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2020年6月

211「図に乗るな」

しりとり小説

211「図に乗るな」

 弁当持参の女子社員が、昼休みになると休憩室に集まる。自社ビルなので休憩スペースも広く、ゆったりした間を取ってデスクを配置してある部屋だ。気の合う者同士、何人かでランチタイム。新人教育教材などを小さな会社に売り込みにいく営業ウーマンたちなので、昼休みは安らぎのひとときだ。

「むかつくんだよね、あいつ」
「なになに? 喧嘩したの?」
「そうなのよ。聞いてくれる?」

 あちこちで彼氏や夫の悪口に花が咲く。悪口のふりをしたのろけなどもあるのだが、男のうわさ話がもっとも盛り上がる。町谷新子のいるテーブルは若手……三十代までの比較的若手がそろっているのだが、主婦たちのテーブルと話の内容に大差はなかった。

「トイレの掃除は週に一度、必ず俺がやるって約束したくせにさ」
「やらないの?」
「やらないの。俺はうちのトイレなんてほとんど使わないんだから、掃除しなくても汚れないよって。私もそんなには使わないけど、一週間以上も掃除しないなんていやじゃん? だから結局、私がしちゃうんだよね」
「わかるわかる。うちも彼が洗濯ものを取り入れるって約束になってるんだけど、天気がいいんだから外に干しっぱなしでも大丈夫だよってほっとくんだよね」
「そうそう。買い物を頼んだって、あ、忘れた!! 忘れたんだからしようがないだろ、って逆切れだよ」

 営業ウーマンなのだから、仕事は外回りだ。午前中の勤務がすむと一旦帰社して報告するというきまりになっているのだが、必ず昼に帰れるわけでもない。今日は新子のテーブルには五人、独身女性ばかりが集まっていた。

「空いてます?」
「あ、どうぞ」

 七、八人はすわれるテーブルなので、空席がある。そこへすわったのは照屋。四十歳くらいだろうか。名前からすると沖縄のひとか。沖縄らしいくっきりした目鼻立ちの美人で、前職は保険の外交員だったらしい。転職して新子たちの会社に来たばかりだから、新子はまだ照屋とはあまり話をしたこともなかった。

 テーブルで弁当を広げ、いただきます、と手を合わせて、照屋は食事をはじめる。新子たちは彼女は気にせずに、食べながら会話を続けていた。

「土日は食事の支度をするって言ったくせに、それだって嘘ばっかりだし」
「やっぱ一緒に暮らすとアラが見えてくるんじゃない? 同棲なんかしないほうが、いいとこだけ見ていられていいかもよ」
「でもさ、同棲解消ってイコールさよならじゃない?」
「そうだよね。同棲解消はさよならか結婚だな」
「私はあいつとは結婚はしたくないや」
「そうなの?」

 と、照屋が顔を上げた。

「結婚しているんじゃなくて、男性と暮らしてらっしゃるの? えーと、澤垣さん?」
「え、ええ、うん、そうだよ」

 名を呼ばれた澤垣はびっくり顔になり、照屋は同じテーブルの同僚たちを眺め回した。

「彼が、掃除が、って言ってた人たちは、結婚なさってるのよね?」
「いえ、今、ここにいる人たちは全員独身ですよ。彼女と彼女は彼氏と同棲中。彼女と彼女は半同棲ってところ」
「あなたは、町谷さん?」
「私は同棲はしていません。実家暮らしですから」
「すると、他の人たちは実家じゃなくて?」
「実家は私だけかな。自立してなくてすみません」

 五人のうちのふたりはひとり暮らし、ふたりは同棲中、新子だけが実家暮らしで恋人はいない。恋人はいない、と言うのも癪なのでそこまでは言わずにおいた。

「まあまあ、そうなのね。へぇえ……」

 校則が細かくてうるさい女子校出身の新子には、照屋が高校時代の生徒指導の女教師に見えてきた。

「ご両親には許しをもらってるの?」
「うちの両親はひとり暮らしよりも安心だって……」
「私は言ってないし」
「半同棲なんて、いちいち言わないし……」
「照屋さんにもいちいち言う必要なくない?」

 冷笑的に澤垣が応じ、照屋はため息をついた。

「この会社の女性ってねぇ……独身女性はこれだけ?」
「他にもいますよ」
「あの彼女とか、あのひととか……」

 他のテーブルにいる若い女性、若くはない女性などをぽつぽつと指さす。今日は休憩室にいるのは二十人ほどで、既婚、未婚は半々くらいだった。

「みんなに彼氏がいるのかどうかは知らないけど、同棲してる子は他にもいるんじゃない?」
「いるよ。彼氏の実家で同棲してるって子もいる」
「そんなのいるの?」
「知らない? 彼氏が彼女の実家に入りびたりって話も聞いたよ」
「まあまあまあ……」

 なんと嘆かわしい、といったふうに、照屋は何度もため息をついていた。

 そうやって嘆くくせに、照屋はそれからは新子たちの会話に参加してくるようになった。水を向ければ照屋は前職の話もする。たまには照屋の仕事の話を聞くこともあったが、たいていは独身女性たちの男の話で、照屋は最初のうちは黙って聞いているだけだった。

「彼とは別れることにしたのよ」
「えーっ?! どうして? 結婚するって言ってたじゃん」
「聞かないでよ……ううん、聞いてほしい」

 はじめて照屋が会話に加わってきた日にはいなかった、別の女性が話した。

 彼女は同棲はしていなかったのだが、ラヴラヴの彼氏がいる。彼女の場合は他の女性とちがって彼の悪口はほとんど言わない。のろけが大半なので新子たちとしては聞いていて疲れるほどだったのに。が、そういえば、最近は彼女は彼の話をあまりしなくなっていた。

