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2020/9 復刻・花物語「ブルーサルビア」

「花物語」

九月・プルーサルビア

 
 敷地がたいそう広いので、祖母は足が疲れてきたらしい。表情が不機嫌になってきているようで、菊香は祖母の背中に手を当てた。

「ひと休みしようか」
「そうだね。お腹がすいたよ」
「そしたらごはんにする? なにが食べたい?」
「なんだっていいけどね」

 もともとなにをしたい、あれが食べたい、と自己主張はしない祖母だ。
 派遣社員として働いていた任期が終了して、一ヶ月ぐらいはのんびりしよう、暇な時期に祖母を旅行に連れていってあげようと決めて、どこに行きたい? と訊いたときにも、どこだっていいよ、菊香が連れていってくれるなら、どこだって楽しいよ、との答えだった。

 花の好きな祖母のために、このフラワーガーデンに来た。ゆっくり花を見て一泊して、温泉に入っておいしいものを食べて、と菊香は計画したのだが、ガーデンが広すぎたらしい。九月の陽射しもまだかなり強烈で、老人ならば熱中症の恐れもありそうだ。

「ここにしようか」
「いいよ」

 見晴らしのよいレストハウスの窓際に席を取る。祖母はつめたい水をもらって一息つき、食事は菊香にまかせると言う。そこで、特製ランチを頼んだ。
 間もなく運ばれてきたランチは、フラワーガーデンの中にあるハーブ園の産物を使っているのだろう。香り豊かなローストビーフやピラフが菊香には美味に感じられた。

「おいしいね、おばあちゃん?」
「そうかな。なんだか……いやなにおい」
「いやな匂い? いい香りじゃないの。おばあちゃんはハーブって嫌いだった?」
「ハープ?」
「ハープは楽器、ハーブは香辛料っていうのか、この料理に使ってあるような香りのもとになる植物だよ」
「ふーん」

 子どものころには両親が共働きだったから、母の母である祖母に面倒を見てもらっている時間が多かった。母の実家近くの保育園に通い、祖母が迎えにきてくれて、母が残業のときなどはそのまま食事をして泊まったりもした。

 なのだから、祖母の料理を食べる機会も多かった。祖父の好みもあったようで、祖母の作る食事は和食一辺倒、菊香も渋い味覚を持っていたようで、保育園の先生が感心していたのを覚えている。
 ピザやパスタやオムライスやカレーライス好きな子どもたちの中で、菊香はブリの照り焼きだの、湯葉と野菜の煮物だのが好物だったのだから。

 母が正社員からパートタイマーに変わったのは、弟に続いて妹も産まれたからだ。三人の子持ちとなると祖母の負担も大きすぎるだろうし、多忙な仕事は続けていられなくなって、残業はなくなった。菊香が小学生になるころには、食事も母の作ったものが大半になった。

 幼児期の味覚は残っていたので、弟や妹よりは渋い色の好みを持っていたし、今でも和食は好きだが、洋風のものも大好きだ。高校生ぐらいからは友達とイタリアンを食べにいったりもしたので、ハーブを使った本格的な欧風料理にもなじんでいた。

「そっか、だけど、おばあちゃんにはこういう香りは異質なんだよね」
「異質っていうのか、くさい……」
「そこまで言ったら駄目よ。他のお客さんだとか、お店の料理人とかが気分悪いでしょ」
「くさいものはくさいんだよ」

 自己主張はしなかった祖母も、寄る年波で頑固になっているらしい。あれがしたい、これが食べたい、と言わないのは、面倒だからか。菊香にまかせておいたほうが楽だからなのかもしれない。

「困ったな。食べたくないの?」
「鼻がひん曲がりそうで食べられないよ」
「いい香りなのに……そしたら他のもの、頼む?」
「他のだってくさいだろ。匂いがしみこんでそう。この店全部がくさいんだもの」
「おばあちゃん……そこまで言ったらダメってば。そしたら出よう」
「あんたはおいしいんだったら食べれば? もったいないよ」
「じゃあ、待ってて」

 あー、くさいくさい、と大きな声で言うので、近くの席のお客にいやな顔をされた。ハーブ料理レストランだと知らずに入ったかった私も悪かったかな、と菊香としても反省し、急いで食べ終えて祖母を促して支払いをして外に出た。

「ハープってどんなのか、見たいんだけどね」
「ハープじゃなくてハーブだよ。見たいの? いやな匂いなんでしょ?」
「あの匂いの正体が知りたいの」

 変なことを言うひとだ、と思いながらも、別棟になっているハーブ園のほうへと歩いていく。途中で売っていたおにぎりを買って、祖母がそれを食べてからハーブ園に入っていった。

「うわっ、やっばりいやっ!!」
「いやなんだったら出よう。大声で言わないで」
「だけど……菊香、あの花は綺麗だね」
「どれ?」

 祖母が指さしたところには、紫がかった青い花があった。「セージ」とプレートがかかっているのを確認し、急いでハーブ園からも出ていく。祖母はベンチにすわりこみ、わざとらしく深呼吸していた。

「そんなに嫌い?」
「ハーブって聞いたことはあったんだけど、こんなものだったんだね。これからも二度と食べないから」
「嫌いだったら避けて通ればいいけどね」

 フラワーガーデンとハーブガーデンは同類のようなもので、花の園にハーブレストランがあるのも不思議でもないのだろう。菊香もそれはしっかり覚えておいて、今度祖母を連れてくるときにはしっかりたしかめようと決意した。

 それから一年、菊香は新しい派遣先で働くようになって、代わり映えもしない日々を送っている。夕方に帰宅すると、庭で祖母と母が立ち話をしていた。

「おばあちゃん、いらっしゃい。来てたのね」
「お帰り、菊香、去年の旅行のことを思い出したわ。おばあちゃん、これだったらいいんだって」
「これって?」

 母が持ち上げた鉢植えには、紫がかったブルーの花が植わっていた。

「ブルーサルビアよ」
「サルビア? そんなのあるんだ。サルビアって朱赤なんだと思ってた」
「白いのも青いのもあるんだけど、これってしそ科なのよ」
「シソ?」
「おばあちゃんの大嫌いなハーブの一種、セージも仲間なのよ。だけど、おばあちゃんはプルーサルビアは好きだそうなの」

 大嫌いだと祖母が騒いだハーブ、だが、あの花は綺麗だと言ったのはセージだった。おばあちゃんには困ったと話したから、母も笑っているのだろう。祖母はすこし怒っていて、すこし照れた口調で言った。

「だって、これは食べないもの」

 まあ、たしかにその通りではあった。

END


ガラスの靴79「変心」

ガラスの靴

79・変心


 楽器会社勤務の女性と、俳優志望の青年。そのふたりが同棲すると聞いて、横からお節介を焼く沖永さん。沖永さんはアンヌたち、桃源郷が所属するCDレーベルの事務部門の社員で、バツニだと最近知った中年男性だ。

 いつだったかのパーティでそんなシーンがあり、さらにその横からアンヌが口を出して、うるさい沖永さんを撃退した。

 今夜、アンヌが我が家に連れてきたのは、女性のほう。交友関係がたいそう広く、友達の友達は友達で、酒場で会っただけの相手でも我が家に連れてくるご主人さまだから、僕としては触れ合ったひとを片っ端から忘れるのだが、彼女のことは記憶にあった。

「メイクさんだったよね。久しぶり」
「お久しぶりです」
「彼とは仲良くしてるの?」

 なんの気なしに質問したら、アンヌに頭を殴られた。ってことは……?

 かなり年上で、仕事はできるらしいが外見は冴えない女性のメイクさんは、芽愛紅と書く。彼女の恋人は役者志望の涼し気……というよりも性格がクールすぎて寒いんじゃないかと思える美青年で、流斗と書いてリュートと読む。僕の名は笙、息子の名は胡弓だから、リュートとは楽器仲間だ。

 名前はまあどうでもいいのだが、問題はリュートくんが綺麗すぎることと、ふたりが同棲するにあたって、費用をほとんどメイクさんが負担するということだった。だからこそ、沖永さんがお節介を焼いていて、聞いていて苛々したらしいアンヌが、当事者同士がそれでいいんだったらいいだろ、沖永はうるせえんだよ、と切れたのであった。

 あれからはメイクさんにもリュートくんにも会わなかったし、噂も聞かなかったので知らなかったが、うまく行かなかったのだろうか。

「同棲はしたんですけどね」
「メイクと会ったから、おまえにその話も聞かせてやりたくて誘ったんだよ。笙、酒とつまみ」
「はいはい」

 あらあら、とメイクさんが目を丸くしているのは、我が家が逆転夫婦だからだろう。それでも、メイクさんはそれについてはなにも言わなかった。

「ありがとう。笙さんって料理が上手ね。おいしい」
「こんなもんは料理ってほどでもねえんだよ。褒めるな、図に乗るから」
「アンヌさんは厳しいんですね」
「メイクはあたしよりも年上だろうが。敬語で喋るなってば」
「ああ、そうね」

 手早く作ったおつまみを出し、ワインを開ける。息子の胡弓はとっくに眠っているから、大人の時間だ。

「リュートは人前ではクールなんだけど、あれは照れ屋だからであって、ふたりきりだったら言ってくれるのよ。メイク、愛してるよ、メイク、ありがとう、あなたのおかげで僕は夢をかなえられそうだ……あの音楽的な声も好きだったわ」
「口先ではなんとでも言えるさ」
「そりゃそうだけど、心がこもってたの。私は信じてた。でもね、心変わりってあるものなのよ」

 死にそうなほどにありふれた話。年上の女性の恋心につけこんで、パトロンになってもらう美しく若い男、女性だからパトローネ、パトロネスだったか。いずれにしても、男はそのつもりで、女はそこに愛があると信じ込む。女のほうも余裕をもって、私が役者としての彼に投資するのよ、と考えられたらよかったものを。

 わずかな愛情が男のほうにもあったのだとしても、彼はやがて若い女に気持ちを移して去っていく。そんな映画もあれば、小説なんかにもあるのだそうだ。

 夢見るような瞳をして、メイクさんがリュートとの暮らしを語る。アンヌは醒めた口調でコメントをはさみ、僕は相槌を打つ。リュートがベッドに朝食を運んでくれた。リュートがビーズで作った指輪をプレゼントしてくれた。リュートが劇団の公演で行った田舎で、つくしを摘んできてくれた。

 哀しいような奉仕?
 それが嬉しいなんて、メイクさんって顔に似合わずピュアなんだな。恋愛経験なかったんだろうか。それとも、リュートのちっちゃな愛のあかしだと信じるのが幸せだったのか。

「喧嘩なんかしたこともなかった。私のすることをリュートはすべて喜んでくれるの。彼もそうして私を嬉しがらせることを次々にやってくれるし、私も同じ。地方公演のチケットを五十枚も買ってあげて知り合いに無料で配ったり、リュートの勉強のためにオペラのチケットを買って、リュートが役者仲間と見にいくというのを快く許したりもした。私にはオペラなんてわからないからね」
「メイクのやってることは金がかかってるんだ」
「私のほうが収入はいいんだもの。当たり前じゃない? アンヌさんとこも同じでしょうに」
「まあね」

