっている。男たちが直美を話題にして盛り上がっていた。

「店もいいけど、直美は最高だよな」
「やっぱそこらへんの女たちとはちがうよな。さすが東京の女だよ」
「うちの娘が憧れちまって、東京の大学に行って将来は直美さんみたいになる、なんて言ってたよ」
「いや、おまえの娘とは顔が……」
「なんだって?」
「なんも言ってませんよ。いやいや、直美はもとから美人だったけど、東京の水で磨かれたんだろうな。俺らのもと同級生の女ったら、みんなもうおばさんだけど……」
「直美みたいのを大人の女っていうんだよな」
「おばさんと大人の女の差を見せつけられたぜ」
「うちの女房なんか直美よりも年下なのに、おばさんそのものだもんなぁ」

 そろってため息をつく男たちを見て、東子は不満げに頬をふくらませる。「トーコ」にも直美は来てくれるので、悪口は言えないらしい。今夜は他には女子はいないので、内緒話をするわけにもいかない。

 離婚して故郷に戻ってきた同級生。彼女が不幸なのならば、同情して昔の恨みは水に流してやってもいい。なのに、彼女は東京暮らしの残滓のおかげもあって、のびのび楽し気に暮らしている。それよりもなによりも、男たちが彼女を大絶賛するのが非常に気に食わない。

 あんなのただのバツイチじゃんかよっ!! と吠えるとひがんでいると笑われるのがオチだ。そこで加奈子は、とっておきの想い出話を持ち出した。

「小学校六年の運動会で、私がリレーのアンカーに選ばれたのは覚えてるよね? みんな、覚えてる? うんうん、よろしい。ちょっと、泰司、私の話がすむまで黙ってな」

 口を開きかけた泰司は、素直にうなずいた。

 運動会のクラス対抗学年別リレー競技は、娯楽に乏しい田舎町では相当に華やかなイベントだった。なのだから、同じ学年の者たちは、六年間のリレー選手を記憶している。おおむね同一人物だからもあるし、特にアンカーともなると特別なのだから、皆の記憶に刻まれていた。

「あのとき、私はリレーに出られなかったんだ。急遽代わりに選ばれたのが直美。直美は私の代理だってのに、普段は早いのを隠してたらしくて、三人抜きでトップになったんだよね」

 トップでゴールした直美に、お調子者の男子がインタビューの真似ごとをした。直美ちゃんがそんなに早いのは知らなかったよ、と言った男子に、直美は言ったものだ。

「だって、能ある鷹は爪を隠すって言うでしょ」

 あの言葉、加奈子は死んでも忘れない。
 だが、それはまだいいのだ。加奈子は重々しい口調になった。

「どうして私がリレーに出られなかったか知ってる? リレーの前に緊張してきて、トイレに行きたくなったんだ。大急ぎで走ってた私にぶつかってきたおばあさんがいたの。杖を突いてよたよた歩いてるばあさんに突き当たられて、私、足をどうかしちゃったんだよ」

 危ないねぇ、気をつけな、と言い放ったばあさんの憎々し気な口調も顔も、加奈子は死んでも忘れない。

「そのせいなんだよ。ごめん、ころんじゃった、リレーに出られないって言ったら、先生が真っ青になって、変わりを探したんだよね。そしたら直美が立候補したんだ。それで私、気づいて調べたんだ」

 どこの誰だかは知らなかったおばあさんは、いったいどこの誰だ? 小学生にできる限りで調べてみたところ、杖を突いた七十歳くらいのおばあさんといえば。

「運動会を見に来てた直美の親戚に、杖を突いたおばあさんがいたってわかったんだよ。だからさ……これ以上は言わない。今さら言ってもしようがないから言わないけど、そういうことだよね、きっと」

