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2019年2月

ガラスの靴42「電話」

「ガラスの靴」

     42・電話

「はい」
「……あんた、誰?」

 誰からかかってきているのかを確かめもせず、笙のケータイが鳴っていたので出た。相手の反応は自然なのかもしれないが、言い方にむっとしたので、あたしは言った。

「あんたこそ、誰だ?」
「この電話、ショウのだよね」
「そうだよ」
「……だから、あんたは誰?」
「ショウの妻」

 相手が息を呑む気配が伝わってきて、しばしの後に電話が切れた。
 なんだ? あたしはまちがったことは言っていない。なんだ、今の女は、と気になったので、着信履歴を見てかけ直した。履歴は電話番号で、笙のアドレスには登録されていない相手のようだ。

「……ショウ、結婚してたんだ」
「してるよ」

 何度か呼び出し音が鳴ってから、女が電話に出た。あたしはミュージシャンだから、声でその人間の年齢はだいたいはわかる。ミュージシャンではなくてもわかるのかもしれないが、声や音にはあたしは敏感なほうだ。

 一見、というか一聴は若いが、三十歳のあたしよりも年上かもしれない。生活に疲れているような色のにじむ声だった。

「ショウのケイタイ、奥さんも勝手にさわるんだ。ショウはいないの?」
「笙はちょっとそこまで買い物。ちょっとだけだからケータイは置いていったんだよ」
「コンビニとか?」
「そうだよ。息子がアイスを食べたいって言うから、買いにいったんだ」
「ショウ、息子までいたんだね」

 笑うしかない、といった調子で女が笑い、あたしは彼女が次になんと言うのかを待っていた。

「ショウが浮気してるって知ってた?」
「知ってたよ」

 嘘だが、ひとまずはそう言ってみた。

「そうなんだ。奥さんも知ってて……ってか、許してるの? それとも、泳がせてるってとこ? ああ、もう、どっちでもいいな。あたしはショウが結婚してるなんて知らなかった。ショウは独身だって言ってたよ」
「どこで知り合ったの?」
「ケータイの出会い系サイトってのかな」

 あの野郎、素知らぬ顔してそんなところに登録していやがったのか。

「ああいうところって、結婚してるくせに遊び相手を探してる男もけっこういるんだってね。聞いてはいたから用心してたんだけど、そんな奴にひっかかってたんだ」
「会ったことはあるんだろ」
「あるよ。ホテルにだって行ったよ」
「そっか」

 胸がむかむかする。
 二十三歳なんだから、独身だったとしたら笙は遊び盛りの年齢だ。そんな若い身空で専業主夫をやり、家事と育児に専念しているのだから、多少はさぼろうと、母親に息子の胡弓を預けて遊びにいこうと、あたしは文句をつけずにいた。

 とにもかくにも息子はきちんと育っているのだし、家が荒れ放題ってわけでもないのだし、あたしは家にいないことも多いのだから、無茶苦茶ではなかったらいっか、だった。

 それをいいことにあの野郎、出会い系サイトに独身だと偽って登録して、どこかの女と遊んでた?
 浮気は絶対に許さない、と言うつもりはない。あたしだって機会があればいい男と寝てもいいと思っている。笙にも機会を作ってやろうと、夫婦交換みたいなことをしかけたりもした。

 しかし、あのときの笙はびびってしまって、アンヌ、助けて、と泣いてすがってきた。相手の女が猛々しくて怖かったせいもあったらしいが、純情だと思っていた笙もやはり、そういうことをする奴だったのか。なにが許せないって、あたしに無断でやっていたのが腹立たしいのだった。

「あーっ!!」
「……どうした?」
「あのさ、あの……あたしのかけた電話って……」

 名前を知らない女が口にした番号は、笙のスマホのものに他ならなかった。

「そうだよ」
「……え、えええ、えええ……嘘。そうだよね。そう。あなたがかけてきてくれたのもその番号からだ。あたし、今、ぼーっと見てたの。ちがうのよ」
「なにを見てた? なにがちがうの?」
「あなたの旦那さん、ほんとにショウって名前?」
「そうだよ。新垣笙」
「あっちゃあ……」

 この女はなにを言っているのだ? わけがわからなくなって黙ると、女も駄る。なにやらぶつぶつ言っている女のひとりごとが聞こえてきた。

「なに言ってんだよ。意味不明だぜ」
「ごめん、まちがえたっ!!」
「はあ?」
「ショウなんて名前……わりとありふれてるよね。あたし、まちがい電話をかけたみたい。出たのが本人だったらまちがえてるって気が付くんだろうけど、あなたが出たから、ショウだって言うから……番号がちがうって気が付いたの。あたしのつきあってたショウは、新垣って苗字じゃないよ」
「はぁっ?!」

 はぁ、はぁっ、としか言えなくなったあたしに向かって、ごめん、ごめんなさいっ、と叫んだ女が、電話を切った。

 本当なのか? あたしは切れてしまったスマホを見つめて考える。
 なにを見て気づいたのだろう。自分がかけている電話番号か。まちがってかけてしまった番号が表示され、ぼんやりと見つめているうちにあれれれれ……となることはあるかもしれない。
 あの慌てぶりは、本当だったのかもしれない。もう一度かけようか、どうしようか、迷いながら、あたしもスマホを見つめ続けていた。

「ママぁ、ただいまっ」
「参っちゃったよ。胡弓ったら、こんな大きいの……」
「食べるもん」
「食べられないって。おなかこわすよ」

 帰ってきた夫と息子が、部屋の中に入ってくる。無理だと言っているのに、胡弓は大きなソフトクリームをほしがり、絶対に駄目!! とは言えない甘いパパが買ってやったらしい。胡弓はソフトクリームを出してもらって嬉しそうになめていた。