 おいしいごはんを作ってあげたり、アンヌの連れてきた友達をもてなしたり、アンヌのお気に入りの服にお酒のシミがついたのを、一生懸命綺麗にしてあげたり。僕の愛情表現はそんなふうだ。

 レストランや旅行に連れていってくれたり、革のコートを買ってくれたり、歩き疲れた僕を、ちょっとぐらい遠くてもタクシーに乗せてくれたり。アンヌのほうはそんなことをしてくれる。考えてみたら、アンヌと僕はリュートとメイクと似ている。リュートの行為が哀しいだなんて、僕には言う権利はないのだろう。

 だけど、決定的にちがうことがある。アンヌと僕は別れてはいない。小さな胡弓を間にはさんで、もしかしたらいつかはもうひとり、子どもができて。僕らは正式な夫婦だから。家族だから。

 とはいえ、離婚はできなくもないのだから、やっぱり僕は僕にできることを精いっぱいやって、アンヌの心をつなぎ止めておかなくちゃ。僕のほうから離婚を切り出すってのはあり得ない。僕はアンヌに捨てられたら生きていけないから、たとえ暴力を振るわれても浮気をされても耐えてみせるんだ。

「つまり、リュートは別の女のところに行っちゃったってわけだろ」
「そうよ。でもね」

 きっと顔を上げて、メイクさんはアンヌをまっすぐ見つめた。

「後悔なんかしてないの。愛はうつろいやすいものでしょ。リュートはたしかに私を愛してくれたんだから、それでいいの。私は今でもリュートを愛しているけど、彼の気持ちがよそに移ったんだったらすがったりしない。それも私の愛の形よ」
「あんたが納得してるんだったらいいさ」
「……そうだよね。さ、食べて、もっと食べて」
「笙くんったら、私をもっと太らせようとしてない?」

 無理やりみたいに笑ってみせる、メイクさんが痛々しかった。

「これ、今度の公演。リュートは主人公の通う酒場の従業員役で出るのよ。台詞もあるの」

 帰りがけにメイクさんがチケットをくれたので、劇団の公演に行ってみることにした。アンヌは仕事で行けない、子どもを連れていくようなお芝居ではないから、胡弓は母に預け、ひとりで出かけていった。

 小さい劇場だから、メイクさんが来ていたら会いそうなものだ。メイクさんだって毎回は見にこないのか。来るとつらいから来ないのか。そんな話はしていなかったが、今日はメイクさんの姿はない。「開港」という名のお芝居は、幕末の横浜が舞台になっていた。

 歴史なんてものにはまったく疎い僕なので、生麦がどうたら薩摩がどうたらいわれたって、麦とイモ? 焼酎の話なのかな、と思っていたのだが、横浜の生麦という場所で起きた、薩摩藩士たちの物語なのだそうだ。

 当然、時代劇である。いらっしゃい、とひとことだけ台詞のあるリュートくんもちょんまげを結っていて、全然似合っていない。彼は現代的美青年だから、時代劇なんてちっとも合っていなかった。

 それだけの台詞では僕には、芝居の上手下手はわからない。時代背景もわからないので芝居はまったく面白くなくて、途中で居眠りしていた。

「ふわ……もうおしまい?」

 生の芝居を見た経験はほとんどないが、カーテンコールなんてものがある。リュートくんも端っこにいた。有名な劇団ではないせいか、公演が終わって出ていくお客さんに、戸口で役者さんたちが並んで挨拶してくれた。

「やぁ」
「ああ、こんばんは」

 ちょんまげと和服の扮装のままのリュートくんが、僕を認めてちらっと微笑んだ。覚えていてくれたらしい。リュートくんにプレゼントを渡した可愛い女の子……彼女かな、リュートくんの心変わりの相手は。

「……打ち上げに行かない、坊や?」
「坊やって……誰、おばさん?」
「おばさんとは失礼ね。ま、いいわ。あなたから見たらおばあさんみたいなものだろうから、おばさんでもいいわ。笙くんでしょ。リュートの友達? リュートが笙くんを打ち上げに誘ってって言うものだから、私が誘いにきたの」
「だから、おばさん、誰?」
「いいから行きましょうよ」

 太ったおばさんに腕を組まれて、強引に拉致された。僕の腕をぐいぐい引っ張って近くの居酒屋につくと、おばさんはリュートくんに駆け寄って抱きしめ、強烈なキスをした。

「……あの……」
「キミ、可愛いじゃん。今夜は私と、どう?」
「いや、あの、僕は結婚してますから……それより、リュートくんとあのおばさんの関係は……」

 頬に頬を寄せてきた厚化粧のお姉さんは、さきほどのお芝居でヨタカの役をやっていたひとだ。ヨタカとは下級売春婦のことだと、パンフレットに書いてあった。

「リュートの友達? さすがにリュートは友達もルックスがいいんだね」
「それはいいから、だから……」
「リュートって年上趣味なんだよね。もったいないなあ」
「年上趣味?」
「だってそうでしょ。前にも年上の女と同棲してたらしいじゃない? 私もリュートよりは年上だけど、あのばばあにはかなわないよ。あそこまでのばあさんとくっつくって、いっそあっぱれだよね」
「……くっつく?」
「そだよ。あのばばあはリュートの新しい恋人さ」

 聞き間違いかと思っている僕を置いて、ヨタカのお姉さんはどこかに行ってしまった。
 心変わりの相手は若い女じゃなかったのか? 若くて可愛い女に乗り換えたのならばありふれているのだろうが、あのおばあさんと? 僕から見れば祖母の年頃。七十代にしか見えない肥満体マダムだった。

「リュートくんって……」
「メイクからなにか聞いた?」
「いや、あのね……」

 本人に訊いてみたくても、リュートくんのそばにはずっとあのおばあさんがいる。ふたりしていちゃついている。それでもようやく近づいていくと、リュートくんはクールな微笑みを見せた。

「メイクって前の彼女でしょ? やめてよ、そんな話は……」
「わかったよ、あなたの前ではしないから」
「ね、リュート、愛してる?」
「ええ、愛してますよ」

 目を閉じて顔を仰向けるおばあさんに、リュートくんがキスをした。これって芝居の続き? いや、リュートくんってほんとに年上趣味で、メイクさんでは若すぎて物足りなかったとか? 世の中、老人専とかいう人種がいるそうだし。

 新たなパトロンだろ。
 何者かは知らないが、おばあさんはリュートの金づるだろ。いや、でも……だって……。

 熱い口づけをかわす美青年と、肥満体のおばあさん。このシーンのほうがさっきの芝居よりもずっと芝居っぽくて、頭がくらくらしてきそうだった。

つづく

 

 


、、

213「のびのび」

しりとり小説

213「のびのび」

 都会に憧れて、高校を卒業すれば生まれ育った町から出ていく。地方ではそういう若者のほうが多いのだろうが、加奈子の故郷の若者は地元が大好きだ。

 もはや若者とも呼べない三十すぎ。結婚していてもいなくても、小学校時代からの友達が周囲にはうじゃうじゃいる。泰司もそのひとりだった。

「直美が戻ってきたって、加奈子、知ってるか?」
「戻ってきた? 加奈子は東京で暮らしてたんだよね」
「そうだよ。東京でテレビ局のプロデューサーと結婚して、そいつが浮気したとかで離婚して戻ってきたんだ。さすがに東京の女になってて、あかぬけててかっこいいよ。駅前で雑貨屋を開くらしいから、女の子たちに宣伝しといてって頼まれたんだよ」
「雑貨屋ねぇ」

 こんな文化不毛の地で雑貨屋なんかやったってね、との気分は横にどけて、加奈子は泰司をちらっと睨んだ。

「泰司はなんでそんなに詳しく知ってるんだ?」
「ばったり会ったんだよ。いやぁなつかしいなぁ、ってことで、飲んだんだ」
「ここで?」
「ここみたいな泥臭い店じゃなくて、T市まで出て直美のいきつけの店に案内してもらった。その店もかっこよかったよ。東京の女ってセンスがちがうよな」

 泥臭くて悪かったね、とこのスナック「トーコ」のママである東子がぶすくれる。今どきスナックかよ、とみんなが笑いつつも重宝しているこの店のママも、加奈子や泰司の小学校時代からの同級生だ。

 小学校と中学校は同じ。高校で別々になるものの、距離的にはそう離れてもいない学校に通っているのだから、遊ぶときには地元で集まる。大学や専門学校に行く者は少数派で、たいがいは地元で就職する。男子には家業を継ぐ者も多く、女子はそんな男子と結婚して二代目の妻となり、夫の親と同居する。そんなケースが非常に多い町だ。

 T市の専門学校に進んだ者は都会派で、東京の大学に進学した者などは雲の上の存在。直美はその東京の大学進学派であった。

「大学っても短大だったよね?」
「そうだっけ。短大と大学ってどうちがうんだ?」
「短大は二年で大学は四年でしょ。泰司はそんなことも知らないのかよ」
「知ってるよ。知ってるけど、どっちだって同じじゃん」

 なんであっても、直美は東京の女などではない。小学校と中学校は泰司や加奈子と同じで、高校も加奈子と同じだった。小学校から高校まで同じとなると親しくなるか、逆に反目し合うか、知りすぎているからそうなる場合もよくあるが、加奈子と直美は後者だ。加奈子は直美が大嫌いだ。

 はるかな過去の話を今さらしても無意味なので、加奈子は言いたいことを飲み込む。

 建築屋の息子である泰司は、高校を卒業してT市の専門学校に行き、そこで知り合った女性と結婚して父親の会社に就職した。三十二歳にして末は社長。三人の子どもも小学生になり、妻も働いている。親と同居なので暮らし向きには余裕があり、加奈子にもたびたび気前よくおごってくれる。

 高校を卒業して地元の特産品である製麺工場の事務員になった加奈子は、なぜかいまだ独身だ。泰司の嫁はよそ者なので加奈子とは親しくなく、会うとイヤミを言われていた。

「いつもうちの主人がお世話になっております。キャバクラなんかに行くよりは、加奈子さんをはじめとするたかってくる同級生におごってるほうが安上がりだなんて申しますから、まあ、そのほうがましかなって思ってるんですよ」
「こちらこそ、お世話になります。おごらないと一緒に飲んでくれる女性はいないんですものね。こんな田舎のキャバクラ嬢よりはね、そりゃましですよね」

 おほほ、じゃ、またね、うふふ、ではでは、と毒を含んだ笑顔を向け合って別れ、次に会うとまた似た会話をする。軽いストレス解消にはなるのだった。

「住所、小学校のときのまんまなんだね。来てね」

 雑貨店「Sans Fausse Note」の開店案内状が届いて、加奈子も行ってみることにした。直美は大嫌いだが、おしゃれでかっこいい店となると好奇心をそそられた。

「……もしかしたら加奈子ちゃん?」
「うん、わぁ、直美ちゃん、ちっとも変わってないね」
「そんなことないよ。大人になったっていうか、いろいろ経験したから中身は変わったと思うんだけど、まだ三十二だもん。外見は変わらなくて普通でしょ」
「私はちょっと太ったから……」
「独身なのに太ったらいけないね。ダイエット指南しようか?」

