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ガラスの靴21「誘惑」

「ガラスの靴」

     21・誘惑


 積極的にことを起こした経験はない。女の子を好きだと思ったことはなくもないが、アンヌにだけ、僕が好きになって打ち明けた。けれど、そのあとはアンヌが妊娠して、子どもを産みたいから結婚しよう、笙、おまえが専業主夫になれと、完全にアンヌ主導で話が進んでいった。

 ほんとは子どもなんかほしくないんだけど、と言っていたアンヌも、ママというよりはパパふうにではあっても息子の胡弓を愛してくれているのだから、結果はこれでよかった。

 そんな僕なのだから、アンヌ以外の女性は知らない。今後の人生でどうなるかはわからないが、今のところはアンヌ一筋だ。なのに、このひと……僕だって好みのタイプの女性にだったら萌えたり燃えたりするのだろうが、乗らないなぁ。

「ここ、いいですか」
「え? あの……」
「待ち合わせた友達にドタキャンされちゃったんですよ。あなたは……」
「私も友達にドタキャンされちゃったみたい」

 名前は知っているが、知らないふりをする。ナンパはされたことはあるが、するのは初体験だった。

「成子っていうんです」
「セイコさんですか。松田聖子に似てるって言われません?」
「言われたことは……なくもないかな」
「似てはいるけど、成子さんのほうが可愛いかな。成子さんのほうが若いですもんね」
「え、ええ、まあ」

 お世辞を並べ立てても疑われるだろうからそのくらいにしておいて、僕との約束をドタキャンしたという男友達の話をする。今夜の僕はドタキャンはされていないのだが、男友達ってものはいなくもないので、適当に話を作った。
 成子さんのほうも女友達の話をしている。こっちは本当だろうから、みんな忙しいもんね、と相槌を打って、徐々に親し気な口をきくように持っていった。

「成子さんって独身なんじゃないかなって思ってたら、やっぱりそうだったんだ」
「やっぱりって?」
「結婚すると女のひとはくすんでくるから。独身女性は輝きがちがうもんね」
「そうかしら」
「だけど、成子さんはギスギスはしていなくて、ふぅわりやわらかで感じがいいよ」
「太ってるから……それに、若くは見えるんだろうけど、笙くんよりは年上よ」
「僕は……」

 顔を寄せていって囁いた。

「年上の女性は好きですよ」
「……ふざけてばっかり」
「今夜は楽しかった。またお会いできるといいですね」
 
 寄せた顔を即座に離し、あっさり言って微笑む。成子さんは呆けたような顔をして、潤んだまなざしで僕を見上げていた。

「この店にはよく来るんですか?」
「ええ、時々」
「じゃあ、またここで会えるかもしれませんね。楽しみにしてますよ」
「……」
「お支払いは僕が……」
 
 そんな……いけません、とでも言いたいのか、腰を浮かせる成子さんをやわらかく制した。

「楽しい時間をすごさせてもらったお礼ですよ」
「そんな……」
「成子さんも気をつけて帰ってね。ありがとう」
「そんな……私のほうこそ……ごちそうさま」

 さらっと言って向けた背中に、成子さんの熱い視線を感じながら支払いをすませて店を出た。
 ふぅ、僕、うまくやれたんだろうか。こんな古典的というか、ださすぎる手法で四十代の女性を落とせるんだろうか。もっとも、僕にはあれ以上は無理だから、あとは野となれ山となれ。

 妻のアンヌのロックバンド「桃源郷」はライヴツアーまっただ中で、この三ヶ月ほどはとぎれとぎれにしか家に帰ってこない。僕はアンヌの留守の日には胡弓を母に預け、成子さんをナンパした酒場に通った。

 この店でパパ友の美知敏がアルバイトをしていたので、彼と一緒に何度か来た。ミチはライアンの継母のようなものとはいえ、ライアンの父の吉丸さんとは同性なので結婚はできない。事実上は彼は夫のいる専業主夫なのだが、表向きは独身だ。

 なので、店でも僕はミチの独身友達ってことになっている。成子さんとこの店で待ち合わせてドタキャンした女性は僕に協力してくれたわけだ。

 偶然に二度ほど成子さんとこの店で顔を合わせ、それからは約束するようになった。僕は成子さんにはなんにもしない。したくもない。ただ、お世辞を言っていい気持ちにさせ、僕はあなたが好きだけど……だけどねぇ……と思わせぶりな態度をしているだけだった。

「笙、首尾はどうだ?」
「うまく行ってるみたいだよ。僕ってもてるんだね」
「当たり前だろ」
「なんで当たり前?」
「おまえは頭は空っぽだし、生活力もゼロだし、主夫としてもまあまあ合格って程度のアホだけど、鏡を見ろ。相手もアホな女だったらもてるんだよ」

 鏡を見ろ……アンヌのメールに書いてあった通りにしてみた。
 ふむ、顔か。僕は昔から変人だと言われて女の子とつきあったこともなく、男友達も少なかった。笙くんって顔はいいんだけどねぇ、だとか、私、笙くんの顔が好き、笙くんがもうちょっともうちょっとだったらつきあいたい、と言っている女の子はいた。