 店内がしーんとなり、へぇぇ、そんなことがねぇ、と東子が呟く。それで加奈子は直美が嫌いなんだ、と東子が加奈子の気持ちを代弁してくれていた。

「あーっと、それ、ちがうから」

 ところが、泰司が言い出した。

「俺、知ってるよ。まるっきり忘れちまってたけど、加奈子の話で思い出した。そのばあちゃん、直美の親戚なんかじゃねえよ。直美とはなんの関係もないばあちゃんなんだから、わざと加奈子をころばせるはずがない」
「だったら誰よ?」
「校長先生のお母さんだよ」
「へ? 嘘だぁ」
「嘘じゃねえよ。ちょっと待ってろ。写真があったはずだ」
「ってか、六年生のときの運動会の写真だったら、みんな持ってるよな。泰司が取りにいかなくても、東子んとこにはないのか」

 別の男子に言われた東子が、ちょっと待ってて、と奥に引っ込んだ。「トーコ」の奥と二階が東子一家の住まいになっている。東子はよそから引っ越してきた男と結婚していて、彼と彼の連れ子と二階で暮らしているのだった。

「あったよぉ。どれがそのおばあさん?」

 アルバムに貼られた二十年前の大判の写真には、大勢の人々が映っている。それでも全員の集合写真が撮れたのは、全人数が多くはなかったからだ。泰司が指さしたところには、校長の横に立つ狷介な雰囲気の老婦人がいた。

「加奈子が言わなかったら忘れてたんだけど、俺、見てたもん。ばあちゃんは別に怪我もしてなかったけど、痛い痛いって言うんだ。加奈子のほうが痛いんじゃないかって気になったけど、ほら、あの年頃って女子に優しくしたりしたらからかわれるだろ」

 気になったけれど加奈子は放っておいて、おばあさんの世話をしたと泰司は言う。泰司はおばあさんを医務係のもとに連れていき、呼ばれた校長が駆けつけてきた。

 お母さん、大丈夫ですか、大丈夫、ちょっところんだけだ、との会話も泰司は覚えていると言う。おばあさんは女の子とぶつかったとは口にせず、泰司も口にはせず、加奈子も特には他人には告げなかったので、些細な事件は時の流れの中に埋もれていった。

「……そしたら、直美はなんも関係ないな」
「加奈子の逆恨みだな」
「なーんだ、馬鹿馬鹿しい」

 これで話は終わり終わり、とばかりに、男たちが飲みのほうに戻る。で、直美はさ、と直美をもてはやすほうにも戻る。加奈子の恨みは宙に浮き、しかし、思ってはいた。
 そんなことはなかったのだとしても、故郷に戻ってきてのびのびしている直美は大嫌いだ。そんなことはなかったとしても、私があの女を嫌う理由はいーっぱいあるんだもんっ!!

次は「び」です。


ガラスの靴78「女子」

ガラスの靴


74・女子


 二十世紀半ばあたりまでに生まれた人間には理解しにくいようだが、今どきは夫婦、親子、家族の形態もさまざまだ。子どもの名前もさまざまで、こういう夫婦から生まれた子どももこんな名前をつけられているのかと思ったら、僕はむしろ安心していた。

「ボーイとジョーイだよ。笙くんだ。挨拶しなさい」
「こんちわー」
「……ちわ」

 先だって母と連れ立って僕んちにやってきたのが、母の姉、つまり僕の伯母。ここにいる耕一くんは伯母さんの長男だから、僕のいとこにあたる。
 彼はエリートだったのだそうだが、リストラに遭って転職した。ラッキーなことに奥さんがものすごく稼ぎのいい音楽家になっているのだそうで、収入が減っても生活はまったく困窮しない。

 超ラッキーだと僕は思うのだが、伯母さんは文句たらたらだ。
 なぜなら……人妻の身で外国へ留学なんてもっての他なのに、姑の反対を押し切って嫁は決行してしまった。そのころは収入もよく、寛大だった耕一くんが留学させてあげたから、奥さんは音楽家になれた。

 現在の嫁は子どもたちをほったらかして仕事に邁進していて、エリートではなくなった耕一くんが兼業主夫みたいになっている。なによりも、嫁の稼ぎが息子の約十倍あるらしいのが気に食わない。

 姑ってものは嫁のやることなすこと気に食わないのだそうで、耕一くんの奥さんがどんな女性だったとしても伯母さんは文句を言うのだろう。控えめで優しい専業主婦だったりしたら、息子の稼ぎで遊んでる、とか言うものらしい。

