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2020年3月

208「あの日」

しりとり小説

208「あの日」

 直感で気がつくものだと俗に言われているが、定岡越美は気づかなかった。別件で頭がいっぱいで、夫どころではなかったからもある。当事者から打ち明けられたときにはびっくり仰天してしまった。

「私が先にご主人を好きになったんです」
「あなたが、うちの主人を?」
「そうなんです。いつも行くスーパーマーケットの副店長さん。親切にしてもらって、私の顔を憶えてもらって、買ったものを自転車に積もうとしていたら手伝ってもらったり、箱ごとのお茶を買おうかな、重いしな、って迷っていたら、お届けもできますよって言ってもらったり」

 そんなこと、スーパーマーケットの副店長ならば当たり前かと思えるが、四十代の主婦であるらしい彼女は、よほど夫にも世の中の男たちにもないがしろにされていたのだろう。越美の夫の親切がホストクラブの恋愛営業のごとくに身にしみたらしい。

「それで、好きになってしまって私から告白したんです」
「告白、ねぇ」
「私は男性に告白するなんてはじめてでした。主人とはお見合い結婚で、お互いに、まあこんなもんだろ、でしたから……結婚して十年になるんですけど、冷めたもので」
「そうなんですか」
「定岡さんはご主人にプロポーズされたんですか」
「ええ、まあね」

 二十八歳の春、恋人というほどにも思っていなかった七つ年上の哲夫にプロポーズされた。二十代のうちに結婚するのはいいかもしれないと、哲夫には特に不満もなかったので結婚し、子どももふたりできた。哲夫のほうは越美に恋をし、いまだ恋しているらしいと越美は思っていたが、越美は夫には特に恋愛感情を抱いたことはない。

「哲夫さんも、僕は女性に告白されたのなんてはじめてで感激ですよ、と言って下さいました」
「はあ、そうですか」

 あの野郎、私に惚れてるふりをしていたくせに、よその女に告白されて舞い上がったんだな。どうしてやろうか、夫からもこの女からも慰謝料を取って離婚してやろうか。自分の持ち物に手を出されたような不快感から、越美はそう考えていた。

「内緒の恋って楽しいみたいな……哲夫さんはその程度だったんでしょうけど、私が夢中になってしまったんです。でも、奥さんに……越美さんに対する罪悪感で耐えられなくなって……すみません。泥棒猫みたいな真似をして」
「それで、あなたはなにをしたいんですか」
「奥さまにお詫びをして、身を引きます」
「そのために告白しにきたの?」
「だって、奥さまもうすうす気づいてるらしい、別れどきかな、って哲夫さんが言うんですもの。奥さまは挙動不審だ、あれはまちがいなく気づいてるって、そう聞くと怖くなってきて……お願いですから、絶対にもう旦那さんとは会うのもやめますから、主人にだけは言わないで下さい」
「そういうことね」

 不倫相手の妻が察していると聞いて怖くなり、夫への露見を恐れて自ら告白と詫びをしにきた女。これっきりで身を引くと越美に誓った女。越美は彼女に重々しくうなずいてみせた。

「気の迷いってありますよね。あなたがそうやって誠実に打ち明けてくれたんだから、本当に二度と会わない、別れるって言うんだったら受け入れます。念書を書いて下さいね」
「……わかりました。本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした」

 なにもなかったような顔をして帰宅した夫に、越美はその念書を見せた。

「こんなこと……こんなこと、やらせたのか?」
「彼女がやるって言ったのよ。あなただって彼女と別れたって痛痒は感じないんでしょ」
「そんなに簡単に……きみは気づいてたんだよな」
「気づいてはいたけど泳がせてたの」

 まるっきりの嘘だが、夫は信じたらしい。

「きみのような完璧な女と暮らしてると、俺は息が詰まるんだよな。俺だってきみにプロポーズしたときには、大会社の前途有望な社員だったよ。スーパーマーケットの店員だったら結婚なんかしてくれなかっただろ」
「そんなことはないって、何度も言ったじゃないの」
「ああ。きみは最高の妻だよ」

 大会社だって大銀行だって倒産する世の中だ。夫の会社も業績がひどく落ち込み、四十代になって間もなく哲夫はリストラされた。越美の会社は幸いにも順調で、哲夫よりも年収は多かったから、夫の失業だって乗り越えられた。

