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ガラスの靴12「交際」

「ガラスの靴」

    12・交際

 ぼそぼそした話し声で目が覚めた。ひとりはアンヌ、ひとりは誰だろう。若い女性の声だ。僕はそおっと起き上がり、今夜はアンヌと僕のベッドで寝ている胡弓の様子を確かめてから耳を澄ました。

「何度も言うけど、六十五歳?」
「そうだよ。さっきから言ってるじゃん」
「さっきから聞いてるけど、スミカよりも四十一歳年上……おじいちゃんだね」
「アンヌさんは笙くんのお母さんだね」
「あたしたちは七つしかちがわないのっ!!」

 怒り声を上げたアンヌが、スミカと呼んだ女性をごつんとやったらしく、いてっ、という小声も聞こえた。

「そんでさ、どうやって知り合ったの?」
「高校のときにちょっとエンコーやってたんだよね。エンコーっていってもホテルには行かないの。どこかのオヤジだとかどこかのじいちゃんだとかとごはん食べにいったり、カラオケにつきあったりしてお金をもらうんだ。ちょこっとさわらせてやったら特別ボーナスとか、スカートをまくらせてやってバッグ買わせたりとか」
「はぁ……そんなことやってたんだ」
「アンヌさんはやってない?」

 やってねぇよっ、とアンヌ。またまたぼかっ、いてっ。アンヌは自主独立の精神豊富な女性なのだから、援助交際などするはずもない。

「それだけのことなんだから、怒らなくてもいいじゃん。でね、あたしにプロポーズしてる六十五歳ってのは、そのころに知り合った男なんだよ」
「スミカ、そいつに弱みを握られてるのか? 脅迫されてるのか」
「ちがうよ」
「そしたらおまえはファザコンか」
「それはあるのかもね」

 思い出した。スミカというのはアンヌの友達の妹だ。アンヌには男女取り混ぜてたくさんたくさんの友達がいる。音楽業界のひとが多いのだが、飲みにいって意気投合した相手を我が家に連れてきて、年下の可愛い夫である僕を見せびらかしたり、あんたもあんたもうちへおいで、と言って無関係なひとまでもを連れてくることもある。

 そんな中のひとりの妹だから、アンヌの年下の友人ともいえる。六十五歳が四十一歳年上だということは、二十三歳の僕と同年代の二十四歳だ。

「そんなじいさんと結婚したら後悔するよ」
「後悔したら離婚したらいいじゃない」
「子どもは産めないんじゃないの?」
「宗十さんには孫もいるんだから、いいんだよ。あたしは子どもなんかいらないし」
「今はそう思ってても、もうすこししたらほしくなるんだよ」
「やだ、アンヌさん、おばさんくさっ」

 どうせあたしはおばさんだよ、三十だよ、ぼかっ、いてっ、のやりとりがまたも聞こえた。

「ソウジュウっていうのか。バツイチ?」
「若いのが好きだからって、何度も奥さんをとっかえてるんだよ。何度目かは知らない」
「金持ちか」
「当然じゃん」
「金持ちじゃなかったら、スミカが前期高齢者と結婚するわけないよな」

 ふふふん、と笑っていたスミカさんは、アンヌの反対を押し切って結婚したらしい。アンヌは宗十、寿美香の結婚式に出席したが、僕は招待されなかったので胡弓と留守番していた。

「こんばんは、アンヌさんは留守だよね」
「一週間ほどライヴツアーに出てるんだけど、どなた?」
「あたし、スミカ」

 結婚式から半年ほどすぎたころ、スミカさんが訪ねてきた。部屋に通した彼女は、高価そうな服を着てブランドもののバックや靴で着飾っている。指には大きなダイヤとルビーの指輪も光っていて、絵に描いたような成金金持ちコマダムふうだった。

「笙くんって楽な生活してるから、なんかこう怠惰がしみこんで、退廃で爛熟の美少年って感じになったね」
「あなたに言われたくありませんが」
「あたしは楽なんかしてないよ。じいさんの妻って疲れるんだから」
「スミカさんが好きで結婚したんだろ」
「好きではないけど、まあ、お金と結婚したってか。笙くん、なんか食べさせてよ」

 僕は怠惰でも懶惰でも退廃でも爛熟でもない。妻は業界では名の売れたロックミュージシャンだが、僕は平凡な一児の父、家事と育児に忙しい専業主夫だ。おなかがすいたというスミカさんに残りもので親子丼を作ってあげると、太るじゃないのよ、と文句を言いながらもおいしそうに食べた。