 その点、うちの母は……って、母も内心はなにを思っているのか知らないし、逆に僕のほうこそが、アンヌの実家でどんな悪口を言われているのかもわかったものじゃないが、ま、いい。アンヌも僕も胡弓も幸せなんだから。

「おじさんはお父さんのいとこ?」
「そうだけど……おじさんはないでしょ。僕はまだ二十三だよ」
「おじさんじゃん」

 小学生の望威と穰威、くそ、小学生から見たら僕もおじさんか。

 中途半端主夫で半分は僕の仲間である耕一くんは、だが、料理はそれほどに得意でもない。僕らは友達の誕生会に呼ばれるのだから、お招きし返したいと息子たちに言われて困っていた。今年は奥さんもいないし、いつものようにレストランでやるというのにも、息子は難色を示す。

「だったら笙くんに頼めば? あの子は暇だし」

 勝手に伯母さんが決めて、僕の母に依頼があった。伯母さんの頼みなのだから、当然胡弓は母が預かってくれて、僕がいとこの息子のお誕生会の手伝い、手伝いというよりもメインでパーティの準備をすることになったのだった。

 子どもの好きそうなピザやパスタやサラダ、適宜市販の品物も組み合わせて、ここが主夫の腕の見せどころだ。胡弓も幼稚園に通うようになったら、お誕生会をするようになるのだろうから、予行演習にもなる。

 次男のジョーイは八歳になる。お母さんが仕事で行っているパリから、シックなセーターのプレゼントが届いていた。お父さんの耕一くんは嬉しそうにセーターを見せてくれたが、本人は別にいらないなんて言う。小学生の男の子は服になんか興味ないのが尋常だろう。

 ピザもケーキも手作りがいいと耕一くんが言うので、お誕生会前日の今日から準備にとりかかる。ジョーイはけっこう僕のすることに興味があるようなので助手にして、ふたりでキッチンで働いている。胡弓ももうちょっと大きくなったら、こうしてお手伝いをしてくれるんだろうか。胡弓も将来は主夫になるんだったら、料理上手になるように教えたい。

 我が子の将来にも思いを馳せながら料理をしていると、来客があった。耕一くんは今日は仕事で出かけていて、お客はボーイのクラスメイトの女の子たちだった。

「兄ちゃんのガールフレンド?」
「そうなんじゃないの?」
「ふたりいるんだ。もてるね」

 ふんっと鼻を鳴らすジョーイは、女の子には興味ないのか。八歳ならばそれも尋常だ。二十三歳は十歳の女の子には興味ないが、ボーイのガールフレンド、しかもふたり、というのが気になったので、紅茶とクッキーを運んでいきがてら、様子を見にいった。

 奥さんの収入がいいから家が広い。そこも僕んちに似ている。応接室に入っていくと、少女がソファに並んで腰かけていて、ボーイは向かい側にすわっていた。

「お邪魔しています」
「ありがとうございます」

 お行儀よく挨拶した女の子は、アミルとユーアというらしい。どっちがどっちだか僕にはわからないが、意外なことには、ふたりとも特に可愛くもない普通の女の子だった。ジュニアファッションというのか、おしゃれな服を着てはいるが、ちっとも似合っていない。

「ゆっくりしていってね」
「はーい」

 声をそろえて返事をした女の子たちは、僕が部屋から出た途端、誰誰々? すごい綺麗、などと言っている。僕ってやっぱり小学生女子から見ても綺麗なんだ。
 お父さんのいとこだよ、とボーイが応じ、小学生の女の子なんてのは女になり切ってないから、案外見た目はもっさりしてるんだな、と思いつつ、僕は庭に回った。花の水やりでもしているふりをしながら、盗み聞きするつもりだった。

「だからね、ボーイが言ってやってよ」
「ナンリったら、絶対にあやまらないんだもん」
「あやまらないとあたしは絶対に許さないのっ」
「あやまるべきでしょ? ボーイだってそう思うでしょ?」

