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ガラスの靴75「別居」

ガラスの靴

    75・別居

 飲みにいって知り合ったひとも、もとからの知り合いもうちに連れて帰ってくるのは、酔っ払いアンヌの癖というか趣味というか。それだけ夫の僕を自慢に思っていて見せびらかしたいのだろうから、僕はいつだってお客を歓待してあげていた。

「女は美佐、男は哲夫」
「夫婦? カップル?」

 三十代同士、お似合いのふたりにも見える男女はそろって頭を横に振り、美佐さんのほうが言った。

「飲み屋で会ったのよ。ふたりともアンヌさんのファンだからってだけで、縁もゆかりもない同士よ。ね、哲夫くん?」
「そうですね」
「ただ、共通点はあるの。だからアンヌさんが、お宅に寄っていけって誘ってくれたのよ」
「いやぁ、アンヌさんって豪快な女性ですよね」
「ほんとほんと」

 豪快な妻なのは事実だ。アンヌにとっても自分のファンだというだけで、知り合いではなかった男女を簡単にうちに連れてくる。アンヌは意外に単純で、そういった相手が僕ら家族に危害を加えるとは想像もしていないのだろう。いやいや、僕もアンヌの人を見る目を信じよう。

 共通点とはなんなのか、美佐さんと哲夫さんは互いの職業も知らないという。アンヌはバスルームに消え、僕はふたりのためにおつまみを作ってあげていた。

「正直に言っちゃいなさいよ」
「信用してもらえないからね」
「どうせ私と同じ理由でしょ」
「そう言われるに決まってるから言いたくないんだよ」
「そう言うに決まってるじゃない。それしかないんだもの」
「たから言いたくないんだって」

 押し問答しているのはなんについて? 酔客には好評な餃子の皮の包み揚げやスティックサラダを出し、僕もふたりのむかいにすわった。

「アンヌさんには子どもがいるのよね」
「いるよ。とっくに寝てるし、このマンションは広いから、ちょっとくらい喋ってても大丈夫だけどね」
「アンヌさん、えらいよね。専業主夫だなんてごくつぶし養うなんて、私にはとうていできないわ」
「アンヌはえらいよ」

 ごくつぶし……酔っぱらっているのだろうから、暴言は大目に見てあげよう。哲夫さんも苦笑いしていた。

「笙くんは私たちの共通点をなんだと思う?」
「三十代……なんてのは普通すぎるよね。三十代の人間は石を投げたら当たるくらい世間にはいっぱいいそうだもんね」
「私が三十代に見える?」
「見えるよ。三十五くらいかな?」

 そんなこと言われたのはじめて、いつも二十代かと言われるのに……と美佐さんはぶつくさ言っている。僕は若作り女性の年齢を言い当てるのは得意なのだ。

「私はね……あ、煙草、駄目?」
「子どもがいるから遠慮してね。吸いたいんだったら外に出て下さい」

 そう言うと哲夫くんも残念そうな顔をしたので、共通点は煙草かと思ったのだが、ちがった。

「私んちはお決まりの浮気よ」
「浮気ってよくあるんだよね」
「ほんと、浮気したいんだったら結婚するなって話よね。哲夫くんとこもそうなんでしょ」
「うちはちがうって」

 信じていない顔をして、美佐さんは火をつけていない煙草をもてあそんでいた。

「ばれるはずがないと迂闊にも信じていたけれど、ばれてしまった。ばれたものだから相手の配偶者にいきなりメールした。仕事の関係者だったから、浮気相手のアドレスもその配偶者のアドレスも知ってたのよ。そんな手軽なところで浮気すんなって話よね」
「まったくね」

 ロックミュージシャンなんて人種は特に貞操観念がゆるいようで、アンヌの仲間には浮気男はごまんといる。僕の脳裏にもいくつもの男の顔が浮かんでいた。

「私は音楽関係ではないんだけど、うちの業界もゆるいほうだね。世界が狭くもあるの。あいつとこいつは知り合いで、彼と彼女は夫婦で、別の彼と彼女は不倫中で、なんて話がころがってるから、浮気だってハードルが低いのよ。だけど、いきなり相手の配偶者にメールするってのはルール違反だな」
「あなたが旦那の浮気相手の奥さんに……」
「ちがうよ。逆だよ」
「は?」

 するとつまり、美佐さんが浮気をしたってことか?
 世の中の専業主婦にも不倫をしているひとは大勢いるらしい。不倫願望のある主婦はさらに多く、売春のアルバイトをしている主婦もけっこういるらしい。僕の知り合いにもいなくはない。

 けしからんなぁ、僕を見習えよ、アンヌ一筋の貞淑な主夫である僕はそう思うわけだが、働く主婦であるらしい美佐さんはけろっとしていた。

「それで別居中なのよ」
「美佐さんと哲夫さんの共通点って……」
「そう、別居」
「美佐さん、子どもはいないの?」
「いるんだけど、旦那が言うんだ。あなたのような不潔な女性を、僕の子と触れ合わせたくない、出ていって下さい、娘は僕が育てます、だって。やれるもんならやってみな。そのうち音をあげるに決まってんのよ」

 不敵に笑う美佐さんを見て、彼女の娘さんを不憫に思う。胡弓は僕がパパでよかったね。

「私はあけすけに話したんだから、哲夫くんも言いなよ」
「ちょっと似てはいるんだけどね……」

 ある日、哲夫くんは取引先の女性社長にパソコンを見せられた。あなたの奥さんからこんなメールが来たのよ、苦笑交じりに言われて見てみると。

「あなたは私の夫にセクハラをしていますね。あなたに迫られて私の夫は迷惑しています。私の夫はあなたのような太った中年女性にはなんの関心もありませんから、勘違いしないで下さい。
 早急にセクハラをやめないと訴えますから」

 ははーん、と美佐さんは笑った。

「似てるって、やっぱりそうじゃない。その太ったおばさんと不倫してたんでしょ?」
「してないよ。純粋に仕事の関係だ。その社長とふたりきりではないけれど、イベントのときなんかには一緒に現場で徹夜仕事をしたり、泊まり込んでの仕事をしたりもしていたんだ。社長は僕を買ってくれてるから、仕事のメールをよこしたりもした。たまにはジョークが混じったメールだの、電話だのが、家にいるときに僕のケータイに入ってきた。妻はそれをいやがってはいたんだけど、仕事だからね」
「ウソォ」

 まるっきり信じていない顔で、美佐くんは哲夫さんをつついた。

「妻の勘は鋭いのよ。なにかあったからそんなメールをしたんでしょ?」
「なにもないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」

 見つめ合う哲夫と美佐。美佐は低い声で言った。

「そしたら、今までに別の女と浮気をしたとか……?」
「してないって。僕は仕事が忙しいんだから、浮気してる暇なんかないんだよ」
「私だって仕事は忙しいけど、家事に育児もやって、浮気だってしたわよぉだ」
「僕は美佐さんほどのバイタリティはないんだよ」

 要はこのふたりの共通点は、配偶者と別居中ってことだった。美佐さんは夫に家を追い出され、哲夫くんは奥さんがうるさいので家を出てきたという。そろってほっと息を吐いてから、哲夫くんが言った。

「僕は独身のときにも親と同居してたんだ。大学も親元から通ってたから、ひとり暮らしの経験はなかったんだよね。なんかこう、こうしてひとりになるとのびのびするな。今夜みたいに飲みにいって遅くなっても、帰ったら妻が怒ってるんだろうなって気を遣わなくてもいいし、帰ったら子どもが泣いていたりして、こっちが寝られないってこともないし」
「そうよねぇ、私もそう思う。ひとり暮らしっていいよね」
「癖になりそうだよね」

 あんたたちは人の親だろ、子どもに会いたくないのか、と怒りたくなっている僕をよそに、美佐さんと哲夫くんは再び見つめ合う。見つめ合って微笑み合って、どちらからともなく立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ」
「そうね、そろそろ」

 アンヌがいないのなんか気にも留めていない様子で、ふたりは仲良く寄り添って出ていった。どこかで飲み直そうか、なんて声が聞こえていた。

「アンヌ、あのふたり、もしかしたらそうなるんじゃないの? 哲夫くんはほんとは浮気はしてないのかもしれないけど、瓢箪から駒ってこのこと? アンヌ、なんであんなふたりを一緒に連れてくるんだよ。アンヌ、どこ行ったの?」

 無責任なんだから、と言いつつ、子ども部屋のドアを開けた。

「……まったくもう」

 お客を連れてきておいて僕に応対をまかせ、自分は寝てしまっているのも毎度のアンヌは、今夜も笙のベッドにもぐり込んで、気持ちよさげな寝息を立てていた。

つづく


211「図に乗るな」

しりとり小説

211「図に乗るな」

 弁当持参の女子社員が、昼休みになると休憩室に集まる。自社ビルなので休憩スペースも広く、ゆったりした間を取ってデスクを配置してある部屋だ。気の合う者同士、何人かでランチタイム。新人教育教材などを小さな会社に売り込みにいく営業ウーマンたちなので、昼休みは安らぎのひとときだ。

「むかつくんだよね、あいつ」
「なになに? 喧嘩したの?」
「そうなのよ。聞いてくれる?」

 あちこちで彼氏や夫の悪口に花が咲く。悪口のふりをしたのろけなどもあるのだが、男のうわさ話がもっとも盛り上がる。町谷新子のいるテーブルは若手……三十代までの比較的若手がそろっているのだが、主婦たちのテーブルと話の内容に大差はなかった。

「トイレの掃除は週に一度、必ず俺がやるって約束したくせにさ」
「やらないの?」
「やらないの。俺はうちのトイレなんてほとんど使わないんだから、掃除しなくても汚れないよって。私もそんなには使わないけど、一週間以上も掃除しないなんていやじゃん? だから結局、私がしちゃうんだよね」
「わかるわかる。うちも彼が洗濯ものを取り入れるって約束になってるんだけど、天気がいいんだから外に干しっぱなしでも大丈夫だよってほっとくんだよね」
「そうそう。買い物を頼んだって、あ、忘れた!! 忘れたんだからしようがないだろ、って逆切れだよ」

 営業ウーマンなのだから、仕事は外回りだ。午前中の勤務がすむと一旦帰社して報告するというきまりになっているのだが、必ず昼に帰れるわけでもない。今日は新子のテーブルには五人、独身女性ばかりが集まっていた。

「空いてます?」
「あ、どうぞ」

 七、八人はすわれるテーブルなので、空席がある。そこへすわったのは照屋。四十歳くらいだろうか。名前からすると沖縄のひとか。沖縄らしいくっきりした目鼻立ちの美人で、前職は保険の外交員だったらしい。転職して新子たちの会社に来たばかりだから、新子はまだ照屋とはあまり話をしたこともなかった。

 テーブルで弁当を広げ、いただきます、と手を合わせて、照屋は食事をはじめる。新子たちは彼女は気にせずに、食べながら会話を続けていた。

「土日は食事の支度をするって言ったくせに、それだって嘘ばっかりだし」
「やっぱ一緒に暮らすとアラが見えてくるんじゃない? 同棲なんかしないほうが、いいとこだけ見ていられていいかもよ」
「でもさ、同棲解消ってイコールさよならじゃない?」
「そうだよね。同棲解消はさよならか結婚だな」
「私はあいつとは結婚はしたくないや」
「そうなの?」

 と、照屋が顔を上げた。

「結婚しているんじゃなくて、男性と暮らしてらっしゃるの? えーと、澤垣さん?」
「え、ええ、うん、そうだよ」

 名を呼ばれた澤垣はびっくり顔になり、照屋は同じテーブルの同僚たちを眺め回した。

「彼が、掃除が、って言ってた人たちは、結婚なさってるのよね?」
「いえ、今、ここにいる人たちは全員独身ですよ。彼女と彼女は彼氏と同棲中。彼女と彼女は半同棲ってところ」
「あなたは、町谷さん?」
「私は同棲はしていません。実家暮らしですから」
「すると、他の人たちは実家じゃなくて?」
「実家は私だけかな。自立してなくてすみません」

 五人のうちのふたりはひとり暮らし、ふたりは同棲中、新子だけが実家暮らしで恋人はいない。恋人はいない、と言うのも癪なのでそこまでは言わずにおいた。

「まあまあ、そうなのね。へぇえ……」

 校則が細かくてうるさい女子校出身の新子には、照屋が高校時代の生徒指導の女教師に見えてきた。

「ご両親には許しをもらってるの?」
「うちの両親はひとり暮らしよりも安心だって……」
「私は言ってないし」
「半同棲なんて、いちいち言わないし……」
「照屋さんにもいちいち言う必要なくない?」

