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2020年5月

2020/5 復刻・花物語「スィートピー」

花物語

「五月・スゥイートピー」


 広い庭園に花がいっぱい咲いている。色鮮やかな花々に目を奪われて眩暈がしそうで、その上に広すぎて迷子になりそうで、歩きすぎて疲れてしまって、石段の途中にぺたんとすわり込んだ。

「アリスちゃん、どこから来たの?」
「アリス? あたしはアリスじゃなくて五月っていうんだよ」
「サツキちゃん? お誕生日はもうすぎた? もうすぐかな?」
「うん、明日。どうしてわかるの?」

 そりぁね、ゴガツだもの、と、知らない女性は明日には七歳になる五月にはわかりにくい言葉を発して笑っていた。

「パパかママと来たの?」
「そう、ママと。でも、ママはお友達とお話をしてて、サツキはお姉ちゃんに遊んでもらいなさいって言われたんだけど、お姉ちゃん、意地悪なんだよ。あんたなんかと話しててもつまんないって言って、サツキは置いてけぼりにされたの」

 母の友達の家に連れられてきて、その女性の娘だという、小学校の六年生ぐらいの女の子とふたりきりにされた。その女の子に置いて行かれたのは、目の前で笑っている女性に話した通りである。
 そうしてひとりぼっちにされたサツキは、庭を歩き回るしかなく、けっこう強い陽射しにも疲れてしまったのだった。

「でも、花は綺麗だった。広いお庭だね。おば……お姉さん……は誰?」
「おばさんでもいいのよ」

 疲れちゃった、と言うのはプライドが許さず、七歳なりに気を遣って、年齢もわからない女性をなんと呼べばいいのか迷って、お姉さんと言ってみた。母よりは年下かと思える女性は寛容に笑ってくれたから、おばさんと呼ぶことにした。

「おばさんは誰?」
「この屋敷のひと部屋で暮らしてるんだけど、サツキちゃんにはむずかしいかもしれないからいいのよ。そっかぁ、明日、お誕生日なんだね」
「うんっ」

 ほっそりと背の高い女性は、淡いピンクのワンピースを着ている。やわらかな笑顔を見せて、風の中にたたずんでいる。サツキは尋ねた。

「あたしのこと、どうしてアリスって呼んだの?」
「不思議の国のアリスみたいに見えたから。ごめんなさいね、ちゃんとしたお名前があるのに」
「ううん。いいの。不思議の国のアリス、知ってるよ。ああ、なんだか……」
「なあに?」

 なんだか、思い浮かぶような気がするのだが、そのイメージをつかまえ切れない。サツキが頭の中にあるなにかを追いかけていると、窓が開いた。

「小さなお嬢さん、こんにちは。きみたちは友達同士なのかな」

 開いた窓から顔を出して、女性とサツキを交互に見ながら話しかけているのは、白いシャツを着たほっそりした男性だった。ふたりはどことなく似ていて、兄さんと妹なのだろうかとサツキは思った。

「そうなのよ。たった今、友達になったの。サツキちゃん、そうだよね?」
「うん、サツキはあのお姉さんよりも、おばさんのほうが好き」
「ねぇ、サツキちゃんは明日がお誕生日なんだって。なにかプレゼントしたいな」
「プレゼント?」

 小首をかしげている男性と。いたずらっぽく目をくるくるさせている女性を見比べて、サツキは焦りそうになった。知らないひとにプレゼントなんかもらったら、ママに叱られる、と言う前に、男性が女性に窓からなにかを手渡した。

「ああ、これね。私がヴァイオリンを弾き、あなたはピアノを弾く」
「そうだよ。あなたの得意なあの曲、この季節にもこの風景にもしっくりはまるあの曲を演奏しようか」
「いいわ。サツキちゃん、聴いてちょうだい」

 曲のプレゼント? そんならママは叱らないだろうけど、あたしはあんまり嬉しくもないな。サツキとしては正直な感想だったのだが、ご好意を無にしてはいけないので、女性のヴァイオリンと男性のピアノの合奏を神妙に聴いていた。

 軽やかで繊細なピアノの旋律に、重厚さもあるヴァイオリンの音色がからまって共鳴する。サツキには言葉では言い表せないが、聴いているうちに次第に夢の世界へいざなわれていくような心持ちになっていった。

 ここは不思議の国……あたしはアリス。綺麗な男性と女性が作り出す綺麗な音楽に浸って、うっとり眠くなってきそう。
 小学校に入学してはじめて、「音楽鑑賞」という時間があった。音楽の授業として、先生がクラシックのCDをかけてみんなで静かに聴く。小声で私語をかわしたり、いたずら描きをしたり、たいていの子どもたちには退屈きわまりないひとときだった。

 それほどつまらなくもないけど、眠いな、とサツキは思っていたのだが、たった今のこの心持ちは、音楽鑑賞の授業のときの眠けとはちがっている。気持ちがよすぎてとろーんとなってくるのは、初夏の風とこの花々のおかげだろうか。演奏者の見えないCDとはちがって、ライヴだからだろうか。