「あーあ、ぽたぽた垂れてるよ。さっさと食べないと溶けちゃうんだから」
「……あ、アニメ見る」
「先に食べちゃえって」
「ママ、あげる」
「ほら、どうせそうなるんだからさ」

 ちょっとだけ怒った顔になって、笙は胡弓があたしに差し出しているソフトクリームをばくっと食べた。ママにあげると言ったくせに、パパが食べたぁ!! と胡弓が泣き声を出す。
 平和な一家団欒。こんなパパの顔、いや、ママみたいな顔をしている奴が、浮気なんか、遊びなんかしないよな。だけど、よそのママだって子どもの前では母の顔そのもので、実はこっそり……なんてこともあるのかもしれなくて。

 もしかしてもしかして、あたしにこんな疑心暗鬼を持たせるために、笙を好きな女がまちがい電話を装ってかけてきたとか? そいつは笙に片想いしているのか。それとも、本当に浮気相手なのか。

「どしたの、アンヌ? 怒ってる?」
「ママぁ……アニメ」
「胡弓、わがまま言ってパパを困らせるんじゃないよっ」
「……ええん、パパぁ、ママこわい」
「怖いねぇ。よしよし、ごめんなさいしようね」

 のほーっとした笙を見ていると、そんなことがあるわけもないと思えてくる。胡弓はパパに抱きついてあたしを怖そうに見る。これではやっぱりパパとママは反対で、なのだから、我が家では浮気をするとしたらあたしのほうだ。パパは貞淑な人妻のはず。なんたって専業主夫なのだから。

つづく

ガラスの靴41「紹介」

「ガラスの靴41」

     紹介


 不規則な生活なのは仕事柄しかたがなくて、その上にメンドクサがりだから、いつ帰ってくるとの連絡をアンヌはあまりしてくれない。あの日も夜中に急に帰ってきた。

「今夜は泊まりじゃなかったの?」
「あたしが帰ってきたらいけないのかよ」
「ううん、嬉しいよ」

 鍵を外してドアを開け、アンヌに抱きつこうとしたら、うしろにぬぼっと立っている人物がいた。アンヌからはお酒の匂いがする。飲み屋で仲良くなった見知らぬ人同然の相手を連れてきたり、友達を連れてきたりするのも頻繁な奥さんなのだから、僕は驚きはしなかった。

「いらっしゃい。……あれれ?」
「カンナ、いっぺんうちに来たんだってな。なんで言わないんだよ」
「いや、あれは……」
「お邪魔します」

 蚊の鳴くような声とはこれだろう。巨体を縮こめた女の子が、アンヌのあとからうちに入ってきた。

 二、三ヶ月前だったか、息子の胡弓を連れて公園へ行き、マンションに帰ってきたらカンナさんと遭遇した。突然胸倉をつかまえてつるし上げられて、僕はパニックになり、胡弓はびっくりしすぎて泣くのも忘れている様子だった。

 暴漢なのだから警察を呼んでもよかったのだが、漢ではなく、暴女だったのもあり、なにやら事情がありそうなのもあって、僕は彼女を家に通した。

 まだ若い彼女は身体は大きくても幼い感じで、訥々と語ってくれた。
 もっと若かったころにアンヌのバンドのファンだった。アンヌのバンドのメンバーたちはカンナを馬鹿にしたけれど、アンヌは優しくしてくれた。

「あたしは男は嫌いだ。結婚なんかしない。カンナはまだ高校生なんだから無理だけど、あんたが大人になってあたしみたいに背が高くてかっこいい女になったら、恋人同士になろうよ」

 そんなことを言われて舞い上がってしまい、その台詞を真に受けていたのに、アンヌは僕という男と結婚してしまった。
 要は逆恨みのようなもので、僕を襲ったのであるらしい。
 いくら大きくても女の子だからなのか、こんな僕にもカンナを阻止することはできた。カンナはうなだれて帰っていったのだった。

 そのいきさつをアンヌには話していない。暴漢……ではなくて暴力女をなだめて帰らせたのは一種の内助の功で、内助の功とは妻には内緒でやるものかな、と思ったからもあった。

「その話はカンナに聞いたよ」
「……笙くん、あのときはごめんなさい」
「いいんだけど……再会したの?」
「あたしはアンヌが昔に言ったみたいな、かっこいい女になんかなれなかったから、会いたいような会いたくないような気分だったんだけどね」

 現在のアンヌのバンド「桃源郷」がライヴをする店の近くをうろついていて、カンナはアンヌと会ったのだそうだ。「桃源郷」は人気はあるとはいえ、大スターでもないので、ファンと触れ合う機会もけっこうある。

「アンヌ、すぐにあたしだって気づいてくれて……」
「そりゃそうだよ。カンナ、変わってないもん」
「ごめんなさい……」
「泣くな、あやまるな。笙、カンナになんか食わせてやれ」
「はい」

 どうして泣いたりあやまったりしているのかといえば、アンヌと約束したのに……かっこいい大人の女になるって言ったのに……ちっとも変われなかったから、なのだそうだ。何度も何度もそればかり言ってカンナが泣くので、我が家に連れてくるしかなかったとアンヌは苦笑いしていた。

「カンナは大きいけど、可愛いよ。な、笙?」
「うんうん。可愛いよ。残り物で悪いけど、アヴォカドの入ったポテトサラダ、好き?」
「大好き」

 泣き止んでポテトサラダを食べ、アンヌと話してはまたまた泣き、その夜はうちに泊まったカンナは、翌日になってアンヌに送られて帰っていった。

 クリーニング屋さんで働いているというカンナは、正直、ごつくて可愛いとは思えない。けれど、中身は子どもっぽくて可愛くなくもない。僕から見れば身体ばかり大きくても、胡弓と変わらない幼児のようだ。なのだから、可愛いと言ったのは内面についてだった。