 のっけから気分を害するようなことを言われて、加奈子はむっとした。

「……英語の名前ってしゃれてるね」
「店の名前? フランス語だよ」

 “fausse note”は「音程のはずれた」と言う音楽用語なのね。“Sans fausse note”は「音程のはずれない」つまり、「完璧な」と言う意味なの。直美の得々とした説明を聞いていると、加奈子のむかむか気分が高まっていった。

「素敵なお店だけど、こんな田舎でこんなおしゃれな店、流行るんだろうか」
「ああ、そこは大丈夫。T市にある家具店のショールームとタイアップしてるんだ。その店が大量に買ってくれるから、こっちは楽しんでやってればいいのよ。加奈子ちゃん、記念になにかプレゼントするわ。なにがいい?」

 いちいちむかむかする女だ。加奈子はぐるっと店内を見回して、目についたガラス細工を手に取った。

「わ、ごめん。それは高すぎるよ」
「こっちは?」
「加奈子ちゃん、だいたいの値段の見当がつかないんだったら、値札を見てね。常識の範囲でねだってね」
「ねだるって……」

 あんたがプレゼントするって言ったんじゃないかよっ!! 加奈子の「こいつ嫌い」気分に拍車がかかった。でも、プレゼントはほしい。

「直美ちゃんのセンスで選んでよ」
「そぉぉ? じゃ、これは? このおばさん、加奈子ちゃんに似てるし、笑いが取れるよ」

 ギャグみたいな布の人形だ。肥満体の西洋人の女が、両腕に子どもを抱えて必死の形相をしていた。

「直美の店、行ったか?」
「行った行った。ちょうど結婚記念日が近かったから、嫁にプレゼントを買ったんだ。そしたらずいぶんおまけしてくれて、娘にプレゼントって言って造花をくれたよ」
「直美ってほんと、太っ腹だよな。俺もスプーンのセットを買ったら、フォークもつけてくれたよ」
「いい店だよな。この町には似合わないくらいだ」
「いやいや、うちの町にも文化の香りのする店はあってもいいよ」

 今夜も同級生たちが、「トーコ」に集まっている。男たちが直美を話題にして盛り上がっていた。

「店もいいけど、直美は最高だよな」
「やっぱそこらへんの女たちとはちがうよな。さすが東京の女だよ」
「うちの娘が憧れちまって、東京の大学に行って将来は直美さんみたいになる、なんて言ってたよ」
「いや、おまえの娘とは顔が……」
「なんだって?」
「なんも言ってませんよ。いやいや、直美はもとから美人だったけど、東京の水で磨かれたんだろうな。俺らのもと同級生の女ったら、みんなもうおばさんだけど……」
「直美みたいのを大人の女っていうんだよな」
「おばさんと大人の女の差を見せつけられたぜ」
「うちの女房なんか直美よりも年下なのに、おばさんそのものだもんなぁ」

 そろってため息をつく男たちを見て、東子は不満げに頬をふくらませる。「トーコ」にも直美は来てくれるので、悪口は言えないらしい。今夜は他には女子はいないので、内緒話をするわけにもいかない。

 離婚して故郷に戻ってきた同級生。彼女が不幸なのならば、同情して昔の恨みは水に流してやってもいい。なのに、彼女は東京暮らしの残滓のおかげもあって、のびのび楽し気に暮らしている。それよりもなによりも、男たちが彼女を大絶賛するのが非常に気に食わない。

 あんなのただのバツイチじゃんかよっ!! と吠えるとひがんでいると笑われるのがオチだ。そこで加奈子は、とっておきの想い出話を持ち出した。

「小学校六年の運動会で、私がリレーのアンカーに選ばれたのは覚えてるよね? みんな、覚えてる? うんうん、よろしい。ちょっと、泰司、私の話がすむまで黙ってな」

 口を開きかけた泰司は、素直にうなずいた。

 運動会のクラス対抗学年別リレー競技は、娯楽に乏しい田舎町では相当に華やかなイベントだった。なのだから、同じ学年の者たちは、六年間のリレー選手を記憶している。おおむね同一人物だからもあるし、特にアンカーともなると特別なのだから、皆の記憶に刻まれていた。

「あのとき、私はリレーに出られなかったんだ。急遽代わりに選ばれたのが直美。直美は私の代理だってのに、普段は早いのを隠してたらしくて、三人抜きでトップになったんだよね」

 トップでゴールした直美に、お調子者の男子がインタビューの真似ごとをした。直美ちゃんがそんなに早いのは知らなかったよ、と言った男子に、直美は言ったものだ。

「だって、能ある鷹は爪を隠すって言うでしょ」

 あの言葉、加奈子は死んでも忘れない。
 だが、それはまだいいのだ。加奈子は重々しい口調になった。

「どうして私がリレーに出られなかったか知ってる? リレーの前に緊張してきて、トイレに行きたくなったんだ。大急ぎで走ってた私にぶつかってきたおばあさんがいたの。杖を突いてよたよた歩いてるばあさんに突き当たられて、私、足をどうかしちゃったんだよ」

 危ないねぇ、気をつけな、と言い放ったばあさんの憎々し気な口調も顔も、加奈子は死んでも忘れない。

「そのせいなんだよ。ごめん、ころんじゃった、リレーに出られないって言ったら、先生が真っ青になって、変わりを探したんだよね。そしたら直美が立候補したんだ。それで私、気づいて調べたんだ」

 どこの誰だかは知らなかったおばあさんは、いったいどこの誰だ? 小学生にできる限りで調べてみたところ、杖を突いた七十歳くらいのおばあさんといえば。

「運動会を見に来てた直美の親戚に、杖を突いたおばあさんがいたってわかったんだよ。だからさ……これ以上は言わない。今さら言ってもしようがないから言わないけど、そういうことだよね、きっと」

 店内がしーんとなり、へぇぇ、そんなことがねぇ、と東子が呟く。それで加奈子は直美が嫌いなんだ、と東子が加奈子の気持ちを代弁してくれていた。

「あーっと、それ、ちがうから」

 ところが、泰司が言い出した。

「俺、知ってるよ。まるっきり忘れちまってたけど、加奈子の話で思い出した。そのばあちゃん、直美の親戚なんかじゃねえよ。直美とはなんの関係もないばあちゃんなんだから、わざと加奈子をころばせるはずがない」
「だったら誰よ?」
「校長先生のお母さんだよ」
「へ? 嘘だぁ」
「嘘じゃねえよ。ちょっと待ってろ。写真があったはずだ」
「ってか、六年生のときの運動会の写真だったら、みんな持ってるよな。泰司が取りにいかなくても、東子んとこにはないのか」

 別の男子に言われた東子が、ちょっと待ってて、と奥に引っ込んだ。「トーコ」の奥と二階が東子一家の住まいになっている。東子はよそから引っ越してきた男と結婚していて、彼と彼の連れ子と二階で暮らしているのだった。

「あったよぉ。どれがそのおばあさん?」

 アルバムに貼られた二十年前の大判の写真には、大勢の人々が映っている。それでも全員の集合写真が撮れたのは、全人数が多くはなかったからだ。泰司が指さしたところには、校長の横に立つ狷介な雰囲気の老婦人がいた。

「加奈子が言わなかったら忘れてたんだけど、俺、見てたもん。ばあちゃんは別に怪我もしてなかったけど、痛い痛いって言うんだ。加奈子のほうが痛いんじゃないかって気になったけど、ほら、あの年頃って女子に優しくしたりしたらからかわれるだろ」

 気になったけれど加奈子は放っておいて、おばあさんの世話をしたと泰司は言う。泰司はおばあさんを医務係のもとに連れていき、呼ばれた校長が駆けつけてきた。

 お母さん、大丈夫ですか、大丈夫、ちょっところんだけだ、との会話も泰司は覚えていると言う。おばあさんは女の子とぶつかったとは口にせず、泰司も口にはせず、加奈子も特には他人には告げなかったので、些細な事件は時の流れの中に埋もれていった。

「……そしたら、直美はなんも関係ないな」
「加奈子の逆恨みだな」
「なーんだ、馬鹿馬鹿しい」

 これで話は終わり終わり、とばかりに、男たちが飲みのほうに戻る。で、直美はさ、と直美をもてはやすほうにも戻る。加奈子の恨みは宙に浮き、しかし、思ってはいた。
 そんなことはなかったのだとしても、故郷に戻ってきてのびのびしている直美は大嫌いだ。そんなことはなかったとしても、私があの女を嫌う理由はいーっぱいあるんだもんっ!!

次は「び」です。


ガラスの靴78「女子」

ガラスの靴


74・女子


 二十世紀半ばあたりまでに生まれた人間には理解しにくいようだが、今どきは夫婦、親子、家族の形態もさまざまだ。子どもの名前もさまざまで、こういう夫婦から生まれた子どももこんな名前をつけられているのかと思ったら、僕はむしろ安心していた。

「ボーイとジョーイだよ。笙くんだ。挨拶しなさい」
「こんちわー」
「……ちわ」

 先だって母と連れ立って僕んちにやってきたのが、母の姉、つまり僕の伯母。ここにいる耕一くんは伯母さんの長男だから、僕のいとこにあたる。
 彼はエリートだったのだそうだが、リストラに遭って転職した。ラッキーなことに奥さんがものすごく稼ぎのいい音楽家になっているのだそうで、収入が減っても生活はまったく困窮しない。

 超ラッキーだと僕は思うのだが、伯母さんは文句たらたらだ。
 なぜなら……人妻の身で外国へ留学なんてもっての他なのに、姑の反対を押し切って嫁は決行してしまった。そのころは収入もよく、寛大だった耕一くんが留学させてあげたから、奥さんは音楽家になれた。

 現在の嫁は子どもたちをほったらかして仕事に邁進していて、エリートではなくなった耕一くんが兼業主夫みたいになっている。なによりも、嫁の稼ぎが息子の約十倍あるらしいのが気に食わない。

 姑ってものは嫁のやることなすこと気に食わないのだそうで、耕一くんの奥さんがどんな女性だったとしても伯母さんは文句を言うのだろう。控えめで優しい専業主婦だったりしたら、息子の稼ぎで遊んでる、とか言うものらしい。

 その点、うちの母は……って、母も内心はなにを思っているのか知らないし、逆に僕のほうこそが、アンヌの実家でどんな悪口を言われているのかもわかったものじゃないが、ま、いい。アンヌも僕も胡弓も幸せなんだから。

「おじさんはお父さんのいとこ?」
「そうだけど……おじさんはないでしょ。僕はまだ二十三だよ」
「おじさんじゃん」

 小学生の望威と穰威、くそ、小学生から見たら僕もおじさんか。

 中途半端主夫で半分は僕の仲間である耕一くんは、だが、料理はそれほどに得意でもない。僕らは友達の誕生会に呼ばれるのだから、お招きし返したいと息子たちに言われて困っていた。今年は奥さんもいないし、いつものようにレストランでやるというのにも、息子は難色を示す。