「この間のデートで、彼に言われたの。なんだか急にすーっと冷めちゃってさ……長くつきあいすぎたよな、別れようか、なんて言うから、私、逆上しちゃったの」

 頭が沸騰しそうになって、どうしてどうして、なんでなんで、と彼女は彼を攻め立てた。彼は逆にクールになり、おまえのそういうところが嫌いになったんだよ、と言い放ったのだそうだ。

「言えば言うほど彼は冷めていくみたいで、仕方ないから距離を置こうと思ったのね。彼だって私のことは好きなんだから、しばらく会わなかったら寂しくなるに決まってるって楽観してた……ってか、楽観してるふりをしてた。だけど、彼は会いたいとも言ってくれないの。思い余ってメールしたら……」

 別れるって言っただろ、しつこいな、との返事が届き、それきりブロックされてしまったのだと言う。彼女はうつむいて鼻をすすり、そのとき、照屋が発言した。

「あなたが浮気相手だったのね」
「照屋さん、そんな言い方はないでしょ」
「傷ついている女性にそんなふうに決めつけるってひどいんじゃありません?」

 当人をそっちのけにしてもめそうになっていると、当人が顔を上げた。

「照屋さん、鋭いね。彼、二股していたの。浮気相手はその女のはずだけど、近いわ。そっちの女が妊娠しちゃって、そっちと結婚するんだって」
「むこうが浮気相手だとは、そっちの女も思ってるわよ。これだから女ってのは……ううん、諸悪の根源は男よ」

 事実、彼女は別の女に乗り換えられて捨てられたのだから、新子たちもそれ以上はなにも言えなくなってしまった。

「あんなことを聞いたあとで言いにくいんだけど、私、彼と結婚するって決めたよ」
「あれ? 澤垣さんは彼とは別れるって言ってなかった?」
「それがね……」

 数日後、澤垣がはにかんだように言った、できちゃったんだ、と。
 あらら、おめでとう。それはよかったね。仕事はどうするの? 口々に祝福の言葉や質問を投げかける同僚たちの声が一段落すると、照屋が言った。

「けじめがないね。同棲もいやだけど、でき婚ってのもだらしないわね。そんなにまでして結婚したい? 俺は結婚なんかしたくなかったのに、できちまったから仕方なく、って一生言われるんじゃないの?」
「失礼ね。私はそんなことをたくらんだんじゃありません。私は彼とは別れようかと思ってたのに、できちゃったって彼に報告したら喜んでくれて、絶対に結婚しよう!! って張り切ってるのは彼のほうなんだよ」
「同じよ」

 言い捨てて、照屋は席を立ってしまった。

「ここのテーブルはこのごろ、おめでたい話で盛り上がってるのよね」

 ある日には、新子たちのテーブルに既婚者が加わってきた。

「私たちは主婦の会話ばっかりで、子どもがどうした姑がどうした、保育園がどうたらPTAがこうたら、受験がどうたらばっかり。それに、こんな話を主婦たちにすると妬まれるからね」
「なんの話?」

 興味津々で身を乗り出す新子たちに、私、恋をしたの、と既婚者はピンクに染まった声で告げた。

「彼が何者なのかは話せないけど、年下のイケメンよ。彼のほうからアタックしてきたのは当然で、私は結婚してるからって逃げようとしたのに逃がしてくれないの。私もまだまだ捨てたものじゃないんだなって。ここのテーブルだったらみんな彼氏がいるんだから、嫉妬したりはしないよね、ね、町谷さん?」

 名指しされて、新子はつい正直に言ってしまった。

「私は彼氏はいないんですよ。妬みますよ」
「まぁ、そうなの? 恋はしなくちゃ駄目よ。恋してこそ女なんだからね」

 そこへまたまた、照屋が口を出した。

「あなたは子どもさんがいるの?」
「いますけど……?」
「お母さんが母親じゃなくて女。そんな子どもは気の毒ね」
「……あなたに言われる筋合いはないよ。なによ、ひがんじゃってさ」

 ぷんぷん怒った既婚者も席を立ち、続いて照屋も立っていってしまう。どうやら照屋は言いたいことを言うと、反撃をかわして去っていくらしい。新子たちは言い合った。

「結婚しないって言っても、結婚するって言っても」
「結婚してる女だとしても」
「恋愛って聞くと照屋さんは怒るよね」
「諸悪の根源は男だって言ってたから、男嫌いかな?」
「照屋さんって独身?」

 さあ……とそろって首をかしげる。照屋は自分のことというと、仕事の話しかしないのだった。
 独身若手グループの中ではもっとも気が強く、できちゃった結婚をだらしないと言われた澤垣は言った。よーし、私が訊き出してやる、と。

「あのね、あなたたちってほんと、恋の話ばっかりよね。自分たちのことじゃなかったら、芸能人の誰かと誰かが結婚したの別れたのって。そんなにその話が好き? だから女は視野が狭いって言われるのよ。そんなだから男にいいように遊ばれたりするのよ。もうちょっと世界を広くしなくちゃ」

 そんな具合に、澤垣の質問ははぐらかされてしまった。

「その点、町谷さんだけはえらいよね」
「は? 私が?」
「あなたには彼氏はいないんでしょ。えらいわ」

 どういう意味で言ってるの? 悩んでいる新子に、照屋は明確な答えはくれなかった。
 二股彼氏に捨てられた彼女が新しい恋人を見つけたと嬉々として報告してくれたのは、新入社員が入ってくる季節。新子たちの部署に配属されてきたのは、高校を卒業したばかりの初々しい十八歳女子だった。