 冷笑的に澤垣が応じ、照屋はため息をついた。

「この会社の女性ってねぇ……独身女性はこれだけ?」
「他にもいますよ」
「あの彼女とか、あのひととか……」

 他のテーブルにいる若い女性、若くはない女性などをぽつぽつと指さす。今日は休憩室にいるのは二十人ほどで、既婚、未婚は半々くらいだった。

「みんなに彼氏がいるのかどうかは知らないけど、同棲してる子は他にもいるんじゃない?」
「いるよ。彼氏の実家で同棲してるって子もいる」
「そんなのいるの?」
「知らない? 彼氏が彼女の実家に入りびたりって話も聞いたよ」
「まあまあまあ……」

 なんと嘆かわしい、といったふうに、照屋は何度もため息をついていた。

 そうやって嘆くくせに、照屋はそれからは新子たちの会話に参加してくるようになった。水を向ければ照屋は前職の話もする。たまには照屋の仕事の話を聞くこともあったが、たいていは独身女性たちの男の話で、照屋は最初のうちは黙って聞いているだけだった。

「彼とは別れることにしたのよ」
「えーっ?! どうして? 結婚するって言ってたじゃん」
「聞かないでよ……ううん、聞いてほしい」

 はじめて照屋が会話に加わってきた日にはいなかった、別の女性が話した。

 彼女は同棲はしていなかったのだが、ラヴラヴの彼氏がいる。彼女の場合は他の女性とちがって彼の悪口はほとんど言わない。のろけが大半なので新子たちとしては聞いていて疲れるほどだったのに。が、そういえば、最近は彼女は彼の話をあまりしなくなっていた。

「この間のデートで、彼に言われたの。なんだか急にすーっと冷めちゃってさ……長くつきあいすぎたよな、別れようか、なんて言うから、私、逆上しちゃったの」

 頭が沸騰しそうになって、どうしてどうして、なんでなんで、と彼女は彼を攻め立てた。彼は逆にクールになり、おまえのそういうところが嫌いになったんだよ、と言い放ったのだそうだ。

「言えば言うほど彼は冷めていくみたいで、仕方ないから距離を置こうと思ったのね。彼だって私のことは好きなんだから、しばらく会わなかったら寂しくなるに決まってるって楽観してた……ってか、楽観してるふりをしてた。だけど、彼は会いたいとも言ってくれないの。思い余ってメールしたら……」

 別れるって言っただろ、しつこいな、との返事が届き、それきりブロックされてしまったのだと言う。彼女はうつむいて鼻をすすり、そのとき、照屋が発言した。

「あなたが浮気相手だったのね」
「照屋さん、そんな言い方はないでしょ」
「傷ついている女性にそんなふうに決めつけるってひどいんじゃありません?」

 当人をそっちのけにしてもめそうになっていると、当人が顔を上げた。

「照屋さん、鋭いね。彼、二股していたの。浮気相手はその女のはずだけど、近いわ。そっちの女が妊娠しちゃって、そっちと結婚するんだって」
「むこうが浮気相手だとは、そっちの女も思ってるわよ。これだから女ってのは……ううん、諸悪の根源は男よ」

 事実、彼女は別の女に乗り換えられて捨てられたのだから、新子たちもそれ以上はなにも言えなくなってしまった。

「あんなことを聞いたあとで言いにくいんだけど、私、彼と結婚するって決めたよ」
「あれ? 澤垣さんは彼とは別れるって言ってなかった?」
「それがね……」

 数日後、澤垣がはにかんだように言った、できちゃったんだ、と。
 あらら、おめでとう。それはよかったね。仕事はどうするの? 口々に祝福の言葉や質問を投げかける同僚たちの声が一段落すると、照屋が言った。

「けじめがないね。同棲もいやだけど、でき婚ってのもだらしないわね。そんなにまでして結婚したい? 俺は結婚なんかしたくなかったのに、できちまったから仕方なく、って一生言われるんじゃないの?」
「失礼ね。私はそんなことをたくらんだんじゃありません。私は彼とは別れようかと思ってたのに、できちゃったって彼に報告したら喜んでくれて、絶対に結婚しよう!! って張り切ってるのは彼のほうなんだよ」
「同じよ」

 言い捨てて、照屋は席を立ってしまった。

「ここのテーブルはこのごろ、おめでたい話で盛り上がってるのよね」

 ある日には、新子たちのテーブルに既婚者が加わってきた。

「私たちは主婦の会話ばっかりで、子どもがどうした姑がどうした、保育園がどうたらPTAがこうたら、受験がどうたらばっかり。それに、こんな話を主婦たちにすると妬まれるからね」
「なんの話?」

 興味津々で身を乗り出す新子たちに、私、恋をしたの、と既婚者はピンクに染まった声で告げた。

「彼が何者なのかは話せないけど、年下のイケメンよ。彼のほうからアタックしてきたのは当然で、私は結婚してるからって逃げようとしたのに逃がしてくれないの。私もまだまだ捨てたものじゃないんだなって。ここのテーブルだったらみんな彼氏がいるんだから、嫉妬したりはしないよね、ね、町谷さん?」

 名指しされて、新子はつい正直に言ってしまった。

「私は彼氏はいないんですよ。妬みますよ」
「まぁ、そうなの? 恋はしなくちゃ駄目よ。恋してこそ女なんだからね」

 そこへまたまた、照屋が口を出した。

「あなたは子どもさんがいるの?」
「いますけど……?」
「お母さんが母親じゃなくて女。そんな子どもは気の毒ね」
「……あなたに言われる筋合いはないよ。なによ、ひがんじゃってさ」

 ぷんぷん怒った既婚者も席を立ち、続いて照屋も立っていってしまう。どうやら照屋は言いたいことを言うと、反撃をかわして去っていくらしい。新子たちは言い合った。

「結婚しないって言っても、結婚するって言っても」
「結婚してる女だとしても」
「恋愛って聞くと照屋さんは怒るよね」
「諸悪の根源は男だって言ってたから、男嫌いかな?」
「照屋さんって独身?」

 さあ……とそろって首をかしげる。照屋は自分のことというと、仕事の話しかしないのだった。
 独身若手グループの中ではもっとも気が強く、できちゃった結婚をだらしないと言われた澤垣は言った。よーし、私が訊き出してやる、と。

「あのね、あなたたちってほんと、恋の話ばっかりよね。自分たちのことじゃなかったら、芸能人の誰かと誰かが結婚したの別れたのって。そんなにその話が好き? だから女は視野が狭いって言われるのよ。そんなだから男にいいように遊ばれたりするのよ。もうちょっと世界を広くしなくちゃ」

 そんな具合に、澤垣の質問ははぐらかされてしまった。

「その点、町谷さんだけはえらいよね」
「は? 私が?」
「あなたには彼氏はいないんでしょ。えらいわ」

 どういう意味で言ってるの? 悩んでいる新子に、照屋は明確な答えはくれなかった。
 二股彼氏に捨てられた彼女が新しい恋人を見つけたと嬉々として報告してくれたのは、新入社員が入ってくる季節。新子たちの部署に配属されてきたのは、高校を卒業したばかりの初々しい十八歳女子だった。

「だからね、杷野さんはあのひとたちみたいになったら駄目だよ」
「……はい」
「男は諸悪の根源なのに、まったく、男がいないと生きていけないんだろか。性懲りもなく……」

 研修が終わって営業活動に出るようになった十八歳、杷野の指導係となったのは照屋だ。近頃は照屋は杷野とばかり行動していて、昼休みにも新子たちのテーブルにはやってこない。あのひとたちみたいって、私たちみたいな? ふたりの会話を小耳にはさんだ新子は、杷野に尋ねてみた。

「ああ、そんなこと、言ってましたね。照屋さんって男嫌いっていうよりも、恋愛嫌いみたいですよ。四十歳はすぎてるらしいけど、美人ですよね? もてるでしょ? って訊いたら怖い顔して……」

 もてるかどうかなんてどうでもいいの、男なんかとは関わらないほうがいい、恋なんかしないに限る、照屋は杷野にそう言ったのだそうだ。

「もてすぎていやな思いでもしたんですか」
「もてるというか、言い寄られたことはあるけど、ぴしゃっと断ったわ」
「恋愛経験ないんですか」
「ありません。だからね、杷野さんも恋になんかうつつをぬかさずに、仕事に邁進しなさいね」

 はいと素直に答えたと、杷野は舌を出した。

「ああいうおばさんは適当にあしらっておけばいいんですよね。町谷さんを見習うようにって言われたけど、見習いたくなんかなーい。三十前で彼氏もいないなんて惨めだもん」
「あの、町谷って私なんですけど……」
「知ってますよ」

 けろっと言い返されて、新子は絶句した。
 そうね、世の中にはこんな女もあんな女もいる。若くて可愛くて口のききようも知らない杷野と較べれば、いっぷう変わってはいても照屋のほうがいいかもしれない。恋愛至上主義みたいな世の中にも同僚たちにも違和感がなくはなかった新子としては、近い将来は照屋のようになるのがいいように思えてきた。


次は「な」です。


ガラスの靴74「浴室」

ガラスの靴

74・浴室

 年末になるとネットにも神社サイトみたいなものがオープンする。各地に実在する神社のサイトとはちがう、バーチャル神社だ。

 来年は初詣に行きたいな。胡弓も三歳になったから連れていけるんじゃないだろうか。だけど、初詣って十二時になった瞬間に行くんだっけ? それだとおねむの胡弓には無理かな。眠くてぐずったりしたら僕が抱いて歩かなくてはいけない。ベビーカーに乗せるには胡弓は大きすぎるから。

 母に預けていくか、元日の昼間にずらすか。あ、アンヌは休めるのかな?
 などと考えながらも、胡弓がお昼寝をしている時間にはネット神社めぐりをしていた。ネット絵馬に願い事を書いているひともいて、それらを盗み読むのも面白かった。

 面白かったので、夕食をすませて胡弓をベッドに入れてからも続きをやっていて、発見したものがあった。僕は深夜に帰宅したアンヌにパソコンを見せた。

「なんなんだよ、あたしは眠いんだ。メシもいらないから寝るって」
「アンヌ、これ、どういうこと?」
「どれ?」

 文句を言い言い、アンヌが見たパソコンのディスプレイには。

「よそのサイトで新垣アンヌの書き込みを見つけちゃった。アンヌって好きな男がいるんだね」
「アンヌは結婚してて子どももいるよ」
「わっ、アンヌ、不倫してるんだ」
「さすがロッカー、不道徳だね」
「好きな男がいるって、どういう根拠で言ってんの?」

 神社サイトの掲示板に書かれた一連の書き込みは、アンヌのファンのものなのだろう。どういう根拠で? と突っ込まれたひとが、URLを書いていた。そこに飛んでみると。

「来年の抱負ってか、夢? 好きな男と旅行がしたいな。あいつは作曲をするから、ふたりで同じところで同じものを見て、あたしは詩を書くんだ。あいつと共作がしたいよ」

 そこは僕が見なかったバーチャル神社で、バーチャル絵馬が並んでいた。ミュージシャンコーナーもあって、新垣アンヌの実名入りでそんな絵馬が堂々と飾ってあったのだった。

「アホか。あたしがこんな、糖尿病には害になるみたいな書き込みをするかよ」
「糖尿病?」
「甘ったるいって意味だ。前に誰かが言ってたのが面白かったから、ぱくったんだよ」
「バクリはどうでもいいけど、アンヌが書いたんじゃないの?」

 ちげーよっ、と吐き捨てて、アンヌは寝室に行ってしまった。

 ということは、誰かがアンヌの名を騙ったのか。アンヌには星の数ほどいる友人知人か、ファンか。アンヌはロックバンドのヴォーカリストなので、アンヌのほうは知らなくてもむこうは彼女を知っているという人間も相当数いる。

 あてずっぽうを書き込んだファンだとしても、悪意があるのかどうかもわからない。アンヌって好きな男がいるんだね、と発言した女性らしき人物だって、ハンドルネームだけしかわからない。ただのいたずらだとも考えられる。

 しかし、僕は知っている。いい機会だからはっきり聞いておこうか。アンヌはベッドに入ったわけでもなく、バスルームにいるようだから、バスタオルを持っていってあげた。

「ねぇ、アンヌ? ねぇ、アンヌったら……」
「なんだよ、聴こえねーよっ、あとにしろ」

 シャワーの音の中、アンヌの怒鳴り声が聞こえた。

「聞こえなくてもいいから聞いて。あれはアンヌが書いたんじゃないにしても、アンヌには好きな男がいるんだよね。僕は作曲なんかできないんだから、あれが笙じゃないのはわかってる。アンヌに好きな男がいるのもわかってる。僕なんかは平凡な主夫で、アンヌにおいしいものを作ってあげるのと、胡弓を育てる以外にはなんにもできないもんね」

 お弁当を作って持っていってあげたら、あたしの仕事場にのこのこ来るな、と怒られた。
 息子は時々母に預け、僕はひとりでけっこう出歩いている。家事も育児も完璧ではない駄目主夫だ。

「そんな僕なのに、アンヌは寛大だよね。僕が無駄遣いをしても許してくれる。掃除をさぼっても、デパートでおかずを買ってきても、今夜は外で食べようよっておねだりしても、あれ買ってってお願いしても、たいていは聞いてくれる。僕はアルバイトもしなくていいくらいに稼いできてくれて、楽をさせてくれる。僕はそんなアンヌに感謝してるよ」