 いっそ専業主夫になる? それはいやだ。
 とのやりとりの末、越美の会社の子会社のような立場のスーパーマーケットに夫を就職させてもらった。夫の前職とはまるで別業種だったのだから、四十歳をすぎて修行して副店長にまでなった彼を、それなりによくやったと越美は評価していた。

 完璧というほどではなく要領がいいだけなのだが、越美は主婦業も母親業も会社員の仕事も器用にこなす。良妻賢母の鑑、おまけにキャリアウーマン。夫は越美を尊敬し、愛情も深めていっていると越美は信じていた。

「だからさ、たいしたこともないあの女に惹かれたってのがあるんだ。あの女は遅くに結婚して、子どもが小学生になったからパートをしてるって平凡な平凡な主婦だよ。きみみたいにスタイルがいいわけでもない、美人でもない」
「この目で見たから外見は知ってるけどね」
「だろ。だけど、安らぐんだよな」
「あなたは私と離婚して、あのひとと結婚したいの?」
「そんなはずはない。俺は越美を愛してる!! あんな下等な女に乗り換えたいわけないだろ」

 けれど、と夫は頭を抱えた。

「きみがうすうす気づいてるなんて言ったのは、本当に気づかれてると思ったのもあるけど、あの女がどういう反応を示すか、知りたかったからもあるんだ。きみにばれてしまって、あの女とは別れるしかないところに持っていきたかった。ああ、でも、わからないよ。わからなくなってきた。きみを愛してはいるけど……子どもたちとだって離れたくなんかないけど……でも……越美、俺はどうしたらいい?」
「ひとりで自分に酔ってれば?」

 苦悩する夫像を演じていればいい。越美につめたく突き放されて、哲夫はしばらく悩んでいたらしい。が、結局は彼も謝罪した。

「悪かった。捨てないで。俺はきみとやり直したい。小遣いを半分に減らしてくれていいよ。家事だって今までみたいな手伝いレベルじゃなくて、俺がメインになってやる。きみは子どもたちのために、出張なんかも減らしてたんだろ。これからはどんどんやって。きみのように有能で完璧な女性が俺たちの犠牲になるのはまちがってたんだ。これからは俺がきみのサポートをするから、捨てないで」
「そうね。考えてみるわ」

 自分の所有物に手を出すよその女、というのはたいへんに癪に障るが、夫があの女と別れるのならばいい。越美としては夫との仲を修復することに異論はない。子どもたちだって父親が好きなのだし、両親が離婚したりしないほうがいいに決まっている。

 ただ、考えてみると言ったのは、越美にもひとつ懸念があるからだ。これがあったからこそ、越美は夫の浮気にみじんも気づかなかったのだ。

「別れよう。これ」
「なにこれ? 手切れ金?」
「それって人聞き悪いよ。だけど、そんなようなものかな。今までありがとう。男らしく潔く別れてね」
「……こんなときだけ男らしくなんて、越美さんは勝手だな。だけど、そんなこと、知ってて好きになったんだよね。これ、ほんとにくれるんだな? あとで返せって言わない?」
「私はあなた以上に男らしい女なんだから、あげたものを返せなんて言わないよ」
「うん、だったら……さよなら」

 手切れ金だって? 馬鹿にするな!! と怒る男だったら、越美にも未練心が生まれたかもしれない。けれど、こんな男なのだから一時の遊びでいい。子どもたちのためにも、万が一夫にばれて越美の有責で離婚するなんて羽目にならないためにも、こんな男は切ったほうがいいに決まっていた。

次は「ひ」です。


ガラスの靴69「贖罪」

「ガラスの靴」

     69・贖罪


 このあたりに知り合いのやっているバーがあるとアンヌが言う。音楽業界やスポーツ業界人がリタイアして、水商売をはじめるのはありがちだ。そういう知り合いの店なのだろう。

「だいぶ前に来たんだけど、酔ってたから記憶があやふやだよ」
「なんて名前のバーだっけ?」
「紫蘭」
「シランなんて知らんなぁ」

 アホなシャレを言いながらも探していた。
 今夜はいつものように息子の胡弓は僕の母に預け、アンヌと夫婦水入らずで外食。アンヌは夕方で仕事が終わるというので、僕が待ち合わせ場所に出てきた。

 三歳の胡弓を連れてはいけないような、フレンチレストランでディナーをごちそうしてもらい、もう一軒行こうか、とアンヌが誘ってくれた。臨時収入でもあったのかな?