「だからね、杷野さんはあのひとたちみたいになったら駄目だよ」
「……はい」
「男は諸悪の根源なのに、まったく、男がいないと生きていけないんだろか。性懲りもなく……」

 研修が終わって営業活動に出るようになった十八歳、杷野の指導係となったのは照屋だ。近頃は照屋は杷野とばかり行動していて、昼休みにも新子たちのテーブルにはやってこない。あのひとたちみたいって、私たちみたいな? ふたりの会話を小耳にはさんだ新子は、杷野に尋ねてみた。

「ああ、そんなこと、言ってましたね。照屋さんって男嫌いっていうよりも、恋愛嫌いみたいですよ。四十歳はすぎてるらしいけど、美人ですよね? もてるでしょ? って訊いたら怖い顔して……」

 もてるかどうかなんてどうでもいいの、男なんかとは関わらないほうがいい、恋なんかしないに限る、照屋は杷野にそう言ったのだそうだ。

「もてすぎていやな思いでもしたんですか」
「もてるというか、言い寄られたことはあるけど、ぴしゃっと断ったわ」
「恋愛経験ないんですか」
「ありません。だからね、杷野さんも恋になんかうつつをぬかさずに、仕事に邁進しなさいね」

 はいと素直に答えたと、杷野は舌を出した。

「ああいうおばさんは適当にあしらっておけばいいんですよね。町谷さんを見習うようにって言われたけど、見習いたくなんかなーい。三十前で彼氏もいないなんて惨めだもん」
「あの、町谷って私なんですけど……」
「知ってますよ」

 けろっと言い返されて、新子は絶句した。
 そうね、世の中にはこんな女もあんな女もいる。若くて可愛くて口のききようも知らない杷野と較べれば、いっぷう変わってはいても照屋のほうがいいかもしれない。恋愛至上主義みたいな世の中にも同僚たちにも違和感がなくはなかった新子としては、近い将来は照屋のようになるのがいいように思えてきた。


次は「な」です。


ガラスの靴74「浴室」

ガラスの靴

74・浴室

 年末になるとネットにも神社サイトみたいなものがオープンする。各地に実在する神社のサイトとはちがう、バーチャル神社だ。

 来年は初詣に行きたいな。胡弓も三歳になったから連れていけるんじゃないだろうか。だけど、初詣って十二時になった瞬間に行くんだっけ? それだとおねむの胡弓には無理かな。眠くてぐずったりしたら僕が抱いて歩かなくてはいけない。ベビーカーに乗せるには胡弓は大きすぎるから。

 母に預けていくか、元日の昼間にずらすか。あ、アンヌは休めるのかな?
 などと考えながらも、胡弓がお昼寝をしている時間にはネット神社めぐりをしていた。ネット絵馬に願い事を書いているひともいて、それらを盗み読むのも面白かった。

 面白かったので、夕食をすませて胡弓をベッドに入れてからも続きをやっていて、発見したものがあった。僕は深夜に帰宅したアンヌにパソコンを見せた。

「なんなんだよ、あたしは眠いんだ。メシもいらないから寝るって」
「アンヌ、これ、どういうこと?」
「どれ?」

 文句を言い言い、アンヌが見たパソコンのディスプレイには。

「よそのサイトで新垣アンヌの書き込みを見つけちゃった。アンヌって好きな男がいるんだね」
「アンヌは結婚してて子どももいるよ」
「わっ、アンヌ、不倫してるんだ」
「さすがロッカー、不道徳だね」
「好きな男がいるって、どういう根拠で言ってんの?」

 神社サイトの掲示板に書かれた一連の書き込みは、アンヌのファンのものなのだろう。どういう根拠で? と突っ込まれたひとが、URLを書いていた。そこに飛んでみると。

「来年の抱負ってか、夢? 好きな男と旅行がしたいな。あいつは作曲をするから、ふたりで同じところで同じものを見て、あたしは詩を書くんだ。あいつと共作がしたいよ」

 そこは僕が見なかったバーチャル神社で、バーチャル絵馬が並んでいた。ミュージシャンコーナーもあって、新垣アンヌの実名入りでそんな絵馬が堂々と飾ってあったのだった。

「アホか。あたしがこんな、糖尿病には害になるみたいな書き込みをするかよ」
「糖尿病?」
「甘ったるいって意味だ。前に誰かが言ってたのが面白かったから、ぱくったんだよ」
「バクリはどうでもいいけど、アンヌが書いたんじゃないの?」

 ちげーよっ、と吐き捨てて、アンヌは寝室に行ってしまった。

 ということは、誰かがアンヌの名を騙ったのか。アンヌには星の数ほどいる友人知人か、ファンか。アンヌはロックバンドのヴォーカリストなので、アンヌのほうは知らなくてもむこうは彼女を知っているという人間も相当数いる。

 あてずっぽうを書き込んだファンだとしても、悪意があるのかどうかもわからない。アンヌって好きな男がいるんだね、と発言した女性らしき人物だって、ハンドルネームだけしかわからない。ただのいたずらだとも考えられる。

 しかし、僕は知っている。いい機会だからはっきり聞いておこうか。アンヌはベッドに入ったわけでもなく、バスルームにいるようだから、バスタオルを持っていってあげた。

「ねぇ、アンヌ? ねぇ、アンヌったら……」
「なんだよ、聴こえねーよっ、あとにしろ」

 シャワーの音の中、アンヌの怒鳴り声が聞こえた。

「聞こえなくてもいいから聞いて。あれはアンヌが書いたんじゃないにしても、アンヌには好きな男がいるんだよね。僕は作曲なんかできないんだから、あれが笙じゃないのはわかってる。アンヌに好きな男がいるのもわかってる。僕なんかは平凡な主夫で、アンヌにおいしいものを作ってあげるのと、胡弓を育てる以外にはなんにもできないもんね」