 窓の中に見える男性の横顔も、サツキの目の前でヴァイオリンを弾く女性の姿も、サツキのヴォキャブラリーでは表現できないほどに優美で気品があって、このふたりが作り出す音だからこその心地よさもあるのかと、サツキもぼんやりとは感じていた。

 短い時間の曲が終わると、男性が手を止めてサツキを見る。女性もにっこりとお辞儀をし、サツキは言った。

「今の曲ってお花の歌?」
「サツキちゃん、この曲、知ってたの?」
「知らないけど、お花の歌みたいな気がしたの」

「そうだよ。この曲はドイツの作曲家、グスタフ・ランゲが二百年以上も前に作曲した「花の歌」だ。サツキちゃんはこの曲を聴いて、花を連想していたんだね」
「うん、なんだか……あの……おばさんみたいで……」
「ありがとう、嬉しいわ」

「サツキちゃんにパースディプレゼントだなんて言っておいて、僕らが嬉しい言葉をもらったね。ありがとう、サツキちゃん」
「いいえ、どう致しまして」

 気取って言ってみたら、ふたりともに声を立てて笑った。

「疲れたんじゃない?」
「ええ、すこし」
「部屋に入っておいで」
「……ええ」

 これ以上ここにいたらいけないのかな? ふたりが言い合っているのを聞いてそんな気分になって、サツキは言った。

「じゃあね、プレゼント、ありがとう」
 歩き出しながら振り向いて手を振ると、窓のほうへと歩み寄っていっていた女性も手を振り返してくれ、ふたりともにもう一度、ありがとう、と微笑んだ。

 本当に迷子になりそうな庭をさらに歩き、ようやく母が友人とお喋りをしていた部屋に戻った。お姉ちゃんに遊んでもらったの? うん、まあね、との母とのやりとりのあと、サツキも紅茶とケーキをお行儀よくごちそうになって、しばらくすると母が言った。

「では、そろそろおいとまするわ。サツキ、ご挨拶は?」
「はい、ごちそうさまでした。さようなら」
「また遊びにきてね」

 お庭にいた男女は誰? どうしてだか質問する気になれなくて、サツキは母と一緒に大きな屋敷を辞去した。屋敷から駅のほうへと歩いていく道すがら、母が振り返った。

「立派なお屋敷よねぇ。あんまり広すぎて、ママだったらお掃除が大変そうだからいやだけど」
「そうだよね」

 つられて振り返ると、淡いピンクの花が一輪、風に揺れているのが見えた。

「あ、似てる。ママ、あの花はなんていうの?」
「あれ? スゥイートピーよ。誰に似てるの? ママ?」
「ママになんか似てないよ」
「……その言い方って失礼ね」

 怒ってみせる母と手をつないで歩き出しながら、サツキは思っていた。淡いピンクのドレスを着た綺麗なおばさんを見ているとなにかを思い出した。そうか、スゥイートピーだったんだ。
 それからそれから、あのふたりって兄と妹じゃなさそうで……そしたらなんなのかなぁ? ママに訊いても、大人になったらわかるわよ、って言われるだろうから、内緒にしておこう。

 明日には両親からも友達からも誕生日のプレゼントをもらえるはずだけど、一日早くもらったプレゼントのことをママに話すのが惜しい気もする。誰にも話したくないほどに、形のないプレゼントはとてもとても素敵だった。


END


 
  

ガラスの靴72「物欲」

「ガラスの靴」

     72・物欲

 体験入学というのはほうぼうにあるようで、胡弓を連れて前を通りがかった幼稚園の門前にも「体験入園」の看板が立っていた。
 やってみる? うん、と父と息子のやりとりがあって、胡弓のママであるアンヌも賛成してくれたので、僕は胡弓の手を引いて幼稚園に連れていった。

 三歳から五歳くらいの幼児が集まって、先生の指導のもと、みんなで遊ぶ。まずはそこからということで、泣いたり怯えたりはしない子どもの親は、そばについていなくてもいいと言われた。

 園庭に出ていくと、ママさんたちがあっちにふたり、こっちに三人と群れて話している。両親そろって来ている人や、若い祖母なのか年を取った母なのかわからない年齢の女性もいたが、パパひとりで連れてきている人はいない。ママさんたちの輪に入っていきづらくて、僕は木陰に立っていた。

「笙くんじゃない?」
「うん? あれ?」
「そうだよね。大沢笙くんだ。私のこと、覚えてない?」
 
 どこかで会ったような記憶はあるのだが、明確には思い出せない。アンヌと同じくらいの年ごろに見える、ごく平凡な主婦といった感じの女性だった。

「小学校のときに一緒だった、林子だよ。結婚して苗字が変わったんだけど、リンコ、覚えてないかな」
「んんん……そういやぁいたかな。小学校のときなんて十年以上前だもん。よく覚えてないよ」
「笙くんって転校したんだよね。美少年だったのもあって気になってたから、それでかえって私は覚えてるんだよね」