「こんなの、あたし、作れないよ」
「料理はしないの?」
「気が向いたらするけど、たいていはデパ地下とかケータリングかな。うちのじじいは帰ってこない日も多いし、結婚したらあたしを自分のものにしたつもりになってて、釣った魚にエサはやらない、そのものだもんね」
「服とかバッグは買いまくってるんでしょ」
「それくらい自由にさせてもらわなくちゃ、あんなじじいと結婚したメリットないもんね」

 憎々しげに言ってから、ごちそうさま、と手を合わせ、スミカさんは僕を見つめた。

「笙くん、アルバイトしない?」
「なんの? 僕は三歳の子どもがいるから、家を空けるのは不自由なんだけど」
「今すぐにここででもできるアルバイトだよ」
「在宅バイト?」

 アンヌの稼ぎはいいから、金持ちでもないがまあ裕福なほうだ。僕にもアンヌがお小遣いをくれるのだが、お金はいくらあってもいい。心が動いた。

「高校のときから好き勝手やってきて、大学生のときにだってもてもてで、あたしたちはバブルなんてひとっかけらも経験してないから損したよねなんて言いながらも、あたしは美人に生まれてよかったなって思ってたよ。金持ちの娘ではないけど、いいうちの子だったら六十五歳のじいさんとなんか結婚させてくれないだろうし、結婚した相手が金持ちだから、そのほうがよかったの」
「親に反対はされなかったの?」
「最初はされたけど、じいさんが上手にたぶらかしてくれたよ。うちの親の家もじいさんが建ててくれたんだもんね」

 へぇぇ、すごぉい、と思っている僕を、スミカさんが妖しく光る眼で見た。

「そんなあたしもやったことのないこと、お金にものを言わせてやってみたいの。それだったらあとくされってのもないし、笙くんの外見はあたしのタイプだし。笙くんさえOKだったらなんにも問題ないんだよ」
「んと……?」
「こうするの」

 バッグから財布を取り出し、そこから紙幣を取り出す。十枚以上はあると思える一万円札の束で、スミカさんは僕の頬をひっぱたいた。

「男をお金で買う。やってみたかったの。これ、全部あげるよ。足りなかったらもっとあげる。今夜はアンヌさんはいないんでしょ。こんなの、ただのバイトだし、罪の意識なんかいらないし、一度だけでいいんだからさ、どう? 迷ってるだろ。お金、ほしいんだろ」

 頭の芯がしびれたようになってくる。胡弓は寝たら起きない子だから気がつかないだろう。夫婦交換みたいなことをアンヌの提案でやりかけたときには、どうしても耐えられなくて逃げてしまったが、これは浮気ではなくアルバイト。お金を稼ぐためならば、多少のいやなことだって辛抱できるんじゃないだろうか。

「う……」
「うん? シャワー貸してくれる? ホテルに行くわけにはいかないでしょ」
「……ちょっと待って」

 ひと呼吸置いて、胡弓が眠っているのかどうかを確認にいった。大きなベッドの真ん中で、胡弓は布団からはみ出して眠っていた。

「パパ?」
「起こしちゃった? ごめんね。眠っていいよ」
「うん、ママは?」
「ママはお仕事だけど、パパがいるからね」
「うん」
「おやすみ」

 やわらかな髪を撫でていると、胡弓はとろとろと眠りの世界に戻っていった。これでもう朝まで起きないはずだ。僕はそおっとダイニングに戻る。そんな僕を見て、スミカさんが肩をすくめた。

「笙、完全に親の顔になってる。ドン引きって感じ」
「え? そう? あの、悪いけど……」
「当たり前じゃん。そんなこと、あたしが本気で言うと思った? 笙がいいよって言ったらアンヌさんに言いつけてやるつもりだったの。本気にすんなよ、馬鹿かよ」
「あ、そ、そう、そうだよね」

 にゃははと力なく笑うと、スミカさんも意地悪な笑みを浮かべる。彼女が本気だったのかどうか、どっちが嘘だったのかは知らないが、胡弓が僕を救ってくれた。そうして安心したのだから、やらなくてよかったのだろう。まぁ、お金を稼げなかったのはちょっと惜しかったが。

つづく


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