「紫蘭、ここじゃないの?」
「ああ、ここだ」
 
 ようやく発見したのは、古びた感じの店だ。紫のネオンサインがレトロな感じの看板で、目立たない場所にひっそりと建っていた。

「久しぶり……あれ?」
「ちがうの?」

 ドアを開けて中に入ったアンヌが、怪訝そうに店内を見回す。僕ははじめて来る店だから知らないが、内装が変わっているのか。カウンターのむこうにいる痩せた女性が、いらっしゃいませ、と微笑んだ。

「前からあんたがママさんだった?」
「いえ、あの、半年くらい前から私はここで働くようになったんです。私はママじゃなくて、ただの従業員です。ママは今日はお休みで、アルバイトの若い子がいるんですけど、まだ来てなくて」
「ママって、紫って女?」
「いえ、保子さんっていう……」
「ちがうな」

 経営者が変わったらしいのだが、「紫蘭」の名前はそのままだ。お店丸ごと別の人が買い取ってオーナーになるというのも、ない話ではないらしい。

「まあいいや。せっかく来たんだから飲んでいこう」
「ありがとうございます。あのぉ、お客さま、芸能人かしら?」
「あたしは芸能人のつもりはないな。ロックミュージシャンだよ」
「そうなんですね。どこかで見た方だと思ってました」

 和服姿の女性は涙子と名乗り、名刺をくれた。涙の子でルイコ。えらく暗い名前に似合った、暗い雰囲気の女性だった。一生懸命愛想よくしようとつとめているらしいが、なんだかぎこちなくて、接客業には慣れていない感じがした。

「あたしはアンヌ、こいつはあたしの夫」
「ああ、そうなんですか。ご主人なんですか」
「主人はあたしだから、こいつが主夫なんだよ」

 まぁーっ!! と大げさな声をあげてから、涙子さんが水割りを作ってくれた。チーズやナッツのおつまみも出てきて、アンヌが彼女に質問した。

「涙子ってこの商売、長いのか」
「いえ、半年前にこちらでは働くようになったのが、はじめてです。それまでは私が主婦だったんですよ」
「旦那は?」
「いますけどね」

 プライベートな話はしたくないのか、涙子さんは曖昧に笑っている。それよりもロックのお話、聞かせて下さいな、とせがまれて、アンヌが語る。昨日から徹夜で続けていたPVの撮影話は、僕にもとても面白かった。
 そうしているとドアが開き、新たなお客さんが入ってくる。いらっしゃいませ……と言いかけた涙子さんの顔がこわばった。

「おかあさん……」
「なにか食べさせてよ。お客がこれだけしかいないんだったらいいだろ」

 入ってきたのは派手な服装のおばあさんだ。お母さんが娘が働いている店でごはんを食べさせてって、アリなのだろうか。しかめっ面の涙子さんにはかまわず、おばあさんはアンヌの隣にすわってしまった。

「あんたも派手だね」
「ばあさんも派手だね」
「その子、あんたの彼氏かい? それとも、ホストクラブの子?」
「あたしの夫だよ」
「ほぉぉぉぉ」

 眼鏡をずらして僕をまじまじと見てから、早くなにか食べさせてよ、とおばあさんは涙子さんに催促する。涙子さんはアンヌに詫びてから、まな板に向かった。

「綺麗な子だね。あんたも別嬪さんだけど、年下だろ」
「そうだよ。ばあさんの亭主は?」
「亭主ねぇ、一度は結婚したんだけど、あんたぐらいの年に離婚したんだよ」
「ふうん」

 珍しくアンヌの知り合いには今夜は会わなかったから、知人がやっているというバーを探してやってきた。なのにそこにも知人はいなかった。僕とばかり喋っていても退屈なのか、アンヌは見知らぬおばあさんの身の上話を真面目に聞いていた。

「亭主は家を出ていってしまって、息子と私が残された。養育費なんかもらえるわけもなかったから、あたしはひとりで働いたよ。息子もアルバイトはして、高校までは卒業させた。高校を出たら就職もして、あたしもちょっとは楽になった。それから十年くらいは、息子とふたりで楽しい暮らしだったんだよ」