「だったら笙くんに頼めば? あの子は暇だし」

 勝手に伯母さんが決めて、僕の母に依頼があった。伯母さんの頼みなのだから、当然胡弓は母が預かってくれて、僕がいとこの息子のお誕生会の手伝い、手伝いというよりもメインでパーティの準備をすることになったのだった。

 子どもの好きそうなピザやパスタやサラダ、適宜市販の品物も組み合わせて、ここが主夫の腕の見せどころだ。胡弓も幼稚園に通うようになったら、お誕生会をするようになるのだろうから、予行演習にもなる。

 次男のジョーイは八歳になる。お母さんが仕事で行っているパリから、シックなセーターのプレゼントが届いていた。お父さんの耕一くんは嬉しそうにセーターを見せてくれたが、本人は別にいらないなんて言う。小学生の男の子は服になんか興味ないのが尋常だろう。

 ピザもケーキも手作りがいいと耕一くんが言うので、お誕生会前日の今日から準備にとりかかる。ジョーイはけっこう僕のすることに興味があるようなので助手にして、ふたりでキッチンで働いている。胡弓ももうちょっと大きくなったら、こうしてお手伝いをしてくれるんだろうか。胡弓も将来は主夫になるんだったら、料理上手になるように教えたい。

 我が子の将来にも思いを馳せながら料理をしていると、来客があった。耕一くんは今日は仕事で出かけていて、お客はボーイのクラスメイトの女の子たちだった。

「兄ちゃんのガールフレンド?」
「そうなんじゃないの?」
「ふたりいるんだ。もてるね」

 ふんっと鼻を鳴らすジョーイは、女の子には興味ないのか。八歳ならばそれも尋常だ。二十三歳は十歳の女の子には興味ないが、ボーイのガールフレンド、しかもふたり、というのが気になったので、紅茶とクッキーを運んでいきがてら、様子を見にいった。

 奥さんの収入がいいから家が広い。そこも僕んちに似ている。応接室に入っていくと、少女がソファに並んで腰かけていて、ボーイは向かい側にすわっていた。

「お邪魔しています」
「ありがとうございます」

 お行儀よく挨拶した女の子は、アミルとユーアというらしい。どっちがどっちだか僕にはわからないが、意外なことには、ふたりとも特に可愛くもない普通の女の子だった。ジュニアファッションというのか、おしゃれな服を着てはいるが、ちっとも似合っていない。

「ゆっくりしていってね」
「はーい」

 声をそろえて返事をした女の子たちは、僕が部屋から出た途端、誰誰々? すごい綺麗、などと言っている。僕ってやっぱり小学生女子から見ても綺麗なんだ。
 お父さんのいとこだよ、とボーイが応じ、小学生の女の子なんてのは女になり切ってないから、案外見た目はもっさりしてるんだな、と思いつつ、僕は庭に回った。花の水やりでもしているふりをしながら、盗み聞きするつもりだった。

「だからね、ボーイが言ってやってよ」
「ナンリったら、絶対にあやまらないんだもん」
「あやまらないとあたしは絶対に許さないのっ」
「あやまるべきでしょ? ボーイだってそう思うでしょ?」

 うーん、まあねぇ、などと、ボーイはうごうご言っている。女の子たちが言っているのは、クラスの別の女の子のことのようだ。

 アミルとユーアとボーイとナンリ、他にも何人かのメンバーで、クラスの中の班として集団行動をしているらしい。そういうグループは僕らが子どものころにもあった。ナンリという名の女の子は、いつもアミルに意地悪をする。班単位の行動のときにわざとまちがえたり、発表を滞らせたりしてアミルに迷惑をかけるのだそうだ。

「この間、ボーイだって見てたでしょ」
「あれは絶対にわざとだよ。ナンリはアミルが可愛いからってやきもち妬いてるの。ナンリはアミルみたいな服も買ってもらえないんだよね」
「ナンリんちはお父さんいないから、安い服しか買ってもらえないんだよ。あたしが可愛いからっていうよりも、あたしの服に嫉妬してるんだよね」
「お父さんいないと服が買えないの? お母さんが働いたらいいんじゃない?」
「働いてても、お母さんは給料安いの」

 自分の母親はセレブみたいな高給取りだから、ボーイには一般的母子家庭が理解しづらいらしい。うちだって母子家庭になってもへっちゃらだろうが、父子家庭になったら大変だ。僕では胡弓を養って行けないから、実家に帰って両親に頼るしかない。

 大変だ大変だ、アンヌに離婚されないように、いい夫でいなくちゃ。僕はつい気持ちをよそにそらしていたが、小学生たちの会話はしっかり聞いていた。

 この年でも嫉妬だなんて言うんだな。アミルのどこが可愛いの? と質問してみたいが、それはどけておいても、ナンリが買ってもらえない流行の少女ファッションに嫉妬してアミルに意地悪をするというのは、ありがちなのかもしれなかった。

「ここに班のみんなに来てもらってもいい?」
「全員、そろうかな」
「来られる子だけでもいいんじゃない? 一斉メールするよ」

 嫉妬だってするんだから、小学生もスマホを持っている。女の子のうちのどちらかがメールをし、返信が届いたらしい音が響く。僕は料理をすっかり忘れてしまっていて、ジョーイも飽きてしまったのか、僕を呼びにはこなかった。

 私立の小学校らしいが、ボーイの班の子たちは徒歩か自転車で来られる範囲に住んでいるようだ。やがて、ひとり、ふたりと小学生が、耕一くんちに集合してきた。

 もっと聞いていたいが、ばれたら怪しい奴だと思われる。僕は小学生から見たらおじさんなのだから、子どもたちの会話を盗聴でもしているヘンシツシャだと思われたら大変だ。笙、おまえは変態だったのか、とアンヌに怒られて捨てられそうな不安も湧いてきた。

 しようがないのでキッチンに戻り、料理の続きをやる。ジョーイは逃亡してしまったようで姿が見えない。小学生たちの会話が気になりつつも料理に熱中していると、キッチンの外に人の気配を感じた。

「……ああ、キミ、ボーイの弟?」
「そうだよ。きみは?」
「ボーイと同じ班の、ナンリっていうの」
「僕はジョーイ。どうかしたの?」

 応接室から抜け出してきたらしい、ナンリがキッチンの窓の下に来ていた。

 この年頃の二歳差は大きい。胡弓とジョーイの差、五歳はもう、赤ん坊と少年だが、八歳の男の子と十歳の女の子にも、おおいなるちがいがある。ジョーイにはまだ無邪気さが残っているようで、軽い調子でナンリに質問していた。

 うまい具合にここだったら、話がよく聞こえる。僕は変態じゃないからね、変な意味で気になるんじゃないからね、とアンヌに言い訳しながらこそっと覗いてみたら、ナンリとジョーイの頭が並んでいるのが見えた。

「意地悪されてるのはあたしなんだけどな……」
「誰に?」
「班の女の子たち」
「イジメ?」
「イジメってほどでもないんだけど、悪いことはなんでもナンリのせいだって言われるの。意地悪したのはアミルなのに、あたしが悪い、あやまって、って。そう言われたのは昨日だったんだよね。あたしは悪くないって言ったから……」

 あやまるのはいやだとつっぱねたから、アミルとユーアがボーイに相談しにきたらしい。やっと僕にもこの話題の内容が見えてきた。

「さっきも他の女の子たちは、うーん、ねぇえ、とかって言ってた。女の子たちはアミルとユーアが意地悪なのを知ってるから、さからわないんだよ。あたしはさからったから、ターゲットにされちゃったのもあるかな。男の子たちは、ナンリが悪いんだろ、あやまれよ、そういうときにさらっとあやまれない女って最低、だとか言うの。悔しいからあやまりたくない」
「……僕、よくわかんないよ」
「そうだろうね。だけど、聞いてもらえるだけでもいいの。あたしは絶対にあやまらないから」
「仲間外れにされない?」
「いいんだもんっ!!」

 正しいのはどっちなのか、僕にはこれだけでは判断できない。ナンリは意地っ張りな女の子で、本当に悪かったのにあやまりたくないと言い張って泣いているのか。それとも、アミルやユーアが意地悪なのか。

 むずかしいねぇ、女の子の世界は。胡弓は男に生まれてよかったよね。僕はどうしても我が子に思いを馳せる。男の子は深くものごとを考えず、口のうまい女の子に言いくるめられていたらいいんだ。男の子同士は単純に、あばれたり罵り合ったりして遊んでいればいい。

 そして、将来は主夫になるといいよ、胡弓。アンヌみたいなかっこいい女性をつかまえられるといいね。

 よその子どもたちのもめごとに僕が出ていくわけにもいかない。単純な男子がちょっとだけ成長した身としては、丸く収まるといいね、と窓の下のナンリに心で話しかけることしかできなかった。

つづく

 
 
 

2020/8 復刻・花物語「向日葵」

「花物語」

八月・向日葵


 幼いころには特に気にもしていなかった。葉月くんち、お父さんはいないの? と遊び友達に訊かれれば、よそに住んでいるのだと答えていた。
 母が知人や近所の住人にどう説明していたのかは知らない。単身赴任などなどで家に父親がいない家庭はあったのだから、奇異なことでもないと受け止められていたのだろう。

 同居はしていなくても、父は頻繁に我が家にやってきた。羽振りのいい税理士だと知ったのは小学生になってからだが、収入もよく、気前もよく、プレゼントをくれたりレストランや遊園地に連れていってくれたりして、ひとり息子の葉月に愛情をふんだんに注いでくれた。

「そりゃあさ、金は持ってるよな、なんたって女房と二号がいたんだから」
「二号ってなに?」
「妾だよ」

 中学生になる春、父が葉月に打ち明けた。

「おまえのお母さんの智慧さんとはお父さんは正式に結婚していないんだけど、認知はしてるんだよ。認知ってわかるか? 葉月は私の息子です、という認知だ。お父さんには正式な妻がいるんだ。葉月ももう小さな子どもではないのだから、本当のことを話そうと思ってね」

 子どもじみた外見と内面を持つ、ふみ代という名の女。ふみ代は葉月の父の学よりも十二歳も年下で、ひとりで置いておくにはどうにもこころもとない頼りない女だったのだそうだ。
 そんな女を救済する意味で学はふみ代と結婚し、そのあとで智慧と出会った。

 ふみ代とは正反対の性格の智慧は、学が離婚して智慧と再婚することは望まなかった。妊娠しても結婚は望まず、私がひとりで育てていくと言ったのだそうだ。

「僕は感動したよ。僕の愛した智慧さんはなんてかっこいい女なんだろう、ってね。もちろん僕も協力した。ふみ代も心がけのいい女で、葉月が小さいころにはベビーシッターをしたんだよ。おまえは覚えてないかな。葉月が幼稚園のころに四人で遊園地に行ったら、智慧さんがジェットコースターに乗りたがった。葉月はそんなものに乗るには幼すぎたし、ふみ代は怖がりだから、智慧さんと僕が乗ったんだ。ふみ代はおまえとふたりで空を見上げて手を振っていたよ」

 言われてみれば思い出す。親戚のおばさんだと訊いていた小柄な女性、彼女を葉月は単におばちゃんと呼んでいたが、父や母はふみ代さんと呼んでいた。
 ジェットコースターに乗るなんて勇気があるわね。葉月くんのお母さんってほんとにかっこいい。うらやましいわ、と邪気もない笑顔をふみ代は葉月に向けていた。