 お弁当を作って持っていってあげたら、あたしの仕事場にのこのこ来るな、と怒られた。
 息子は時々母に預け、僕はひとりでけっこう出歩いている。家事も育児も完璧ではない駄目主夫だ。

「そんな僕なのに、アンヌは寛大だよね。僕が無駄遣いをしても許してくれる。掃除をさぼっても、デパートでおかずを買ってきても、今夜は外で食べようよっておねだりしても、あれ買ってってお願いしても、たいていは聞いてくれる。僕はアルバイトもしなくていいくらいに稼いできてくれて、楽をさせてくれる。僕はそんなアンヌに感謝してるよ」

 なのだから、誰のおかげでのうのうと主夫がやれてるんだよっ、と昭和の亭主関白みたいなことを言われても、切れて喧嘩になったりはしない。ぐっと耐えている。

「僕なんかはなにもできない、若くて顔がいいのだけがとりえだって言われてもしようがないと思うよ。ジムにもちゃんと行ってないけど、そのかわり、胡弓とふたりでトレーニングしてるんだ。ちょっとだけおなかが出てきてたのも引っ込んだでしょ。僕は胡弓のためにはいいパパで、アンヌのためには綺麗な笙でいようと努力してるんだ。子育ては手抜きしてないからね」

 手抜きがしたいときには母が協力してくれるから、胡弓はまともに育っている。駄々をこねたりしたときに、パパ嫌い、ママはもっと嫌い、おばあちゃーん、と泣く以外は、愛しい息子だ。
 トレーニングも胡弓とやっているのだから遊び半分だが、ジムに行くと主婦が主夫の僕にからんでくるからいやなのだ。心で言い訳もしつつ、僕は続けた。

「だけど、ロックスターの奥さんとはつりあいの取れない、つまんない夫だって自覚はしてるよ。自覚なんて言葉だって、アンヌが教えてくれたから身についたんだよね。僕はアンヌのおかげで進歩だってした。いろんな経験をさせてもらってるのも、アンヌが広い世界を見せてくれるからだ。僕が独身だったとしたら、まるでつまんない毎日だったはずだよ」

 バスルームの中は静かになっている。アンヌは聞いているのか、湯船につかってでもいるのか。

「だから僕はアンヌを愛してる。ううん、だからってわけでもなくて、アンヌはアンヌだから愛してる。前にアンヌが、僕のためにってよその夫婦ととりかえっこして楽しもうとしたでしょ。あんなのだったらいいんだよね。僕はいやだったけど、アンヌが遊びでよその男をつまみ食いするってんだったら、僕はかまわないよ。ってか、僕には駄目だって言う権利もないけどね」

 うまく表現できないから、だらだら喋っている。肝心のことを言わなくちゃ。

「アンヌの愛するひと、そのひとと旅をして共作したい。歌を作りたい。あれが僕にはショックだったんだな。僕には絶対にできないことを、そのひととは共有できるんだ。身体の浮気なんかなんでもない。胡弓と僕のところに戻ってきてくれるって信じていられるから、僕は平気だよ」

 平気でもないかもしれないが、僕はアンヌの夫なのだから、どっしり構えていられるはずだ。なにしろ胡弓がいるのだから、僕の主夫の座は強いはずだ。

「あたしはおまえたちには、なに不自由ない暮らしをさせてるだろ」
「ああ、アンヌ、聞いてくれてたんだね。うん、感謝してるよ」
「あたしの好きな男、知ってるのか?」
「……葉月って奴でしょ」

 パーティで会ったことのある、植物的で中性的な暗い空気をまとった男。アンヌが彼をテーマにして、「本気で恋をしたのははじめてだ」みたいな詩を書いていた。

「あたしはあいつとは寝てないよ」
「うん、信じる。でもね……うん、僕にだっているからね」
「おまえもあたし以外の女に恋をしてるのか?」

 おまえも、「も」ってことは、認めたのだ。

「僕は恋されてるの」
「……誰に?」
「浮気する気になったら簡単だよ。彼女はアンヌが僕を虐げてるって信じてて、あなたの魔の手から僕を救い出したいって言ってるんだもの。彼女の腕の中に逃げ込むことはいつでもできるんだ」
「……やりたいのか」

 だんだんとアンヌの声がとがってきて、僕はぞくぞくしてきた。

「やりたいって言ったら怒る?」
「怒ってもしようがないかな。恋心ってのはてめえではどうにもならないんだよ。あたしは葉月を好きな気持ちを消すつもりもないし、葉月のほうはあたしに真剣になる気はさらさらなさそうだから、寝ることはあるかもしれない。でも、それだけだよ。おまえは?」

 蘭々ちゃんは僕を真人間にしたいと言っていた。真人間、すなわち働く男だ。僕はそんなのはまっぴらだから、アンヌと離婚して蘭々ちゃんに走るつもりはないけれど、彼女と寝るだけだったらできそうだった。

「あのバーチャル絵馬、うまくあたしの気持ちを言い当ててたな。誰が書いたんだろ」
「アンヌのことをよく知ってるひと?」
「かもな」

 桃源郷のメンバーだとか、仕事仲間だとか、アンヌが打ち明け話をする女友達だとか、もしかしたら葉月自身だとか? うまく言い当てている? アンヌのその気持ちが、僕にはもっともつらいのに。