「だからさ、さっきから言ってんじゃんよ」
「……だけど……」

 それから一ヶ月ほどがすぎた今日は胡弓を母に預けて、僕はショッピングに出かけていた。たいした荷物はなかったので、実家に寄って胡弓を引き取り、母が作っておいてくれたおかずを持って帰ってきたら、びっくりしたことにアンヌが先に帰宅していた。

「わっ、カンナ、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
「また買い物か? カンナの分もメシ、あるか?」
「うん、あるよ。急いで支度するからね」

 支度ったってもらってきたんだろ、と笑っているアンヌとカンナの会話を聞きながら、僕はお総菜を盛りつけたり、ごはんをあたためたりに取り掛かった。

「カンナは自分がでかすぎて自信ないって言うけど、ほんとにおまえがブサイクだとか思ってるんだったら、その女が男を紹介してやろうって気にはならないだろ」
「そ、そうかな」
「そうだよ。その女はカンナの仕事仲間で、あんたの性格も知ってる。ま、はっきり言ってカンナは細いとはいえない。華奢だとも言えない。けどさ、大柄で太目の女が趣味だって男はいるんだよ。あんたに男を紹介してやろうって女は、その男の趣味も知ってるわけだろうが」
「……そりゃそうだよね」

 この自己肯定感に乏しいカンナは、あたしなんかを紹介された男のひとは迷惑なんじゃないのかな、とうじうじしていたらしい。そんなカンナをアンヌが励ましてやっているので、僕も言った。

「いるよ、デブ専って男……いやいやいや、カンナはデブじゃないよね。筋肉質のごつい女……そうそう、プロレスラーと結婚する男だっているんだから……いやいや……カンナは若いし、そうそう、性格もいいし、ね、アンヌ?」
「おまえは黙ってろ」

 ぎろりと睨まれてアンヌにげんこつで頭を叩かれたが、僕の激励の言葉も効果があったらしくて、カンナはその男に会うつもりになったらしい。
 あれ、どうなったかな、どうなったんだろな、とアンヌも僕も楽しみにしていた。アンヌはカンナの話を聞くために、我が家に報告にこいと言ったのだそうだ。

「アンヌはほんと、カンナのことが可愛いんだよね。ほんとに恋してる?」
「恋はしてないんだけど、なんだか気になるんだよな」
「わかるな。僕も母性本能をくすぐられるもんね」
「紹介された男が笙みたいな奴で、母性本能を持ってたらいいんだよな。そしたらカンナとうまく行くんじゃないかな」

 約束の時間から一時間ほど遅刻して、カンナがやってきた。玄関には僕が出迎え、カンナの顔を見た途端にぎくっとした。

「暗っ……まあ、とにかく入って」
「う」

 この顔はうまく行ったとは思えない。ダイニングルームに通したカンナを見たアンヌも察したようで、遅いだろとも言わずにウィスキーの水割りを作りはじめた。

「紹介してくれたひとって、主婦なんだよね。三十くらいなのかな。学歴がないからクリーニング屋でバイトするくらいしかできないって言ってるけど、美人だよ。旦那もけっこうイケメンなの。その旦那の友達っていう男のひとを紹介してくれるって、アンヌには話したよね」
「うん、三十すぎなんだろ」
「あたしよりは十近く年上だって」

 意外になめらかにカンナは話した。

「へぇぇ、これ?」
「そう、これ」

 男を紹介してやると言った夫婦の家に呼ばれたカンナを見た、その男の第一声はそれだった。へぇぇ、これ? じろじろとカンナを眺め回し、彼は第二声を発した。

「悪い、俺、用事を思い出したから帰るわ」
「えええ、そんなぁ。ごはん食べていかないの?」
「そんなに急いで帰らなくても……カンナちゃんと話していけよ」
「いや、急ぐんだ」

 男はそそくさと帰ってしまい、主婦は言った。

「しようがないな。そしたらカンナちゃんだけでも、ごはん食べていくよね」
「う、ううん、だったらあたしも帰る……」
「そぉぉ? なんだか悪かったね」
「ううん、いいの。あ、トイレ貸して下さい」
「どうぞ」

 呆然としてしまっていたので、カンナはトイレと洗面所を借りおのれを落ち着かせようとした。顔を洗おうと洗面所の鏡の前に立ったものの、行動を起こせなくてぼーっとしたままでいたカンナの耳に、夫婦の会話が届いてきた。

「やっぱそうだったか。それにしても露骨だよね」
「だから俺が言ったろ。あの女じゃな……」
「わかってはいたけど、もうちょっと話くらいはするとか……」
「そんな気になるわけないだろ。おまえの友達だって言うから、おまえに近い美人だって想像してたんじゃないのかな」
「そしたら、想像とちがいすぎて帰るしかなくなった、と」

 ふたりしてくくっと笑い、カンナはいっそう動けなくなった。

「俺だってびっくりしたもんな。あそこまでだとは思わなかったよ」
「……そうかなぁ。あれであの子、可愛いところもあるんだけどな」
「な、おまえさ……実はさ……」
「ええ? まさか。あたしはそんなに意地悪じゃないもん」
「そうかぁ……ま、そういうことにしておこうか」

 実はさ……のあとの言葉は聞こえなかったが、聞こえないほうがよかったんだろな、とカンナは呟いた。話を聞いているアンヌの表情がどんどん険しくなっていき、低い声で言った。

「そいつら、カンナに聞こえてもいいってか、聞かせようとしてたんじゃないのか」
「さあね」
「……男を紹介してあげるって台詞が出るのは、そういう意図もあるんだな。あたしは案外人がいいんだ。そんな悪意を秘めて人に人を紹介するって……カンナ……」
「いいんだ、いいよ、うん、いいんだ」