「世間の常識ってのは窮屈なものでね、智慧さんも僕もふみ代も納得していても傍からとやかく言いたがるんだ。僕はふみ代をないがしろにもしていない。智慧さんも葉月も大切にしてきた。僕には奥さんはいるけど、形式上の妻というのか、智慧さんとも合意のもとで、ひとりでは生きられない女を救ったにすぎないんだよ。だから、おまえもおまえの親を誇りに思っていいんだよ」

 十二歳だった葉月にはわかりづらい理屈で、お父さんがそう言うんだったらそうなんだろうな、だけど、他人には言わないほうがいいのかな、程度に消化しておくしかなかった。

「俺が小学校に入ると、ふみ代さんってのは遠慮して俺に会いにこなくなってたらしいんだ。親父はてめえを正当化していたけど、後ろ暗い気分もあったんだろ」
「変わった関係だね」
「三角関係っていうんだよな。普通だったら本妻ってのが狂気のごとく怒るんだろうけど、ふみ代さんってわけわかんなくて、会いにいったよ」

 ふみ代と父の家庭であるマンションをつきとめて、葉月が会いに行ったのは中学三年生の夏休みだった。
 今、こうして恋人になった女に自分語りをしながら、葉月はあのときのことを思い出す。すべてを知ってから最初に、そして、最後に会ったふみ代を。あれは五年前だった。

「葉月くん? 大きくなったのね」
「聞きました」
「あ、ああ、そう? どうぞ、お入り下さい」

 なにを聞いたのかを、ふみ代は察したのだろう。玄関先で名乗った葉月を部屋に通してカルピスソーダを出してくれた。

「噂には聞いてたのよ。写真を見せてもらったり、背が高くなったって話を聞いたりはしていたの。こうして目の前で見ると、お父さんに似てハンサムだわ」
「ふみ代さんはそんなんでいいんですか?」
「そんなんでって……私は幸せよ」
「俺は……」

 なにをどう言えばいいのか、胸が詰まって涙が出てきそうになって、葉月は窓の外を見た。どこかのベランダにでも咲いているのか、丈の高い向日葵が窓から覗いていた。
 
「誰のために咲いたの
 それはあなたのためよ」

 あなただけの花になりたい……
 それが私の願い……
 
 細い声でそんな歌を歌い、ふみ代は言った。

「学さんは私の太陽だから。学さんがいるから、私はひまわりみたいに幸せなの。私は子どものできない体質で、学さんをお父さんにはしてあげられなかった。智慧さんのおかげで私もお母さんの真似事みたいなことをさせてもらえたんだし、学さんにも息子ができたんだから感謝してるわ」
「本音なんですか」

「ええ、もちろん。葉月くんはいやなの?」
「いやっていうのか……」
「あなたのお父さんもお母さんも立派なひとよ。悪く考えたりしたらばちが当たりますよ。まぁね……」

 子どもって保守的なものなのよね、と笑っていたふみ代は内心ではなにを考えていたのだろうか。正直な気持ちをすべて押し隠して笑っていたのならば、女って怖い。
 自分の気持ちを上手に言葉にはできなくて、葉月はただ、ふみ代を見つめた。見つめているとふみ代の気持ちのかけらが伝わってくるような気がして、ひたすらに怖かった。

END

 

ガラスの靴77「離婚」

ガラスの靴

77・離婚

1・アンヌ

新製品キャンペーンのためのイベントで、あたしたち「桃源郷」は、CMソングを担当している会社のブース近くにいた。

 毎年この時期になると、各製菓会社がこぞって新製品のチョコレートを販売する。チョコレートといえばスゥイートなのが当然だが、パンチの効いたビターな大人のチョコとかいって、この会社では真っ黒なチョコレートを売り出した。我々の音楽もパンチが効いているということで、桃源郷にCMソングの依頼があったのである。

 ほぼ一斉にスタートするニューチョコレート商戦に先立ってのイベントだ。あたしたちも演奏すると決まっているので、ロッカーファッションで適当に待ち時間を過ごしていた。

「新垣アンヌさんでいらっしゃいますよね」
「そうだよ」
「はじめまして。わたくし、こういう者です」
「沖永?」

 中年の、わりあいに綺麗な女だ。彼女がくれた名刺には、あたしたちとは無関係の製菓会社の名前と、企画部第二課長、沖永夕子の名前があった。

「あたしの知り合いにも、沖永っているよ」
「そうなのですか。わりに珍しい名前ですけどね」
「そだね。けっこうかっこいい名前だよね」
「そうですよね」

 CMソングはまだテレビでは流れていないが、同じ業界の人間なのだから、沖永夕子にも聴く機会はあったのだろう。あたしの知り合いの沖永正とは別に関係もなさそうだったのでその話題は出さなかった。

「私は昔はロック少女だったんですよ。外国のロックバンドのコンサートにはよく行きました」
「最近は行かないの?」
「ロックコンサートって立ちっぱなしでしょ。ついていけません」
「おばさんの証拠だぜ」
「おばさんですもの」

 四十代だろうか。背が高くて堂々とした体格をしている。左手の薬指にはプラチナのリング。既婚者なのだろう。子どももいるのかもしれないが、彼女は音楽の話ばかりをしていた。
 もちろんあたしだってロックは好きだから、会話は盛り上がった。

「だけど、私が若くて元気だったころのロックバンドのコンサートには、もう一度行ってみたいんですよ。アンヌさんはX・レイズってごぞんじですか」
「知ってるよ。大好き」
「そうなんですか。これはまだ極秘なんですけど……」

 来日がほぼ決定的だと、夕子は声を低めた。

「うちの会社が関わるんで、チケットはどうにか……アンヌさんも行きたいですか」
「行きたいな」
「日時は未定なんですけど、アンヌさんのスケジュールは?」
「そんなもん、どうにだってするよ」
「ご一緒していただけます?」
「喜んで」

 そうやって根回ししておいて、彼女の会社の仕事もさせるつもりなのかもしれない。別会社のチョコレートのCMソングがテレビに流れるのだから、似たような仕事はできないが、そこは彼女だって承知だろう。桃源郷のイメージを損なわない仕事だったら受けてもいい。

 X・レイズはデビュー四十年になるというのだから、現役真っ只中の黄金時代はあたしだってリアルタイムでは知らない。何度も解散したり再結成したりしているものの、オリジナルメンバーがひとりも欠けずにそのままなのは稀有な例だろう。

 七十歳近くになるじいさんバンドが、四十周年を記念してまたまた再結成し、ニューアルバムを出し、世界ツアーもやるという。X・レイズの生演奏は二年ほど前に仕事でロンドンに行ったときに聴いているから、まったく衰えていないのも知っていた。

 来日は二十年ぶりくらいだろうから、プラチナチケットになると予想される。それを夕子が手に入れてくれるというのならば、万難を排して駆けつける。仕事だってやってやろうじゃないか。


2・笙

 新しいデジタルウォークマンがほしくて、息子の胡弓を母に預けて電気屋さんにやってきた。ここはアンヌたち桃源郷が所属するCDレーベルの本社ビル近くだ。誰かに会うかもしれないと想像していたら、あまり会いたくないおじさんが店に入ってきた。

「やぁ、笙くん、主夫が出歩いてていいのかね」
「いいんだよ」

 主夫と大きな声で言わないで、と止めてほしいのかもしれないが、僕は周りのひとに奇異な目で見られても平気だ。案の定、近くにいた老人が、シュフ? この男が? という目を僕に向けていたが、無視した。

「沖永さんはなにしにきたの?」
「僕はひとり暮らしだから、食洗器を買おうかと思ってね」
「持ってないの?」
「贅沢な気がして買ってなかったんだよ。笙くんちにはあるの?」
「あるよ」
「専業主夫のくせに、手抜きしてるとバチが当たるぞ」

 ほっといて、と舌を出して、僕は僕の見たいものを眺める。
 沖永正、桃源郷のCDやDVDを出している会社の事務職員だ。なんの仕事をしているのかを僕は詳しくは知らないが、事務系なので音楽業界人種というのでもない。五十代のでっぷりしたおじさんだ。

「そういえば、アンヌが沖永さんっていう女性に会ったんだって」
「へぇ。親戚かな」
「名刺があるよ」

 おおざっぱなアンヌは、よその方からもらった名刺を放りっぱなしにする。専業主夫の僕としては、その名刺をきちんと整理整頓するのも仕事だ。ちゃんとホルダーに入れておかないとあとでアンヌに叱られるのだが、今回は忘れて財布に入れたままだった。

「このひと……知ってる? むこうは知らないようだったってか、そんな話はしなかったらしいけどね」
「沖永……夕子……YS製菓? おいおい、この女、僕の元妻だよ」
「ええ、ほんと?」

 なぜか急ににやにやしはじめた沖永さんに、お茶に誘われた。ランチどきはすぎているが、沖永さんは管理職らしいから、少々さぼっていても誰にも怒られないのだろう。僕も彼の話を聞きたくて、ウォークマンは後回しにしてカフェに移動した。

「沖永さん、知らなかったの?」
「前の妻からは養育費をふんだくられてるから知ってるけど、その前の妻は知らないな。夕子との間には子どもはいなかったからね」

 バツイチかと思っていたら、このオヤジはバツニだったらしい。こんなのでももてるのか、一度も結婚したこともない男は腹が立つかもしれない。

「結婚するときには、僕の姓になるのはいやだってごねたくせに、旧姓に戻してないんだ」
「結婚してるみたいだってアンヌは言ってたよ。沖永さんっていう別人と結婚したとか?」
「そんな偶然はないだろ。あいつ、僕に未練があるんだなぁ。意外に可愛いね。どうやってアンヌさんと知り合ったって?」

 イベント会場でむこうから話しかけてきたというエピソードを口にすると、沖永さんはますますにやついた。

「そっか。アンヌさんが僕と関わりがあると知ってのことだな。もうちょっと待ってみよう。むこうから接触してくるかもしれない」
「……嬉しいの?」
「嬉しくはないよ。過去すぎて迷惑だけど、僕に未練があって結婚していたときの苗字を変えてないだなんて、けなげってか不憫ってか……情にほだされるじゃないか」

 離婚しても女性は必ずしも旧姓に戻さなくてもいいというのは聞いたことがあったが、そうされた男は嬉しいものなのか。沖永さんは明らかにやにさがって、夕子と結婚していたころには……と、そのころの話をだらだらと続けていた。


3・アンヌ

 半分は忘れてしまっていた沖永夕子から電話があったのは、X・レイズの来日が中止になったとの報告だった。

「そっか。残念」
「すみません」
「あんたのせいじゃないだろ。あ、そうそう、この前は聞かなかったんだけど、沖永正って知ってる?」
「……TKO企画の? あ、ああ、桃源郷ってあの会社からCDを出してるんですよね」