 なのに、息子が結婚すると言い出したのだそうだ。

「結婚したいから家を出ていくって言うんだよ。そんなの許せない。あたしは大反対したね。それでもどうしても結婚するって言うから、だったらあたしの面倒も見てよって命令してやったんだ。息子は嫁とはもめてたみたいだけど、苦労をかけた母親の面倒を見るのは当然だろ。嫁になるって女も呼び出して、あたしを捨てるなんてのは人の道にはずれてる、そんなことをしたら世間さまに顔向けできないよって言ってやったから、息子もその女も納得したんだよ」
「へぇぇ」

 なにか言いたそうではあったが、他人ごとだ。アンヌは特にはコメントせず、涙子さんも黙々と料理をしていた。

「そうして息子は結婚して、三人で暮らすようになった。意外によくできた女でね、嫁はけっこうあたしに尽くしたんだよ。だけど、そうやってあたしにばかりかまけてるから、旦那がないがしろになる。息子はあの父親の血を引いてるんだから、ちゃんと見張ってないと浮気するだろうと思っていたんだよ」
「浮気したわけ?」
「それもしようがないだろうね。女としての魅力が全然なくなっちまって、姑と我が子しか見えてない嫁なんだもの。そんな女房だと男は浮気するさ」

 元凶はあんたなんじゃないの、おばあさん? と僕も言いたくなったが、アンヌが黙っているのだから僕も黙って聞いていた。

「ところが悪いことに、息子の浮気相手ってのも結婚してたんだね。ダブル不倫ってやつさ。息子は開き直って、むこうの女の亭主に慰謝料を請求されてる、俺には金がない、どうにかしてくれ、って嫁に泣きついた。嫁は主婦をやってたから稼ぎはなかったんだけど、そうなったら稼ぐしかないだろ。あたしが仕事を探してきてやったんだよ」
「なんかそれ、変じゃねえのか?」

 うん、すごく変。僕もアンヌに同意し、涙子さんはおばあさんの前にチャーハンの皿を置いた。

「しけた食い物だな。まずそう」
「文句言わずに食え」
「あんたに言われる筋合いはねえんだよ」

 毒づいたものの、アンヌに言われたので渋々、おばあさんはスプーンを手にする。うまくないね、あいかわらず下手だな、と文句を言いながらも、チャーハンを食べつつ続きを喋っていた。

「息子は嫁に子どもとあたしと、慰謝料の支払いまでを押しつけて家を出ていっちまったよ。母親の恩をあだで返すってのはあのことだ。やっぱり父親の血なんだよね。あんたもこんな顔だけ綺麗な男と結婚してたら、浮気されて捨てられるよ」
「あのさ、ばあさん」

 その一言はスルーして、アンヌがおばあさんに尋ねた。

「涙子はあんたの娘?」
「あんたはなにを聞いてたんだよ。ぼーっとして、頭が悪いのか。今の話に出てきただろ。涙子がその嫁だよ」

 へ? は? とアンヌと僕はあっけに取られるしかなく、おばあさんは涙子さんに言った。

「あんたは料理も下手だし気が利かないし、亭主に出ていかれるのも当たり前だね。こんなんで客にまともな料理を出せてるのか?」
「このお店はバーですから、あまり料理はしないんですよ」
「料理も下手だし不景気な面してるし、この店も流行ってないんだろ」
「お客は少ないですね」
「そのうち潰れるかねぇ。水商売も無理だったら、ソープででも働くか? あんたにできる仕事なんか他にはないだろ」

 つんつん、とアンヌがおばあさんの肩をつつく。おばあさんはその指を振り払い、僕はついに言った。

「涙子さん、今の話ってほんと?」
「だいたいは……」
「なんで……逃げないの?」
「夫の借金を返すのは、妻のつとめですもの」
「離婚すりゃいいじゃん」

 そうだそうだ、とアンヌも力強くうなずき、おばあさんは言った。

「亭主が稼いでくるときだけはいい顔して、つらい立場になったら捨てるって、そんなの、世間さまに顔向けできるはずないだろ。あたしが許さんよ」
「ばばあに許してもらう筋合いはねえんだよ」
「ばばあとはなんだ。このあばずれ」
「なんだとぉ?」