 歯を食いしばって泣くまいとしているカンナに、アンヌとしてもかける言葉が見つからないらしい。おい、笙、なんとか……と言いかけて、アンヌはかぶりを振った。おまえは黙ってろ、との意味らしいから、僕も黙って台所に立っていく。せめてカンナにおいしいものを作ってあげよう。

つづく

 


 

フォレストシンガーズ・短歌俳句超ショートストーリィ2019/2

フォレストシンガーズ

超ショートストーリィ


 醜貌コンプレックスなんてものは、神代の昔からあったのだろう。平安時代には物語にもあらわれると教えてくれたのは、國友の先輩の乾隆也だった。

「末摘花って知ってるだろ」
「源氏物語ですよね」
「そうだよ」

 鼻の先が赤い。そのせいでついたあだ名のような名が「末摘花」。花と鼻をひっかけてあるらしい。

 古代女性の名前は、歴史に残っていない場合が多い。誰それの娘だとか、官位だけだとか、誰かの妻だとか姉だとか妹だとか、あるいは通り名だとか。家系図にすらも、「女」としか記されていなかったりする。

 そんな時代の女性、末摘花。彼女は物語の登場人物なのだが、國友としては感情移入してしまった。
 赤い花、紅花は國友の故郷である山形県の県花だから、もあったのかもしれない。

「くれなゐのひとはな衣うすくともひたすら朽たす名をし立てずば」末摘花

 稚拙な歌だって評判だけどね、と言いつつ、隆也の教えてくれた和歌が思い出される。

 背が低くて引っ込み思案で、無口だとか暗いだとか言われて、恋人どころか友達もほとんどできなかった僕。大学生になってようやく、度胸を振り絞って三つ年上の女性に告白し、恋人同士になれた。

 天にも昇る心地はあっけなく砕かれて、ほんの数ヶ月で捨てられてしまった。
 自分の顔のことはあまり考えてなかったけど、男としては背が低いってのは不細工以上のコンプレックスだよ。僕の背が低いからいやだって言うんだったら、最初から美江子さんは僕の告白を受け入れてくれなかっただろうけど。

 でもやっぱり、それだってあるのかな。
 つきあってみたら僕が小さすぎるのにうんざりして、告白を受け入れたことを後悔した。だから傷が浅いうちに僕を捨てた。それも美江子さんの優しさだと考えるしかないのか。

 ぐずぐずうだうだ、考えながら歩いていたら涙がこぼれてくる。
 二月の風が國友の頬に冷たく吹きつける。故郷に帰って紅花に頬を寄せて、癒してもらいたくなってきていた。


KUNI/19/END

 

ガラスの靴40「頂戴」

「ガラスの靴」

     40・頂戴


 孫ほどの年齢の寿美香さんと結婚し、結婚したからにはこっちのもんだとばかりに、妻には金銭的な自由だけを与えて自分は好き勝手にすごしていた、六十五歳の宗十じいちゃん。

 妻のスミカさんに言わせるとそんな男だった宗十さんが、近頃すこし変わったのだそうだ。

 アンヌの友達の妹だから、アンヌはスミカ&宗十の結婚式に出席した。僕は招かれなかったので息子の胡弓と留守番していたのだが、スミカさんとはそれからはちょくちょく遭遇した。変なアルバイトを持ちかけられたこともあるのだが、あれはもう終わったのだろうか。

 アルバイトに関してはちょっと気になるが、こっちから言い出すのも浅ましいだろうから黙っている。そんなスミカさんが近頃、我が家に時おりやってくるようになった。

「なんでだかは知らないの。じいさん、浮気してたのが終わったからかもしれないんだけど、このごろはわりにうちに帰ってくるんだよね。そうするとうまいものが食いたいって言って、スミカは料理が下手だから料理教室に通えって言われちゃって、めんどくさいんだけど言うこと聞いてるの。教室の近くのブランドショップに寄ってもいいって言われたから、帰りにはいつも買い物できるしね」

 ブランド品目当てに料理教室に行っているらしきスミカさんが、友達を連れてくるようになった。その友達というのが睦子さん。コマダム寿美香とはまったくタイプのちがう、平凡なおばさんだ。

「むっちゃんは料理教室のアシスタントなんだよ。料理はうまいの。笙くんも料理はうまいし、この家には面白いものがたくさんあるって話したから、むっちゃんにも見せてあげたくて」
「はじめまして。笙さんって桃源郷のアンヌさんのご主人なんですってね」
「ご主人はアンヌさんのほうだけどさ」

 暇なときならば我が家で三人で料理をするのもいい。僕は決して料理は嫌いではなくて、笙のとりえは綺麗な顔とメシだな、とアンヌには言われている。なのだから、暇なときに主婦仲間と料理の話をしたり、我が家のキッチンで一緒に料理したりするのもいやではなかった。

「主夫って大変でしょ」
「主婦よりも大変かもね」
「スミカちゃんは大変じゃない主婦よね。なんたってお金持ちだもの」
「金はあってもね、大変ってのの質がちがうんだよね」

 好きで四十二歳も年上の男と結婚したんでしょ、と、睦子さんと僕の台詞がユニゾンになった。
 主夫である僕は現代日本では希少なほうの人種だろう。芸能界などではうんと年上の男と若い女の夫婦もしばしばあるとはいえ、四十二歳差は希少だ。

 希少な二十代がふたり。ごく普通に職場恋愛をして、二歳年上の男性と結婚してパート主婦になったという、現代日本ではかなり多数派の主婦であろう、四十代の睦子さん。一ヶ月に一度くらい、僕の家で三人で料理をして食べてお喋りして……とやっているうちには、睦子さんの境遇も知れてきた。

「パートをしててもうちは貧しいのよ。旦那はたいした稼ぎもないし、娘は私立の高校に通ってるからお金がかかるし」
「エンコーさせたら?」
「スミカちゃん、とんでもないこと言わないで」

