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ガラスの靴7「逃避」

「ガラスの靴」

     7・逃避

 最近になって知った、アンヌの異母弟、貞光は東北地方で妻と双生児の息子と、母親の五人で暮らしている。二十三歳の僕とひとつ、ふたつしかちがわない年齢にも関わらず、でっぷりぼってり貫録ありまくりなのは、お気楽な僕とは立場がちがいすぎるからか、ある意味、僕は貞光を尊敬していた。

 その妻、操子、そうこ、と読む。
 彼女は貞光よりも十歳以上年上で、苦労しているから若くも見えないのだが、貞光がおっさんだから似合いの夫婦だとアンヌは言う。今日は操子さんが我が家に遊びにきていて、僕が料理を作ってふるまっていた。

「操子さんから見たら、このマンションは狭いだろ」
「狭いといえば狭いですけど、アンヌさんがうらやましい」

 はじめて会ったときには、義姉さん、義兄さん、と操子さんは僕らを呼んだ。年上なんだからアンヌ、笙って呼んで、とお願いして、アンヌさん、笙さんになったのだ。
 不自由な農家の嫁暮らしをしている操子さんは、義母の用事で東京に来たらしい。遊びではなくてもうきうきしている様子で、我が家に立ち寄れたのも嬉しいと頬をぽっと染めていた。

「離婚したいなんて思う?」
「こんなはずじゃなかったってことはないから……こんなはずだってわかってて結婚したんですから、私が我慢すればいい話なんですよ。だけど、それでもやっぱりね……」
「そっかぁ、どうしても離婚したいって言うんだったら、あたしも力になるけどね」
「子どもたちが……」
「そうだね、それがあるよね」

 アンヌと操子さんは深刻な顔をして話している。僕は深刻が大の苦手なので逃げようかと思っていたら、来客を知らせるチャイムの音がした。

「はいはーい、ああ、知可子さん」
「誰か来てる?」
「アンヌの義妹」
「アンヌの義妹ってことは……?」
「アンヌの弟の奥さんだよ」

 かなり複雑な家庭なのだが、めんどくさいので簡単に説明すると、知可子さんはふむふむとうなずいた。
 ロックバンドのヴォーカリストであるアンヌの交流関係は、当然音楽関係者だらけだ。その中では数少ないほうの異業種友人がこの、村田知可子、小説家である。

 ケータイ小説サイトで人気が出て、プロになったのだそうで、アンヌに言わせると現代のカリフォルニアドリーミンだそうだ。なんで東京でカリフォルニアなのかは知らないが。

「上がっていい?」
「いいんじゃない? 食事中だから、知可子さんも食べれば?」
「いいの? ラッキー、今日は朝に食パン食べてから、なんにも食べてなかったんだ」
「そんな食生活だと身体をこわすよ」
「だって、執筆が乗ってたんだもの」

 大きな声で話しながらダイニングルームに入っていったので、操子さんにも知可子さんの職業はわかったらしい。自己紹介し合ってから、操子さんは言った。

「作家さんなんですか? エッセイストとか?」
「小説家だよ。あんたは?」
「私の仕事……主婦ですけど……ピアニストになりたいなぁって」
「ピアノ、やってんの?」
「子どものころからやってました」

 以前にアンヌの故郷で話したときにも、英会話とピアノの習い事が大好きなんだけど、田舎ではそんなことをしていると時間の無駄、金の無駄だと言われると言っていた。英会話はこっそり勉強できても、ピアノは音が出るからむずかしいかな、と僕も思っていた。

 そのあたりの事情を、アンヌと操子さんがかわるがわる説明する。知可子さんはテーブルについて、からあげをつまんでぱくっと食べてから言った。

「子どものころからやってたって、ガキのお稽古ごとレベルなんじゃないの?」
「現実問題として、ピアニストは無理だと思いますよ。夢です。でも、ピアノの先生だったらできるはず。この年でピアニストなんてほんとに夢物語ですけど、ピアノの腕でひとりで食べていくくらいはなんとか……」
「だったらすればいいじゃない」
「……さらに現実問題としては……」

 横からアンヌが言う。
 うちの田舎は超保守的で、嫁はそんなことはできないんだよ、操子さんは離婚したいみたいだけど、双生児の息子がいるもんでね、とお手上げのポーズをしてみせた。

「そんなの、離婚しちまえばいいんだよ」
「あんたみたいには誰でもはできないんだってば」
「あんたみたいにはできないってのは逃げ台詞、甘えだよ」
「あれぇ? 知可子さんって離婚してるの?」