 うーん、まあねぇ、などと、ボーイはうごうご言っている。女の子たちが言っているのは、クラスの別の女の子のことのようだ。

 アミルとユーアとボーイとナンリ、他にも何人かのメンバーで、クラスの中の班として集団行動をしているらしい。そういうグループは僕らが子どものころにもあった。ナンリという名の女の子は、いつもアミルに意地悪をする。班単位の行動のときにわざとまちがえたり、発表を滞らせたりしてアミルに迷惑をかけるのだそうだ。

「この間、ボーイだって見てたでしょ」
「あれは絶対にわざとだよ。ナンリはアミルが可愛いからってやきもち妬いてるの。ナンリはアミルみたいな服も買ってもらえないんだよね」
「ナンリんちはお父さんいないから、安い服しか買ってもらえないんだよ。あたしが可愛いからっていうよりも、あたしの服に嫉妬してるんだよね」
「お父さんいないと服が買えないの? お母さんが働いたらいいんじゃない?」
「働いてても、お母さんは給料安いの」

 自分の母親はセレブみたいな高給取りだから、ボーイには一般的母子家庭が理解しづらいらしい。うちだって母子家庭になってもへっちゃらだろうが、父子家庭になったら大変だ。僕では胡弓を養って行けないから、実家に帰って両親に頼るしかない。

 大変だ大変だ、アンヌに離婚されないように、いい夫でいなくちゃ。僕はつい気持ちをよそにそらしていたが、小学生たちの会話はしっかり聞いていた。

 この年でも嫉妬だなんて言うんだな。アミルのどこが可愛いの? と質問してみたいが、それはどけておいても、ナンリが買ってもらえない流行の少女ファッションに嫉妬してアミルに意地悪をするというのは、ありがちなのかもしれなかった。

「ここに班のみんなに来てもらってもいい?」
「全員、そろうかな」
「来られる子だけでもいいんじゃない? 一斉メールするよ」

 嫉妬だってするんだから、小学生もスマホを持っている。女の子のうちのどちらかがメールをし、返信が届いたらしい音が響く。僕は料理をすっかり忘れてしまっていて、ジョーイも飽きてしまったのか、僕を呼びにはこなかった。

 私立の小学校らしいが、ボーイの班の子たちは徒歩か自転車で来られる範囲に住んでいるようだ。やがて、ひとり、ふたりと小学生が、耕一くんちに集合してきた。

 もっと聞いていたいが、ばれたら怪しい奴だと思われる。僕は小学生から見たらおじさんなのだから、子どもたちの会話を盗聴でもしているヘンシツシャだと思われたら大変だ。笙、おまえは変態だったのか、とアンヌに怒られて捨てられそうな不安も湧いてきた。

 しようがないのでキッチンに戻り、料理の続きをやる。ジョーイは逃亡してしまったようで姿が見えない。小学生たちの会話が気になりつつも料理に熱中していると、キッチンの外に人の気配を感じた。

「……ああ、キミ、ボーイの弟?」
「そうだよ。きみは?」
「ボーイと同じ班の、ナンリっていうの」
「僕はジョーイ。どうかしたの?」

 応接室から抜け出してきたらしい、ナンリがキッチンの窓の下に来ていた。

 この年頃の二歳差は大きい。胡弓とジョーイの差、五歳はもう、赤ん坊と少年だが、八歳の男の子と十歳の女の子にも、おおいなるちがいがある。ジョーイにはまだ無邪気さが残っているようで、軽い調子でナンリに質問していた。

 うまい具合にここだったら、話がよく聞こえる。僕は変態じゃないからね、変な意味で気になるんじゃないからね、とアンヌに言い訳しながらこそっと覗いてみたら、ナンリとジョーイの頭が並んでいるのが見えた。

「意地悪されてるのはあたしなんだけどな……」
「誰に?」
「班の女の子たち」
「イジメ?」
「イジメってほどでもないんだけど、悪いことはなんでもナンリのせいだって言われるの。意地悪したのはアミルなのに、あたしが悪い、あやまって、って。そう言われたのは昨日だったんだよね。あたしは悪くないって言ったから……」