 高校時代にはやっていたらしいから、スミカさんがエンコーなんて言うとシャレにならない。最近は流行らないのかな、とスミカさんは首をかしげるが、やってる女の子はいなくもないってか、男の子にもいなくもないってか、であるらしい。

「スミカちゃんは文句を言ってても、旦那さんが自由にお金を使わせてくれるんだからいいじゃない。笙くんはもちろん、稼ぎのいい優しい奥さんと可愛い息子さんがいて幸せよね。私なんかサイテー。もしも離婚したらもう二度と絶対に再婚はしない。娘は生意気だけど可愛いから、ふたりで生きていくわ。結婚なんかこりごり。男なんかもういらないわ」
「あたしはじいさんが死んだら、若い男と再婚したいな」
「遺産を狙われるわよ」

 物騒な話なんかもして、そうして親しくなっていくと、睦子さんが言い出した。

「笙くんちのキッチンはおしゃれよね。笙くんの趣味?」
「僕の趣味もあるけど、お母さんの憧れだったんだって。僕の両親も睦子さんと似た感じで、あのひとたちはもうちょっと年上だから見合いらしいけど、見合い結婚してパートもやって、お父さんは安月給で家も狭い。だから、おしゃれなキッチンなんか望めなかったらしいんだよね」
「うちのママもそうだよ。ソウジュウじいちゃんが親にも家を買ってくれて、ママはキッチンをおしゃれにできて喜んでる。主婦っておしゃれなキッチンが夢なんだね」
「あら、スミカちゃんの実家のキッチンもこんな感じ? いっぺん見たいわぁ」
「そのうちにね」

 なぜか冷たくスミカさんは応じ、僕は続けた。

「僕は別にキッチンなんかおしゃれじゃなくてもいいし、アンヌはなんにもしないからどうでもいいみたいだけど、お母さんがあれこれ買ってくるんだよ」
「使ってる?」
「まあ、一応ね」

 大小さまざまなパスタケースも、母が買ってきてくれたものだ。食べることにはたいした興味のない胡弓はイタリアンなら大好き。我が家のメニューにはパスタが多いので、ケースも使ってはいた。

「めんどくさいから袋のまんまで、棚に入れちゃったりもするけどね」
「……素敵だわぁ。ちょうだい」
「ん、ほしいの?」

 なんとなくスミカさんの表情が動いたように見えたが、その意味はわからなかった。

「こんな素敵なもの、ちゃんと使わなかったらもったいないわよ。たくさんあるんでしょ。ひとつちょうだい」
「まあいいけどね」
「嬉しいっ!!」

 これとこれ、ちょうだい、マカロニが入ってるの、出していいわよね、といそいそと、使っているパスタケースまでも空にして、睦子さんは三つのケースをしまい込んだ。
 あつかましいなぁ、とは思ったのだが、高いものでもなし、僕は別にいらないんだし、ケチくさいことを言うのもなぁ……と思い直して、いいよいいよと笑っておいた。

 それが悪かったのか、睦子さんは来るたび、これちょうだい、あれも使ってないんだよね、もらっていいよね? と勝手に決めて自分のバッグにしまい込む。駄目だと言うほどのものでもないし、釈然としないままにあげていた。

「アンヌさんってミュージシャンだもんね。音楽の……なんていうのかしら。音楽に使うものもいろいろあるんでしょ」
「そりゃああるよ」
「見せて」
「駄目っ!!」
「なんでよぉ」

 音楽機器の危機は阻止しなければならない。そんなものを奪っていかれたら僕がアンヌに殴られる。不満そうにしていた睦子さんは、だったらこれでいいわ、と、以前に母がくれたのを使わずにしまってあった調味料入れセットを取り上げた。

「これならいいんでしょ」
「……うん、まあね」

 このたぐいの話をしていると、スミカさんは不気味に沈黙している。睦子さんを止めてもくれず、聞こえていないふりをしているのだった。

「なんかたくらんでた?」
「たくらみはしないけどさ」

 いつだってスミカさんには睦子さんがくっついてくるので、ふたりで話したくて電話をかけた。僕が訊きたいことは即座にわかったようで、スミカさんは言った。

「笙くんはなんたって男だから、そういう変なプライドはあるんだよね。それほど大事にしてるものじゃなかったら、あげちゃうんじゃないかと思ったの。あたしはちょうだいって言われるとむかつくから、使っていないものでもあげたくないんだよ。だからここに連れてきたの」
「ああ、そう。いるらしいよね。くれくれって言うひと」
「むっちゃんは典型的だよ」
「まぁ、使ってないものはいいけどさ」

 電話のむこうでむふふと笑って、スミカさんが続けた。

「そのうち、アンヌさんもちょうだいって言われそうだね」
「僕じゃなくて?」
「だって、睦子さんはいっつも言ってるじゃん。男なんてこりごり。旦那なんかもういらない。笙くんはいいわねぇ。私も稼いできてくれる女のひとの主婦になりたいわって」
「言ってたね」
「だったら笙くんじゃなくて、アンヌさんをほしがるよね」

 いくら睦子さんがほしがっても、アンヌは僕と離婚して彼女と再婚はしない、というか、法律上もできない。そこは安心だが。

「どっちがいい? 笙くんがほしいって言われるほうがいい?」
「どっちもいやに決まってるでしょっ!!」

 なにもたくらんでないなんて嘘ばっかりで、睦子さんのほしがり病を僕に押しつけようとしたのは明白なスミカさんは、電話のむこうでむふむふ笑っていた。

つづく


 

 

195「ミート・ジャストミート」

しりとり小説

195「ミート・ジャストミート」

 練習を終えて宿舎に帰っていく選手たちを、メディアの記者たちが取り囲む。スター選手は大きな輪に囲まれているが、誰ひとりとして近寄らない選手もいる。大田有美はそのうちのひとり、宝野選手に近づいていった。