 なのだから、誰のおかげでのうのうと主夫がやれてるんだよっ、と昭和の亭主関白みたいなことを言われても、切れて喧嘩になったりはしない。ぐっと耐えている。

「僕なんかはなにもできない、若くて顔がいいのだけがとりえだって言われてもしようがないと思うよ。ジムにもちゃんと行ってないけど、そのかわり、胡弓とふたりでトレーニングしてるんだ。ちょっとだけおなかが出てきてたのも引っ込んだでしょ。僕は胡弓のためにはいいパパで、アンヌのためには綺麗な笙でいようと努力してるんだ。子育ては手抜きしてないからね」

 手抜きがしたいときには母が協力してくれるから、胡弓はまともに育っている。駄々をこねたりしたときに、パパ嫌い、ママはもっと嫌い、おばあちゃーん、と泣く以外は、愛しい息子だ。
 トレーニングも胡弓とやっているのだから遊び半分だが、ジムに行くと主婦が主夫の僕にからんでくるからいやなのだ。心で言い訳もしつつ、僕は続けた。

「だけど、ロックスターの奥さんとはつりあいの取れない、つまんない夫だって自覚はしてるよ。自覚なんて言葉だって、アンヌが教えてくれたから身についたんだよね。僕はアンヌのおかげで進歩だってした。いろんな経験をさせてもらってるのも、アンヌが広い世界を見せてくれるからだ。僕が独身だったとしたら、まるでつまんない毎日だったはずだよ」

 バスルームの中は静かになっている。アンヌは聞いているのか、湯船につかってでもいるのか。

「だから僕はアンヌを愛してる。ううん、だからってわけでもなくて、アンヌはアンヌだから愛してる。前にアンヌが、僕のためにってよその夫婦ととりかえっこして楽しもうとしたでしょ。あんなのだったらいいんだよね。僕はいやだったけど、アンヌが遊びでよその男をつまみ食いするってんだったら、僕はかまわないよ。ってか、僕には駄目だって言う権利もないけどね」

 うまく表現できないから、だらだら喋っている。肝心のことを言わなくちゃ。

「アンヌの愛するひと、そのひとと旅をして共作したい。歌を作りたい。あれが僕にはショックだったんだな。僕には絶対にできないことを、そのひととは共有できるんだ。身体の浮気なんかなんでもない。胡弓と僕のところに戻ってきてくれるって信じていられるから、僕は平気だよ」

 平気でもないかもしれないが、僕はアンヌの夫なのだから、どっしり構えていられるはずだ。なにしろ胡弓がいるのだから、僕の主夫の座は強いはずだ。

「あたしはおまえたちには、なに不自由ない暮らしをさせてるだろ」
「ああ、アンヌ、聞いてくれてたんだね。うん、感謝してるよ」
「あたしの好きな男、知ってるのか?」
「……葉月って奴でしょ」

 パーティで会ったことのある、植物的で中性的な暗い空気をまとった男。アンヌが彼をテーマにして、「本気で恋をしたのははじめてだ」みたいな詩を書いていた。

「あたしはあいつとは寝てないよ」
「うん、信じる。でもね……うん、僕にだっているからね」
「おまえもあたし以外の女に恋をしてるのか?」

 おまえも、「も」ってことは、認めたのだ。

「僕は恋されてるの」
「……誰に?」
「浮気する気になったら簡単だよ。彼女はアンヌが僕を虐げてるって信じてて、あなたの魔の手から僕を救い出したいって言ってるんだもの。彼女の腕の中に逃げ込むことはいつでもできるんだ」
「……やりたいのか」

 だんだんとアンヌの声がとがってきて、僕はぞくぞくしてきた。

「やりたいって言ったら怒る?」
「怒ってもしようがないかな。恋心ってのはてめえではどうにもならないんだよ。あたしは葉月を好きな気持ちを消すつもりもないし、葉月のほうはあたしに真剣になる気はさらさらなさそうだから、寝ることはあるかもしれない。でも、それだけだよ。おまえは?」

 蘭々ちゃんは僕を真人間にしたいと言っていた。真人間、すなわち働く男だ。僕はそんなのはまっぴらだから、アンヌと離婚して蘭々ちゃんに走るつもりはないけれど、彼女と寝るだけだったらできそうだった。

「あのバーチャル絵馬、うまくあたしの気持ちを言い当ててたな。誰が書いたんだろ」
「アンヌのことをよく知ってるひと?」
「かもな」

 桃源郷のメンバーだとか、仕事仲間だとか、アンヌが打ち明け話をする女友達だとか、もしかしたら葉月自身だとか? うまく言い当てている? アンヌのその気持ちが、僕にはもっともつらいのに。

「あたしも浮気をするかもしれないんだから、身体の浮気だったらおまえもしてもいいよ」
「離婚はしないの?」
「胡弓のためにはしたくないな。でも、絶対にしないとは言い切れない。あたしがそんな約束をしたら、おまえが図に乗るだろ」
「アンヌ、捨てないで」

 バーカ、と笑ってから、アンヌはなにやら呟いている。うむむ、腹が立ってきたぞ、と言っているのはなにに対してなのだろう? 妬けるからだったら最高に嬉しいのに。

「笙、入ってこい」
「怒ってるの?」
「うるせえ。いいから入ってこい」
「服を脱いで?」
「風呂に入るんだから当たり前だろ」
「……はい」

 入っていくとなにが起きるのか。アンヌとふたりでお風呂に入った経験はあるが、今夜は特別にどきどきする。顔を見ないで本音をぶちまけて、そのあとでバスルームで……ポルノ映画みたいだ。

 素直に服を脱いでアンヌの命令に従う。目を閉じてアンヌに歩み寄っていくと、乱暴に抱き寄せられる。これからはじまるなにごとかは、いつもと同じようでいて同じではない。めくるめくひとときになりそうだった。

つづく


 

2020/6 復刻・花物語「紫陽花」

「花物語」

六月・紫陽花


 土壌の酸性度によって色が変わる。学説ではそうらしいが、人はなんであっても擬人化したがる。
 ふたりではじめて旅をした六甲山のホテルの庭には、濃い青紫の紫陽花が群れて咲いていた。

「紫陽花の花言葉を知ってる?」
「花言葉っていうのは聞いたことあるけど、なんだっけ?」

 ホテルの窓から紫陽花の群れを見下ろして、涼夏は創平に話した。

「メジャーな花だったら花言葉っていうのはいくつかあるんだけど、紫陽花には有名なのがあるのよ。移り気。ひとって浮気なものだよね」
「それってなんの話がしたいの?」

 仕事の関係で知り合って、告白というほどのものもなくつきあいはじめ、六月だったら梅雨どきだから人が少ないんじゃない? 一緒に旅行しようよ、と涼夏が言い出して関西へと遊びにきた。昨日は神戸ですごし、一夜が明けて創平が言い出した。

「結婚しようか」
「あっさりしたプロポーズだね」
「昨夜、神戸の夜景でも見ながら言ったほうがよかった?」
「ロマンティックなのは気恥ずかしいから、このほうがいい」

 OK? と問いかける創平に微笑んでおいて、涼夏は窓辺に寄っていったのだった。

「私もけっこう移り気なほうだと思うんだ。もてるしね」
「ああ、僕ももてるよ」
「浮気は自由ってことにしない?」
「ええ? そんなこと、きみが言ってくれるとは思わなかったな」

 本当はまだ結婚までは考えていなかったから、こう言うと創平が引くかと思って言ってみたのだ。予期せぬ反応に涼夏はむしろ戸惑った。

「女友達と話したことならあるのよ。彼女は、彼氏が浮気したって落ち込んでた。だけど、彼は彼女とやり直したいって。そんな彼と結婚したらまた浮気されるかもしれない。そんなんでいいの? って、他の女友達は言ってた。浮気な男は許せない、浮気な女はもっと許せない、みたいな会話をしていたの」

 なんで? と涼夏は思い、しかし、ここでそんな発言をすると変人扱いされるかと、相槌を打っておいた。

「不倫はぜーったいに許せない、とかね、あんな話をしてる女たちって正義の味方面して、私は一途で可愛い女なのよ、なんて自分に酔ってて、気持ち悪いなぁって思ったの」
「たしかに気持ち悪い」
「愛していたら浮気は許さないって言うんだけど、愛してたら浮気くらい平気なんじゃない?」
「僕は後者だな」
「私も後者よ。ってことは、創平くんは妻の浮気も許せるんだね」
「いいよ」

 ただし、ばれないようにね、とは言う必要もないだろう。
 変人的思想の持主だと自覚していたのもあったから、別に結婚なんかしなくても、と涼夏は考えていた。しかし、こうして似た思想を持つ男と出会ってプロポーズされたのだ。創平とは価値観が合うとわかったら、愛情が湧いてきた気がした。

「うん、結婚しよう」
「結婚しよう」

 あれから約半年たって、結婚してふたりで暮らしはじめた。いつかは子どもがほしくなるかもしれないが、今のところは作るつもりもない。互いの両親は孫がほしいのかもしれないが、息子や娘のプライバシーに干渉する気はないようだ。

「創平くん、ただいまぁ」
 職場の飲み会で午前さまで帰宅した金曜日、涼夏が玄関の鍵を開けて中に入り、奥に声をかけると創平が出てきた。

「お帰り、コーヒー、淹れようか」
「うん、お願い」
「今夜は楽しかった?」
「楽しかったよ。いい男もいたしさ」

 今春に入社したばかりの新入社員たちは、ゆとり世代というやつだ。先輩や上司との飲み会などまっぴら、というタイプも多いが、涼夏の部に入ってきた木内は人なつっこく愛想のいい男の子で、先輩たちの飲み会にも喜んで参加していた。

「いい男っていうよりも、ペットみたいに可愛い子って感じかな。涼夏先輩は結婚してるんですよね、残念だなぁ、って本気みたいな顔をして言うの」
「涼夏はなんて答えたの?」
「結婚してたって浮気くらいは大丈夫よ、って言った」
「そんで、ホテルに行った?」
「そこまではまだだけど、行っていいの?」
「いいよ、もちろん」

 むろんプロポーズのときの会話は覚えている。それでもまだ新婚なのだから、こんな話をすると創平がちょっとは妬くのかと思っていた。が、創平はけろりと言った。

「きみと結婚して一年以上になるだろ。きみが浮気をしたそぶりはない。もしもそういうことがあったら言ってくれると思ってたからね」
「言うと思ってた?」
「現に今、言ってるじゃないか」
「……そうだね」

「一年間も僕ひとりにしか抱かれてなかったら、ひからびてくるよ。僕はもてるきみが好きで結婚してほしかったんだから、枯れた女にならないでほしいな。どんどん浮気したまえ。応援するよ」
「あ、そ、そうなのね」

 ふむ、これは本物だ。涼夏としては妙に感心してしまった。
 ふたりともに仕事が多忙な身なので、毎日顔を合わせるわけでもない。週に二、三度はふたりですごせるときがあると、濃密な触れ合いの中で創平が尋ねた。

「あいつ、なんて言ったっけ?」
「木内くん?」
「進展はどう? キスくらいはした?」
「この間、仕事帰りに飲みにいって、帰りにキスはしたよ。だけど、同じ部の子だから、迂闊に食べちゃうわけにもいかないんだよね」
「うちに連れてくるわけにもいかないか」
「……連れてきていいの?」
「それもまずいかな」

 対外的、社内的にまずいのではなかったら、ふたりの住まいに木内を連れてきていいのか。創平の浮気承認主義は本当の本物であるらしい。

「そいつ、草食?」
「でもないんじゃない? 結婚してる女に積極的に近づいてくるんだから」
「きみは僕らの主義を話したの?」
「話すとスリルが減るから、木内くんには言ってない」
「そのほうが楽しいかもな」

 恋はゲーム、不倫だからこそなおさら遊び感覚で。互いの伴侶は互いなのだから、創平は涼夏を信頼しているのだから、こうして面白がっているのだろう。

「ちょっとちょっと、涼夏さん、知ってる?」

 取引先の社員同士、創平と涼夏はそういう意味で仕事でも関わりがあって、共通の知人も大勢いる。そのうちのひとり、創平と同じ会社の佐和子が涼夏の職場にやってきて、こそっと耳打ちした。

「ちょうどお昼どきだし、ランチしない?」
「いいよ。じゃあね、「千島」に先に行って席をキープしておいて」

 会社の入っているビル近くの、気楽な和食の店だ。佐和子はうなずいて出ていき、涼夏は昼休みになってから、その店に赴いた。

「こんなこと、奥さんの耳に入れたくはなかったんだけどね、義憤に駆られちゃったっていうのか。涼夏さんは知らないんだよね」
「創平のこと?」

 和風ランチ「あじさい」というセットを注文し、佐和子が言った。

「うちの会社に出入りしてる、カラーコーディネーター、四十代の女なんだけど、その女がどうも創平さんに色目を使ってるんだよね。太めのアラフォーってか、アラフィフに近いような年の女なのに、自分は若く見えるって勘違いしてるみたい」
「若くは見えないの?」
「若く見えたって三十代後半ってところでしょ」