 あやまるのはいやだとつっぱねたから、アミルとユーアがボーイに相談しにきたらしい。やっと僕にもこの話題の内容が見えてきた。

「さっきも他の女の子たちは、うーん、ねぇえ、とかって言ってた。女の子たちはアミルとユーアが意地悪なのを知ってるから、さからわないんだよ。あたしはさからったから、ターゲットにされちゃったのもあるかな。男の子たちは、ナンリが悪いんだろ、あやまれよ、そういうときにさらっとあやまれない女って最低、だとか言うの。悔しいからあやまりたくない」
「……僕、よくわかんないよ」
「そうだろうね。だけど、聞いてもらえるだけでもいいの。あたしは絶対にあやまらないから」
「仲間外れにされない?」
「いいんだもんっ!!」

 正しいのはどっちなのか、僕にはこれだけでは判断できない。ナンリは意地っ張りな女の子で、本当に悪かったのにあやまりたくないと言い張って泣いているのか。それとも、アミルやユーアが意地悪なのか。

 むずかしいねぇ、女の子の世界は。胡弓は男に生まれてよかったよね。僕はどうしても我が子に思いを馳せる。男の子は深くものごとを考えず、口のうまい女の子に言いくるめられていたらいいんだ。男の子同士は単純に、あばれたり罵り合ったりして遊んでいればいい。

 そして、将来は主夫になるといいよ、胡弓。アンヌみたいなかっこいい女性をつかまえられるといいね。

 よその子どもたちのもめごとに僕が出ていくわけにもいかない。単純な男子がちょっとだけ成長した身としては、丸く収まるといいね、と窓の下のナンリに心で話しかけることしかできなかった。

つづく

 
 
 

2020/8 復刻・花物語「向日葵」

「花物語」

八月・向日葵


 幼いころには特に気にもしていなかった。葉月くんち、お父さんはいないの? と遊び友達に訊かれれば、よそに住んでいるのだと答えていた。
 母が知人や近所の住人にどう説明していたのかは知らない。単身赴任などなどで家に父親がいない家庭はあったのだから、奇異なことでもないと受け止められていたのだろう。

 同居はしていなくても、父は頻繁に我が家にやってきた。羽振りのいい税理士だと知ったのは小学生になってからだが、収入もよく、気前もよく、プレゼントをくれたりレストランや遊園地に連れていってくれたりして、ひとり息子の葉月に愛情をふんだんに注いでくれた。

「そりゃあさ、金は持ってるよな、なんたって女房と二号がいたんだから」
「二号ってなに?」
「妾だよ」

 中学生になる春、父が葉月に打ち明けた。

「おまえのお母さんの智慧さんとはお父さんは正式に結婚していないんだけど、認知はしてるんだよ。認知ってわかるか? 葉月は私の息子です、という認知だ。お父さんには正式な妻がいるんだ。葉月ももう小さな子どもではないのだから、本当のことを話そうと思ってね」

 子どもじみた外見と内面を持つ、ふみ代という名の女。ふみ代は葉月の父の学よりも十二歳も年下で、ひとりで置いておくにはどうにもこころもとない頼りない女だったのだそうだ。
 そんな女を救済する意味で学はふみ代と結婚し、そのあとで智慧と出会った。

 ふみ代とは正反対の性格の智慧は、学が離婚して智慧と再婚することは望まなかった。妊娠しても結婚は望まず、私がひとりで育てていくと言ったのだそうだ。

「僕は感動したよ。僕の愛した智慧さんはなんてかっこいい女なんだろう、ってね。もちろん僕も協力した。ふみ代も心がけのいい女で、葉月が小さいころにはベビーシッターをしたんだよ。おまえは覚えてないかな。葉月が幼稚園のころに四人で遊園地に行ったら、智慧さんがジェットコースターに乗りたがった。葉月はそんなものに乗るには幼すぎたし、ふみ代は怖がりだから、智慧さんと僕が乗ったんだ。ふみ代はおまえとふたりで空を見上げて手を振っていたよ」

 言われてみれば思い出す。親戚のおばさんだと訊いていた小柄な女性、彼女を葉月は単におばちゃんと呼んでいたが、父や母はふみ代さんと呼んでいた。
 ジェットコースターに乗るなんて勇気があるわね。葉月くんのお母さんってほんとにかっこいい。うらやましいわ、と邪気もない笑顔をふみ代は葉月に向けていた。