 とすると同い年? ええ? まさか、と思ったら、同い年ではなかった。林子さんの弟が僕の同級生だったのだそうだ。

「ああ、正志だったら覚えてるよ」
「でしょ? 笙くんはうちにも遊びにきてたもんね。笙くんも結婚したの?」
「そうなんだ。僕も結婚して苗字が変わったんだよ」

 子どものころの僕は隣県に住んでいて、東京に引っ越してきたのは十歳くらいのころだった。林子さんも結婚して東京で暮らすようになったというのだから、広い東京で幼友達の姉さんにめぐり会うとは、奇遇だといえた。林子さんは主婦、僕は主夫。林子さんの娘と僕の息子は同い年だ。

「林子の娘だからこう書くの」
「瞳森? ヒトミモリ?」
「読めないの? 教養ないんだね。ま、考えてみて。笙くんの子どもは?」
「こう書くんだよ」
「胡弓……コキュウだよね。そのくらい読めるよ」

 そりゃあ、胡弓と書いてコキュウと読むのは尋常だからだ。コユミ? なんて読まれることもあるが、素直に読めばコキュウだろう。
 しかし、瞳って字の訓読みなんか知らない。いや、訓読みがヒトミ? そしたらなんだっけ。別の読み方はなんだっけ? 「瞳」を別の読み方なんかするのか?

「専門学校を卒業して、できちゃった結婚して主夫か。そういう人間だったら教養なくてもしようがないかな。降参? 教えてあげようか」
「林子さんは大学卒?」
「当たり前よ。私たちの世代で大学も出てないなんて、親の常識疑っちゃう。本人も向上心がなくて、努力もしなかった奴って印象だよね。正志は医大に行ってるんだよ」
「秀才だね」

 勝ち誇ったような顔をしている林子さんのように、人間の値打は第一に学歴だと考えるひとはよくいる。言いたい奴には言わせておくことにして、「瞳」の音読みを思い出そうとしていた。そう、音読みでは「とう」「どう」だ。瞳子と書いて「とうこ」と読む女性がいた。

「どうしん? とうもり?」
「ほんと、常識ないよね。そんな名前を女の子につける? 次に会うまでの宿題にしておくから、奥さんにも聞いてごらん。笙くん、ケータイのアドレスと電話番号交換しよう」
「あ、ああ、いいよ」

 こうやっていばられて、なんでおまえなんかと、とアンヌだったら怒りそうだが、僕は温厚を旨としているので、林子さんの言う通りにした。

「……メモリじゃないか?」
「メモリ?」
「瞳は目だろ」
「あ、そうかも。さすがアンヌ」
「しかし、メモリってのもおかしな名前だよな」

 体験入園の話をし、林子さんの話題も出し、「瞳森」の字も見せるとアンヌが答えてくれた。林子さんから電話がかかってきたときに宿題の答えを言うと、彼女はなぜか不機嫌になった。

「そんなに簡単に読まれるとつまんないな。世界中にひとつしかない名前をつけたのに」
「こんなの読めて当たり前だって言ったじゃん」
「そうなんだけど……ま、いいわ。笙くんちに遊びにいっていい? メリちゃんは体験入園で胡弓と一緒に遊んでたらしいのね。胡弓パパと友達だって言ったら、遊びにいきたいって。行くからね」
「うん、いいけどね」

 我が子はメリちゃんで、よその子は呼び捨てか。胡弓のほうは誰かと遊んだ? と尋ねても、メリちゃんだのメモリちゃんだのの名前は出さなかったが、そう言うと馬鹿にされそうで、遊びにきたいと言う林子さんにOKの返事をした。

 やっぱり笙くんの子だね、記憶力よくないね、受験のときに苦労しそう、だとか言われたくないので、林子さんとメリちゃんが遊びにきたときにも、その話題は出さずにいた。

 おばあちゃんに預けられているときも多く、おばあちゃんの友達にも可愛がってもらっている胡弓は人見知りはあまりしない。特に我が家でだと王子さまなのだから、メリちゃんにおもちゃをいっぱい貸してあげて、仲良く遊んでいた。

「メリちゃんにはおもちゃはあんまり与えてないのよ。胡弓はたくさん買ってもらいすぎだね。そんなだと我慢できない子になりそう。ほどほどにしたほうがよくない?」
「うちはお客さんも多いから、おもちゃはたくさんもらうんだよ。メリちゃんはおもちゃ、ほしがらない?」
「メリちゃんって物欲のない子なんだよね。食事はきっちり食べるけど、お菓子は嫌いなの。身体によくないものって食べさせたくないし、頭が悪くなりそうなおもちゃは与えたくない。親がそう思ってても、子どもはなんにもわからずに駄々をこねたりするじゃない」

 あれ、ほしいな、と言うとわりにすぐに買ってもらえ、堅いことは言わない僕ら夫婦だから、おやつだって好きなものを食べさせている。ほしくなくてもお客さんがおもちゃをくれたりもする。そのせいで胡弓は、あれほしい、買って買って、なんて駄々っ子になったことはないのだった。

「だけど、躾がいいせいもあるし、メリちゃんは聞き分けがよくて頭がよくて、あれほしいこれほしいなんて言わない子だってせいもあって、親の気持ちをよくわかってるのよ。こんな物欲のない子って、かえって心配なんだよね」
「ふーん」