「あたしも浮気をするかもしれないんだから、身体の浮気だったらおまえもしてもいいよ」
「離婚はしないの?」
「胡弓のためにはしたくないな。でも、絶対にしないとは言い切れない。あたしがそんな約束をしたら、おまえが図に乗るだろ」
「アンヌ、捨てないで」

 バーカ、と笑ってから、アンヌはなにやら呟いている。うむむ、腹が立ってきたぞ、と言っているのはなにに対してなのだろう? 妬けるからだったら最高に嬉しいのに。

「笙、入ってこい」
「怒ってるの?」
「うるせえ。いいから入ってこい」
「服を脱いで?」
「風呂に入るんだから当たり前だろ」
「……はい」

 入っていくとなにが起きるのか。アンヌとふたりでお風呂に入った経験はあるが、今夜は特別にどきどきする。顔を見ないで本音をぶちまけて、そのあとでバスルームで……ポルノ映画みたいだ。

 素直に服を脱いでアンヌの命令に従う。目を閉じてアンヌに歩み寄っていくと、乱暴に抱き寄せられる。これからはじまるなにごとかは、いつもと同じようでいて同じではない。めくるめくひとときになりそうだった。

つづく


 

2020/6 復刻・花物語「紫陽花」

「花物語」

六月・紫陽花


 土壌の酸性度によって色が変わる。学説ではそうらしいが、人はなんであっても擬人化したがる。
 ふたりではじめて旅をした六甲山のホテルの庭には、濃い青紫の紫陽花が群れて咲いていた。

「紫陽花の花言葉を知ってる?」
「花言葉っていうのは聞いたことあるけど、なんだっけ?」

 ホテルの窓から紫陽花の群れを見下ろして、涼夏は創平に話した。

「メジャーな花だったら花言葉っていうのはいくつかあるんだけど、紫陽花には有名なのがあるのよ。移り気。ひとって浮気なものだよね」
「それってなんの話がしたいの?」

 仕事の関係で知り合って、告白というほどのものもなくつきあいはじめ、六月だったら梅雨どきだから人が少ないんじゃない? 一緒に旅行しようよ、と涼夏が言い出して関西へと遊びにきた。昨日は神戸ですごし、一夜が明けて創平が言い出した。

「結婚しようか」
「あっさりしたプロポーズだね」
「昨夜、神戸の夜景でも見ながら言ったほうがよかった?」
「ロマンティックなのは気恥ずかしいから、このほうがいい」

 OK? と問いかける創平に微笑んでおいて、涼夏は窓辺に寄っていったのだった。

「私もけっこう移り気なほうだと思うんだ。もてるしね」
「ああ、僕ももてるよ」
「浮気は自由ってことにしない?」
「ええ? そんなこと、きみが言ってくれるとは思わなかったな」

 本当はまだ結婚までは考えていなかったから、こう言うと創平が引くかと思って言ってみたのだ。予期せぬ反応に涼夏はむしろ戸惑った。

「女友達と話したことならあるのよ。彼女は、彼氏が浮気したって落ち込んでた。だけど、彼は彼女とやり直したいって。そんな彼と結婚したらまた浮気されるかもしれない。そんなんでいいの? って、他の女友達は言ってた。浮気な男は許せない、浮気な女はもっと許せない、みたいな会話をしていたの」

 なんで? と涼夏は思い、しかし、ここでそんな発言をすると変人扱いされるかと、相槌を打っておいた。

「不倫はぜーったいに許せない、とかね、あんな話をしてる女たちって正義の味方面して、私は一途で可愛い女なのよ、なんて自分に酔ってて、気持ち悪いなぁって思ったの」
「たしかに気持ち悪い」
「愛していたら浮気は許さないって言うんだけど、愛してたら浮気くらい平気なんじゃない?」
「僕は後者だな」
「私も後者よ。ってことは、創平くんは妻の浮気も許せるんだね」
「いいよ」

 ただし、ばれないようにね、とは言う必要もないだろう。
 変人的思想の持主だと自覚していたのもあったから、別に結婚なんかしなくても、と涼夏は考えていた。しかし、こうして似た思想を持つ男と出会ってプロポーズされたのだ。創平とは価値観が合うとわかったら、愛情が湧いてきた気がした。

「うん、結婚しよう」
「結婚しよう」

 あれから約半年たって、結婚してふたりで暮らしはじめた。いつかは子どもがほしくなるかもしれないが、今のところは作るつもりもない。互いの両親は孫がほしいのかもしれないが、息子や娘のプライバシーに干渉する気はないようだ。

「創平くん、ただいまぁ」
 職場の飲み会で午前さまで帰宅した金曜日、涼夏が玄関の鍵を開けて中に入り、奥に声をかけると創平が出てきた。

「お帰り、コーヒー、淹れようか」
「うん、お願い」
「今夜は楽しかった?」
「楽しかったよ。いい男もいたしさ」

 今春に入社したばかりの新入社員たちは、ゆとり世代というやつだ。先輩や上司との飲み会などまっぴら、というタイプも多いが、涼夏の部に入ってきた木内は人なつっこく愛想のいい男の子で、先輩たちの飲み会にも喜んで参加していた。

「いい男っていうよりも、ペットみたいに可愛い子って感じかな。涼夏先輩は結婚してるんですよね、残念だなぁ、って本気みたいな顔をして言うの」
「涼夏はなんて答えたの?」
「結婚してたって浮気くらいは大丈夫よ、って言った」
「そんで、ホテルに行った?」
「そこまではまだだけど、行っていいの?」
「いいよ、もちろん」