「世間の常識ってのは窮屈なものでね、智慧さんも僕もふみ代も納得していても傍からとやかく言いたがるんだ。僕はふみ代をないがしろにもしていない。智慧さんも葉月も大切にしてきた。僕には奥さんはいるけど、形式上の妻というのか、智慧さんとも合意のもとで、ひとりでは生きられない女を救ったにすぎないんだよ。だから、おまえもおまえの親を誇りに思っていいんだよ」

 十二歳だった葉月にはわかりづらい理屈で、お父さんがそう言うんだったらそうなんだろうな、だけど、他人には言わないほうがいいのかな、程度に消化しておくしかなかった。

「俺が小学校に入ると、ふみ代さんってのは遠慮して俺に会いにこなくなってたらしいんだ。親父はてめえを正当化していたけど、後ろ暗い気分もあったんだろ」
「変わった関係だね」
「三角関係っていうんだよな。普通だったら本妻ってのが狂気のごとく怒るんだろうけど、ふみ代さんってわけわかんなくて、会いにいったよ」

 ふみ代と父の家庭であるマンションをつきとめて、葉月が会いに行ったのは中学三年生の夏休みだった。
 今、こうして恋人になった女に自分語りをしながら、葉月はあのときのことを思い出す。すべてを知ってから最初に、そして、最後に会ったふみ代を。あれは五年前だった。

「葉月くん? 大きくなったのね」
「聞きました」
「あ、ああ、そう? どうぞ、お入り下さい」

 なにを聞いたのかを、ふみ代は察したのだろう。玄関先で名乗った葉月を部屋に通してカルピスソーダを出してくれた。

「噂には聞いてたのよ。写真を見せてもらったり、背が高くなったって話を聞いたりはしていたの。こうして目の前で見ると、お父さんに似てハンサムだわ」
「ふみ代さんはそんなんでいいんですか?」
「そんなんでって……私は幸せよ」
「俺は……」

 なにをどう言えばいいのか、胸が詰まって涙が出てきそうになって、葉月は窓の外を見た。どこかのベランダにでも咲いているのか、丈の高い向日葵が窓から覗いていた。
 
「誰のために咲いたの
 それはあなたのためよ」

 あなただけの花になりたい……
 それが私の願い……
 
 細い声でそんな歌を歌い、ふみ代は言った。

「学さんは私の太陽だから。学さんがいるから、私はひまわりみたいに幸せなの。私は子どものできない体質で、学さんをお父さんにはしてあげられなかった。智慧さんのおかげで私もお母さんの真似事みたいなことをさせてもらえたんだし、学さんにも息子ができたんだから感謝してるわ」
「本音なんですか」

「ええ、もちろん。葉月くんはいやなの?」
「いやっていうのか……」
「あなたのお父さんもお母さんも立派なひとよ。悪く考えたりしたらばちが当たりますよ。まぁね……」

 子どもって保守的なものなのよね、と笑っていたふみ代は内心ではなにを考えていたのだろうか。正直な気持ちをすべて押し隠して笑っていたのならば、女って怖い。
 自分の気持ちを上手に言葉にはできなくて、葉月はただ、ふみ代を見つめた。見つめているとふみ代の気持ちのかけらが伝わってくるような気がして、ひたすらに怖かった。

END

 

ガラスの靴77「離婚」

ガラスの靴

77・離婚

1・アンヌ

新製品キャンペーンのためのイベントで、あたしたち「桃源郷」は、CMソングを担当している会社のブース近くにいた。

 毎年この時期になると、各製菓会社がこぞって新製品のチョコレートを販売する。チョコレートといえばスゥイートなのが当然だが、パンチの効いたビターな大人のチョコとかいって、この会社では真っ黒なチョコレートを売り出した。我々の音楽もパンチが効いているということで、桃源郷にCMソングの依頼があったのである。