「お疲れさまです」
「あ、ああ。えーっと……?」
「日刊国際野球の太田と申します」
「日刊国際野球?」
「ごぞんじないでしょうね」

 来日して暮らしている外国人は大勢いる。プロ野球の隆盛な国はさほどたくさんではないが、南米アメリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアなどにもプロチームはあり、人気もある。短期、長期に関わらず日本に滞在している外国人プロ野球ファンのための新聞が「日刊国際野球」だ。

 英語、韓国語、中国語、日本語、の四つの版があるにすぎないので「国際」ははったり気味でもある。創刊してからの日も浅く、部数もきわめて乏しく、有名なスポーツ新聞の記者にだって知られていないのだから、宝野が知らないのは当然といえた。

「去年の春に入社して、外に出て取材をするのは初仕事です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
「キャンプ初日はいかがでしたか」

 社は人手不足でもある。日本プロ野球十二球団の全キャンプ地に記者を派遣するほどの社員はいない。よって、各エリアで担当者を決めてかけもちで取材している。有美は新人なので、今年はこのチームだけの担当にしてもらって、しっかり取材しろと命令されていた。

 事前に調べたところでは、このチームは一軍、二軍の区別をせずに、全選手がここで二月のキャンプを張っている。手始めに宝野に声をかけたのは、有美と似た境遇なのかもしれないと思ったからだ。

「バス、あれですか」
「そう。育成はスタッフたちと同じバス」
「そうなんですね」

 かつてはプロ野球には有美はさほど興味はなかった。嫌いではないが、通りいっぺんの知識しかない。スポーツ自体が特別に好きというのでもなく、大学に入学したのも大方の学生と同じく、卒業するまでにやりたいことを見つければいい、との気持ちでだった。

 卒業するまでにやりたいことが見つからなかったら、一般企業の一般職として働いて、早めに結婚できたらそれもいい。派遣でもいいし、契約社員とかって手もあるし。

 のんびり考えていたのだが、両親の母親、つまり、有美の父方と母方の祖母があいついで病気になって入院してしまった。父と母は相談し、故郷に帰ると決めた。両親は関東の田園地帯の出身で、幼なじみなので郷里が同じだ。有美はひとりで東京に残ってがんばって大学に通いなさい、ということになって、ひとり暮らしになった。

 ひとり暮らしになるとのんびり具合に拍車がかかり、学校に行かなくなった。大学二年の年には母方の祖母が、三年生になれなかった年には父方の祖母が亡くなり、有美もそれなりに忙しくなった。

「はあ? 有美はまだ大学二年生なの?」
「本当は四年生だろ。ちょっと目を離していたら二年も留年したのか」
「なにをしてるんだか。そんなんだったら大学なんかやめて、有美もこっちで私たちと一緒に暮らしなさい」

 父も母も翻訳家なので、田舎でも仕事はできる。五十代の両親は故郷で暮らすと決め、都会では真面目にやらないなら有美も来なさいと言う。有美としては田舎暮らしは避けたくて、このままひとり暮らしを続けたかった。

 かといって、二年も留年した大学に残りたくもない。大学中退で仕事が見つかるだろうか? 専門学校に入学し直そうか、なにかの資格でも取るか、と考えていたら、先輩が「日刊国際野球」を教えてくれた。大学中退? 学歴なんかどうでもいいんだよ、うちには高校中退もいるよ、ということで、面接に行ったら採用してもらえた。

 かくして有美は、大学を卒業する予定だった年に、中退でスポーツ新聞の記者になった。

 一年弱の間はプロ野球というものについて学んだ。「日刊国際野球」は世界各国のプロ野球を扱っているとはいえ、有美の担当は日本だ。外国のプロ野球に関しては、ものすごくマニアックな知識や取材技能を持つ先輩たちがいるので、有美の出る幕は当分、なさそうだった。

 ひとつのチームをまかせてもらって、初の春のキャンプ取材。有美は育成選手に目をつけていた。

 育成ドラフト枠というものがあって、通常のドラフトとはややちがった意味で指名されるのが育成選手だ。テスト入団やドラフト外、外国人選手なども含まれる場合がある。育成選手たちは二軍選手とも別にして鍛えているチームもあるが、有美の担当チームでは一軍も二軍も育成選手も全員が、同じキャンプに参加していた。

 宝野直純、高校三年生の年にプロ野球選手志望の届け出をし、ドラフトで指名されるのを待っていた。が、声はかからず、実業団に入社する。二十歳で育成ドラフトとして指名され、去年のドラフト八位で入団した。

 野球選手にすれば小柄なほうで、長身の有美よりも背の低い外野手だ。私と似てるなんて言ったら彼は怒るかもしれないけど、回り道したところは似ていない?
 マイナーなスポーツ新聞社だけあって、マイナーな選手に注目するのも許されるはず。スター選手は放っておいてもいいし、第一、おいそれとは近づけない。今回は育成選手に注目しよう。

 そのつもりで見ていると、育成選手は何人かいる。体力や年齢に合せて、チームが作った練習メニューを、それぞれがこなしている。ベテラン選手や大スター選手は、各自の裁量にまかされている部分もある。こうしてみろよ、とコーチに言われた若手のスターピッチャーが、僕にはそれは向きません、と堂々と断っていたりもした。

 年俸次第ですべてが変わるようなところもある世界だ。一軍と二軍、育成、各選手たちの待遇が露骨なまでに差別的なのは、そうしてこそハングリー精神が生まれるからだと、有美の先輩記者が言っていた。なにくそ、俺だってスターになって一億の年俸をゲットするんだ!! その気持ちが大切なんだと。