 自慢しているのだろうから、そんなことないよ、という反応はしないでおいた。
 子どもたちは胡弓のおもちゃで仲良く遊ぶ。胡弓はなんでも気前よく貸してあげるし、メリちゃんも無茶は言わないので、お行儀よくおとなしく遊んでいる。僕は林子さんの愛娘自慢や、林子さんがバリキャリだった会社で知り合って結婚した旦那の自慢話やらを、辛抱強く聞いていた。

「あ、電話だ。ちょっと待ってね。もしもし……」

 スマホで通話をはじめた林子さんのそばから離れ、子どもたちにおやつを出してあげることにした。お菓子はやめておいたほうがいいのだろうから、果物にしよう。僕がいろんなフルーツを盛ったお皿を持って胡弓の部屋に戻ると、林子さんが言った。

「主人が届けてほしいものがあるって言うのよ。二時間くらいですむから、メリちゃんを預かってもらえないかな」
「うん、まあ、いいけどね」
「胡弓、メリちゃんと遊んで、メリちゃんを見習っていい子になるんだよ」
「メリちゃんには言わないの?」
「メリちゃんは言わなくてもわかってるから大丈夫。メリちゃん、パパんとこに行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
「胡弓も言いなさいよ」

 林子さんに命じられた胡弓が、バイバイと手を振る。メリちゃんはたしかに、三歳にすれば大人びた女の子だ。三人して林子さんを見送ると、メリちゃんが言った。

「……お菓子、ないの?」
「お菓子は食べたらいけないんじゃないの?」
「いいんだよ。ママ、いいって言ったよ」
「そうかなぁ」

 口も達者なメリちゃんだが、思ったことを的確に言葉にするのはむずかしいだろう。プリンくらいだったらいいかな? いやいや、今どきはアレルギーの子もいるんだから、独断でものを食べさせてはいけない。

「僕はママからいいって言われてないから、ママが帰ってきたら訊こうね」
「ママは駄目って言うもん。お菓子、食べたいな」
「ああ、そうなんだ。でもさ、おなかが痛くなったりしたら困るでしょ」

 あらら? 泣いてる? べそかき顔でメリちゃんが訴えた。

「ママに言ったらいやだよ」
「メリちゃんがお菓子がほしいって言ったって? 言わないよ」
「うん」

 この幼さでメリちゃんは、ママの前ではいい子にしようと必死になっているんじゃないだろうか。なんだか痛々しく思えてきた。

「これ、メリちゃんの」
「……胡弓のだよ」
「ちがうもん。これは女の子のおもちゃだから、メリちゃんのだよ」
「……んんと……うん、あげる」

 ま、いいや、とばかりに鷹揚に、胡弓はメリちゃんにおもちゃを取られるままになっている。胡弓がそんな調子だから、これもメリちゃんの、あれもメリちゃんの、と彼女はおもちゃをひとり占めする。あげくはポケットに入れているので、僕は言った。

「そんなの持って帰ったら、ママにばれちゃうよ」
「……おじちゃん、意地悪」
「胡弓、あげる?」
「うん、いいよぉ」

 父親としてはむしろ、胡弓のこの鷹揚さのほうが心配だ。メリちゃんはポケットから出した小さなマスコットを握り締めて、胡弓を睨み据える。それからそのマスコットを、力いっぱい胡弓に投げつけた。

「ほしいよ」
「……あげてもいいんだけど、ママになんて言うの?」
「ううん、いらないもん。いらないもんっ!!」

 悔しくてたまらないように叫んで、またまたメリちゃんは泣き出した。ほんとはほしいんだよね。どこが物欲がないんだか……けど、小さな子はこれが普通だろ。泣いているメリちゃんをきょとんと見てから、胡弓は彼女の背中をよしよしと撫でてやっていた。
 
 どうも林子さんの躾は歪んでるな、とは思うのだが、僕には意見なんかできっこない。胡弓までが変な影響を受けて歪まないように、あの幼稚園に入園させるのはやめておいたほうがいいか。林子さんとは距離を置いて、自衛するべきだろう。

つづく


210「しずやしず」

しりとり小説

210「しずやしず」

 新婚家庭に遊びにきたがる、夫の同僚たち。小田巻久人と優歩は結婚式はしていないので、同僚たちにお披露目もしていない。優歩は在宅仕事なので同僚というものはなく、友人たちには夫を紹介している。なのだから、夫の同僚たちを一度くらい招くのはしようがないかと受け入れた。

 やってきたのは合計十名。夫の久人はメーカーの研究室勤務で、そういった職場についてはよくわかっていない優歩は、こんなにたくさん同僚がいるんだといささか驚いた。

「奥さん、お手伝いします」
「いいんですよ。お客さんにそんなことはしてもらわなくていいから、みなさんはすわってて下さい」
「志津ちゃん、ほんとにいいよ。僕がやるから」

 女性は三名いて、あとのふたりは中年、既婚だそうだが、ひとりだけが若い。既婚女性たちはむしろ、見知らぬ人に等しいような人間に台所に入ってほしくない、との優歩の気持ちを察したようだが、もっとも若い志津は手伝いたがった。