 むろんプロポーズのときの会話は覚えている。それでもまだ新婚なのだから、こんな話をすると創平がちょっとは妬くのかと思っていた。が、創平はけろりと言った。

「きみと結婚して一年以上になるだろ。きみが浮気をしたそぶりはない。もしもそういうことがあったら言ってくれると思ってたからね」
「言うと思ってた?」
「現に今、言ってるじゃないか」
「……そうだね」

「一年間も僕ひとりにしか抱かれてなかったら、ひからびてくるよ。僕はもてるきみが好きで結婚してほしかったんだから、枯れた女にならないでほしいな。どんどん浮気したまえ。応援するよ」
「あ、そ、そうなのね」

 ふむ、これは本物だ。涼夏としては妙に感心してしまった。
 ふたりともに仕事が多忙な身なので、毎日顔を合わせるわけでもない。週に二、三度はふたりですごせるときがあると、濃密な触れ合いの中で創平が尋ねた。

「あいつ、なんて言ったっけ?」
「木内くん?」
「進展はどう? キスくらいはした?」
「この間、仕事帰りに飲みにいって、帰りにキスはしたよ。だけど、同じ部の子だから、迂闊に食べちゃうわけにもいかないんだよね」
「うちに連れてくるわけにもいかないか」
「……連れてきていいの?」
「それもまずいかな」

 対外的、社内的にまずいのではなかったら、ふたりの住まいに木内を連れてきていいのか。創平の浮気承認主義は本当の本物であるらしい。

「そいつ、草食?」
「でもないんじゃない? 結婚してる女に積極的に近づいてくるんだから」
「きみは僕らの主義を話したの?」
「話すとスリルが減るから、木内くんには言ってない」
「そのほうが楽しいかもな」

 恋はゲーム、不倫だからこそなおさら遊び感覚で。互いの伴侶は互いなのだから、創平は涼夏を信頼しているのだから、こうして面白がっているのだろう。

「ちょっとちょっと、涼夏さん、知ってる?」

 取引先の社員同士、創平と涼夏はそういう意味で仕事でも関わりがあって、共通の知人も大勢いる。そのうちのひとり、創平と同じ会社の佐和子が涼夏の職場にやってきて、こそっと耳打ちした。

「ちょうどお昼どきだし、ランチしない?」
「いいよ。じゃあね、「千島」に先に行って席をキープしておいて」

 会社の入っているビル近くの、気楽な和食の店だ。佐和子はうなずいて出ていき、涼夏は昼休みになってから、その店に赴いた。

「こんなこと、奥さんの耳に入れたくはなかったんだけどね、義憤に駆られちゃったっていうのか。涼夏さんは知らないんだよね」
「創平のこと?」

 和風ランチ「あじさい」というセットを注文し、佐和子が言った。

「うちの会社に出入りしてる、カラーコーディネーター、四十代の女なんだけど、その女がどうも創平さんに色目を使ってるんだよね。太めのアラフォーってか、アラフィフに近いような年の女なのに、自分は若く見えるって勘違いしてるみたい」
「若くは見えないの?」
「若く見えたって三十代後半ってところでしょ」

「ふむふむ。それで?」
「この間、経理の女の子が見たんだって。その女と創平さんが仲良く歩いてたって」
「歩いてただけ?」
「仲良く、だよ」

 「仲良く」のひとことを強調して、佐和子は憤慨の表情になる。怒ってみせてはいるが、面白がっているような目のきらめきも感じ取れた。

「退勤時間はすぎてたから、女の子はあとを尾けていったらしいの。そしたら、ふたりでバーに入っていったんだって。ふたりきりでお酒を飲むって、浮気のはじまりじゃない?」
「まあまあ、ご苦労さまだね」
「え?」
「なんの関係もないカップルを尾けていった、その経理の女の子にご苦労さまって言ってるの」

 ぽけっとした顔になって、箸を止めた佐和子を涼夏は見返した。

「創平はなんにも言ってなかったよ。まだその程度だから言わなかったのかな。私としては言わないでほしい気もしてたんだけど……ううん、いいわ。あなたには理解してもらえないだろうし」
「なに、それ? 知らなかったらいいの? だまされててもいいの?」
「だましてるわけでもなくて……」

 言うほどのことでもないから、創平はその彼女の話題を口にしないのだと思われる。涼夏が遊んでやっている木内くんの話をして、楽しく盛り上がる創平なのだから、自分も恋をしたのなら話すだろう。こんな話を他人から聞かされたのだけが不愉快だった。

「ご忠告、ありがとう」
 ご注進、と言うと皮肉っぽいだろうと、涼夏は言葉を選んで佐和子に礼を言った。
 
「どうしてそんな平気な顔をしてるの?」
「平気な顔、してる? そうねぇ、創平が浮気したら、ちょっとは気持ちがざわめくのかと思ってた。だから、早くそうなったときの自分を知りたいとも思ってたの。勝手なもんだよね」
「勝手?」
「案外、平気よ」
「涼夏さん……はもう、早くも創平さんを愛してないの?」
「愛してるみたい。あのね、こういうのは夫婦ふたりきりの問題だから」
「ほっとけって?」
「早い話がそういうこと」

 どうやら佐和子は気分を害したらしいが、それで離れていってもかまわない。創平が浮気をしていると佐和子が言いふらしたとしても、デザイン関係の職場は自由業者の集まりに近いのだから、特に支障もないだろう。

 理解できない、と呟く佐和子に、それはそれでいいからね、と微笑んでみせて、彼女よりも先に職場に戻った。
 その日から十日ばかり、掛け違って創平とは会えない日が続いた。ひとつのプロジェクトが追い込みの時期で、帰れない、とメールが届いていた。