 ほぼ一斉にスタートするニューチョコレート商戦に先立ってのイベントだ。あたしたちも演奏すると決まっているので、ロッカーファッションで適当に待ち時間を過ごしていた。

「新垣アンヌさんでいらっしゃいますよね」
「そうだよ」
「はじめまして。わたくし、こういう者です」
「沖永?」

 中年の、わりあいに綺麗な女だ。彼女がくれた名刺には、あたしたちとは無関係の製菓会社の名前と、企画部第二課長、沖永夕子の名前があった。

「あたしの知り合いにも、沖永っているよ」
「そうなのですか。わりに珍しい名前ですけどね」
「そだね。けっこうかっこいい名前だよね」
「そうですよね」

 CMソングはまだテレビでは流れていないが、同じ業界の人間なのだから、沖永夕子にも聴く機会はあったのだろう。あたしの知り合いの沖永正とは別に関係もなさそうだったのでその話題は出さなかった。

「私は昔はロック少女だったんですよ。外国のロックバンドのコンサートにはよく行きました」
「最近は行かないの?」
「ロックコンサートって立ちっぱなしでしょ。ついていけません」
「おばさんの証拠だぜ」
「おばさんですもの」

 四十代だろうか。背が高くて堂々とした体格をしている。左手の薬指にはプラチナのリング。既婚者なのだろう。子どももいるのかもしれないが、彼女は音楽の話ばかりをしていた。
 もちろんあたしだってロックは好きだから、会話は盛り上がった。

「だけど、私が若くて元気だったころのロックバンドのコンサートには、もう一度行ってみたいんですよ。アンヌさんはX・レイズってごぞんじですか」
「知ってるよ。大好き」
「そうなんですか。これはまだ極秘なんですけど……」

 来日がほぼ決定的だと、夕子は声を低めた。

「うちの会社が関わるんで、チケットはどうにか……アンヌさんも行きたいですか」
「行きたいな」
「日時は未定なんですけど、アンヌさんのスケジュールは?」
「そんなもん、どうにだってするよ」
「ご一緒していただけます?」
「喜んで」

 そうやって根回ししておいて、彼女の会社の仕事もさせるつもりなのかもしれない。別会社のチョコレートのCMソングがテレビに流れるのだから、似たような仕事はできないが、そこは彼女だって承知だろう。桃源郷のイメージを損なわない仕事だったら受けてもいい。

 X・レイズはデビュー四十年になるというのだから、現役真っ只中の黄金時代はあたしだってリアルタイムでは知らない。何度も解散したり再結成したりしているものの、オリジナルメンバーがひとりも欠けずにそのままなのは稀有な例だろう。

 七十歳近くになるじいさんバンドが、四十周年を記念してまたまた再結成し、ニューアルバムを出し、世界ツアーもやるという。X・レイズの生演奏は二年ほど前に仕事でロンドンに行ったときに聴いているから、まったく衰えていないのも知っていた。

 来日は二十年ぶりくらいだろうから、プラチナチケットになると予想される。それを夕子が手に入れてくれるというのならば、万難を排して駆けつける。仕事だってやってやろうじゃないか。


2・笙

 新しいデジタルウォークマンがほしくて、息子の胡弓を母に預けて電気屋さんにやってきた。ここはアンヌたち桃源郷が所属するCDレーベルの本社ビル近くだ。誰かに会うかもしれないと想像していたら、あまり会いたくないおじさんが店に入ってきた。

「やぁ、笙くん、主夫が出歩いてていいのかね」
「いいんだよ」

 主夫と大きな声で言わないで、と止めてほしいのかもしれないが、僕は周りのひとに奇異な目で見られても平気だ。案の定、近くにいた老人が、シュフ? この男が? という目を僕に向けていたが、無視した。

「沖永さんはなにしにきたの?」
「僕はひとり暮らしだから、食洗器を買おうかと思ってね」
「持ってないの?」
「贅沢な気がして買ってなかったんだよ。笙くんちにはあるの?」
「あるよ」
「専業主夫のくせに、手抜きしてるとバチが当たるぞ」

 ほっといて、と舌を出して、僕は僕の見たいものを眺める。
 沖永正、桃源郷のCDやDVDを出している会社の事務職員だ。なんの仕事をしているのかを僕は詳しくは知らないが、事務系なので音楽業界人種というのでもない。五十代のでっぷりしたおじさんだ。