「いいんですよ。洗い物なんかあとでしますから」
「でも……あのね、奥さん、聞いてほしいことがあって……」
「はい?」

 ほぼ見知らぬ相手なのに、相談ごと? 訝しみつつも、優歩は志津の横に立ってふたりで皿洗いをすることにした。

「奥さんはデザイナーなんですってね。私はデザイナーっていえば洋服かと思ってたけど、ちがうんですか」
「意匠デザインっていうのかな」
「衣装?」
「あ、そっちの衣装じゃなくて、商品パッケージだとか、簡単に言ったらそういうものよ」
 
 二十一歳だと聞いている志津は優歩よりもひと回り年下なので、このくらいの口のききようでいいかと判断した。

「いいなぁ。才能あるんですね」
「……で、相談ってなんですか?」
「相談というか、聞いてほしくて」

 高校を卒業してアルバイトとして、志津は久人の職場に入った。アルバイトだから入社とは言わないのかもしれないが、若い志津にはみんなが親切にしてくれて居心地がよく、志津も楽しく働いていた。

「それがね、だんだん苦しくなってきたんです」
「苦しく?」
「好きなひとができて……」

 恋愛相談か。そんなのをなんで私に? 見返した優歩の目をじっと見つめて、志津は続けた。

「私は高卒の資格もなんにもないアルバイト。コピーやお使いをするだけの、高校生バイトと変わらない仕事です。母がずっと小田巻さんの会社で働いていて、定年退職したんで、そのコネで入れてもらったんですね」
「ああ、そうなんですね」
「私は勉強が最悪にできなかったから、大学なんか行きたくもなかったから、母も諦めたんです。無職ってわけにはいかないから、アルバイトでもいいから働きなさいって、母が決めてきたんです」

 そうなのね、としか優歩にも相槌の打ちようはなかった。

「年だってまだやっと二十歳をすぎたところで、私の好きなひととは十もちがうの。三十一歳の男性から見れば二十一なんて小娘でしょう?」
「そうでもないんじゃないかな。男性は若い女性が好きでしょ?」
「その男性は若い女性よりも、ちょっと年上の女性が好きなんです」
「は、はあ、そうなのね」

 ざあざあと水道を流しっばなしにしてはいるものの、志津は食器を洗っているというよりもただ喋っていた。

「だけど、苦しくて苦しくて、告白しましたよ。好きになってもらえるはずもないけど、好きだって言いたかった。「しずやしず、しずのおだまき繰り返し、むかしを今になすよしもがな」って、静御前の詠んだ歌があるんですってね。静御前は卑しい白拍子。義経の妻になれるような身分ではなかった。なんだか似てるなぁって。私は高卒のただのアルバイト。好きなひとは大学院まで出たエリート研究員です。現代の身分ちがいですよね」

 そうね、とも言えなくて、優歩は返事のしようもなくなる。なにかがひっかかる気がするのだが、なんだろう?

「それでも告白しましたよ。志津、えらい、勇気があったねって、自分で自分を褒めてやりました。静御前って私と似た名前で、好きなんですよね。静御前もこの歌を、うんとうんと身分が上の人の前で口ずさんだんですよ。でも、もちろん告白にうなずいてもらえるわけもなくて、ありがとう、嬉しいけど、僕は結婚するんだよって言われました」
「……そうなの」

 息が詰まったようになっていた優歩は、ようやくそれだけを言った。

「ご結婚、おめでとうございます。どんな方が奥さんなんですか? 結婚式に招待してもらえたら嬉しいな、って頼んでみたら、僕らは結婚式なんてものに価値を見出せないからやらないんだって。なんかかっこいい。奥さんもウェディングドレスに憧れたりもしないんですね。私は着てみたいな。あのひとと結婚するなんて夢を見て、真っ白なドレスにも憧れてました」

 水音にまぎれて、皆が集まっている部屋までは会話は届かないだろう。久人も優歩も収入はいいほうなので、賃貸とはいえマンションは広い。キッチンと客間までは距離もあった。

「だったらね、いつか新居に遊びに行っていいですか、っておねだりしたんです。それまで断ったらかわいそうだと思ってくれたのかな。みんなで遊びにいくってときに混ぜてもらったんです。想像通りの奥さんだったな。背が高くて綺麗で大人で。かっこいいひと。こんな大人でかっこいい女性なんだから、結婚なんかしなくてもひとりで生きていけるくせに。神さまって不公平だな。なんでも持ってる女性と、私みたいになんにもない女と……ひとつくらい、私に譲ってくれてもいいと思いません?」

 でも、あなたは若いから……鈍い頭痛を感じながらも、優歩は呟いた。

「若い女には興味なくて、彼は年上のかっこいい女性の好きな男性なんですよ。だから小田巻さんは奥さんと結婚したんですもの」
「……え?」
 
 理学部と芸術学部だったが、久人は優歩とは同じ大学のふたつ後輩だ。学園祭で展示されていた優歩のイラストを見て、久人が近づいてきた。ともに大学院に進んでからも、社会人になってからも十年以上もつきあって、結婚はしなくてもいいつもりでいたのだが、久人が言い出した。

 やっぱり結婚しようよ、お互いにただひとりのひと、として一生、つきあっていこうよ、と。

 いいけどね……私には結婚願望なんかないけど、久人がそんなに言うならしてあげるよ。
 そう返事をしたときの、久人の嬉しそうな顔。結婚式なんかしなくていいよね、と優歩が言い、親たちが式は挙げてほしいと懇願したのも、久人が退けた。僕は優歩ちゃんのしたいようにしたいんだ、と。