 これはたった今、思い当ったのだろう。そうかそうか、と呟いているのは、沖永正を知っているからに相違ないようだった。

「今となったらなつかしい名前ですね」
「あんたってその沖永の苗字は、あいつと結婚してたころのまんま?」
「そうなんですよ。私が今の会社に入ったのは、沖永と結婚してからなんです。最初から私は沖永夕子でしたから、旧姓に戻すのも面倒で……」
「ああ、そういうことね」

 あのおっさんに会った笙が夕子について話し、おっさんが自分にばかり都合のいい解釈をしていたとは、言う必要もないだろう。

「結婚してるんじゃないの?」
「私ですか? ああ、この指輪? うぬぼれてるって言われるかもしれないけど、虫よけですよ。アンヌさんって沖永をごぞんじなんでしょ。あんな男と結婚して離婚してせいせいしたんですから、二度と結婚なんかしません」
「わかるけどね」

 強がっているようにもないが、沖永に真相を話してやったら、彼はどんな反応を示すのだろう。僕に未練があるから再婚もしないのか、かわいそうに、だとか言いかねない奴だ。
 こうして男と女の思惑は食い違う。離婚なんて面倒だからあたしはしたくないけど、絶対にしないと言うと笙が図に乗るから、いい加減しないと捨てるぞ、って台詞は切り札として取っておくつもりだ。

つづく

 

 


2020/7 復刻・花物語「くちなし」

「花物語」

 

七月・くちなし

 

 

 生まれた月にちなんで、親がつけた名前は流火。
 
「七月の古名に、流れる火で「りゅうひ」っていうのがあるんだって。りゅうひ、では求肥みたいだし、女の子の名前らしくないってことで、るびと読ませることにしたらしいんだよね」
「流れる火って花火かな」
「火はアンタレスだそうよ」
「さそり座の?」

 

 変わった名前だね、と誰かに言われるたびに、私はそんな説明をしてきた。うちの両親には教養はないのだから、なにかの本を見ていて、七月には「流火」という名前もあると知り、おっ、かっこいい、となってつけたのだろう。

 

「僕はきみの名前に真っ先に惹かれたんだ。流れる火、暗闇に流れる一筋の火、なんて情熱的な名前なんだろうって感激したんだよ。火のような美女を想像したんだ」
「私はそれほどの美女じゃないでしょ」
「いや、僕にとっては美女だよ」

 

 なんて、情熱的に口説いてくれる男とめぐり会ったのだから、この名前も無駄ではなかった。彼が入社し配属されたのは人事部で、まず第一の目標を、この営業所の全社員の名前を覚えるというところに置いたのだそうだ。

 

 さほどに大人数ではないから可能だったわけで、彼は社員名簿を見て名前を暗記しようとした。その中には当然、私の名前もあったのだった。

 

 彼、貴明よりも二年早く入社した私の名前に惹かれ、営業部にいる私の顔を見たいと願い、仕事にかこつけて私の部署にやってきた。私は営業であるので社内にはいないことも多く、貴明が流火の顔を見られるまでには日数を要した。

 

 貴明の願いがかない、彼にとっては美女、すなわち、好みのタイプだった私に恋をした。名前の次はルックスに惚れたとは、軽薄でなくもないのだが。
 ところが、当時、私には恋人がいた。貴明に告白されて断り、彼とは職場の先輩、後輩関係のままで親しくしていたのだが、私が恋人と別れると、貴明が再度アプローチしてきた。

 

「そんなに私が好き? 私、けっこう男友達は多いよ。妬いたりしない?」
「妬くかもしれないけど、束縛はしないよ。ちなみに、どうしてそんなに男友達が多いの?」
「子どものときには少年野球チームにいて、そのころの仲間と草野球チームをやったりしてるから」
「流火さんって野球が上手なんだ、尊敬しちゃうな」

 

 惚れた女ならばなんだってよく見える。そんな状態だった貴明と交際することになって、二年ほどたってプロポーズされた。

 

「結婚はいやじゃないけど、結婚式に友達をたくさーん呼んでいい?」
「いいけど、男友達も?」
「男は駄目なの?」
「いいけどね……」

 

「貴明も女友達を呼べばいいじゃない」
「僕には流火以外には親しい女性はいないよ」
「つまんない人生を送ってるなぁ」

 

 いじいじしていなくもない様子の貴明の肩を叩いて、とにかく、互いの招待客の人数は合わせようと話し合った。
 最近、もっとも親しくしているのは、私が暮らすマンションのご近所さんたちで結成した、草野球チーム「神山ブロッサム」の面々だ。中学生からおじいさんまでがいるチームの全員を結婚式に招待したかったのだが、そうすると他の友達が呼べなくなるので、チーム監督のゴローさんに相談を持ちかけた。

 

「独身女性だって結婚式には来るだろ」
「私の女友達は呼びますよ」
「だったら、独身男を呼んでやれば?」
「そのほうがいいかな」

 

 こいつとそいつとあいつ、リストを作っていると、ゴローさんがふと言った。

 

「そうそう、ベルンを呼んでやってくれないかな」
「ベルン?」
「あいつ、日本人の結婚式に興味があるんだそうだよ。誰か結婚式しないかなぁ、僕も出席したいなぁ、なんて言ってた」

 

 ベルンとはドイツ人留学生で、日本文化を学ぶために大学に通っている。ご町内のアパートで暮らしていて、野球も日本文化のひとつだと言って「神山ブロッサム」に参加している。日本語はやや怪しいが、気のいい青年なので、私も彼に好感を持っていた。

 

「流火さん、結婚式に招待くれられてアリガト。ボク、サプライズの贈り物をあなたに与えます」
「与えます、じゃなくて、プレゼントするからね、でいいんだよ」

 

 とにかく友達がたくさんいるので、私は親戚を省いて主要な友人を招待することにした。結婚式当日、貴明は親類が多いのでゲストの人数の釣合もほどよく、ただし、平均年齢は私側のほうがかなり低いようだった。

 

「ベルンのサプライズプレゼントってなんだろ。ゴローさん、聞いた?」
 野球チームのメンバーの独身男子の中に、唯一まじった中年既婚男子、ゴローさんに尋ねると、彼は首をかしげた。

 

「俺はなんとなくは聞いてるけど、サプライズだって言うんだったら内緒だよ」
「そっか。ドイツ独特のお祝いとかがあるのかな」

 

 披露宴がはじまり、職場の上司の祝辞などもあって、やがて友人たちのパフォーマンスになった。貴明の友人グループがギターを弾いたり、私の女友達が三人でぶりぶりのダンスをしてくれたり、楽しくプログラムが進んでいって、さて、ベルンの番だ。

 

「流火さん、貴明さん、ご結婚おめでとうございます。流火さんの誕生日は七月。七月の花といえばこれですね」

 

 芳香をふりまく白い花のブーケを、ベルンが新婦席の私に捧げてくれた。花か、これのどこがサプライズなんだろう。ベルンは続いて、長い紙を広げてみせた。

 

「ボク、日本文化のお勉強をしています。書道というものも好きです。ボクが書いたくちなしの花言葉です」

 

 「私はとても幸せ」「優雅」「洗練」「清潔」「喜びを運ぶ」、五枚の長半紙に、ちょこっとゆがんだ文字が躍っている。ちょこっとゆがんではいても、私の筆文字よりも流暢だ。客席から拍手が起き、ベルンは優雅に一礼した。

 

「ボク、日本の歌を覚えました。聴いてね」

 

 くちなし? ひょっとして? やばい? 

 

「い~まではゆびわもま~わるほど~
 やせてやつれたおまえのうわさ」

 

 古い歌だが、おじさんやおじいさんとも仲良くしている私は知っている。この歌の続きを。

 別れた女を思い出してうじうじしている男の歌。結婚式では不吉だ。目をやると、ゴローさんがあちゃっという顔をしている。ベルンは音程も発音も怪しいので、気づいていない者もいるようだが、私たちの親世代はぴんと来るのでは?

 

 今さら止めるわけにもいかず、内心で困惑していると、ベルンの音程がどんどんずれていく。歌詞もかなりおかしくなっていく。この分では大丈夫かな? ベルン、気持ちは嬉しいよ、ありがとう。
 こうなればあとは、運を天に任せよう。

 

END

 

 

 

 

ガラスの靴76「掃除」

ガラスの靴

     76・掃除


 婚活は金になるから、我々もその業界でビジネスをはじめよう。
 そんな考えを持つ人間が続々と出てくるのが当然なくらい、婚活流行りである。このカップルも婚活パーティで知り合って結婚したのだそうだから、これはいける、と踏んだのだろう。

 田中弘雄、秀子の三十代カップル。ともに地味でだっさいタイプで、妻のアンヌの職業柄、音楽業界人の知り合いが多い僕の世界には、やや珍しい人種だ。

 ごく普通の会社員であるふたりは、婚活会社を起業しようと画策中。サクラというのか、それだったら僕でなくてもバーチャルな人格を作ればいいんじゃない? とでもいうのか、として僕を雇いたいと言うので、僕としても興味はあった。

 アンヌのバンドメンバー、吉丸さんの事実婚の妻、ただし男、僕のパパ友である美知敏、通称ミチは昔、婚活会社でサクラのバイトをしていたのだそうだ。そのころにミチが田中夫婦と知り合い、彼もまたふたりの仕事に誘われている。

 起業は企画段階だから、僕としてもそれほど真剣に考えてはいない。あの話、どうなったのかな、まとまらないのかな、程度に考えていたころ、ミチに誘われて田中家に遊びにいくことになった。

「まだ決まってはいないのよ。私たちも仕事がけっこう忙しくて、次の仕事のことを考えてる時間がないの。だけど、ミチくんと笙くんを見てるとそれだけでも目の保養になるし、ふたりとも主夫でしょ? おいしいものを作ってくれるんじゃないかと期待して呼んだのもあるのよ」
「あ、ああ、作りましょうか」
「作ってもいいけどね」

 食材はあるというので、ミチとふたりでキッチン入って、なにを作ろうかと相談していた。

「僕も暇だったからいいんだけど、僕は弘雄さんや秀子さんを見てても全然楽しくないよ」
「僕も楽しくはないけど、バイトの話もちょっとは聞けるんじゃないのかな」
「どうだろ。あんなの、言ってるだけなんじゃない?」

 実の息子である僕の胡弓、継子であるミチの来闇は、僕の母が僕のマンションに来て預かってくれている。
 昔の主婦は現代のママたちみたいぴりぴりしていなくて、時には友達同士で子どもの預かりっこをしたのだそうだ。さらに昔、僕の祖母世代だと赤ん坊が寝ている間に買い物に出かけたという。ほったらかしにされた赤ん坊が起きて泣き出すと、勝手に近所のおばさんが家に入り込んであやしてくれたそうなのだから、びっくりだ。

 そんな世代の主婦だから、母は気軽にライアンだって預かってくれる。ベテラン主婦に預けると安心だとミチがお世辞を言ってくれ、大好きな幼児たちと触れ合えるのだから、母はご機嫌だった。

 そうやって遊びに出かけてきたのに、よそのうちでまで主夫の仕事かよ。ミチが文句を言いたがるのももっともだが、僕はこうしてよそのうちのキッチンで、ミチと料理を作るのは楽しくなくもない。ミチは僕ほど主夫として熟練していないので、料理のコツを教えてあげていた。