「ふむふむ。それで?」
「この間、経理の女の子が見たんだって。その女と創平さんが仲良く歩いてたって」
「歩いてただけ?」
「仲良く、だよ」

 「仲良く」のひとことを強調して、佐和子は憤慨の表情になる。怒ってみせてはいるが、面白がっているような目のきらめきも感じ取れた。

「退勤時間はすぎてたから、女の子はあとを尾けていったらしいの。そしたら、ふたりでバーに入っていったんだって。ふたりきりでお酒を飲むって、浮気のはじまりじゃない?」
「まあまあ、ご苦労さまだね」
「え?」
「なんの関係もないカップルを尾けていった、その経理の女の子にご苦労さまって言ってるの」

 ぽけっとした顔になって、箸を止めた佐和子を涼夏は見返した。

「創平はなんにも言ってなかったよ。まだその程度だから言わなかったのかな。私としては言わないでほしい気もしてたんだけど……ううん、いいわ。あなたには理解してもらえないだろうし」
「なに、それ? 知らなかったらいいの? だまされててもいいの?」
「だましてるわけでもなくて……」

 言うほどのことでもないから、創平はその彼女の話題を口にしないのだと思われる。涼夏が遊んでやっている木内くんの話をして、楽しく盛り上がる創平なのだから、自分も恋をしたのなら話すだろう。こんな話を他人から聞かされたのだけが不愉快だった。

「ご忠告、ありがとう」
 ご注進、と言うと皮肉っぽいだろうと、涼夏は言葉を選んで佐和子に礼を言った。
 
「どうしてそんな平気な顔をしてるの?」
「平気な顔、してる? そうねぇ、創平が浮気したら、ちょっとは気持ちがざわめくのかと思ってた。だから、早くそうなったときの自分を知りたいとも思ってたの。勝手なもんだよね」
「勝手?」
「案外、平気よ」
「涼夏さん……はもう、早くも創平さんを愛してないの?」
「愛してるみたい。あのね、こういうのは夫婦ふたりきりの問題だから」
「ほっとけって?」
「早い話がそういうこと」

 どうやら佐和子は気分を害したらしいが、それで離れていってもかまわない。創平が浮気をしていると佐和子が言いふらしたとしても、デザイン関係の職場は自由業者の集まりに近いのだから、特に支障もないだろう。

 理解できない、と呟く佐和子に、それはそれでいいからね、と微笑んでみせて、彼女よりも先に職場に戻った。
 その日から十日ばかり、掛け違って創平とは会えない日が続いた。ひとつのプロジェクトが追い込みの時期で、帰れない、とメールが届いていた。

「……涼夏、久しぶり」
 日曜日の朝、涼夏は創平の声で目を覚ました。

「ああ、おはよう、やっと帰れたの?」
「昨夜、帰ってきてベッドに入ったのに、きみは目も覚まさなかったね。疲れてたんだろ。きみも忙しかった?」
「まあね」
「木内くんとは進展あり? 十日前よりもセクシーになったみたいだね」
 
 言いながら、創平が涼夏のパジャマのボタンをはずす。創平は上半身裸で寝ていたようで、涼夏は彼の乳首にキスをした。
 ひとときがすぎると、けだるい余韻の中で創平が言った。

「僕も久々で恋をしてるんだ。浮気でも本気でも恋は恋。なかなかいい女なんだけど、年上だからな、プレゼントはなにがいいだろ?」
「紫陽花のアクセサリとか、いいんじゃない?」
「あとで買い物につきあってくれる? 女性へのプレゼントはきみの目線で選んだほうがいいよね」
「ランチを外で食べがてら、買い物にいこうか」

 彼自身の口から聞けば、すこしは心が波立つのかと想像していた。
 が、むしろ楽しい心持ちになってくる。創平も涼夏も別の異性に恋をして、そのことによってふたりの想いも強まり、ふたりともに美しさも磨かれる。そんなんで幸せ? と誰かに尋ねられたとしたら、心から言える。

「価値観の合う相手って、一緒にいて本当に心地よいのよ。いいひとと結婚したなぁ、彼も私も」


END

ガラスの靴73「自慢」

「ガラスの靴」

     73・自慢

「胡弓、熱があるみたいなんだよ。微熱だし、元気があるから大丈夫だと思うけど、僕は今夜は行けないな」
「そうか。医者には連れていったのか?」
「いったよ。今夜はあったかくして早く眠りなさいって言われた」

 電話で笙が言っていたから、今夜のパーティにはひとりで出席した。息子が熱を出して寝ているなんて言ったら、なのに母親がパーティに? と非難したがる輩もいる。これはあたしの仕事だ。うるさい奴には胡弓の話などはせず、あたしも早めに帰ろうかとは思っていた。

「あら、久しぶり」
「ああ……深雪だっけ」
「アンヌさんよね。今夜は専業主夫のご主人は?」
「用事があってこられないんだよ。あんたのフランス人のご主人は?」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」

 多彩な異業種人種が集まるパーティだから、あたしのような音楽人も、深雪のような創作系アーティストも来ている。彼女はインテリアデザイナーだと言っていたはずだ。専業主夫と笙のことをイヤミったらしく言うので、あたしもフランス人夫ってのをイヤミに強調しておいた。

 どこかの酒場で共通の知り合いに紹介されたときに、知り合いは深雪とほのかとあたしとを、トンデル女だと評した。知り合いはバブルオヤジなので、ださい言い回しが好きなのだ。

 三児の母、家事と育児は他人に託し、優雅に働いて未婚の母をやっている通訳のほのか。優雅だなどと言うと怒る女もいるが、ほのかは、そうね、私は収入もいいし余裕もあるし、優雅よ、としゃらっと笑う。

 インテリアデザイナーでフランス人の夫を持つ深雪、彼女に関してはその程度しか知らないが、バブルオヤジから見ればトンデイルのだろう。

 そしてあたしは、専業主夫と三歳の息子を抱えるロックヴォーカリスト。あたしは決して優雅ではないが、多少はトンデイルかもしれない。息子が熱を出して家で寝ていたら、普通は母親がそばについているものなのかもしれないから。

 こんなときに笙にまかせておけるのは、あいつを専業主夫にした価値があったってもんだな、なんて思いつつ、深雪と飲んだり食ったりしながら談笑していた。

「今夜はほのかさんは来ないのかしら」
「さあね。ほのかはアーティストってんじゃないから、来ないかもしれないな」
「ほのかさんもアンヌさんも細いよねぇ。ほのかさんってあまり食べないみたいだけど、アンヌさんはよく食べるのに……」
「あたしは肉体労働者だからさ」
「ロックやるひとって活動量がすごいのよね」
 
 この女こそが本当に優雅で、それが肉体にもあらわれている。長身で豊満。ほのかもあたしも背は高いほうだが、ふたりともに細いのがうらやましいのか? ほのかは華奢で、あたしは筋肉質のほうだ。肉体には生活があらわれる。

「フランス人の旦那ってのは美食家なわけ?」
「そうね」
「料理は得意?」
「私が? 苦手ではないけど、私の仕事ではないから気が向いたときしかしないな」
「外食ばっか?」
「そうでもないわ。主人も料理はするし、おいしいものが食べたくなったら料理人を雇うの」

 ほぉ、これはちょいとスケールがちがう。ほのかは家政婦だったら雇っているが、料理人の話をしていたことはない。ほのかの家には小さいのが三人いるから、ホームパーティもしないようだ。
 我が家では料理は笙の仕事。笙がさぼりたいときにはデパ地下の惣菜を買ってきたり、母親に作ってもらったりしている。うまいものが食いたいときには外食もするが、料理人を雇う発想はなかった。

「あの……ミユキ・アルファンさんですよね」
「ええ、さようですわよ」

 そういえばさっきから、この女は近くにいた。深雪とあたしの会話に聞き耳を立てていたようで、我慢できなくなって割って入ってきたのだろうか。

「私、こういう者です」
「はい」

 名刺をもらって一瞥だけして、深雪はそれを小さなバッグにしまう。自分は名刺も出さないのは持っていないからか。相手が彼女を知っているのだから必要ないのか。
 細くて背の高い女はあたしには関心なさげなので、黙って彼女が深雪に話しかけるのを見ていた。

「ご主人はプロデューサーでしたっけ」
「ええ、そうですよ」
「ムッシュ・アルファン、お会いしたことはあります。美食家にしたらやせ形ですよね」
「そうね」

 表面は愛想良くしているが、知り合いでもない相手と本気で話したいわけないだろ、の態度がミエミエだ。深雪の態度に苛立ってきたのか、女の表情が変化してきていた。

「ご主人、かっこいいですよね」
「ありがとうございます」
「おもてになるでしょ」
「どうかしら」
「あれだけの男性なんですもの。若くてスタイルのいい女と恋をするのも全然大丈夫なんじゃありません? すこしダイエットしないと危険かも」
「ご忠告感謝しますわ」

 白々しくも深雪は礼を言い、あたしも言った。

「あんたみたいに細い女が好きな男ばかりとは限らないよな。あんた、なんて名前?」
「心愛です」
「ココア。こりゃまた流行りの名前だな。本名?」
「そうですよ」

 おまえは何者だ、という目であたしを見る女は、桃源郷のヴォーカリスト、新垣アンヌを知らないのだろう。あたしも心愛が何者なのかどうでもいいし、自己紹介する気もなかった。

「深雪って悩みはないのか」
「私? そりゃああるわよ」
「どんな悩み?」
「たとえば、子どものこととか」

 ほえ? 深雪にも子どもがいるのか。まったく生活感のない女なので、不思議でもないはずの事実が不思議に思えた。ほのかにしてもあたしにしても生活感はないほうだが、深雪ほどではない。

「子どもがいるっていうより、子どもができないとか?」
「子どもはいるわよ。息子がひとりいるの。六歳で、来年は小学生になるのね。日本で暮らしてるんだから日本の小学校に通わせようと思って、近くの私立の小学校を受験させて合格したのよ」
「それはそれは」

 息子の話をしていると、深雪も母親の顔になった。

「私立とはいえ自由な校風だから、制服はないの。持ち物にも決まりなんかはないのよ。主人も私もそこが気に入ったっていうのもあるんだけど、子どもの世界って意外と保守的なのよね」
「それはあるかな」

 うちの胡弓は父親に似てひとかけらも男らしくない男の子なので、同世代の女の子に、もっと男らしくしろ、などと怒られている。たまにそんなシーンを目撃すると、あたしは暗澹とした気分になるのである。

「みんな同じがいいって言う子、多いのよ。それが悩み」
「そんなのは深雪が嫌いだから?」
「そうね。私は子どものころから、みんな同じはいやだったわ。デザイナーになりたくて感性を磨いたんだから、人と同じには育たなかった。それで日本ではやりにくくて、フランスに逃亡したってのもあるのよね。主人はフランス人だからもちろん、日本人みたいな横並びの感覚は持ってない。息子も親の影響で、他人とはちがったものをほしがる。女の子用の小物のほうが男の子用よりはおしゃれだし、私が手作りした小物なんかも、おしゃれだと女の子っぽくなるのよね」

 それを友達にからかわれたり、女みたいだと言われたりするのだそうだ。それが悩みなのよ、と深雪はため息をついた。

「私としては、みんなとちがってどこがいけないの? って思うのよ。主人も私に同意してるし、息子もやはり、クリエィティヴな両親から生まれただけに、僕は人とはちがったところがいいんだって思ってるの。でも、子どもの世界では生きづらいわけ」
「うちの息子はまだそこまでは考えてないだろうけど、大きくなってくるとあるのかな」
「あるかもしれないわ。だからね。やっぱり息子はインターナショナルスクールに入れるべきか、あるいは、フランスで学校に行かせようかって、それがいちばんの悩みね」

 この夫婦は浮気公認というわけではなく、互いの浮気に嫉妬しつつ、それを夫婦のこやしにするみたいな? そんな感覚があると聞いた。俗なあたしにはわかりづらい言い分だ。
 そんな夫婦でも子どもの悩みはあるわけで、そんなことを言っているとただの人の親に見えて、あたしにはむしろ好感が持てる。だが、心愛は棘のある口調で言った。

「そんなの悩みじゃなくて、自慢ですよね」
「自慢か? まあ、深雪の台詞には自慢も入ってたけどな」
「全部自慢ですよ。失礼」

 失礼、が挨拶だったようで、心愛は長い脚で歩み去った。

「なんか怒ってたか、あいつ? 知り合いでもないんだろ」
「モデルらしいわね、彼女、もらった名刺にはモデル事務所の名前があったわ。そっかぁ、よっぽど私がうらやましいのよ」
「うらやましいから怒ってるのか?」
「彼女も実はデザイナーになりたかったんじゃない? 才能がないからモデルだなんて、つまらない仕事に甘んじてるの。本当はフランスでクリエィティヴな仕事をして、フランス人と恋愛して結婚したかったんじゃないかしら」