「そういえば、アンヌが沖永さんっていう女性に会ったんだって」
「へぇ。親戚かな」
「名刺があるよ」

 おおざっぱなアンヌは、よその方からもらった名刺を放りっぱなしにする。専業主夫の僕としては、その名刺をきちんと整理整頓するのも仕事だ。ちゃんとホルダーに入れておかないとあとでアンヌに叱られるのだが、今回は忘れて財布に入れたままだった。

「このひと……知ってる? むこうは知らないようだったってか、そんな話はしなかったらしいけどね」
「沖永……夕子……YS製菓? おいおい、この女、僕の元妻だよ」
「ええ、ほんと?」

 なぜか急ににやにやしはじめた沖永さんに、お茶に誘われた。ランチどきはすぎているが、沖永さんは管理職らしいから、少々さぼっていても誰にも怒られないのだろう。僕も彼の話を聞きたくて、ウォークマンは後回しにしてカフェに移動した。

「沖永さん、知らなかったの?」
「前の妻からは養育費をふんだくられてるから知ってるけど、その前の妻は知らないな。夕子との間には子どもはいなかったからね」

 バツイチかと思っていたら、このオヤジはバツニだったらしい。こんなのでももてるのか、一度も結婚したこともない男は腹が立つかもしれない。

「結婚するときには、僕の姓になるのはいやだってごねたくせに、旧姓に戻してないんだ」
「結婚してるみたいだってアンヌは言ってたよ。沖永さんっていう別人と結婚したとか?」
「そんな偶然はないだろ。あいつ、僕に未練があるんだなぁ。意外に可愛いね。どうやってアンヌさんと知り合ったって?」

 イベント会場でむこうから話しかけてきたというエピソードを口にすると、沖永さんはますますにやついた。

「そっか。アンヌさんが僕と関わりがあると知ってのことだな。もうちょっと待ってみよう。むこうから接触してくるかもしれない」
「……嬉しいの?」
「嬉しくはないよ。過去すぎて迷惑だけど、僕に未練があって結婚していたときの苗字を変えてないだなんて、けなげってか不憫ってか……情にほだされるじゃないか」

 離婚しても女性は必ずしも旧姓に戻さなくてもいいというのは聞いたことがあったが、そうされた男は嬉しいものなのか。沖永さんは明らかにやにさがって、夕子と結婚していたころには……と、そのころの話をだらだらと続けていた。


3・アンヌ

 半分は忘れてしまっていた沖永夕子から電話があったのは、X・レイズの来日が中止になったとの報告だった。

「そっか。残念」
「すみません」
「あんたのせいじゃないだろ。あ、そうそう、この前は聞かなかったんだけど、沖永正って知ってる?」
「……TKO企画の? あ、ああ、桃源郷ってあの会社からCDを出してるんですよね」

 これはたった今、思い当ったのだろう。そうかそうか、と呟いているのは、沖永正を知っているからに相違ないようだった。

「今となったらなつかしい名前ですね」
「あんたってその沖永の苗字は、あいつと結婚してたころのまんま?」
「そうなんですよ。私が今の会社に入ったのは、沖永と結婚してからなんです。最初から私は沖永夕子でしたから、旧姓に戻すのも面倒で……」
「ああ、そういうことね」

 あのおっさんに会った笙が夕子について話し、おっさんが自分にばかり都合のいい解釈をしていたとは、言う必要もないだろう。

「結婚してるんじゃないの?」
「私ですか? ああ、この指輪? うぬぼれてるって言われるかもしれないけど、虫よけですよ。アンヌさんって沖永をごぞんじなんでしょ。あんな男と結婚して離婚してせいせいしたんですから、二度と結婚なんかしません」
「わかるけどね」

 強がっているようにもないが、沖永に真相を話してやったら、彼はどんな反応を示すのだろう。僕に未練があるから再婚もしないのか、かわいそうに、だとか言いかねない奴だ。
 こうして男と女の思惑は食い違う。離婚なんて面倒だからあたしはしたくないけど、絶対にしないと言うと笙が図に乗るから、いい加減しないと捨てるぞ、って台詞は切り札として取っておくつもりだ。

つづく

 

 


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