 口をはさむと、アンヌが話してくれた。

「笙は知らなかったかな。そうだよ、知可子もけっこう田舎の男と結婚して、子どももいたんだ。旦那は田舎の自営業で、だっさい男だったんだよね」
「そうそう」
「知可子は若いころから作家になりたかったんだけど、てめえの才能の限界に見切りをつけて結婚して出産もした。子どもはふたりだっけ?」
「三人」

 とすると、知可子さんはかなりの年齢なのだろう。そこを突っ込むのはひとまずやめておいた。

「だけどね、どうしてもどうしても小説が書きたくて、ネットで書くようになったんだよ。そんなのはお遊びみたいなものだから、金になるとは思えなかった」
「そのはずだったんだけど、ネットで評判になっちゃって、本を出しませんかって誘いがきたの」

 夢ではないかと思えるほどに舞い上がって、知可子さんは夫に報告した。すると、夫が言ったのだそうだ。

「趣味でやってる分には大目に見るよ。おまえは家事もろくにやらずに変な小説ばかり書いてて、俺だって知ってはいたけど、子どもたちはまあまあまともに育ってる。おまえからその趣味を取り上げたら、子育てもちゃんとやらなくなるんじゃないかと思って甘やかしすぎたかな。なにが本を出すだ、なにが小説家だ、そんなちゃらちゃらしたことがしたいんだったら出ていけ」

 ああ、出ていってやるさ、ただし、子どもたちは連れていくからねっ!! と啖呵を切って、やれるもんならやってみろ、とうそぶく夫のもとを飛び出した、と知可子さんはしめくくった。息を呑んでいるような表情で聞いていた操子さんが尋ねた。

「それで、子どもさんは?」
「できっこないだろ、って旦那は思ってたんだろうけど、やったよ。本を一冊出したくらいじゃ、母と子どもの四人は食べていけなかったけどね」
「副業をなさっていたんですか?」
「実家が金持ちだから、頼った」

 けろりと言う知可子さんを見て、アンヌが苦笑いしている。ああ、なるほど、と僕も納得していると、操子さんが低い声で言った。

「そんなの、そっちのほうが甘えです」
「いけないの? あんたに迷惑かけた?」
「迷惑はかけられてないけど、そんな、実家に頼るなんて……知可子さんが小説を書くかたわら、他の仕事もして苦労して子どもたちを育てて、ご主人を見返した。そうして一人前の作家になったっていうんだったら立派だと思いますけど、実家に頼ったなんてがっかりです」

「今でも一人前ってほどでもないな。ケータイ作家だもん」
「なんですか、それ?」
「なんだっていいんだけど、あんたは旦那に頼って生活してるんだろ? 子どもたちだって旦那の家の稼ぎで育ててるんだろ。あたしは旦那のところを飛び出したんだから、旦那のかわりに実家に頼ってるの。悪い?」
「悪いです」

 睨み合うふたりの女性を交互に見やりつつ、アンヌが言った。

「こういうことを言う女って、同性に思い切り攻撃されるんだよね」
「こういうことって?」
「だからさ、笙。世の中、操子さんみたいな女のほうが圧倒的多数派ってこと」

 つまり、子持ちの女性はモラハラ夫やギャンブル好き、ゲーム好き夫、浮気夫、家事にも育児にも役に立たないけど給料だけは持って帰ってくる夫に、子どものために耐えている場合が多い。
 その上に、才能なんかなんにもなくて、実家にも頼れはしないから、離婚して貧しくなるよりはましかと、子どもたちのために耐えている。そんな女は都会にもたくさんたくさんいるのだそうだ。

「そんな女が知可子やあたしみたいな例を聞くと、頭に来るもんなんだよね。特に実家が裕福で頼りになるって聞くと、そんなのずるいっ!! って怒るんだ」
「ふーむ、なるほど」
「いいじゃん、使えるものはなんだって使えば。才能だって親だって、旦那だってなんだって。ね、知可子?」
「その通り」

 どっちかといえば僕は、アンヌや知可子さんに賛成だ。僕だって稼ぎのいい頼りになる妻に寄りかかって生きているのだから、実家に頼る女性を非難できた立場ではない。
 しかし、私だって私だって、できるものならそうしたい、と身もだえしそうに悔しがり、あなたはまちがってます!! と知可子さんを断罪する操子さんの気持ちも、痛いほどにわかるのだった。

つづく

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