日本ではモデルといえば、若い女の憧れの職業だ。けれど、モデルには外見に恵まれていないとなれない。必ずしも美人ではなくてもいいのだが、洋服の似合うプロポーションと今ふうのルックスが必須。なのだから、なりたくてもなれずに諦める女も多々いる。

 よその女に羨まれる仕事をしていながら、深雪がうらやましいのか? なんたる強欲。
 それもあるが、心愛のつんけんした態度から即、私がうらやましいのだと発送する深雪もたいしたもんだ。深雪の悩みを自慢と受け取った心愛と、心愛の苛立ちを羨望ゆえと受け取った深雪。

 どっちもどっちってのか、深雪の思想のほうが精神衛生にはいいと言うのか。あ、そうか、だから心愛は痩せていて、深雪はふくよかなのだ、おそらく。

つづく

 

2020/5 復刻・花物語「スィートピー」

花物語

「五月・スゥイートピー」


 広い庭園に花がいっぱい咲いている。色鮮やかな花々に目を奪われて眩暈がしそうで、その上に広すぎて迷子になりそうで、歩きすぎて疲れてしまって、石段の途中にぺたんとすわり込んだ。

「アリスちゃん、どこから来たの?」
「アリス? あたしはアリスじゃなくて五月っていうんだよ」
「サツキちゃん? お誕生日はもうすぎた? もうすぐかな?」
「うん、明日。どうしてわかるの?」

 そりぁね、ゴガツだもの、と、知らない女性は明日には七歳になる五月にはわかりにくい言葉を発して笑っていた。

「パパかママと来たの?」
「そう、ママと。でも、ママはお友達とお話をしてて、サツキはお姉ちゃんに遊んでもらいなさいって言われたんだけど、お姉ちゃん、意地悪なんだよ。あんたなんかと話しててもつまんないって言って、サツキは置いてけぼりにされたの」

 母の友達の家に連れられてきて、その女性の娘だという、小学校の六年生ぐらいの女の子とふたりきりにされた。その女の子に置いて行かれたのは、目の前で笑っている女性に話した通りである。
 そうしてひとりぼっちにされたサツキは、庭を歩き回るしかなく、けっこう強い陽射しにも疲れてしまったのだった。

「でも、花は綺麗だった。広いお庭だね。おば……お姉さん……は誰?」
「おばさんでもいいのよ」

 疲れちゃった、と言うのはプライドが許さず、七歳なりに気を遣って、年齢もわからない女性をなんと呼べばいいのか迷って、お姉さんと言ってみた。母よりは年下かと思える女性は寛容に笑ってくれたから、おばさんと呼ぶことにした。

「おばさんは誰?」
「この屋敷のひと部屋で暮らしてるんだけど、サツキちゃんにはむずかしいかもしれないからいいのよ。そっかぁ、明日、お誕生日なんだね」
「うんっ」

 ほっそりと背の高い女性は、淡いピンクのワンピースを着ている。やわらかな笑顔を見せて、風の中にたたずんでいる。サツキは尋ねた。

「あたしのこと、どうしてアリスって呼んだの?」
「不思議の国のアリスみたいに見えたから。ごめんなさいね、ちゃんとしたお名前があるのに」
「ううん。いいの。不思議の国のアリス、知ってるよ。ああ、なんだか……」
「なあに?」

 なんだか、思い浮かぶような気がするのだが、そのイメージをつかまえ切れない。サツキが頭の中にあるなにかを追いかけていると、窓が開いた。

「小さなお嬢さん、こんにちは。きみたちは友達同士なのかな」

 開いた窓から顔を出して、女性とサツキを交互に見ながら話しかけているのは、白いシャツを着たほっそりした男性だった。ふたりはどことなく似ていて、兄さんと妹なのだろうかとサツキは思った。

「そうなのよ。たった今、友達になったの。サツキちゃん、そうだよね?」
「うん、サツキはあのお姉さんよりも、おばさんのほうが好き」
「ねぇ、サツキちゃんは明日がお誕生日なんだって。なにかプレゼントしたいな」
「プレゼント?」

 小首をかしげている男性と。いたずらっぽく目をくるくるさせている女性を見比べて、サツキは焦りそうになった。知らないひとにプレゼントなんかもらったら、ママに叱られる、と言う前に、男性が女性に窓からなにかを手渡した。

「ああ、これね。私がヴァイオリンを弾き、あなたはピアノを弾く」
「そうだよ。あなたの得意なあの曲、この季節にもこの風景にもしっくりはまるあの曲を演奏しようか」
「いいわ。サツキちゃん、聴いてちょうだい」

 曲のプレゼント? そんならママは叱らないだろうけど、あたしはあんまり嬉しくもないな。サツキとしては正直な感想だったのだが、ご好意を無にしてはいけないので、女性のヴァイオリンと男性のピアノの合奏を神妙に聴いていた。

 軽やかで繊細なピアノの旋律に、重厚さもあるヴァイオリンの音色がからまって共鳴する。サツキには言葉では言い表せないが、聴いているうちに次第に夢の世界へいざなわれていくような心持ちになっていった。

 ここは不思議の国……あたしはアリス。綺麗な男性と女性が作り出す綺麗な音楽に浸って、うっとり眠くなってきそう。
 小学校に入学してはじめて、「音楽鑑賞」という時間があった。音楽の授業として、先生がクラシックのCDをかけてみんなで静かに聴く。小声で私語をかわしたり、いたずら描きをしたり、たいていの子どもたちには退屈きわまりないひとときだった。

 それほどつまらなくもないけど、眠いな、とサツキは思っていたのだが、たった今のこの心持ちは、音楽鑑賞の授業のときの眠けとはちがっている。気持ちがよすぎてとろーんとなってくるのは、初夏の風とこの花々のおかげだろうか。演奏者の見えないCDとはちがって、ライヴだからだろうか。

 窓の中に見える男性の横顔も、サツキの目の前でヴァイオリンを弾く女性の姿も、サツキのヴォキャブラリーでは表現できないほどに優美で気品があって、このふたりが作り出す音だからこその心地よさもあるのかと、サツキもぼんやりとは感じていた。

 短い時間の曲が終わると、男性が手を止めてサツキを見る。女性もにっこりとお辞儀をし、サツキは言った。

「今の曲ってお花の歌?」
「サツキちゃん、この曲、知ってたの?」
「知らないけど、お花の歌みたいな気がしたの」

「そうだよ。この曲はドイツの作曲家、グスタフ・ランゲが二百年以上も前に作曲した「花の歌」だ。サツキちゃんはこの曲を聴いて、花を連想していたんだね」
「うん、なんだか……あの……おばさんみたいで……」
「ありがとう、嬉しいわ」

「サツキちゃんにパースディプレゼントだなんて言っておいて、僕らが嬉しい言葉をもらったね。ありがとう、サツキちゃん」
「いいえ、どう致しまして」

 気取って言ってみたら、ふたりともに声を立てて笑った。

「疲れたんじゃない?」
「ええ、すこし」
「部屋に入っておいで」
「……ええ」

 これ以上ここにいたらいけないのかな? ふたりが言い合っているのを聞いてそんな気分になって、サツキは言った。

「じゃあね、プレゼント、ありがとう」
 歩き出しながら振り向いて手を振ると、窓のほうへと歩み寄っていっていた女性も手を振り返してくれ、ふたりともにもう一度、ありがとう、と微笑んだ。

 本当に迷子になりそうな庭をさらに歩き、ようやく母が友人とお喋りをしていた部屋に戻った。お姉ちゃんに遊んでもらったの? うん、まあね、との母とのやりとりのあと、サツキも紅茶とケーキをお行儀よくごちそうになって、しばらくすると母が言った。

「では、そろそろおいとまするわ。サツキ、ご挨拶は?」
「はい、ごちそうさまでした。さようなら」
「また遊びにきてね」

 お庭にいた男女は誰? どうしてだか質問する気になれなくて、サツキは母と一緒に大きな屋敷を辞去した。屋敷から駅のほうへと歩いていく道すがら、母が振り返った。

「立派なお屋敷よねぇ。あんまり広すぎて、ママだったらお掃除が大変そうだからいやだけど」
「そうだよね」

 つられて振り返ると、淡いピンクの花が一輪、風に揺れているのが見えた。

「あ、似てる。ママ、あの花はなんていうの?」
「あれ? スゥイートピーよ。誰に似てるの? ママ?」
「ママになんか似てないよ」
「……その言い方って失礼ね」

 怒ってみせる母と手をつないで歩き出しながら、サツキは思っていた。淡いピンクのドレスを着た綺麗なおばさんを見ているとなにかを思い出した。そうか、スゥイートピーだったんだ。
 それからそれから、あのふたりって兄と妹じゃなさそうで……そしたらなんなのかなぁ? ママに訊いても、大人になったらわかるわよ、って言われるだろうから、内緒にしておこう。

 明日には両親からも友達からも誕生日のプレゼントをもらえるはずだけど、一日早くもらったプレゼントのことをママに話すのが惜しい気もする。誰にも話したくないほどに、形のないプレゼントはとてもとても素敵だった。


END


 
  

ガラスの靴72「物欲」

「ガラスの靴」

     72・物欲

 体験入学というのはほうぼうにあるようで、胡弓を連れて前を通りがかった幼稚園の門前にも「体験入園」の看板が立っていた。
 やってみる? うん、と父と息子のやりとりがあって、胡弓のママであるアンヌも賛成してくれたので、僕は胡弓の手を引いて幼稚園に連れていった。

 三歳から五歳くらいの幼児が集まって、先生の指導のもと、みんなで遊ぶ。まずはそこからということで、泣いたり怯えたりはしない子どもの親は、そばについていなくてもいいと言われた。

 園庭に出ていくと、ママさんたちがあっちにふたり、こっちに三人と群れて話している。両親そろって来ている人や、若い祖母なのか年を取った母なのかわからない年齢の女性もいたが、パパひとりで連れてきている人はいない。ママさんたちの輪に入っていきづらくて、僕は木陰に立っていた。

「笙くんじゃない?」
「うん? あれ?」
「そうだよね。大沢笙くんだ。私のこと、覚えてない?」
 
 どこかで会ったような記憶はあるのだが、明確には思い出せない。アンヌと同じくらいの年ごろに見える、ごく平凡な主婦といった感じの女性だった。

「小学校のときに一緒だった、林子だよ。結婚して苗字が変わったんだけど、リンコ、覚えてないかな」
「んんん……そういやぁいたかな。小学校のときなんて十年以上前だもん。よく覚えてないよ」
「笙くんって転校したんだよね。美少年だったのもあって気になってたから、それでかえって私は覚えてるんだよね」

 とすると同い年? ええ? まさか、と思ったら、同い年ではなかった。林子さんの弟が僕の同級生だったのだそうだ。

「ああ、正志だったら覚えてるよ」
「でしょ? 笙くんはうちにも遊びにきてたもんね。笙くんも結婚したの?」
「そうなんだ。僕も結婚して苗字が変わったんだよ」

 子どものころの僕は隣県に住んでいて、東京に引っ越してきたのは十歳くらいのころだった。林子さんも結婚して東京で暮らすようになったというのだから、広い東京で幼友達の姉さんにめぐり会うとは、奇遇だといえた。林子さんは主婦、僕は主夫。林子さんの娘と僕の息子は同い年だ。

「林子の娘だからこう書くの」
「瞳森? ヒトミモリ?」
「読めないの? 教養ないんだね。ま、考えてみて。笙くんの子どもは?」
「こう書くんだよ」
「胡弓……コキュウだよね。そのくらい読めるよ」

 そりゃあ、胡弓と書いてコキュウと読むのは尋常だからだ。コユミ? なんて読まれることもあるが、素直に読めばコキュウだろう。
 しかし、瞳って字の訓読みなんか知らない。いや、訓読みがヒトミ? そしたらなんだっけ。別の読み方はなんだっけ? 「瞳」を別の読み方なんかするのか?