 カウンターから飛び出してきた涙子さんがおばあさんを止め、僕がアンヌを止めた。アンヌはかなり怒っていて、僕は妻を抱きしめて耳元で言った。

「涙子さんがそのつもりにならないだったら、僕らにはどうにもできなくない? こんな女性っているんだね」
「……あたしらは他人だからな。うー、しかし、むかつくっ!!」

 他人のためにも怒ってみせる、正義の味方アンヌは大好きだけど、まったく僕らにはどうにもできない。僕はカウンターにお札を載せて、アンヌの肩を抱いて外に出た。
 涙子という名前、あの暗い空気、彼女の境遇にぴったりすぎて嘘みたいなほどだ。「紫蘭」という名前までが、どろどろーっじめじめーっと感じられてきた。

つづく

 

2020/3 復刻・花物語「マーガレット」

花物語

 

三月・マーガレット

 

 

 この雑誌、まだあるんだ。
 少女のころに胸をときめかせて読んだ雑誌が、当時とは表記を変えた名前で書店の店頭に並んでいる。なつかしくて手に取り、知らない名前の漫画家ばかりが並んでいるにも関わらず、雑誌を買った。

 

 漫画からはじまってジュニア小説にはまり、文学作品や大人の小説も読むようになっていった、中学、高校時代。漫画から卒業しない女性もよくいるようだが、私は漫画は読まなくなって、文学少女路線を進んでいった。

 

 高校では文芸部、大学は国文科で文芸サークル。女子校だったのもあって男の子とは縁もなく、まっしぐらに文芸おたく道を歩いてきた。

 

 ところが、就職した会社は文芸とはなんのゆかりもない。今どき紺の事務服を着せられて、町工場の一般事務職だ。国文科を卒業した女子は就職戦線では不利だったから、こんな零細企業しか就職口はなかった。

 

 携帯電話の部品を作っている会社なのだから、独占企業で景気はいい。それだけが救いの会社で、一生働くと決めている。地味な外見の私は恋にも縁がなく、彼氏いない歴三十五年。結婚だけが女の幸せではない、と口にすると、憐みの目で見られなくもないお年頃になった。

 

「ああ、だけど、いいなぁ。胸きゅんだなんて、久しぶりに感じたわ」

 

 両親と同居している家の自室で、漫画を読んではため息をつく。高校生の男女の恋愛ストーリィだ。連載漫画だと意味がわかりづらいので、コミックスを買おうとまで思う。今どきにしては純情な女の子と、彼女をからかっているうちに本気で恋をしてしまう美少年の物語のようだった。

 

「漫画も好きだなぁ。このごろは小説ってときめかなくなってるから、昔に戻って少女漫画にはまろうかな。楽しみもなくっちゃね」

 

 読書以外には趣味もなく、老後のための貯金に励む今日このごろ。コミックスだったら大人買いしてもたいした金額でもない。特にこの漫画、恋園まーがれっと作、「花時間」の世界に心ひかれた私は、ただいま二十巻ほど出ているらしきコミックスを探しに、古本屋に行くことにした。

 

 古本屋というのはせこいかもしれないが、お金は大切だ。同じものならば安いほうを買うのが当然ではないか。完結はしていない漫画なので、古本屋で見つけた何巻かは買い、欠けている巻をネットで探そうと決めた。

 

 ネットの古本サイトで欠けている巻のうちの一部を買い、残りを予約してほっと一息。一巻から五巻まではそろったので、荷物が届くと一晩で読んでしまった。

 

「サクヤさま、突然メールをさしあげる失礼を、お許し下さい。
 「花時間」はいかがでしたか?
 私は古本サイトにも関わりのある者でして、「花時間」愛好サイトを主催しております。
 サクヤさまが「花時間」をお好みでしたら、ぜひサイトを訪問なさって下さいね」

 

 そんなメールが届き、興味があったので覗きにいってみた。
 ハンドルネーム、サクヤ。私の本名は咲耶という、顔に全然似合わない名前だ。ルックスに不釣合いすぎて恥ずかしいのだが、名前は好きだから、文芸部時代からペンネームではなくて本名を使っていた。

 

「花時間」の作者とは無関係、ただし、承諾はもらっているというサイトは、「ラヴ花時間」という。作者ではなくファンが描いたそうな、主人公の桜桃と檸檬のイラストがものすごく上手で、私は感心してしまった。

 