 泥臭い根性論のようなものもある世界だ。時にはげんなりもし、時には面白いと感じ、有美もだんだんプロ野球が好きになってきていた。

「宝野、彼女?」
「そんなはずないでしょう。スポーツ新聞の記者ですよ」
「へぇぇ。こんな若い女の記者がいるんだね」

 取材をしていると、知らない男性にからかわれたりもする。トレーナーですよ、だとか、バッティングピッチャーです、などと宝野が教えてくれた。

 本日のメニューが終了したあとでも、残って練習している若手がいる。宿舎の近くを走っていたり、庭で素振りをしていたりする選手もいる。ドラフト一位ルーキーは休日にはファンサービスのために当地の観光スポットで取材を受けていたが、宝野は休日返上で練習していた。

「俺なんかにつきまとうって、有美さんは酔狂だな」
「つきまとうとは、ものすごく失礼な言い方だね」
「つきまとってるんだろうが」
「いやなの?」
「いやだったら追い払ってるよ」

 いつしか友達同士みたいな口をきくようにもなった。

「でもさ、そんなに俺につきまとっていたら、他の取材ができなくない?」
「有名な選手は同業他社が扱ってるんだから、適当でいいんだよ」
「有名な選手が適当で、俺がメイン? あんたんとこの新聞、売れないだろ」
「売れないね」

 育成選手を追って、みたいなタイトルの記事は、宝野直純が主役になった。
 一般的な記事も書かなくてはならない。有美は新米なので下手な記事を書き、ファックスで編集部に送ると、デスクから、ボツ、書き直し!! との命令が届くこともある。慌ただしくも充実したキャンプ取材になった。

「わ!! 宝野くん、育成から支配下登録されたんだ」
「宝野って、有美が取材した選手だろ」
「そうです。ほら」

 シーズンに入って宝野が二軍の試合に出たときには、我がことのように職場で自慢した。それから数日後には。

「宝野くん、ついに一軍の試合ですよ」
「そうみたいだな。有美が応援した甲斐があったじゃないか」
「取材してきます」
「ああ、行け」

 二月のキャンプから半年、久しぶりで宝野に会った。宝野は有美を憶えていて、ぶっきらぼうに歓迎してくれた。

「有美さんの記事、スクラップしてあるよ。あの記事は俺のハートをジャストミートしたんだ」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
「給料上がったらおごるからね」
「うん、楽しみにしてる」

 あの宝野選手が一軍の試合でヒットを打った、という記事を書けますように、とも有美は願っていた。

「ああ……宝野につきまとってた記者さん」
「つきまとってたって……山根さんまで人聞きの悪い。私はそんなに目立ってました?」
「ってか、俺はね……」

 試合スタート前に宝野に取材し、がんばってね、と激励してから社に戻ろうとしていると、キャンプの際に見かけたベテラン選手に声をかけられた。

「キャンプのときってファンの人も、選手にサインをもらったりできるだろ。マスコミの人も選手に取材しやすい場合もある。機嫌の悪い奴もいるかもしれないけど、名前の通った選手はたいてい、マスコミに囲まれてるよな」
「そうでしたね」

 ベテランピッチャーの山根はユニフォームではなく、ワイシャツと紺のパンツという私服でいる。四十歳だというのだから、相当なキャリアの持ち主だ。どうしてそんな服装でここにいるの? 疑問もあったので、質問のチャンスを窺いつつ球場の外に出ていった。

「俺に質問する記者はひとりもいない。ファンの人も、誰だっけ? こんな奴いたっけ? スタッフじゃないの? って態度だったりする。時々ぱらぱらっと、昔の俺を知ってるファンがいて、三回ほどはサインを頼まれたけどね」

 キャリアが長くても山根は決してスターではない。敗戦処理や大勝している試合の中継ぎが主な仕事だ。

「俺だってルーキーの年だとか、ちょっとは活躍したときには取材もされたな、なんてね、スター選手が囲まれてるのを見るとひがみっぽくなるんだよ。育成選手はほとんど取材もされないのに、宝野にはいつもあなたがつきまとっていたから、見てしまっていたんだね」
「見られていたとは知りませんでした」
「俺も育成になったよ。降格。そろそろ引退かな」
「あ……」

 なんと応じればいいのか、咄嗟には言葉が見つからないでいる有美を残して、山根は立ち去った。

 そうだ、育成選手にはもう一種類いるのだ。
 支配下登録選手から育成に降格した者。宝野のように若ければ、輝くはずの明日を目標に励めばいいのだが、宝野の二倍の年齢の山根だと、近い将来を悲観したくもなるかもしれない。引退勧告、自由契約ならまだしも、あの年齢の選手を育成に降格させるとは、球団も残酷だ。奮起を促すためにしたって。

 若い育成選手、特に宝野直純を取り上げた有美の記事を、山根は読んでくれたのだろうか。
 宝野のハートにはジャストミートだったというあの記事は、山根にはどんな想いをもたらしたのだろうか。

次は「と」です。


 

ガラスの靴39「主婦」

「ガラスの靴」

     39・主婦


 運動は嫌いだ、ジムになんか行きたくない、と反抗すると、そしたら離婚だなんて脅される。
 なのでいやいや行っていたのだが、ジムに脅威がいると知って、アンヌも考え直してくれた。

「おまえを狙ってる女か。いてもおかしくはないわな。だったら笙、エステに行け」
「メンズエステ?」
「メンズって男が行くエステだろ。おまえは女みたいなものなんだから、女向けのエステにしろ」

 これでも僕は男なんだけどなぁ、と思ったのだが、メンズエステだと脱毛だとか筋肉だとか方面になるのだろうか。僕には髭も体毛もないし、筋肉にも興味はないので、アンヌの言いつけに従ってレディスエステにした。