 もうちょっともうちょっとだったら? もうちょっとなんなんだよ?
 ではあるが、要するに、僕って人間を深く知ると、もうちょっと、じゃないとつきあいたくないのだろうが、表面だけを見る女にはもてるってことなのだろう。

 たまに帰ってきたアンヌには細かく報告して、これからどうするのかの指示を受ける。こんなおばさん相手じゃ萌えない、燃えないとぼやくと、アンヌは怒る。その反面、万一どころか一億にひとつもあのおばさんにその気になるはずもないとわかっているだろうから、嬉しそうでもあった。

 そんな気には絶対にならないとはじめからわかってて、僕にやらせてるんだろうけどね。

 性格もおよそは把握しているし、成子さんは僕みたいなタイプが好みだとも知っているのかもしれない。好みのタイプの若い男に甘く囁かれたら、独身のおばさんは弱いだろう。独身でなくても弱いだろう。ホストの手口ってのはこんなものかもしれない。

 しかし、僕は成子さんから金品を搾取しようとは思っていない。キスもしない。セックスなんかとんでもない。なにがほしいのかっていえば、彼女の心だけだ。

「……行きません?」
「……え……ええ」

 機は熟した、と見極めたところで、はじめてふたりで一緒に店を出た。これまではいつだって僕が先に出て、成子さんはどうしてた? と店にいる協力者に尋ね、切なそうな吐息をついていたよ、だとか、笙くんって私をどう思って……ううん、いいの、って言ってたよ、との返答を聞いていたのだった。

「……いいのかな」
「……い、いい……聞かないで」
「いいんだよね?」

 根は純情なのか、それとも、僕が好みのタイプすぎるのか、成子さんは堅くなってうつむいている。顎に指で触れると、彼女はびくっとした。

「やっぱやーめた」
「え?」
「じゃあね、バイバイ」
「え……え? へ?」

 ぽかっと口を開けて間抜け面になっている成子さんに、僕はべーっと舌を出した。
 あんたみたいな太ったおばさんに興味ないよ、って言うべきか? だけど、下手な真似をすると訴えられたりストカーになられたりしない? アンヌと相談して、ここまでで止めておくことにしていた。

 こんなのぬるいんだろうけど、やりすぎはよくないから。
 そもそもなぜこんなことをしたのかといえば、アンヌの提案だ。

「アマチュアなんだけど、あたしの仲のいいロックバンドがいるんだよ」
「なんてバンド?」
「笙は知らないだろうな。趣味でやってるようなバンドだからさ」

 そのバンドはおじさんがふたり、若い男性がふたり、子持ちのおばさんがひとり、という編成で、アンヌは紅一点の中年女性、晴恵さんと昔から親しかったのだそうだ。

「私、バンドをやめなきゃいけないかもしれないの」
「どうして? なにかあったのか?」
「私はパートで週に三日、働いてるじゃない? 正社員でないと預けられないって保育園ではないから、下の子どもたちは毎日通わせてるのよね」
「パートでも保育園に預けなくちゃ働けないよな」

 七つ、五つ、三つの子どもが彼女にいるとは、アンヌはもちろん知っていた。

「それがね、密告があったらしいの」
「密告?」
「私は仕事じゃなくて遊びのために子どもたちを保育園に預けてるって、私の友達……友達のつもりだったあの女が密告したらしいのよ」
「どういう意味だよ?」

 学生時代の友人とひょんなことで再会し、昔通りに親しくするようになったのは、友人が独身でロック好きだったからだと、晴恵さんは話した。

「彼女もずーっとロックが好きだったんだけど、聴くほう専門なんだよね。だけど、ほんとはバンドに入りたかったみたい。男ばかりのバンドの紅一点って、ロックファンの女の子の憧れかもしれないのよ」
「そういうの、あるかもな」
「だからなんだとしか思えない」

 お金にもならないのに、晴恵はなんだってそんなことをやってるの? 母親の本分は育児でしょ。子どもを預けて趣味をやってるなんて……と友人は晴恵さんを詰る。なにもあなたが怒らなくても、とばかりに、晴恵さんは彼女の詰問をはぐらかしていた。

「それで、あることないこと保育園に密告したらしいのよね。私が週に三日だけ働いてるってのも保育園は承知してくれてたのに、なんだか話が行き違っちゃって。近所に引っ越してきて子どもをふたり、保育園に入れたいってひとがいたのもあって、うちの子たちがやめなくちゃいけなくなったのよ」
「……それってその女のやっかみか?」
「そうとしか思えない」

 別の保育園が決まるまで、子どもを練習に連れてくれば? とバンドの仲間たちは言ってくれたらしい。ところが、それでは気が散って練習にならない。晴恵さんの夫も、だったらバンドを脱退するしかないだろ、と言い出したのだった。

「その女、成子っていうんだ。あたしはその女に復讐してやりたいんだよ。笙、手伝え」
「え? 僕が?」

 かくして、僕が燃えない、萌えないおばさんをナンパして彼女の心をもてあそび、一方的に去っていくという筋書きができたわけだ。とりあえず成功はしたけれど、後味がよくないような。

「ううん!! 僕は悪くない。あのおばさんの自業自得っていうんだよ。僕は正義のために闘ったんだもんね」

つづく

 

 

 
 


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