 子どもはいらない、優歩ちゃんがほしがっていない。
 気が変わるかもしれない? 優歩ちゃんが変わらない限り、僕も変わらないよ。
 
 久人はそう言うので、姑には疎まれているふしもある。そんなものは優歩にはなにほどでもない。私が幸せならば久人も幸せ。ふたりはそんな夫婦なのだから。

 頭の中に小さな虫が入り込んだような気分だ。
 奥さーん、ビール、もっとあったっけ? 久人の声が聞こえてきたのを潮時にしたかのように、志津は洗いかけの食器をそのままにキッチンから出ていった。

「今日はお疲れさま。片づけは僕がするから、優歩ちゃんは先に休んでくれていいよ」
「片づけは一緒にしましょ」
「そう? そのほうが僕は助かるけどね」

 それきり志津は優歩には近づいてこず、年上の仲間たちに溶け込んで楽しそうにふるまっていた。優歩は頭の中を整理しようとつとめつつ、皆が帰るのを待っていた。

「告白されたんだってね」
「へ?」
「で、久人は断った。それはいいんだけど、そんな相手の女の子をうちに招く?」
「なんのこと?」
「とぼけんなよ」

 ぐっと久人を睨んで、優歩はまくしたてた。

「久人はもてるほうなんだから、独身のときに会社の若い女の子に告白されるってことはあったかもしれない。ひとりやふたりじゃなかったのかもしれない。私とずっとつきあってたんだから、二股なんかししないと信じてるけど、女に恋されるのは止められないもんね。ちゃんと断ったんだったら私もしようがないと思うよ。だけど、そういう女をうちに連れてくるってどういう了見? 申し開きがあるんだったら聞こうじゃないの」
「優歩ちゃん……意味わかんないよ。なんのこと? 誰のこと?」
「とぼけんな。ひとりしかいないだろっ!!」

 激するつもりはなかったのだが、言っているうちに腹が立ってきた。本気で怒ると優歩ちゃんって言葉遣いが悪くなるよね、そんなところも魅力的だ、と久人が言っていたのを無意識で意識していたのかもしれない。

「……ひとり? 若い女の子? 志津ちゃん?」
「そうだよっ」
「志津ちゃんがどうかしたの?」
 
 とぼけんなっ!! と叫ぼうとして思いとどまった。理系男子の常として、久人は鈍感である。鈍感とはいっても直接告白されたのならば、知らないわけはない。するとつまり?

「告白されてないと?」
「就職したばっかりのころには誰かに告白されたな。だけど、僕には優歩ちゃんがいるからって断ったよ。そのあとも二、三度あったんだけど、あれってからかわれたんじゃないかと思わなくもない。どっちにしたってみんな断ったよ。志津ちゃんになんか告白されてないよ」

 心の中で小さく、優歩は叫んだ。しまった!! 言わないほうがよかったのに。
 あの日から一年ほど後に、久人が言った。
 
「優歩ちゃんは結婚なんかしたくなかったんだよね」
「願望はなかったよ」
「だったら、独身に戻ればいいよ。僕は優歩ちゃんに悪いことをしたみたいだ。結婚なんかしたくないあなたを僕の妻にしてまった。優歩ちゃんはそういう女性だよね。だけど、世の中には結婚したくてたまらない女性もいるんだ」
「誰のことを言ってるの?」
「こんなにも一途に愛されるってはじめてだよ。僕は優歩ちゃんを愛するほうがいいと……いや、そんなに深く考えてもいなくて、優歩ちゃんには悪いことをした。ごめんね、解放してあげるから」

 世にもありふれた台詞だ。
 あなたはひとりで生きていける女だけど、彼女には僕がついていてあげないといけないんだ。

 通常、妻だのモトカノだのにその台詞を言ってのける男は、罪悪感を持って口にするはず。だが、久人は本当に、優歩のために、と思っている。優歩のためにも志津のためにも、僕はベストの選択をするんだと信じている。そして、久人は優歩に告げた。僕らは別れようね、と。

「久人は本当に、志津ちゃんがあなたに恋してるって知らなかったの?」
「知らなかったよ。優歩ちゃんが教えてくれてよかった。志津ちゃんは僕の子どもがほしいって言う。そんなふうに言われるのもいいものだね」
「……そう」

 しまった、との心の叫びは正解だったのだろう。言わなければよかった。聞かなかったことにして口をぬぐっていれば、志津だってそれ以上は久人に言い寄らなかったであろうに。

 志津の捨て身の作戦にうまうまとひっかかった私が馬鹿。
 だけど、こんな浮世離れした男とは一生をともにするなんてできっこないだろうだから、これでよかったのかもしれない。優歩は思う。何年か後に後悔するのはどっちかしらね、志津ちゃん?