 ダイエットとボディメイク。僕だったら女性向けのコースでもいいということで、エステはジムに較べれば楽で快適だ。あんたがエステに? 専業主夫って大変なのね、と母は言い、息子の胡弓を喜んで預かってくれた。
 大変だと母が言うのは、主夫の僕は綺麗でいなくちゃアンヌに捨てられてしまうからと話しているからだろう。普通、男はね……でも、笙は普通じゃないんだものね、と母は肩を落とす。

 嘆かわしい、と言いたがる父も、だいぶ諦めてきているようだ。

 ベッドのようなものに横たわり、優しいお姉さんにマッサージをしてもらう。僕には脂肪はあまりないけれど、ダイエット効果のある薬品で腹部をもみ出してもらったりもする。フェイシャルコースもお願いして、新垣さまはお肌が綺麗、うらやましいわ、と言われたりもした。

 そうしているのはいい気持ちだったのだが、やはり多少は運動も必要らしい。引き締めるためにちょっとしたダンスをしましょうと誘われて、エステに併設しているスタジオへと連れられていった。

 筋肉質で強そうな先生と、力のなさそうな女性の生徒たちが四人。僕も含めての五人が先生の指導でダンスレッスンをする。男性向きのトレーニングよりは楽しくて、これだったら続けられるかな、と思っているうちには、仲間の四人の女性とも親しくなっていった。

「ヨシミちゃん、新婚生活はどう?」
「専業主婦だよね。家事は完璧にやってるの?」
「得意料理ってなに?」

 そのうちのひとり、ヨシミさんは最近結婚したらしい。ウェディングコースがよかったからとこのエステに通っているのだそうだ。

「ええ? 家事なんかしてないよ」
「してないって言ったって、ちょっとはするんでしょ。掃除は?」
「洗濯なんかは?」
「いくらなんでも料理はするでしょ」

 他の三人はヨシミさんよりはベテランの主婦だ。このコースは若い女性、しかも主婦限定らしい。僕は女性ではないが若いし、主夫でもあるのでここに混ぜられているのだった。

「料理なんかしないの。だって、うちの旦那さまは食べることに興味ないんだもん」
「にしたって、食べるんでしょうが。なに食べてるの?」
「朝は食べない。昼は会社で食べてる。夜も外食がほとんどかな。家で食べるのはおつまみくらいだよ」
「おつまみは作らないの?」
「ナッツとかチーズとかだもの。買ってくるの」
「ヨシミちゃんはなにを食べてるの?」
「テキトー」

 根掘り葉掘り、主婦たちはヨシミさんとその夫の食生活について質問する。今どきの金持ち主婦にはヨシミさんみたいのもよくいる。僕だってアンヌがいない夜には胡弓の好きなふりかけごはんだけだったりするのだから、人のことは言えないが、アンヌは僕の料理が好きなので、彼女がいれば作る。もっとも、アンヌは仕事柄留守がちなので、胡弓とふたりの夕食のほうが多い。

「主婦が家事をしないなんて……ねぇ?」
「存在意義ないよね」
「ヨシミちゃんの旦那って、なんのために結婚したの?」
「あたしが綺麗だからよ」

 けろりと応じるヨシミさんに、主婦たちが失笑する。言われてみればヨシミさんはこの中ではいちばん若くて綺麗だ。エステになんか来なくてもよさそうなくらいにスリムで背が高く、長い脚が美しい。

「若くて綺麗なんて、今だけよ」
「じきに消えてなくなるようなものには価値がないんじゃない?」
「ヨシミちゃんがおばさんになったら、なにで旦那をつなぎ止めておくつもり?」
「やっぱり男は胃袋をつかまなくちゃ」
「そうそう。私だって料理だけは真剣にやってるわよ」
「私も」

 私も、私も、と同意し合ってから、ひとりの主婦が僕に話を振った。

「新垣さんだって主夫なんだから、料理はちゃんとしてるでしょ? 新垣さんは特に、しっかり家事をしないと奥さんに捨てられそうだもんね」
「シュフはやっぱり家事よね」
「家事をこなしてこそだよね」

 うんうんとうなずき合う主婦たちを、ヨシミさんは微妙な表情で見ている。そんなんだと捨てられるよ、料理教室に通えば? と意地悪そうに言う主婦たちを見て、僕は考えた。

 この女性たちも金持ちの主婦なのだろうが、専業主婦は家事を求められる。アンヌはうるさくはないが、稼ぎのいい夫、奥さんに優雅な主婦をさせている男は、模範的主婦を求めるのかもしれない。
 でないと捨てられる、と言っているのは、自分のことなのだろう。
 そうして苦労しているつもりの主婦たちは、ヨシミさんみたいな女が許せない。あんただけ楽してなによっ、そんなんだと主婦失格よっ!! てなものなのだろう。

 その考えを口にしてもいいのだが、僕だって主夫なのだから処世術ってやつも知っている。ここで正直に言えば、みなさんに嫌われてしまうとはわかっていた。

「若くて綺麗でなくなったヨシミさんが、旦那さんをつなぎとめておくもの……」
「おいしい食事じゃないの?」
「それよりも、結婚生活にいちばん大切なのは……愛でしょ」

 あ、愛?
 訊き返して顔を見合わせてから、主婦たちはぷぷぷっと吹いた。

 どうして笑うの? 主婦が夫を、主夫が妻を愛するのがいちばん大事なのは当然じゃないか。そのためにあなたたちだって、エステに通ってるんじゃないの? 夫のために綺麗でいたいのも愛のあらわれじゃないの? 
 そんなことを言ったら、新垣さんって青いわね、とますます笑われるのだろうか。

「そうよね。愛があれば、家事なんかしなくてもいいのよ。あたしは旦那さまを愛してるもの」

 唯一、ヨシミさんだけはそう応じたが、他の主婦たちは変わらず、失笑、冷笑、しらーっ、としか言えない雰囲気に包まれている。シュフの行為はすべて、愛に裏打ちされているのではないのか?!

つづく

 

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