「ただいまぁ、笙くんとミチくんが来てるんだね」
「お帰り。そうよ。今日だったら弘雄くんも早く帰るって言ってたから、来てもらったの」
「なんか作ってくれてるの? お、掃除したんだ」
「気がつくだけいいほうだね」

 声だけが聞こえて顔は見えないせいか、秀子さんの口調がイヤミっぽいのも感じ取れた。

「お客が来るから?」
「そういうわけではなくて、あなたがちっともしないから」
「するって言ってるじゃないか」
「しないじゃないのよ。日曜日には必ずするって約束したくせに、仕事に行っちゃったじゃないの」
「まだそれほど汚れてもいなかっただろ」
「汚れてました」
「たいしたことないから、土曜日までほっといても平気かなって」
「平気じゃないわよ」

 この家には子どもはいないのもあって、こういう夫婦喧嘩はありがちかもしれない。我が家には三歳児がいるので、あまりにも埃っぽかったりすると子どもによくないかと僕は一生懸命掃除している。二、三日さぼることはあるが、その程度だとアンヌは気にしない。

 さほどに几帳面ではない僕と、かなり大雑把なアンヌだから、我が家は多少の家事の手抜きは問題にならない。両方が几帳面だったら、両方できちんとするだろう。

 問題なのは田中さんちのように、そのくらいどうってことない、と思うほうと、どうってことある、と思うほうに分かれる夫婦だ。ふたりの約束によると、掃除は弘雄さんの役割らしいのに、なんだかんだと逃げて彼はさぼってばかりいる。それで秀子さんが怒っているらしい。

「だけど、掃除したんだろ。よしよし、えらいえらい」
「弘雄くんにそうやってえらそうに言われる筋合いはないのよ。生活費は半々出してるんだからね」
「わかってるよ。起業したらもっと楽させてあげるからね」
「それだって口ばっかり」

 やはり起業は口ばかりらしい。隣の部屋の会話が気になるので、ミチと僕は黙って料理を作っていた。

「起業したって私は楽になんかならないでしょ。弘雄くんがそんななんだから、私ばっかり苦労するんじゃないの?」
「そんなことないって。ああ、やっぱ部屋が片付いてると気持ちいいね。掃除、ご苦労さま」
「掃除なんかしてないわよ」
「……え? まさか、掃除まで笙くんとミチくんにさせたの?」
「ちがいます。ハウスクリーニングサービスに頼んだの」
「……そか」

 なぜか弘雄くんはがっかりしたような声を出し、着替えてくるよ、と言って別室に行ったようだった。
 
「笙くん、味つけ、どう?」
「ああ、うん……えーと、ちょっと甘みが足りないかな」
「みりんを足そうか」

 甘みは先につけておかないと、あとだと効きにくいんだよ、なんて主夫の会話をしつつ、根菜煮を作る。子どものころに母が作ってくれたこの料理は嫌いだったけど、身体にはいいんだ。主夫になり父になると、こういうのもおいしく感じるようになってきた。

「……なんだかね」
「ああ、お帰りなさい、弘雄さん」
 
 振り向くと、普段着に着替えた弘雄さんが立っていた。

「どうしたの? お疲れ?」
「あの台詞は女を下げるよね」
「女を下げる?」
「掃除をしたのは掃除の会社だって、秀子さんの台詞だよ」

 がっかりしたようだったのは、お金を使って掃除をしてもらったから? ミチが尋ねた。

「贅沢だって?」
「いや、まあ、秀子さんだって働いてるんだから、贅沢だとは言わないけどね……」
「だったらなんだよ?」
「家事代行ってのは主婦としてはいかがなものかと……秀子さんだって働いてるとはいえ、主婦なのもまちがいないだろ。僕と結婚した以上は秀子さんは主婦なわけで……たかが掃除に人を頼むとは、いやはやなんとも……いいんだけどね」

 横目でちらっと僕を見てから、ミチが言った。

「だったらどうしたいの?」
「僕がするって言ってるんだから、待っててくれればいいのに」
「しなかったんでしょ」
「忙しいんだよ」
「秀子さんだって仕事も忙しいんじゃないの?」
「そりゃそうだけど……」

 もごもご呟いている弘雄さんに、僕も言った。

「女を下げるって、そうすると、夫に家事を分担させるなんてのも、主婦としては女を下げる行為なんだよね」
「正直言えばそうだね。家事なんて仕事の合間にちゃっちゃっとすませて、僕が帰ったらおいしい料理ができている。男のひとに掃除をさせるなんて、主婦の名折れだわ、と爽やかに笑ってみせる。理想を言えばそれだなぁ。おっと、奥さんには内緒だよ」

 隣の部屋には秀子さんはいないのか、しんとした気配だけが伝わってきていた。

「そうじゃなかったら結婚した値打もないな、ってのが男の本音なんだよ、きみたちだって男なんだからわかるだろ。……ん? あ?」

 はっとした顔をしたのは、今ごろ気がついたのか。笙も僕も世間一般のステロタイプな「男」ではない。男同士の内緒話ができる相手ではないと知らなかった?

「僕ら、主夫だから」
「専業だから、奥さんには家事はさせないけどね」
「女性の主婦の気持ちもすごくよくわかるんだよね」
「まして働く主婦だろ、秀子さんは」
「旦那の本音を聞いたら、鼻白むっていうの?」
「それだけですむかな」
「離婚とか?」

 そ、そ、それは……あの、その、あの、とうろたえている弘雄さんの、青ざめた顔を見ていると楽しい。僕ら主夫にも日ごろのストレスはおおいにあるのだから、弘雄さんを苛めて発散させてもらおう。

つづく

212「なんでそうなるの」

しりとり小説

212「なんでこうなるの」

 愚痴を綴ってブログにアップすればストレス解消になる。どうせ私のブログなんて読んでくれる人もいないし、友人知人には話してもいないのだし。そのつもりでブログをはじめた。日記帳に書くと夫に盗み読まれる恐れもあるが、もちろん夫にはブログをやっているなんて話していない。

 小学校時代から作文は得意だったので、文章を書くのは苦にならない。
 個人ブログなのだからアップしたければ毎日でもいいし、書く気にならなかったら放置すればいい。それも私には気楽でよかった。

 カウンターなどつけても無意味だから、アクセス数は知らない。ブログ開始から三ヶ月、コメントはひとつもつかない。それで当たり前だと思っているので、私は気持ちよく愚痴を書き散らしていた。

「息子が小学校に入学して三ヶ月。「ポチャリのブログ」も同じ三ヶ月。ブログは快調なんだけど、ママ友つきあいは不調かもしれない。

 幼稚園のときには私はパートをしていたから、仕事が終わって急いで息子を迎えにいき、買い物にいったり夜ご飯の支度をしたりで忙しくて、ママ友とは挨拶くらいしかしなかったんだよね。
 だから、同じ幼稚園から同じ小学校に入った顔見知りのママさんたちには、あんな人はママ友じゃないもんね、って思われてるのかもしれない。

 だったらそれでもいいんだけど、同じ幼稚園のママさんだけじゃないんだな。こそこそひそひそ、悪口言われてるみたいなんだ。好かれるようなこともしてないけど、嫌われるようなこともしてないつもりなのに。

 子どものころから友達は少なくて、人づきあいは得意なほうじゃなかったよ。だけど、嫌われるほどでもなかったのにな。どうするべきなのかな。こっちから仲良くしてもらうべき? すり寄っていくべき? 

 ママ友ができなかったら息子も友達ができないんだろうか。学校では遊んでる子もいるみたいだけど、放課後に一緒に帰ったりおうちに呼ばれたり、うちに遊びにきてくれたりってほどの友達はいないの。息子はひとり遊びも楽しいみたいだからいいんのかなぁ。悩むわ。

 それにしても、なんで私は陰口をきかれてるの?
 ほんとに嫌われてるの?」

 別段本気で悩んでいるのでもないが、ネタとしてそんな文章を書いてブログにアップした。すると、翌日、はじめてのコメントがついたのである。

「ポチャリさん、はじめまして。
 ママ友さんたちに嫌われたって? それは悩んでしまいますよね。
 私も子どもたちが幼稚園や小学校のころには、ママ友づきあいに悩んだものよ。

 嫌われる原因が自分ではわからないと言うんだったら、もしかして……と思ったの。
 ポチャリってハンドルームってことは、もしかして太ってない?
 太った女を嫌う女は多いみたいよ。
 もしも太ってるんだったら、ダイエットしたら?
 綺麗になったら意外と、ママさんたちにも好かれるかもしれないよ」

 はあ……私はそのコメントを見て苦笑いするしかない。

 本名でブログを書くのは芸能人や有名人だけだろう。一般人はハンドルネームというものを使う。私はなににしようか? パソコンの前で考えながら、そこに置いてあったスポーツドリンクを飲んだ。ああ、これにしよう、というわけで、ポカリをもじってポチャリ。なんの意味もないハンドルネームだ。

 しかし、ポチャリは「ぽっちゃり」を連想させる。まったく知らないこのコメントの人が、そんなふうに考えたとしても変ではない。さて、私は太っていない、と返事を書かなくちゃ。

 そのつもりだったのだが、そこにかかってきた一本の電話で、私は大忙しになってしまった。

「ご主人が会社で怪我をなさいまして……」
「え? あの……」
「いえ、脛を骨折なさっただけですので、骨折なさっただけ、という言い方は語弊がありますが、重症ではありませんので。でも、入院しなくてはならないのはまちがいありませんから、今から言うものを準備して病院までいらして下さいませんか」
「わかりました」

 夫の会社からの電話は、夫が事故に巻き込まれたというものだった。

 スーパーマーケットや弁当屋に卸すお総菜を作っている会社の、夫は現場主任である。食肉担当の夫は、鶏肉をカットする機械の事故で脛を骨折した。組み立て式の機械のボルトがゆるんでいたらしく、大きな部品が倒れてきたのに脚を挟まれたのだそうだ。

 幸いにも単純骨折だけですんだが、しばらくは入院。その準備やら手続きやらで大わらわで、私はブログどころではなくなってしまった。小学校一年生の息子と、ブログには書いていないが、幼稚園に入ったばかりの娘を抱えて、あちこちに連絡したり、夫が会社を休むための書類に記入したり、見舞客の対応に追われたり。

 ブログはスマホでだって操作できるが、精神的にそんな余裕はなかったから放置してしまった。
 というよりも、忘れ果てていたブログを、一週間後に夫が退院してきて、週明けから松葉杖を使ったら出勤もできるということで安心して、ようやく思い出した。

 パパが帰ってきた、と子どもたちも喜び、ささやかに退院祝いをして、夫も早く寝てしまった夜になって、私はパソコンに向かった。

「ええ? なに、これ?」

 おっとびっくり。私のブログのコメント欄には、ものすごくたくさんの書き込みがなされていたのだった。

「そりゃあそんなに太っていたら、嫌われもするよな。太った女って暑苦しいんだよ。そばに寄ってくんなって感じ。
 アタシの娘ちゃんの幼稚園のおかんにもいるわ。
 あの女のそばには寄りたくないぜ」

「太った人にはなにかと事情もあるんやから、それだけでそばに寄るなは言い過ぎとちゃうのん?
 けどなぁ、薬のせいやとか妊娠してるやとかって言い訳するのは見苦しいで。
 意志が強かったらダイエットはできるんや。ポチャリさんもがんばりや」

「あのね、方言で書き込みをするのってやめてもらえません?
 アタシの娘ちゃんとか書くのもやめてよ。
 あんたらは見苦しいんだよ」

「どうでもいいようなことばかり書いている人がたくさんいます。ブログ主はそういう書き込みは削除して下さい。
 私の情報は重要ですから、みなさん、注目!!
 