「専門学校を卒業して、できちゃった結婚して主夫か。そういう人間だったら教養なくてもしようがないかな。降参? 教えてあげようか」
「林子さんは大学卒?」
「当たり前よ。私たちの世代で大学も出てないなんて、親の常識疑っちゃう。本人も向上心がなくて、努力もしなかった奴って印象だよね。正志は医大に行ってるんだよ」
「秀才だね」

 勝ち誇ったような顔をしている林子さんのように、人間の値打は第一に学歴だと考えるひとはよくいる。言いたい奴には言わせておくことにして、「瞳」の音読みを思い出そうとしていた。そう、音読みでは「とう」「どう」だ。瞳子と書いて「とうこ」と読む女性がいた。

「どうしん? とうもり?」
「ほんと、常識ないよね。そんな名前を女の子につける? 次に会うまでの宿題にしておくから、奥さんにも聞いてごらん。笙くん、ケータイのアドレスと電話番号交換しよう」
「あ、ああ、いいよ」

 こうやっていばられて、なんでおまえなんかと、とアンヌだったら怒りそうだが、僕は温厚を旨としているので、林子さんの言う通りにした。

「……メモリじゃないか?」
「メモリ?」
「瞳は目だろ」
「あ、そうかも。さすがアンヌ」
「しかし、メモリってのもおかしな名前だよな」

 体験入園の話をし、林子さんの話題も出し、「瞳森」の字も見せるとアンヌが答えてくれた。林子さんから電話がかかってきたときに宿題の答えを言うと、彼女はなぜか不機嫌になった。

「そんなに簡単に読まれるとつまんないな。世界中にひとつしかない名前をつけたのに」
「こんなの読めて当たり前だって言ったじゃん」
「そうなんだけど……ま、いいわ。笙くんちに遊びにいっていい? メリちゃんは体験入園で胡弓と一緒に遊んでたらしいのね。胡弓パパと友達だって言ったら、遊びにいきたいって。行くからね」
「うん、いいけどね」

 我が子はメリちゃんで、よその子は呼び捨てか。胡弓のほうは誰かと遊んだ? と尋ねても、メリちゃんだのメモリちゃんだのの名前は出さなかったが、そう言うと馬鹿にされそうで、遊びにきたいと言う林子さんにOKの返事をした。

 やっぱり笙くんの子だね、記憶力よくないね、受験のときに苦労しそう、だとか言われたくないので、林子さんとメリちゃんが遊びにきたときにも、その話題は出さずにいた。

 おばあちゃんに預けられているときも多く、おばあちゃんの友達にも可愛がってもらっている胡弓は人見知りはあまりしない。特に我が家でだと王子さまなのだから、メリちゃんにおもちゃをいっぱい貸してあげて、仲良く遊んでいた。

「メリちゃんにはおもちゃはあんまり与えてないのよ。胡弓はたくさん買ってもらいすぎだね。そんなだと我慢できない子になりそう。ほどほどにしたほうがよくない?」
「うちはお客さんも多いから、おもちゃはたくさんもらうんだよ。メリちゃんはおもちゃ、ほしがらない?」
「メリちゃんって物欲のない子なんだよね。食事はきっちり食べるけど、お菓子は嫌いなの。身体によくないものって食べさせたくないし、頭が悪くなりそうなおもちゃは与えたくない。親がそう思ってても、子どもはなんにもわからずに駄々をこねたりするじゃない」

 あれ、ほしいな、と言うとわりにすぐに買ってもらえ、堅いことは言わない僕ら夫婦だから、おやつだって好きなものを食べさせている。ほしくなくてもお客さんがおもちゃをくれたりもする。そのせいで胡弓は、あれほしい、買って買って、なんて駄々っ子になったことはないのだった。

「だけど、躾がいいせいもあるし、メリちゃんは聞き分けがよくて頭がよくて、あれほしいこれほしいなんて言わない子だってせいもあって、親の気持ちをよくわかってるのよ。こんな物欲のない子って、かえって心配なんだよね」
「ふーん」

 自慢しているのだろうから、そんなことないよ、という反応はしないでおいた。
 子どもたちは胡弓のおもちゃで仲良く遊ぶ。胡弓はなんでも気前よく貸してあげるし、メリちゃんも無茶は言わないので、お行儀よくおとなしく遊んでいる。僕は林子さんの愛娘自慢や、林子さんがバリキャリだった会社で知り合って結婚した旦那の自慢話やらを、辛抱強く聞いていた。

「あ、電話だ。ちょっと待ってね。もしもし……」

 スマホで通話をはじめた林子さんのそばから離れ、子どもたちにおやつを出してあげることにした。お菓子はやめておいたほうがいいのだろうから、果物にしよう。僕がいろんなフルーツを盛ったお皿を持って胡弓の部屋に戻ると、林子さんが言った。

「主人が届けてほしいものがあるって言うのよ。二時間くらいですむから、メリちゃんを預かってもらえないかな」
「うん、まあ、いいけどね」
「胡弓、メリちゃんと遊んで、メリちゃんを見習っていい子になるんだよ」
「メリちゃんには言わないの?」
「メリちゃんは言わなくてもわかってるから大丈夫。メリちゃん、パパんとこに行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
「胡弓も言いなさいよ」

 林子さんに命じられた胡弓が、バイバイと手を振る。メリちゃんはたしかに、三歳にすれば大人びた女の子だ。三人して林子さんを見送ると、メリちゃんが言った。

「……お菓子、ないの?」
「お菓子は食べたらいけないんじゃないの?」
「いいんだよ。ママ、いいって言ったよ」
「そうかなぁ」

 口も達者なメリちゃんだが、思ったことを的確に言葉にするのはむずかしいだろう。プリンくらいだったらいいかな? いやいや、今どきはアレルギーの子もいるんだから、独断でものを食べさせてはいけない。

「僕はママからいいって言われてないから、ママが帰ってきたら訊こうね」
「ママは駄目って言うもん。お菓子、食べたいな」
「ああ、そうなんだ。でもさ、おなかが痛くなったりしたら困るでしょ」

 あらら? 泣いてる? べそかき顔でメリちゃんが訴えた。

「ママに言ったらいやだよ」
「メリちゃんがお菓子がほしいって言ったって? 言わないよ」
「うん」

 この幼さでメリちゃんは、ママの前ではいい子にしようと必死になっているんじゃないだろうか。なんだか痛々しく思えてきた。

「これ、メリちゃんの」
「……胡弓のだよ」
「ちがうもん。これは女の子のおもちゃだから、メリちゃんのだよ」
「……んんと……うん、あげる」

 ま、いいや、とばかりに鷹揚に、胡弓はメリちゃんにおもちゃを取られるままになっている。胡弓がそんな調子だから、これもメリちゃんの、あれもメリちゃんの、と彼女はおもちゃをひとり占めする。あげくはポケットに入れているので、僕は言った。

「そんなの持って帰ったら、ママにばれちゃうよ」
「……おじちゃん、意地悪」
「胡弓、あげる?」
「うん、いいよぉ」

 父親としてはむしろ、胡弓のこの鷹揚さのほうが心配だ。メリちゃんはポケットから出した小さなマスコットを握り締めて、胡弓を睨み据える。それからそのマスコットを、力いっぱい胡弓に投げつけた。

「ほしいよ」
「……あげてもいいんだけど、ママになんて言うの?」
「ううん、いらないもん。いらないもんっ!!」

 悔しくてたまらないように叫んで、またまたメリちゃんは泣き出した。ほんとはほしいんだよね。どこが物欲がないんだか……けど、小さな子はこれが普通だろ。泣いているメリちゃんをきょとんと見てから、胡弓は彼女の背中をよしよしと撫でてやっていた。
 
 どうも林子さんの躾は歪んでるな、とは思うのだが、僕には意見なんかできっこない。胡弓までが変な影響を受けて歪まないように、あの幼稚園に入園させるのはやめておいたほうがいいか。林子さんとは距離を置いて、自衛するべきだろう。

つづく


210「しずやしず」

しりとり小説

210「しずやしず」

 新婚家庭に遊びにきたがる、夫の同僚たち。小田巻久人と優歩は結婚式はしていないので、同僚たちにお披露目もしていない。優歩は在宅仕事なので同僚というものはなく、友人たちには夫を紹介している。なのだから、夫の同僚たちを一度くらい招くのはしようがないかと受け入れた。

 やってきたのは合計十名。夫の久人はメーカーの研究室勤務で、そういった職場についてはよくわかっていない優歩は、こんなにたくさん同僚がいるんだといささか驚いた。

「奥さん、お手伝いします」
「いいんですよ。お客さんにそんなことはしてもらわなくていいから、みなさんはすわってて下さい」
「志津ちゃん、ほんとにいいよ。僕がやるから」

 女性は三名いて、あとのふたりは中年、既婚だそうだが、ひとりだけが若い。既婚女性たちはむしろ、見知らぬ人に等しいような人間に台所に入ってほしくない、との優歩の気持ちを察したようだが、もっとも若い志津は手伝いたがった。

「いいんですよ。洗い物なんかあとでしますから」
「でも……あのね、奥さん、聞いてほしいことがあって……」
「はい?」

 ほぼ見知らぬ相手なのに、相談ごと? 訝しみつつも、優歩は志津の横に立ってふたりで皿洗いをすることにした。

「奥さんはデザイナーなんですってね。私はデザイナーっていえば洋服かと思ってたけど、ちがうんですか」
「意匠デザインっていうのかな」
「衣装?」
「あ、そっちの衣装じゃなくて、商品パッケージだとか、簡単に言ったらそういうものよ」
 
 二十一歳だと聞いている志津は優歩よりもひと回り年下なので、このくらいの口のききようでいいかと判断した。

「いいなぁ。才能あるんですね」
「……で、相談ってなんですか?」
「相談というか、聞いてほしくて」

 高校を卒業してアルバイトとして、志津は久人の職場に入った。アルバイトだから入社とは言わないのかもしれないが、若い志津にはみんなが親切にしてくれて居心地がよく、志津も楽しく働いていた。

「それがね、だんだん苦しくなってきたんです」
「苦しく?」
「好きなひとができて……」

 恋愛相談か。そんなのをなんで私に? 見返した優歩の目をじっと見つめて、志津は続けた。

「私は高卒の資格もなんにもないアルバイト。コピーやお使いをするだけの、高校生バイトと変わらない仕事です。母がずっと小田巻さんの会社で働いていて、定年退職したんで、そのコネで入れてもらったんですね」
「ああ、そうなんですね」
「私は勉強が最悪にできなかったから、大学なんか行きたくもなかったから、母も諦めたんです。無職ってわけにはいかないから、アルバイトでもいいから働きなさいって、母が決めてきたんです」

 そうなのね、としか優歩にも相槌の打ちようはなかった。

「年だってまだやっと二十歳をすぎたところで、私の好きなひととは十もちがうの。三十一歳の男性から見れば二十一なんて小娘でしょう?」
「そうでもないんじゃないかな。男性は若い女性が好きでしょ?」
「その男性は若い女性よりも、ちょっと年上の女性が好きなんです」
「は、はあ、そうなのね」

 ざあざあと水道を流しっばなしにしてはいるものの、志津は食器を洗っているというよりもただ喋っていた。

「だけど、苦しくて苦しくて、告白しましたよ。好きになってもらえるはずもないけど、好きだって言いたかった。「しずやしず、しずのおだまき繰り返し、むかしを今になすよしもがな」って、静御前の詠んだ歌があるんですってね。静御前は卑しい白拍子。義経の妻になれるような身分ではなかった。なんだか似てるなぁって。私は高卒のただのアルバイト。好きなひとは大学院まで出たエリート研究員です。現代の身分ちがいですよね」

 そうね、とも言えなくて、優歩は返事のしようもなくなる。なにかがひっかかる気がするのだが、なんだろう?

「それでも告白しましたよ。志津、えらい、勇気があったねって、自分で自分を褒めてやりました。静御前って私と似た名前で、好きなんですよね。静御前もこの歌を、うんとうんと身分が上の人の前で口ずさんだんですよ。でも、もちろん告白にうなずいてもらえるわけもなくて、ありがとう、嬉しいけど、僕は結婚するんだよって言われました」
「……そうなの」

 息が詰まったようになっていた優歩は、ようやくそれだけを言った。

「ご結婚、おめでとうございます。どんな方が奥さんなんですか? 結婚式に招待してもらえたら嬉しいな、って頼んでみたら、僕らは結婚式なんてものに価値を見出せないからやらないんだって。なんかかっこいい。奥さんもウェディングドレスに憧れたりもしないんですね。私は着てみたいな。あのひとと結婚するなんて夢を見て、真っ白なドレスにも憧れてました」

 水音にまぎれて、皆が集まっている部屋までは会話は届かないだろう。久人も優歩も収入はいいほうなので、賃貸とはいえマンションは広い。キッチンと客間までは距離もあった。

「だったらね、いつか新居に遊びに行っていいですか、っておねだりしたんです。それまで断ったらかわいそうだと思ってくれたのかな。みんなで遊びにいくってときに混ぜてもらったんです。想像通りの奥さんだったな。背が高くて綺麗で大人で。かっこいいひと。こんな大人でかっこいい女性なんだから、結婚なんかしなくてもひとりで生きていけるくせに。神さまって不公平だな。なんでも持ってる女性と、私みたいになんにもない女と……ひとつくらい、私に譲ってくれてもいいと思いません?」

 でも、あなたは若いから……鈍い頭痛を感じながらも、優歩は呟いた。

「若い女には興味なくて、彼は年上のかっこいい女性の好きな男性なんですよ。だから小田巻さんは奥さんと結婚したんですもの」
「……え?」
 
 理学部と芸術学部だったが、久人は優歩とは同じ大学のふたつ後輩だ。学園祭で展示されていた優歩のイラストを見て、久人が近づいてきた。ともに大学院に進んでからも、社会人になってからも十年以上もつきあって、結婚はしなくてもいいつもりでいたのだが、久人が言い出した。