 主人公カップルは女の子がチエリ、男の子がレモン。女の子のほうは、さくらんぼイコールチェリー、チェリーの変形でチエリだそうな。現実にだってありそうな名前だし、漫画なのだからいいのだ。咲耶の名を持つ私は、今どきの子どもの珍奇な名前にだってケチはつけにくい。

 

 名前はともかく、「ラヴ花時間」は楽しいサイトで時間を忘れた。
 貯金が楽しみだった私は、お金のかからない趣味を発見して、毎日うきうき。インターネットの世界にはさして興味を持たなかったのに、ここにははまってしまった。

 

「ファンのみんな、いつもありがとう。
 作者の恋園まーがれっとよ。
 私の本名を知りたいって書き込み、あるのよね。
 マーガレットよ。ペンネームはひらがなにしただけ。
 「花時間」を連載してあげている雑誌は、同じ名前だから仕事を引き受けてあげたの。
 花もマーガレットが好き」

 

 作者の公認サイトであるだけに、時には彼女の書き込みもなされている。この高慢な口調は彼女の持ち味なのか。彼女のファンはM気質の女性が多いようで、この書き込みには、熱っぽいレスがいっぱいついていた。

 

「さて、みなさん、嬉しいお知らせです。
 来る三月十日、恋園先生がオフ会に来て下さいます。
 オフ会に参加したい方は、メールを下さいね。
 あまりにも集まりすぎては先生にご迷惑になりますから、厳選な抽選をします。
 詳しくは当選した方にお知らせしますから、メールしてね」

 

 数日後、主催者の名前で、そんなトピックが立っていた。今まではロムしていた私も、行きたくなる。恋園マーガレットという作者に興味があったわけでもないのだが、あんな素敵な漫画を描く女性はどんなひとだろ、とは思う。

 

 先にネットで検索してみたところ、恋園先生の画像はない。あまり情報もなくて、出版社がもったいぶっているのか、作者が秘密主義なのか、とブログに書いているひともいた。こうなると興味が増幅するではないか。

 

 ファンサイトに集う者たちよ、私の尊顔を拝する機会を与えてやろうぞ。
 下々の女たち、わらわの顔をとくと見るがよい。

 

 そんな台詞を口にして華やかに笑う、ゴージャスな美女。どういうわけか私のイメージは固まってしまった。

 

「どうしようかなぁ、会いにいこうかなぁ」

 

 サイトでは、別にトピックが立ち、オフ会、申し込みました? 当選するといいなぁ、恋園先生に会ったらどうしよう、というような話題も出てきている。抽選は先着順ではなさそうだから、まだ間に合うのだが、私は躊躇していた。

 

「だって、会うとなるとプレゼント……なにか贈らなくちゃね。月並みだけどマーガレットの花束? マーガレットって高かった?」

 

 お金のかかる趣味はいやだなぁ、が本音である。花というものにも縁のない私は、マーガレットの価格を調べようと花屋に立ち寄った。

 

「マーガレットですか。最近はいろんな品種が出てまして、甘い香りのするマーガレットや、八重咲きの花やらもあるんですよ。ほら、こんな花も。珍しい種類のマーガレットはちょっとお高いかもしれませんけど、高価な花ではありませんから」

 

 ベーシックなマーガレットといえば、黄色い花芯に白い花びら、その程度の知識しかなかった私には、花屋の店員さんの薀蓄は新鮮だった。

 

「マーガレットって苗で植えるのね」
「そうです。ご家庭でもガーデニングで咲かせられますよ」
「やってみようかな」

 

 育てやすくて長く楽しめるというマーガレットの苗を買って、帰り道で想像していた。
 恋園先生、ありがとう。あなたの漫画にはまったおかげで、趣味が増えたわ。今年のオフ会には行かないから、来年も来てね。あなたの好きなマーガレットの花をこの手で咲かせて、それを大きな花束にしてプレゼントに持っていくから。

 

 まあ、なんて素敵なブーケ。
 これ、あなたが育てたの? マーガレットのお花畑があるの? 
 見たいわ。あなたのおうちに連れていってよ。

 

 そんなことを恋園先生に言われて、あまたいる他のファンにやっかまれる想像をして、我が家の庭にあるマーガレットの花畑に恋園先生を案内する想像までして、私はうっとりしていた。

 