「……涼夏、久しぶり」
 日曜日の朝、涼夏は創平の声で目を覚ました。

「ああ、おはよう、やっと帰れたの?」
「昨夜、帰ってきてベッドに入ったのに、きみは目も覚まさなかったね。疲れてたんだろ。きみも忙しかった?」
「まあね」
「木内くんとは進展あり? 十日前よりもセクシーになったみたいだね」
 
 言いながら、創平が涼夏のパジャマのボタンをはずす。創平は上半身裸で寝ていたようで、涼夏は彼の乳首にキスをした。
 ひとときがすぎると、けだるい余韻の中で創平が言った。

「僕も久々で恋をしてるんだ。浮気でも本気でも恋は恋。なかなかいい女なんだけど、年上だからな、プレゼントはなにがいいだろ?」
「紫陽花のアクセサリとか、いいんじゃない?」
「あとで買い物につきあってくれる? 女性へのプレゼントはきみの目線で選んだほうがいいよね」
「ランチを外で食べがてら、買い物にいこうか」

 彼自身の口から聞けば、すこしは心が波立つのかと想像していた。
 が、むしろ楽しい心持ちになってくる。創平も涼夏も別の異性に恋をして、そのことによってふたりの想いも強まり、ふたりともに美しさも磨かれる。そんなんで幸せ? と誰かに尋ねられたとしたら、心から言える。

「価値観の合う相手って、一緒にいて本当に心地よいのよ。いいひとと結婚したなぁ、彼も私も」


END

ガラスの靴73「自慢」

「ガラスの靴」

     73・自慢

「胡弓、熱があるみたいなんだよ。微熱だし、元気があるから大丈夫だと思うけど、僕は今夜は行けないな」
「そうか。医者には連れていったのか?」
「いったよ。今夜はあったかくして早く眠りなさいって言われた」

 電話で笙が言っていたから、今夜のパーティにはひとりで出席した。息子が熱を出して寝ているなんて言ったら、なのに母親がパーティに? と非難したがる輩もいる。これはあたしの仕事だ。うるさい奴には胡弓の話などはせず、あたしも早めに帰ろうかとは思っていた。

「あら、久しぶり」
「ああ……深雪だっけ」
「アンヌさんよね。今夜は専業主夫のご主人は?」
「用事があってこられないんだよ。あんたのフランス人のご主人は?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」

 多彩な異業種人種が集まるパーティだから、あたしのような音楽人も、深雪のような創作系アーティストも来ている。彼女はインテリアデザイナーだと言っていたはずだ。専業主夫と笙のことをイヤミったらしく言うので、あたしもフランス人夫ってのをイヤミに強調しておいた。

 どこかの酒場で共通の知り合いに紹介されたときに、知り合いは深雪とほのかとあたしとを、トンデル女だと評した。知り合いはバブルオヤジなので、ださい言い回しが好きなのだ。

 三児の母、家事と育児は他人に託し、優雅に働いて未婚の母をやっている通訳のほのか。優雅だなどと言うと怒る女もいるが、ほのかは、そうね、私は収入もいいし余裕もあるし、優雅よ、としゃらっと笑う。

 インテリアデザイナーでフランス人の夫を持つ深雪、彼女に関してはその程度しか知らないが、バブルオヤジから見ればトンデイルのだろう。

 そしてあたしは、専業主夫と三歳の息子を抱えるロックヴォーカリスト。あたしは決して優雅ではないが、多少はトンデイルかもしれない。息子が熱を出して家で寝ていたら、普通は母親がそばについているものなのかもしれないから。

 こんなときに笙にまかせておけるのは、あいつを専業主夫にした価値があったってもんだな、なんて思いつつ、深雪と飲んだり食ったりしながら談笑していた。

「今夜はほのかさんは来ないのかしら」
「さあね。ほのかはアーティストってんじゃないから、来ないかもしれないな」
「ほのかさんもアンヌさんも細いよねぇ。ほのかさんってあまり食べないみたいだけど、アンヌさんはよく食べるのに……」
「あたしは肉体労働者だからさ」
「ロックやるひとって活動量がすごいのよね」
 
 この女こそが本当に優雅で、それが肉体にもあらわれている。長身で豊満。ほのかもあたしも背は高いほうだが、ふたりともに細いのがうらやましいのか? ほのかは華奢で、あたしは筋肉質のほうだ。肉体には生活があらわれる。

「フランス人の旦那ってのは美食家なわけ?」
「そうね」
「料理は得意?」
「私が? 苦手ではないけど、私の仕事ではないから気が向いたときしかしないな」
「外食ばっか?」
「そうでもないわ。主人も料理はするし、おいしいものが食べたくなったら料理人を雇うの」

 ほぉ、これはちょいとスケールがちがう。ほのかは家政婦だったら雇っているが、料理人の話をしていたことはない。ほのかの家には小さいのが三人いるから、ホームパーティもしないようだ。
 我が家では料理は笙の仕事。笙がさぼりたいときにはデパ地下の惣菜を買ってきたり、母親に作ってもらったりしている。うまいものが食いたいときには外食もするが、料理人を雇う発想はなかった。

「あの……ミユキ・アルファンさんですよね」
「ええ、さようですわよ」

 そういえばさっきから、この女は近くにいた。深雪とあたしの会話に聞き耳を立てていたようで、我慢できなくなって割って入ってきたのだろうか。

「私、こういう者です」
「はい」

 名刺をもらって一瞥だけして、深雪はそれを小さなバッグにしまう。自分は名刺も出さないのは持っていないからか。相手が彼女を知っているのだから必要ないのか。
 細くて背の高い女はあたしには関心なさげなので、黙って彼女が深雪に話しかけるのを見ていた。