次は「ず」です。


ガラスの靴71「玄人」

「ガラスの靴」

     71・玄人

 この企画をたくらんだひとりの女と、彼女に呼び出されてやってきた三人の女。四人のうちの三人までが名前に「か」がつく。

 各々父親のちがう三人の子を未婚の母として育てている通訳、ほのか。
 キャバクラ嬢、愛花。
 「か」のつかないただひとり、仕事はなにをしているのか知らないが、常にフェロモン満開、男殺しの優衣子。この三人は独身。

 もうひとりの「か」は、夫との取り決めで浮気は公認の既婚者、デザイン事務所勤務の涼夏。彼女が今回の企てをアンヌに持ちかけた。
 その涼夏さんに連れられてきたのが、仮名、太郎。涼夏さんの取引先の社員だそうで、眉目秀麗なエリート青年だ。エリートだから仮名なのか、涼夏さんが太郎くんと呼んでいるので、みんなもそう呼んでいた。

 低く絞った音量でピアノ曲が流れている場所は、我が家のダイニングルームだ。ホームパーティだと言われて涼夏さんに連れられてきた太郎くんは、誰にも愛想よくふるまっていた。

「息子さんは今夜は……?」
「お母さんの家にいるんだ」
「ああ、そうなんですか。お母さんって胡弓くんのおばあちゃんですよね」
「そうだよ」

 四人の女性にアンヌも加えて、女性たちがこちらを見ているのを感じる。僕は接待役なのだから黒子のようなものなのだが、美女たちの視線を送られると落ち着かない。それに引き換え太郎くんは動じず、僕と世間話をしていた。

「僕の母はバリキャリでしたから、僕も祖母に預けられていることが多かったんですよ。僕への肉親の愛情は、祖母と祖父が主に注いでくれました」
「寂しかった?」
「大人が誰も愛してくれなかったら寂しかったかもしれないけど、祖父母が可愛がってくれたから満足でしたよ。僕がなに不自由なく裕福に暮らせたのは、しっかり働いてる両親のおかげだって、祖母にも言い聞かされてましたから」
「ぐれたりもしなかったんだ」
「するわけないですよ」

 男は二十代後半がいい、と言うのが涼夏さんの趣味だそうで、二十三歳の僕なんかはひよこなのだそうだ。アメリカの大学院を卒業して、広告代理店に入社したと聞く太郎くんは僕よりも年上のはずだが、誰を相手にしても敬語で話すのだった。

「あの女のひとたちの中に。好みのタイプっていないの?」
「どの方も綺麗で、好きですよ」
「特別に誰かとつきあいたくない?」
「いえ、別に」

 彼女のフェロモンにはどの男も一発で降参して、彼女がいようが妻がいようが、バツニバツ三であろうが、なびかない者はない、との評判を持つのが優衣子さんだ。彼女はそれとなく太郎くんにアプローチしていたが、するっとかわされていた。

「笙くんも太郎くんも実は……」
「そうかもしれないね」

 実は……なんと言ったのかは知らないが、男を侮辱するフレーズだったにちがいない。僕はこの世では少数派の、優衣子さんのフェロモンにやられない男。それでも僕は優衣子さんの胸の谷間などを見るとどきっとするが、太郎くんはなんにも感じていないようだ。

 気に食わない顔の優衣子さんに話しかけられたのは涼夏さんで、彼女は太郎くんと遊びの恋がしたくて誘いをかけたのだそうだ。そして、言われた。

「女性とプライベートなおつきあいをしたことはありません。友達だったらいーっぱいいますけど、性的な関心はひとかけらもない。男が好きとかロリコンとかってのもありませんよ。セックスの経験もありませんし、したくもないな。頭の中がそういうのでいっぱいで、いやらしい動画を観たりする男は汚らわしい……うーん、そこまで考えてはいませんよ。ただ、暑苦しくっていやなんですよね。やりたい奴は好きにやってればいいけど、僕にはおかまいなくって感じ? なまぐさいのや暑苦しいのは嫌いなんですよ。結婚なんかしたくありません。恋愛にも興味はありません。僕の好きなこと? ガーデニングかな」

 そんな男に涼夏さんの闘志が湧いた。
 悔しいけど、私じゃ駄目みたい。だけど、他の女だったら? 男を惚れさせることには百戦錬磨、一騎当千のつわものたちが、アンヌの周囲には大勢いるでしょ、みつくろって連れてきてよ。私は太郎くんを連れていくから、と言われたアンヌがその気になった。

 休暇が残っていたのもあって、アンヌが涼夏さん所望の女たちを動員したのだが、そんな遊びに加担しているアンヌも、昔は相当なつわものだったはず。

 真面目な男や堅い男、てめえは遊んでいても女には貞淑を求める自分勝手な男、もてない男、固定観念にかたまっている男、などなどには敬遠されるものの、思考が柔軟な僕みたいな男や、強気の美人を好む男にはもてまくっていたアンヌも、今夜は太郎くんにちょっかいを出していた。

「涼夏さんには誘惑されたんだろ」
「そうなんですか。社会人の先輩としていろいろと教わってはいますが、誘惑じゃないでしょ」
「優衣子さんの色気にもなんにも感じない?」
「色気? 色気ってなんなんですか。色気なんか感じたことはないな」
「アンヌみたいなタイプはどう?」
「かっこいいですね」