END

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

ガラスの靴68「母心」

「ガラスの靴」

     68・母心

 ミルクティを三つ淹れて、母と伯母の前にすわる。伯母は母の姉で、会うのは実に久しぶりだ。母は晩婚、伯母は母よりもだいぶ年上で早婚だったので、息子も娘も結婚していて孫もいる。いとこのお姉ちゃんとお兄ちゃんには、小さいときに遊んでもらった記憶ならあった。

「うちの血筋なのかしらね」
「血筋ってなに? おばさんちの息子も専業主夫?」
「男の主夫ねぇ。笙くんはそうなんでしょ。それだったらかえってまだいいかもしれない」

 よく覚えていないので確認したところによると、伯母には四十代の息子、四十代の娘、三十代の娘、と三人の子どもがいるのだそうだ。上から、既婚、未婚、既婚なのだそうで、長男と次女には子どもがいる。

「息子と嫁は同じ大学を卒業してるのよ。結婚したいってうちに連れてきたときには、嫁は普通のOLだったの。子どもができて仕事を辞めて、すこししたらとんでもないことを言い出したのよ」
「あれはたしかにとんでもなかったね」

 母は伯母から聞いていたのだろう。僕も聞いたのかもしれないが、親戚なんてどうでもいいので覚えてはいなかった。

「息子はあのころは一流企業の花形部署で働いていたから、収入もよかったわ。だから、させてやりたいって言うのよ」
「なにを?」
「もう一度音楽の勉強がしたいって。嫁は息子と大学は同じだけど、音楽を勉強していたらしいのね。中途半端に終わってしまったから、ドイツに留学して勉強したいって。子どものころからなにやら楽器はやってたらしいんだけど、ただの趣味だと思ってたのよ」
「耕一くんもまあ、よく許したわよね」

 舅、姑の反対を押し切って、嫁は幼子を連れてベルリンに留学した。僕のいとこにあたる耕一くんは、妻に仕送りをしてやり、時々は妻に会いにいっていた。であるから、二番目の子どももできた。

「外国で勉強しながら出産なんて絶対に無理でしょっ、帰ってきなさいっ、って、私は悲鳴を上げたわよ」
「そうだったわね」

 ところが、現地でお手伝いさんを頼んで、嫁は出産を乗り切ってしまう。耕一さんも手伝いにいき、嫁は留学をまっとうしてから帰国した。

「それからは音楽の仕事をしていたの。私にはもひとつわからない仕事だったけどね」
「アンヌと似た仕事?」
「アンヌさんはロックでしょうが。うちの嫁はクラシックよ」

 ロックよりもクラシックのほうが上? このおばさんは嫁の悪口が言いたいのか、自慢がしたいのか、どっちなんだ。

「クラシックっていうのはなんでも、高尚な音楽なんだから一般受けはしないみたいね。流行歌手だとか、アンヌさんみたいな俗っぽい仕事とはちがうのよ」
「アンヌさんだって簡単に成功したわけではないわよ」
「そりゃそうね。桃源郷なんか私は知らないもの」
「姉さんはおばあさんだもの。年寄りはロックバンドなんて知らないよね」

 ふんっだ、という感じで母が言うのは、このおばさんとおばあさんは、対抗意識を燃やし合っているのか。面白くなってきた。

「アンヌさんはどっちでもいいんだけど、うちの嫁よ。そんなふうだから、お金をかけさせたり耕一に寂しい想いをさせたり、子どもたちをほったらかしにしたりしたあげく、たいしてお金にもならない仕事をしていたの。そのくせ、外国に行くからって耕一に子どもをまかせて、子どもたちにも寂しい想いをさせてるのよ。電話をかけたら孫が出て、お母さんはイギリスに出張してるとか言うの。なにが出張よ」
「仕事なんでしょ」
「仕事ってのはお金になることを言うのっ」

 不満いっぱいの表情で、伯母が続けた。

「だったら同居して、私が孫の世話をしてあげようかって言ってみても、耕一がするからいいって言うのよ。耕一は家事も育児も上手になったし、孫たちはお父さんっ子になったって」
「そこは笙と同じね」
「同じとはいってもね……私は情けなかったわ。そんなだから耕一は……」
「それはあるかもしれないわね」

 そんなだから耕一が……どうしたのかは言わず、伯母は嫁の愚痴ばかりを言っていた。

「不細工な女なのよ。がりがりぎすぎすで、うちに来ても私の手伝いをしようともしない。昔からそうだったからイヤミを言ってやったら、耕一が立ってきて皿洗いをするの。私は実家に帰ったら母の手伝いをするんですから、こちらでは実の息子の耕一さんがするべきですよね、ですって」
「今どきはそうなのよね」