 やっぱり結婚しようよ、お互いにただひとりのひと、として一生、つきあっていこうよ、と。

 いいけどね……私には結婚願望なんかないけど、久人がそんなに言うならしてあげるよ。
 そう返事をしたときの、久人の嬉しそうな顔。結婚式なんかしなくていいよね、と優歩が言い、親たちが式は挙げてほしいと懇願したのも、久人が退けた。僕は優歩ちゃんのしたいようにしたいんだ、と。

 子どもはいらない、優歩ちゃんがほしがっていない。
 気が変わるかもしれない? 優歩ちゃんが変わらない限り、僕も変わらないよ。
 
 久人はそう言うので、姑には疎まれているふしもある。そんなものは優歩にはなにほどでもない。私が幸せならば久人も幸せ。ふたりはそんな夫婦なのだから。

 頭の中に小さな虫が入り込んだような気分だ。
 奥さーん、ビール、もっとあったっけ? 久人の声が聞こえてきたのを潮時にしたかのように、志津は洗いかけの食器をそのままにキッチンから出ていった。

「今日はお疲れさま。片づけは僕がするから、優歩ちゃんは先に休んでくれていいよ」
「片づけは一緒にしましょ」
「そう? そのほうが僕は助かるけどね」

 それきり志津は優歩には近づいてこず、年上の仲間たちに溶け込んで楽しそうにふるまっていた。優歩は頭の中を整理しようとつとめつつ、皆が帰るのを待っていた。

「告白されたんだってね」
「へ?」
「で、久人は断った。それはいいんだけど、そんな相手の女の子をうちに招く?」
「なんのこと?」
「とぼけんなよ」

 ぐっと久人を睨んで、優歩はまくしたてた。

「久人はもてるほうなんだから、独身のときに会社の若い女の子に告白されるってことはあったかもしれない。ひとりやふたりじゃなかったのかもしれない。私とずっとつきあってたんだから、二股なんかししないと信じてるけど、女に恋されるのは止められないもんね。ちゃんと断ったんだったら私もしようがないと思うよ。だけど、そういう女をうちに連れてくるってどういう了見? 申し開きがあるんだったら聞こうじゃないの」
「優歩ちゃん……意味わかんないよ。なんのこと? 誰のこと?」
「とぼけんな。ひとりしかいないだろっ!!」

 激するつもりはなかったのだが、言っているうちに腹が立ってきた。本気で怒ると優歩ちゃんって言葉遣いが悪くなるよね、そんなところも魅力的だ、と久人が言っていたのを無意識で意識していたのかもしれない。

「……ひとり? 若い女の子? 志津ちゃん?」
「そうだよっ」
「志津ちゃんがどうかしたの?」
 
 とぼけんなっ!! と叫ぼうとして思いとどまった。理系男子の常として、久人は鈍感である。鈍感とはいっても直接告白されたのならば、知らないわけはない。するとつまり?

「告白されてないと?」
「就職したばっかりのころには誰かに告白されたな。だけど、僕には優歩ちゃんがいるからって断ったよ。そのあとも二、三度あったんだけど、あれってからかわれたんじゃないかと思わなくもない。どっちにしたってみんな断ったよ。志津ちゃんになんか告白されてないよ」

 心の中で小さく、優歩は叫んだ。しまった!! 言わないほうがよかったのに。
 あの日から一年ほど後に、久人が言った。
 
「優歩ちゃんは結婚なんかしたくなかったんだよね」
「願望はなかったよ」
「だったら、独身に戻ればいいよ。僕は優歩ちゃんに悪いことをしたみたいだ。結婚なんかしたくないあなたを僕の妻にしてまった。優歩ちゃんはそういう女性だよね。だけど、世の中には結婚したくてたまらない女性もいるんだ」
「誰のことを言ってるの?」
「こんなにも一途に愛されるってはじめてだよ。僕は優歩ちゃんを愛するほうがいいと……いや、そんなに深く考えてもいなくて、優歩ちゃんには悪いことをした。ごめんね、解放してあげるから」

 世にもありふれた台詞だ。
 あなたはひとりで生きていける女だけど、彼女には僕がついていてあげないといけないんだ。

 通常、妻だのモトカノだのにその台詞を言ってのける男は、罪悪感を持って口にするはず。だが、久人は本当に、優歩のために、と思っている。優歩のためにも志津のためにも、僕はベストの選択をするんだと信じている。そして、久人は優歩に告げた。僕らは別れようね、と。

「久人は本当に、志津ちゃんがあなたに恋してるって知らなかったの?」
「知らなかったよ。優歩ちゃんが教えてくれてよかった。志津ちゃんは僕の子どもがほしいって言う。そんなふうに言われるのもいいものだね」
「……そう」

 しまった、との心の叫びは正解だったのだろう。言わなければよかった。聞かなかったことにして口をぬぐっていれば、志津だってそれ以上は久人に言い寄らなかったであろうに。

 志津の捨て身の作戦にうまうまとひっかかった私が馬鹿。
 だけど、こんな浮世離れした男とは一生をともにするなんてできっこないだろうだから、これでよかったのかもしれない。優歩は思う。何年か後に後悔するのはどっちかしらね、志津ちゃん?

次は「ず」です。


ガラスの靴71「玄人」

「ガラスの靴」

     71・玄人

 この企画をたくらんだひとりの女と、彼女に呼び出されてやってきた三人の女。四人のうちの三人までが名前に「か」がつく。

 各々父親のちがう三人の子を未婚の母として育てている通訳、ほのか。
 キャバクラ嬢、愛花。
 「か」のつかないただひとり、仕事はなにをしているのか知らないが、常にフェロモン満開、男殺しの優衣子。この三人は独身。

 もうひとりの「か」は、夫との取り決めで浮気は公認の既婚者、デザイン事務所勤務の涼夏。彼女が今回の企てをアンヌに持ちかけた。
 その涼夏さんに連れられてきたのが、仮名、太郎。涼夏さんの取引先の社員だそうで、眉目秀麗なエリート青年だ。エリートだから仮名なのか、涼夏さんが太郎くんと呼んでいるので、みんなもそう呼んでいた。

 低く絞った音量でピアノ曲が流れている場所は、我が家のダイニングルームだ。ホームパーティだと言われて涼夏さんに連れられてきた太郎くんは、誰にも愛想よくふるまっていた。

「息子さんは今夜は……?」
「お母さんの家にいるんだ」
「ああ、そうなんですか。お母さんって胡弓くんのおばあちゃんですよね」
「そうだよ」

 四人の女性にアンヌも加えて、女性たちがこちらを見ているのを感じる。僕は接待役なのだから黒子のようなものなのだが、美女たちの視線を送られると落ち着かない。それに引き換え太郎くんは動じず、僕と世間話をしていた。

「僕の母はバリキャリでしたから、僕も祖母に預けられていることが多かったんですよ。僕への肉親の愛情は、祖母と祖父が主に注いでくれました」
「寂しかった?」
「大人が誰も愛してくれなかったら寂しかったかもしれないけど、祖父母が可愛がってくれたから満足でしたよ。僕がなに不自由なく裕福に暮らせたのは、しっかり働いてる両親のおかげだって、祖母にも言い聞かされてましたから」
「ぐれたりもしなかったんだ」
「するわけないですよ」

 男は二十代後半がいい、と言うのが涼夏さんの趣味だそうで、二十三歳の僕なんかはひよこなのだそうだ。アメリカの大学院を卒業して、広告代理店に入社したと聞く太郎くんは僕よりも年上のはずだが、誰を相手にしても敬語で話すのだった。

「あの女のひとたちの中に。好みのタイプっていないの?」
「どの方も綺麗で、好きですよ」
「特別に誰かとつきあいたくない?」
「いえ、別に」

 彼女のフェロモンにはどの男も一発で降参して、彼女がいようが妻がいようが、バツニバツ三であろうが、なびかない者はない、との評判を持つのが優衣子さんだ。彼女はそれとなく太郎くんにアプローチしていたが、するっとかわされていた。

「笙くんも太郎くんも実は……」
「そうかもしれないね」

 実は……なんと言ったのかは知らないが、男を侮辱するフレーズだったにちがいない。僕はこの世では少数派の、優衣子さんのフェロモンにやられない男。それでも僕は優衣子さんの胸の谷間などを見るとどきっとするが、太郎くんはなんにも感じていないようだ。

 気に食わない顔の優衣子さんに話しかけられたのは涼夏さんで、彼女は太郎くんと遊びの恋がしたくて誘いをかけたのだそうだ。そして、言われた。

「女性とプライベートなおつきあいをしたことはありません。友達だったらいーっぱいいますけど、性的な関心はひとかけらもない。男が好きとかロリコンとかってのもありませんよ。セックスの経験もありませんし、したくもないな。頭の中がそういうのでいっぱいで、いやらしい動画を観たりする男は汚らわしい……うーん、そこまで考えてはいませんよ。ただ、暑苦しくっていやなんですよね。やりたい奴は好きにやってればいいけど、僕にはおかまいなくって感じ? なまぐさいのや暑苦しいのは嫌いなんですよ。結婚なんかしたくありません。恋愛にも興味はありません。僕の好きなこと? ガーデニングかな」

 そんな男に涼夏さんの闘志が湧いた。
 悔しいけど、私じゃ駄目みたい。だけど、他の女だったら? 男を惚れさせることには百戦錬磨、一騎当千のつわものたちが、アンヌの周囲には大勢いるでしょ、みつくろって連れてきてよ。私は太郎くんを連れていくから、と言われたアンヌがその気になった。

 休暇が残っていたのもあって、アンヌが涼夏さん所望の女たちを動員したのだが、そんな遊びに加担しているアンヌも、昔は相当なつわものだったはず。

 真面目な男や堅い男、てめえは遊んでいても女には貞淑を求める自分勝手な男、もてない男、固定観念にかたまっている男、などなどには敬遠されるものの、思考が柔軟な僕みたいな男や、強気の美人を好む男にはもてまくっていたアンヌも、今夜は太郎くんにちょっかいを出していた。

「涼夏さんには誘惑されたんだろ」
「そうなんですか。社会人の先輩としていろいろと教わってはいますが、誘惑じゃないでしょ」
「優衣子さんの色気にもなんにも感じない?」
「色気? 色気ってなんなんですか。色気なんか感じたことはないな」
「アンヌみたいなタイプはどう?」
「かっこいいですね」

 同じ男なのだから、彼が内心ではどきどきしているとしたら多少はわかる。が、彼の心も身体も、美女にはぴくっとも動いていない様子だった。

「愛花、ちょっと酔ってきたみたい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよぉ。介抱してよ」
「介抱だったら女性同士でお願いします」
「……うん、もうっ、送ってってくれないの?」
「僕は明日は予定がありますので、あまり遅くなりたくないんです。ごめんなさい」

 業を煮やしたのか、愛花さんがなんともストレートなアプローチをこころみたのも、空振りに終わった。
 ぶすっとした顔になった愛花さんは、まるで酔ってはいない態度に戻って、スマホを取り出してむこうに行ってしまった。キャバクラ嬢というと男をたぶらかすことにかけてはプロなのだから、プライドが傷ついたのかもしれない。

「笙さん、料理が上手ですね。これみんなあなたが作ったんですか」
「ほとんどはね。だって僕、専業主夫だもの」
「主夫の仕事のメインは料理ですね。たしかに」
「褒めてくれてるわりには、おいしそうに食べないね」
「いや、僕は食べものに興味ないから」
「なにに興味あるんだよ?」
「ガーデニングですね」

 またガーデニング。がくっとして、僕はチューハイをがぶ飲みした。女のひとたちはむこうにかたまってこそこそ言いながらも、盛大に飲んで食べている。彼女たちはおいしそうに食べているからいいのだが、僕としても苛立ってきた。

「僕とばかり喋ってるって、太郎くんはほんとは男のほうが好きなんだろ」
「いいえ」
「十五歳以上お断りとか?」
「いいえ」
「十五歳未満にだったら色気を感じる?」
「だから、僕は人間には色気を感じないんです」
「なんにだったら感じるの?」
「見事に咲いた薔薇の花とか……」

 けーっ!! と叫びたくなったのは、僕も酔ってきたからだろうか。
 はじめて涼夏さんから話を聞いたときには、太郎くんのたたずまいは理想の老後の姿だと思った。老後だったらいいが、年頃の近い男としてはじれったい。おまえみたいな奴が増殖すると、少子高齢化が進みすぎて、僕らの老後には年金も出ないぞ。

 おまえは稼ぎがいいんだし、妻も子も持つつもりはないからしっかり貯金すればいいと言うんだろ。うちだってアンヌの稼ぎはいいけど、浪費も激しいから貯金はそんなにしていない。アンヌには定年はないけど、ロックヴォーカリストって何歳までやれるんだろ。

 万が一アンヌに捨てられ、胡弓にもつめたくされ、年金ももらえなかったとしたら……僕の老後は真っ暗闇だ。酔っているせいか悲観的になって、太郎くんにからみたくなってきた。

「太郎くんは主夫なんて馬鹿にしてるだろ」
「してませんよ。他人の生き方は尊重します」
「きみは主夫になりたい?」
「僕がなりたいかどうかは、笙さんの生き様とは無関係でしょう?」
「きみの目に侮蔑を感じるんだよ」
「誤解ですよ」

 あくまでもにこやかな太郎くんと押し問答していると、玄関チャイムの音がした。僕が立っていく前に愛花さんが出ていき、数人の女性を伴って戻ってきた。

「もっとお客さん?」
「笙、こっち来い」
「うん、お客が増えたんだったらグラスとか……」

 呼ばれてアンヌのそばに近づいていくと、僕のかわりのように女性たちが太郎くんを取り囲み、アンヌが言った。

「あれは愛花の仲間たちってのか、男をもてなすのが仕事ってプロの女たちだよ」
「愛花さんの手管が通用しなくて、腹が立ったらしいのね」

 言ったほのかさんは、黙ってそこにいるだけで男に恋されるらしい。僕の知り合いにもほのかさんに片想いをしている男がいた。だが、太郎くんはそんなほのかさんにも興味はないようで、一顧だにしない。ほのかさんはそれでもいいらしいが、内心はむっとしていたりして?