 痩せたい人はエステブルーラグーンへ。
 楽して美人になれる、近道はエステブルーラグーン!!
 ここは太字でよろしく!!」

「宣伝すんな、馬鹿野郎。
 俺はぽっちゃりさんが大好きさ。
 ポチャリさん、俺にメールちょうだいよ。
 ママ友なんかどうでもいいじゃん。
 俺がおまえを愛してやるぜ、ベイベイ」

「うげっ、キモっ!!
 ブログ主はなにやってんの? 一週間以上も放置かよ。
 あり得ない、出てきてお礼ぐらい言うのが筋じゃないの?
 そういう礼儀知らずだから嫌われるんだよ」

「ポチャリさんは一度も出てきてもいないのに、よくもこれだけ憶測で盛り上がれるものですね。
 暇人が多いなぁ」

 ざっと読んでいったコメントの中で、私の目はここで止まった。ハンドルネームは「アキレェ」。うんうん、アキレェさん、あなたには賛成だよ。

 ブログ大炎上ってこういうの? 話には聞くが、実体験としてははじめてだ。どうしてこうなったのかといえば、私の愚痴に反応したひとりの通りすがりの人物が、ポチャリってハンドルネームってことはぽっちゃりさん? と尋ねたこと。それでこれだけ盛り上がるのか。

 あのぉ、私、太ってないんですけど、みなさん、落ち着いて下さいね、今さらそんな返事を書くのも野暮かと思えてきた。
 炎上したブログ主のリアルがさらされることもあるらしいが、私はなにをしたわけでもない。誤解と揣摩臆測とで他人と他人が議論したりしているだけだ。その他人にしても見知らぬひとばかり。

 なんだか面白いから、もうすこし知らんぷりをして観察していようか。一抹の不安がなくもないのだが、それでいいよね? ほおっておいても大丈夫だよね? そのうちには自然鎮火するよね?

次は「の」です。

 


ガラスの靴75「別居」

ガラスの靴

    75・別居

 飲みにいって知り合ったひとも、もとからの知り合いもうちに連れて帰ってくるのは、酔っ払いアンヌの癖というか趣味というか。それだけ夫の僕を自慢に思っていて見せびらかしたいのだろうから、僕はいつだってお客を歓待してあげていた。

「女は美佐、男は哲夫」
「夫婦? カップル?」

 三十代同士、お似合いのふたりにも見える男女はそろって頭を横に振り、美佐さんのほうが言った。

「飲み屋で会ったのよ。ふたりともアンヌさんのファンだからってだけで、縁もゆかりもない同士よ。ね、哲夫くん?」
「そうですね」
「ただ、共通点はあるの。だからアンヌさんが、お宅に寄っていけって誘ってくれたのよ」
「いやぁ、アンヌさんって豪快な女性ですよね」
「ほんとほんと」

 豪快な妻なのは事実だ。アンヌにとっても自分のファンだというだけで、知り合いではなかった男女を簡単にうちに連れてくる。アンヌは意外に単純で、そういった相手が僕ら家族に危害を加えるとは想像もしていないのだろう。いやいや、僕もアンヌの人を見る目を信じよう。

 共通点とはなんなのか、美佐さんと哲夫さんは互いの職業も知らないという。アンヌはバスルームに消え、僕はふたりのためにおつまみを作ってあげていた。

「正直に言っちゃいなさいよ」
「信用してもらえないからね」
「どうせ私と同じ理由でしょ」
「そう言われるに決まってるから言いたくないんだよ」
「そう言うに決まってるじゃない。それしかないんだもの」
「たから言いたくないんだって」

 押し問答しているのはなんについて? 酔客には好評な餃子の皮の包み揚げやスティックサラダを出し、僕もふたりのむかいにすわった。

「アンヌさんには子どもがいるのよね」
「いるよ。とっくに寝てるし、このマンションは広いから、ちょっとくらい喋ってても大丈夫だけどね」
「アンヌさん、えらいよね。専業主夫だなんてごくつぶし養うなんて、私にはとうていできないわ」
「アンヌはえらいよ」

 ごくつぶし……酔っぱらっているのだろうから、暴言は大目に見てあげよう。哲夫さんも苦笑いしていた。

「笙くんは私たちの共通点をなんだと思う?」
「三十代……なんてのは普通すぎるよね。三十代の人間は石を投げたら当たるくらい世間にはいっぱいいそうだもんね」
「私が三十代に見える?」
「見えるよ。三十五くらいかな?」

 そんなこと言われたのはじめて、いつも二十代かと言われるのに……と美佐さんはぶつくさ言っている。僕は若作り女性の年齢を言い当てるのは得意なのだ。

「私はね……あ、煙草、駄目?」
「子どもがいるから遠慮してね。吸いたいんだったら外に出て下さい」

 そう言うと哲夫くんも残念そうな顔をしたので、共通点は煙草かと思ったのだが、ちがった。

「私んちはお決まりの浮気よ」
「浮気ってよくあるんだよね」
「ほんと、浮気したいんだったら結婚するなって話よね。哲夫くんとこもそうなんでしょ」
「うちはちがうって」

 信じていない顔をして、美佐さんは火をつけていない煙草をもてあそんでいた。

「ばれるはずがないと迂闊にも信じていたけれど、ばれてしまった。ばれたものだから相手の配偶者にいきなりメールした。仕事の関係者だったから、浮気相手のアドレスもその配偶者のアドレスも知ってたのよ。そんな手軽なところで浮気すんなって話よね」
「まったくね」

 ロックミュージシャンなんて人種は特に貞操観念がゆるいようで、アンヌの仲間には浮気男はごまんといる。僕の脳裏にもいくつもの男の顔が浮かんでいた。

「私は音楽関係ではないんだけど、うちの業界もゆるいほうだね。世界が狭くもあるの。あいつとこいつは知り合いで、彼と彼女は夫婦で、別の彼と彼女は不倫中で、なんて話がころがってるから、浮気だってハードルが低いのよ。だけど、いきなり相手の配偶者にメールするってのはルール違反だな」
「あなたが旦那の浮気相手の奥さんに……」
「ちがうよ。逆だよ」
「は?」

 するとつまり、美佐さんが浮気をしたってことか?
 世の中の専業主婦にも不倫をしているひとは大勢いるらしい。不倫願望のある主婦はさらに多く、売春のアルバイトをしている主婦もけっこういるらしい。僕の知り合いにもいなくはない。

 けしからんなぁ、僕を見習えよ、アンヌ一筋の貞淑な主夫である僕はそう思うわけだが、働く主婦であるらしい美佐さんはけろっとしていた。

「それで別居中なのよ」
「美佐さんと哲夫さんの共通点って……」
「そう、別居」
「美佐さん、子どもはいないの?」
「いるんだけど、旦那が言うんだ。あなたのような不潔な女性を、僕の子と触れ合わせたくない、出ていって下さい、娘は僕が育てます、だって。やれるもんならやってみな。そのうち音をあげるに決まってんのよ」

 不敵に笑う美佐さんを見て、彼女の娘さんを不憫に思う。胡弓は僕がパパでよかったね。

「私はあけすけに話したんだから、哲夫くんも言いなよ」
「ちょっと似てはいるんだけどね……」

 ある日、哲夫くんは取引先の女性社長にパソコンを見せられた。あなたの奥さんからこんなメールが来たのよ、苦笑交じりに言われて見てみると。

「あなたは私の夫にセクハラをしていますね。あなたに迫られて私の夫は迷惑しています。私の夫はあなたのような太った中年女性にはなんの関心もありませんから、勘違いしないで下さい。
 早急にセクハラをやめないと訴えますから」

 ははーん、と美佐さんは笑った。

「似てるって、やっぱりそうじゃない。その太ったおばさんと不倫してたんでしょ?」
「してないよ。純粋に仕事の関係だ。その社長とふたりきりではないけれど、イベントのときなんかには一緒に現場で徹夜仕事をしたり、泊まり込んでの仕事をしたりもしていたんだ。社長は僕を買ってくれてるから、仕事のメールをよこしたりもした。たまにはジョークが混じったメールだの、電話だのが、家にいるときに僕のケータイに入ってきた。妻はそれをいやがってはいたんだけど、仕事だからね」
「ウソォ」

 まるっきり信じていない顔で、美佐くんは哲夫さんをつついた。

「妻の勘は鋭いのよ。なにかあったからそんなメールをしたんでしょ?」
「なにもないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」

 見つめ合う哲夫と美佐。美佐は低い声で言った。

「そしたら、今までに別の女と浮気をしたとか……?」
「してないって。僕は仕事が忙しいんだから、浮気してる暇なんかないんだよ」
「私だって仕事は忙しいけど、家事に育児もやって、浮気だってしたわよぉだ」
「僕は美佐さんほどのバイタリティはないんだよ」

 要はこのふたりの共通点は、配偶者と別居中ってことだった。美佐さんは夫に家を追い出され、哲夫くんは奥さんがうるさいので家を出てきたという。そろってほっと息を吐いてから、哲夫くんが言った。

「僕は独身のときにも親と同居してたんだ。大学も親元から通ってたから、ひとり暮らしの経験はなかったんだよね。なんかこう、こうしてひとりになるとのびのびするな。今夜みたいに飲みにいって遅くなっても、帰ったら妻が怒ってるんだろうなって気を遣わなくてもいいし、帰ったら子どもが泣いていたりして、こっちが寝られないってこともないし」
「そうよねぇ、私もそう思う。ひとり暮らしっていいよね」
「癖になりそうだよね」

 あんたたちは人の親だろ、子どもに会いたくないのか、と怒りたくなっている僕をよそに、美佐さんと哲夫くんは再び見つめ合う。見つめ合って微笑み合って、どちらからともなく立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ」
「そうね、そろそろ」

 アンヌがいないのなんか気にも留めていない様子で、ふたりは仲良く寄り添って出ていった。どこかで飲み直そうか、なんて声が聞こえていた。

「アンヌ、あのふたり、もしかしたらそうなるんじゃないの? 哲夫くんはほんとは浮気はしてないのかもしれないけど、瓢箪から駒ってこのこと? アンヌ、なんであんなふたりを一緒に連れてくるんだよ。アンヌ、どこ行ったの?」

 無責任なんだから、と言いつつ、子ども部屋のドアを開けた。

「……まったくもう」

 お客を連れてきておいて僕に応対をまかせ、自分は寝てしまっているのも毎度のアンヌは、今夜も笙のベッドにもぐり込んで、気持ちよさげな寝息を立てていた。

つづく


«211「図に乗るな」

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