 同じ男なのだから、彼が内心ではどきどきしているとしたら多少はわかる。が、彼の心も身体も、美女にはぴくっとも動いていない様子だった。

「愛花、ちょっと酔ってきたみたい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよぉ。介抱してよ」
「介抱だったら女性同士でお願いします」
「……うん、もうっ、送ってってくれないの?」
「僕は明日は予定がありますので、あまり遅くなりたくないんです。ごめんなさい」

 業を煮やしたのか、愛花さんがなんともストレートなアプローチをこころみたのも、空振りに終わった。
 ぶすっとした顔になった愛花さんは、まるで酔ってはいない態度に戻って、スマホを取り出してむこうに行ってしまった。キャバクラ嬢というと男をたぶらかすことにかけてはプロなのだから、プライドが傷ついたのかもしれない。

「笙さん、料理が上手ですね。これみんなあなたが作ったんですか」
「ほとんどはね。だって僕、専業主夫だもの」
「主夫の仕事のメインは料理ですね。たしかに」
「褒めてくれてるわりには、おいしそうに食べないね」
「いや、僕は食べものに興味ないから」
「なにに興味あるんだよ?」
「ガーデニングですね」

 またガーデニング。がくっとして、僕はチューハイをがぶ飲みした。女のひとたちはむこうにかたまってこそこそ言いながらも、盛大に飲んで食べている。彼女たちはおいしそうに食べているからいいのだが、僕としても苛立ってきた。

「僕とばかり喋ってるって、太郎くんはほんとは男のほうが好きなんだろ」
「いいえ」
「十五歳以上お断りとか?」
「いいえ」
「十五歳未満にだったら色気を感じる?」
「だから、僕は人間には色気を感じないんです」
「なんにだったら感じるの?」
「見事に咲いた薔薇の花とか……」

 けーっ!! と叫びたくなったのは、僕も酔ってきたからだろうか。
 はじめて涼夏さんから話を聞いたときには、太郎くんのたたずまいは理想の老後の姿だと思った。老後だったらいいが、年頃の近い男としてはじれったい。おまえみたいな奴が増殖すると、少子高齢化が進みすぎて、僕らの老後には年金も出ないぞ。

 おまえは稼ぎがいいんだし、妻も子も持つつもりはないからしっかり貯金すればいいと言うんだろ。うちだってアンヌの稼ぎはいいけど、浪費も激しいから貯金はそんなにしていない。アンヌには定年はないけど、ロックヴォーカリストって何歳までやれるんだろ。

 万が一アンヌに捨てられ、胡弓にもつめたくされ、年金ももらえなかったとしたら……僕の老後は真っ暗闇だ。酔っているせいか悲観的になって、太郎くんにからみたくなってきた。

「太郎くんは主夫なんて馬鹿にしてるだろ」
「してませんよ。他人の生き方は尊重します」
「きみは主夫になりたい?」
「僕がなりたいかどうかは、笙さんの生き様とは無関係でしょう?」
「きみの目に侮蔑を感じるんだよ」
「誤解ですよ」

 あくまでもにこやかな太郎くんと押し問答していると、玄関チャイムの音がした。僕が立っていく前に愛花さんが出ていき、数人の女性を伴って戻ってきた。

「もっとお客さん?」
「笙、こっち来い」
「うん、お客が増えたんだったらグラスとか……」

 呼ばれてアンヌのそばに近づいていくと、僕のかわりのように女性たちが太郎くんを取り囲み、アンヌが言った。

「あれは愛花の仲間たちってのか、男をもてなすのが仕事ってプロの女たちだよ」
「愛花さんの手管が通用しなくて、腹が立ったらしいのね」

 言ったほのかさんは、黙ってそこにいるだけで男に恋されるらしい。僕の知り合いにもほのかさんに片想いをしている男がいた。だが、太郎くんはそんなほのかさんにも興味はないようで、一顧だにしない。ほのかさんはそれでもいいらしいが、内心はむっとしていたりして?

「それで、愛花ちゃんが仲間を呼び出したのよ」
「あんなもんでは太郎くんには通用しないと思うけど、お手並み拝見だね」
「だね」

 優衣子さんと涼夏さんがうなずき合い、アンヌが腕組みをする。太郎くんを囲んでいる華やかな女性たちは、銀座のバーのホステスたちだそうだ。二十代から四十代までの美女集団にかかったら、歌舞伎の大物や政治家や経済業界人や、クラシックの指揮者やマエストロや、なんて人種でもひとたまりもないのだそうだが。

「無駄だよ。あいつはそもそも人類の男じゃないんだから」
「異星人?」
「薔薇の妖精王なんじゃないの」

 やや離れたところから観察していても、案の定、太郎くんが動じていないのが見て取れた。銀座のお姉さんたちに取り囲まれているというよりも、学生時代の女友達たちとグループ討論でもしているかのようだ。
  
 ああいう男になったら感情の波立ちがきわめて少なくて、人生、意外と楽なのかもしれない。けれど、僕は僕でいい。僕はこんなだから、こんな笙だからアンヌに愛してもらえるんだ。僕が太郎くんみたいになったら、アンヌに捨てられるかもしれないんだから、僕はこのままでいい。

つづく

 

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