「それで、愛花ちゃんが仲間を呼び出したのよ」
「あんなもんでは太郎くんには通用しないと思うけど、お手並み拝見だね」
「だね」

 優衣子さんと涼夏さんがうなずき合い、アンヌが腕組みをする。太郎くんを囲んでいる華やかな女性たちは、銀座のバーのホステスたちだそうだ。二十代から四十代までの美女集団にかかったら、歌舞伎の大物や政治家や経済業界人や、クラシックの指揮者やマエストロや、なんて人種でもひとたまりもないのだそうだが。

「無駄だよ。あいつはそもそも人類の男じゃないんだから」
「異星人?」
「薔薇の妖精王なんじゃないの」

 やや離れたところから観察していても、案の定、太郎くんが動じていないのが見て取れた。銀座のお姉さんたちに取り囲まれているというよりも、学生時代の女友達たちとグループ討論でもしているかのようだ。
  
 ああいう男になったら感情の波立ちがきわめて少なくて、人生、意外と楽なのかもしれない。けれど、僕は僕でいい。僕はこんなだから、こんな笙だからアンヌに愛してもらえるんだ。僕が太郎くんみたいになったら、アンヌに捨てられるかもしれないんだから、僕はこのままでいい。

つづく

 

209「秘密の打ち明け話」

しりとり小説

209「秘密の打ち明け話」

 アシスタントスタッフとは、要するになんでも屋、雑用係だ。正社員はお茶くみや掃除やコピー、文書清書などはやりたがらないので、晴陽たち派遣社員がすることになっている。総務部のアシスタントスタッフは晴陽と、もうひとり、六十代の女性だったのだが、その女性が退職し、派遣会社から別の女性がやってきた。

「よろしくお願いします」
「こちらこそ。晴陽さんっておっしゃるんですよね」
「ええ、そうですが」
「晴陽さんってお兄さん、いません? 陽光さんってお兄さん。旧姓は田島さんじゃありません?」
「そうですけど」
「わぁ、やっぱりあの晴陽さんだ。嬉しい」
「嬉しいって、なにが?」

 明るいのがいちばん、という主義だそうで、両親は息子には陽光、娘には晴陽という名前をつけた。ヨウコウ、ハルヒと読み方はそのままなのでいいといえばいいのだが、彼女はどうしてヨウコウ、ハルヒの兄妹を知っているのか。晴陽には見覚えのない女性だ。

「私は加絵っていうんですよ。覚えてません? 陽光くんは私のことはカエ、カエって呼んでたから、晴陽ちゃんは旧姓は知らないかな」
「兄と知り合いなんですか?」
「そうなんです、あとでね」

 初出勤の挨拶をした加絵は部署へと行ってしまい、あとで、と言われたのだから、昼休みに晴陽から声をかけた。

「お昼はお弁当? どこで食べたらいいんだろ」
「社員の人たちは社員食堂や空いてる会議室で食べてますけど、派遣が入るといやな顔をされるんで、今日は天気がいいから公園で食べましょうか」
「あの公園ね。オッケー」

 ぼってりした身体つきの愛嬌のある女性だ。高い声でよく喋るので、仕事中にも加絵の声は時々聞こえていた。兄の友達か……ならば年上なのかと、晴陽は丁寧に喋り、加絵はタメ口で、今日は暑いよね、そろそろ冷房が入りますかね、などと話をしながら公園まで歩いていった。

 わりあいに大きな自社ビルを持つ製造業の、晴陽たちが働いているのは事務部門。大きな会社の正社員となるとプライドが高く、派遣社員は見下される傾向にある。そんな者ばかりではないが、晴陽としても身近に同じ立場のアシスタントスタッフがいるほうがいい。前任者は年上すぎたので、同年輩の加絵は歓迎したかった。

「高校のときに、私、陽光くんに告白したんだ」
「兄とつきあっていたんですか?」
「ちょっとだけね。陽光くんは一年生で、私は三年生だった。私が先に卒業したから、それで自然消滅。陽光くんはいい大学に行ったんだろうね」
「いいって言うか、普通ですけど」
 
 とすると、三つ年上の兄のふたつ年上。加絵は晴陽よりも五つ年上の三十六歳だ。

「晴陽ちゃんも大卒?」
「ええ、まあ」
「でも、大学出て派遣のアシスタントスタッフだったら、高卒の私と一緒だね。もったいないよね。結婚してるんでしょ?」
「してます」
「だよね。田島じゃなくなってるもんね。初婚? 子どもは?」

 さりげなく無礼なことも言いつつ、質問する加絵に、晴陽は適当に応えていた。

「私も結婚してるの。一年前に出産して、保育園に入れたから働きに出たんだよ。専業主婦なんてつまんないからいいんだけど、子育てと家事と仕事ってしんどいわ。晴陽ちゃんは子どもがいなくて楽でいいよね。残業なんかあったら替わってくれるでしょ?」
「残業はあまりないから……」
「そうなの? 子どももいないのにとことん楽してるんだね」

 夫の転勤でやむなく前職をやめ、妊娠を待ちつつ働いている。家事だって夫以上にしている。正社員には簡単にはなれない時代だから、派遣社員に甘んじている。自己責任と言われれば否定できないし、子持ちの働く主婦よりは楽だろうから、反論する気にはなれなかった。

 ちくちくと失礼な台詞を吐く加絵とは親しくなりたくもなかったのだが、総務部のアシスタントスタッフはふたりきり。歳も近くて立場も同じで、その上に兄のモトカノともなると、晴陽も邪険にはできにくいのだった。

「うちの旦那、子どもにつめたいんだよね」
「そうなんですか」
「子どもができてから、加絵は僕をないがしろにする。もっと僕にかまってって感じ」
「言っちゃ悪いけど旦那さんが子どもみたい」
「でしょう? 言ってやってよ」

 その調子で、加絵は晴陽に夫の悪口を言うのがストレス解消法らしい。合間には、陽光くんと結婚していたらなぁ、と遠い目をしていた。

 兄は大学を卒業して新聞記者になり、一度結婚はしたものの、離婚して今は独り身だ。正直に言うと、え、そんなら私も離婚して陽光くんと再婚しようかな、と言い出しそうな女に思えたので、晴陽は兄が結婚したことだけを加絵に話した。案の定、新聞記者、かっこいい!! と加絵は目を輝かした。

「特派員としてタイに赴任してるんですよ」
「単身赴任?」
「いえ、家族帯同です」
「なあんだ、だったら遊びに行って誘惑するってのは駄目か」
「加絵さん、それはないでしょ」
「冗談だよ」

 タイだと物価も安くて、メイドさんが雇えるんだよね、楽でいいなぁ、と羨ましがっているのは、よほど子持ち兼業主婦の日々に疲れているのか。反論すれば、あんたは楽でいいよねっ、と言われるのが目に見えているので、晴陽はいつだって曖昧に微笑んでいた。

「息子が入院しちゃってさ、旦那はつめたいからますますてんてこまいしてるんだよ。明日は休むから、晴陽ちゃん、お願いね。みんなによろしく言っておいて」
「わかりました。お大事に」

 みんなによろしく、と伝言されたにしても、欠勤の連絡はしているのだろうと晴陽は思い込んでいた。ところが。

「そういうことはあなたからの連絡だけでは困るな。彼女がちゃんと電話してくれなくちゃ」
「え? してないんですか」
「電話はありませんよ」

 そんな日が一週間続き、派遣会社からも頼まれた。

「晴陽さんは彼女と仲いいんでしょ? このままじゃクビになりますよって、伝えてきて下さい」
「ええ? うう、でも、一度は息子さんのお見舞いにも行きたいから……」
「そうですよね。友達ですものね」

 友達のつもりはないが、浮世の義理ならある気がして、晴陽は加絵にメールをした。一歳をすぎたばかりの加絵の息子が入院している、不憫な幼児を元気づけてやりたいのもあった。

「晴陽ちゃん、ありがとう。よく来てくれたね」
「入院って、病気なんですか?」
「ちがう。事故。ってかね、旦那がちゃんと見てなかったから階段から落ちたの。頭は打ってなくてよかったよ」
「そうなんですか」

 頭をよぎったのは、虐待じゃないの? だったのだが、そうは言えない。一歳の子だと身内が泊まりこまなくてはならないきまりだそうで、これでは加絵も出社できないだろう。きちんと会社に連絡するように、それだけは晴陽としても強く頼んでおいた。

「旦那さんは?」
「お見舞いにも来ないよ」
「ひどいなぁ。自分の不注意で階段から落ちたんでしょ」
「私が悪いって旦那は言ってる。どっちでもいいんだけど、旦那がつめたいのはほんとだよね。あれ? そう言ってたら来たみたいよ」
「旦那さん?」

 怪我をしたり骨折したりしている子どもたちが入院している大部屋に、若い男が入ってきた。二十代ではないのだろうか。ひょろっと背の高い彼は晴陽を見て軽く会釈し、加絵には言った。

「一度くらい来いって言うから来たよ。じゃ」
「ちょっと待って下さい、もう帰るんですか」
「帰りますよ。あなたには関係ないでしょ」

 ほっときなよ、と加絵が止めるのにはかまわず、晴陽は加絵の夫を追いかけた。病院内で大きな声を出してはいけないので、彼について外に出た。

「なんなんですか、その態度は。あなたの息子さんでしょっ」
「ちがいますよ」
「は?」
「俺の子じゃない。だまされたんだ」
「え? ええ? すると、加絵さんって再婚?」

 そんな話は聞いていないが、再婚で連れ子だとしても、だまされたとはおかしいではないか。彼は病院の庭のベンチに腰を下ろし、晴陽も隣に腰かけた。

「再婚にしたって、わかってて結婚したんでしょ」
「再婚じゃないよ。加絵さんも俺も初婚」
「なのにあなたの子じゃないって……」
「DNA鑑定はしたよ。俺の子じゃなかった。だけど、俺は加絵さんが……加絵さんが好きなんだよ。好きだから別れられない。そんなら潔く俺の子だと思えばいいのに、それもできない」

 泣きながら、彼が話した。

「DNA鑑定なんかしなかったらよかったんだ。そしたら……疑いながらも俺の子だって信じられたのに。なんであっても加絵さんの子なんだから、俺も可愛がろうとしたよ。でも、駄目なんだ。この間も別れようとか言ってもめて、目を離した隙に坊主が階段から落ちた。俺にも罪の意識はなくもないんだけど、俺の子じゃないのはまちがいないんだから。俺は加絵さんが好きなだけで、ガキまでは好きじゃないんだよ、嫌いなんだよ。それでも見舞いにきただろ。なぁ、あのガキの親父って誰だ? あんたが晴陽さん? あんたの兄貴があのガキの親か?」

 ガキ、坊主、名前も呼びたくないのか。しかし、そういう事情ならば彼の気持ちもわからなくもない。

「うちの兄は三年ほどタイに行ってます。日本には帰ってきていませんから」
「加絵さんがタイに行ったってことは……」

 絶対にないとは言い切れないが、加絵の言動を考えるとないはずだった。

「ありません」
「だったら、あのガキの親父は誰?」
「知りませんよ」
「……俺は苦しいんだよぉ」

 両手で顔を覆って本気で泣き出してしまった彼を見やって、晴陽も悩んでしまう。子どももだろうが、この男は加絵というひとりの女に丸ごとだまされている。それでも幸せだったらいいけれど、いや、そんな女がそんなにも好きだなんて、それはそれで幸せなのかもしれなかった。

次は「し」です。


«ガラスの靴70「求愛」

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