 アンヌには如才ないところがあるので、母が来ているとさりげなくお茶を入れたり、肩をもんでやったりはする。ただし、母はアンヌといると居心地がよくないようで、彼女が帰ってくるとさっさと出ていってしまうのだが。

「耕一は男前なのに、もっと若くて可愛い女の子と結婚できるのに、最初から反対だったのよ、今からでも遅くないわ。母さんが孫たちを育ててあげるから、離婚したら? って言ってみたら逆上したみたいに怒って、あれからは私が遊びに行くって言ってもいい顔しないの」
「姉さん、それは禁句だったかもね」
「どうしてよっ」

 姉妹喧嘩が勃発しそうになったので、僕が横から質問した。

「で、それからどうなったの? 耕一くんはどうしたの?」
「耕一は一家の主人なのに、嫁があんなだから家事や育児にかまけなくちゃいけなくなって、エリートの座からは脱落したのよね。課長どまりだったわ。中間管理職ってのはリストラに遭いやすいらしいのよ。耕一がリストラされたのはみんな、嫁のせいよ」
「じゃあ、耕一くんも主夫になったの?」
「耕一は笙くんみたいなプライドのない男じゃないわ。働いてます」

 横から母も言った。

「工員さんみたいな仕事よね」
「工員じゃなくて技術者よ」

 それでもブルーカラーだろうから、プライドの高い伯母さんは言いたくなかったのだろう。どうせ僕には、男としてのこりかたまったプライドなんかないよ。だから幸せなんだ。

「嫁の収入がよくなったから、生活の心配はないんですって」
「だったらよかったじゃん」
「よくないわよっ!! いつの間にか、嫁の収入は耕一の十倍だって言うじゃない。それに引き換え、うちの次女は稼ぎなんかない専業主婦よ。私も兄さんみたいなものわかりのいい男と結婚してたら、義姉さん以上に稼げるようになれたのに、失敗したわぁなんて文句言ってる。そんなの、私は知らないわ。あんたが選んだ旦那でしょうが」
「上のお姉ちゃんは?」
「ニート」
 
 ニートじゃないでしょ、アルバイトはしてるじゃないの、と母が言ったが、伯母にとってはフリーターとニートは同じらしい。母ってのは子どもがいくつになっても気になるものなのだ。うちの母は主夫の僕を受け入れてくれているのだから、ものわかりのいいひとなのだろう。

「この間、嫁が浮気してるのも見つけたのよ」
「浮気? お嫁さんのケータイでも見たの?」
「ちがうわよ。そんなことはしないわ。パソコンよ」

 遊びにいくと息子は疎ましがるが、お嫁さんは意外に歓迎してくれる。伯母が息子の家を訪ねていくと、テーブルのパソコンが開いていた。

「なにをしていたの?」
「仕事でチャットしていたんです」
「チャット……メールみたいなものよね。相手は男性?」
「そうですよ」

 チャットとはなんだか知らないが、教わるのも悔しいので、伯母はその画面を覗いた。
 さすがだな、僕はあなたを誇りに思うよ。同窓生として、あなたは僕らの理想の星だ、素晴らしい。僕の心にあふれる愛と尊敬を贈ります。
 相手の文面はそんなふうで、ありがとう、私もあなたに愛を贈ります、とお嫁さんは返信していた。

「愛ですって。汚らわしい」
「チャットなんだからジョークみたいなものじゃないの? お嫁さんってなんでそんなに尊敬されてるの?」
「どこやらの国のオーケストラの指揮者に選ばれて、外国でコンサートやるらしいわよ。だから尊敬されてるんだって」
「……すげぇじゃん」

 それはほんとに、アンヌとはスケールがちがう。チャットの文面は大学だか留学先だかの同窓生からのお祝いのメッセージだろう。日本語でやりとりしていても外国人なのかもしれない。

 が、伯母としてはそのすごさがぴんと来ていないようで、またあの嫁は孫をほっといて外国に出張だなんて……だったら私が孫の世話をしてあげるのに……いらないって言うのよ、息子もなにを考えているのか、などなど、延々と文句を垂れ流していた。

つづく


 

 

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