「ご主人はプロデューサーでしたっけ」
「ええ、そうですよ」
「ムッシュ・アルファン、お会いしたことはあります。美食家にしたらやせ形ですよね」
「そうね」

 表面は愛想良くしているが、知り合いでもない相手と本気で話したいわけないだろ、の態度がミエミエだ。深雪の態度に苛立ってきたのか、女の表情が変化してきていた。

「ご主人、かっこいいですよね」
「ありがとうございます」
「おもてになるでしょ」
「どうかしら」
「あれだけの男性なんですもの。若くてスタイルのいい女と恋をするのも全然大丈夫なんじゃありません? すこしダイエットしないと危険かも」
「ご忠告感謝しますわ」

 白々しくも深雪は礼を言い、あたしも言った。

「あんたみたいに細い女が好きな男ばかりとは限らないよな。あんた、なんて名前?」
「心愛です」
「ココア。こりゃまた流行りの名前だな。本名?」
「そうですよ」

 おまえは何者だ、という目であたしを見る女は、桃源郷のヴォーカリスト、新垣アンヌを知らないのだろう。あたしも心愛が何者なのかどうでもいいし、自己紹介する気もなかった。

「深雪って悩みはないのか」
「私? そりゃああるわよ」
「どんな悩み?」
「たとえば、子どものこととか」

 ほえ? 深雪にも子どもがいるのか。まったく生活感のない女なので、不思議でもないはずの事実が不思議に思えた。ほのかにしてもあたしにしても生活感はないほうだが、深雪ほどではない。

「子どもがいるっていうより、子どもができないとか?」
「子どもはいるわよ。息子がひとりいるの。六歳で、来年は小学生になるのね。日本で暮らしてるんだから日本の小学校に通わせようと思って、近くの私立の小学校を受験させて合格したのよ」
「それはそれは」

 息子の話をしていると、深雪も母親の顔になった。

「私立とはいえ自由な校風だから、制服はないの。持ち物にも決まりなんかはないのよ。主人も私もそこが気に入ったっていうのもあるんだけど、子どもの世界って意外と保守的なのよね」
「それはあるかな」

 うちの胡弓は父親に似てひとかけらも男らしくない男の子なので、同世代の女の子に、もっと男らしくしろ、などと怒られている。たまにそんなシーンを目撃すると、あたしは暗澹とした気分になるのである。

「みんな同じがいいって言う子、多いのよ。それが悩み」
「そんなのは深雪が嫌いだから?」
「そうね。私は子どものころから、みんな同じはいやだったわ。デザイナーになりたくて感性を磨いたんだから、人と同じには育たなかった。それで日本ではやりにくくて、フランスに逃亡したってのもあるのよね。主人はフランス人だからもちろん、日本人みたいな横並びの感覚は持ってない。息子も親の影響で、他人とはちがったものをほしがる。女の子用の小物のほうが男の子用よりはおしゃれだし、私が手作りした小物なんかも、おしゃれだと女の子っぽくなるのよね」

 それを友達にからかわれたり、女みたいだと言われたりするのだそうだ。それが悩みなのよ、と深雪はため息をついた。

「私としては、みんなとちがってどこがいけないの? って思うのよ。主人も私に同意してるし、息子もやはり、クリエィティヴな両親から生まれただけに、僕は人とはちがったところがいいんだって思ってるの。でも、子どもの世界では生きづらいわけ」
「うちの息子はまだそこまでは考えてないだろうけど、大きくなってくるとあるのかな」
「あるかもしれないわ。だからね。やっぱり息子はインターナショナルスクールに入れるべきか、あるいは、フランスで学校に行かせようかって、それがいちばんの悩みね」

 この夫婦は浮気公認というわけではなく、互いの浮気に嫉妬しつつ、それを夫婦のこやしにするみたいな? そんな感覚があると聞いた。俗なあたしにはわかりづらい言い分だ。
 そんな夫婦でも子どもの悩みはあるわけで、そんなことを言っているとただの人の親に見えて、あたしにはむしろ好感が持てる。だが、心愛は棘のある口調で言った。

「そんなの悩みじゃなくて、自慢ですよね」
「自慢か? まあ、深雪の台詞には自慢も入ってたけどな」
「全部自慢ですよ。失礼」

 失礼、が挨拶だったようで、心愛は長い脚で歩み去った。

「なんか怒ってたか、あいつ? 知り合いでもないんだろ」
「モデルらしいわね、彼女、もらった名刺にはモデル事務所の名前があったわ。そっかぁ、よっぽど私がうらやましいのよ」
「うらやましいから怒ってるのか?」
「彼女も実はデザイナーになりたかったんじゃない? 才能がないからモデルだなんて、つまらない仕事に甘んじてるの。本当はフランスでクリエィティヴな仕事をして、フランス人と恋愛して結婚したかったんじゃないかしら」

日本ではモデルといえば、若い女の憧れの職業だ。けれど、モデルには外見に恵まれていないとなれない。必ずしも美人ではなくてもいいのだが、洋服の似合うプロポーションと今ふうのルックスが必須。なのだから、なりたくてもなれずに諦める女も多々いる。

 よその女に羨まれる仕事をしていながら、深雪がうらやましいのか? なんたる強欲。
 それもあるが、心愛のつんけんした態度から即、私がうらやましいのだと発送する深雪もたいしたもんだ。深雪の悩みを自慢と受け取った心愛と、心愛の苛立ちを羨望ゆえと受け取った深雪。

 どっちもどっちってのか、深雪の思想のほうが精神衛生にはいいと言うのか。あ、そうか、だから心愛は痩せていて、深雪はふくよかなのだ、おそらく。

つづく

 

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