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フォレストシンガーズ・短歌俳句超ショートストーリィ2019/7

フォレストシンガーズ 超ショートストーリィ

 
 その歌の解釈を教えて下さい、と頼まれることはよくある。
 フォレストシンガーズの乾隆也は古典文学を大学で専攻した、特に短歌や俳句が得意分野だと、フォレストシンガーズが有名になるにつれ、そちらも有名になっていったからだ。

 グループとして、であるので、個々のメンバーはさほどに有名ではない。ファンではない人に言わせれば、フォレストシンガーズに乾隆也っていたっけ? 程度であるのだが。

「この季節にふさわしい、ぴったりの短歌を教えてください。乾さんの自作だと嬉しいな」
「いや、そんな即興では詠めませんよ」

 こちらの頼みもよくされる。
 
 梅雨明け間近の七月のある日、雑誌のインタビューを受けていた隆也は、そう言われて考え込んだ。七月の短歌……あまりにも有名ではないものといえば。

「日かげにもしるかりけめや少女子が天の羽袖にかけし心は」
「えーと、出典は?」
「源氏物語です。五節の舞姫」
「はあ……意味は? 恋の歌ですか」
「解釈はあなた自身のお心のままに」
「えーっと……も、しるかりけめや? えとえと……」
「感覚で解釈して下さいね。ひとつひとつの語句の意味は置いておいてもいいんですよ」

 定番の質問には定番の答えで。

END

ガラスの靴52「安売」

「ガラスの靴」

52・安売


 音楽で食っていかれる保証はないから、こっちにも才能があるつもりだったイラストの勉強をすることに決めた、二十五歳のあたし。専門学校のイラスト学科に入学して笙と知り合った。

 結局はロックバンドのヴォーカリストとしてプロになったのだが、笙とは結婚して、彼には主夫をやらせている。あたしは家で主婦業と母業をやっていられるような性格ではないので、主夫としてのほほんと生きているのが性に合う男と知り合ってよかったのだ。

 専門学校時代には他の生徒よりもだいぶ年上で、とんがった服装をして、変な噂もふりまかれていたあたしは敬遠されていた。お気楽なガキどもとなんか友達になりたくないから、ひとりでもへっちゃらだったのだが、ひとり、ふたりくらいは友人もいた。

「おや、縫?」
「あらま、アンヌ?」

 男とは友人ではなく、セフレってやつになったのだが、女とだったら友達にもなる。彼女はあたしよりひとつ年上で、専門学校生としては年を食っていた。そのせいもあり、性格もいっぷう変わっていたからあたしと気が合ったのだ。

 ヌイとはあたしの世代には珍しい名前だ。アンヌもありふれた名前ではなく、名前の話をしてから親しくなったのだった。

 その縫と再会したのは、音楽スタジオ。縫は音楽スタジオと取り引きのある会社で働いていると言う。なんの会社だかは教えてくれなかったが、そんなことはどうでもいい。飲みにいこうぜ、と誘って、二、三度旧交をあたため合った。

「笙くんねぇ、あんまり記憶にはないけど、アンヌは年下の男の子と結婚したんだ。しかもロックバンドのヴォーカル……桃源郷って名前だったら知ってるよ。んで、笙くんは主夫。かーっこいい。勝ち組だね」
「主夫を養ってる女って勝ち組か? 金持ちの男に寄生してる主婦のほうが勝ち組だろ」
「アンヌにはそんな主婦、向かないんじゃない?」

 よく知っている。そりゃあまあ、旧友なのだから当たり前か。
 夫が主夫で子どもも夫が主になって育てていると言うと、眉をひそめるむきもなくはない。旦那さんがかわいそうと言われたり、そんなヒモ、ろくでもない男だろうと言われたり、母がちゃんと育てないと、子どももろくでもない男になるよと言われたり。

 他人は好き勝手言ってくれるものだが、縫のようにかっこいいと言った女は少数派だ。こういうところが縫と友達になれた部分なのだろう。

「縫は男は?」
「去年、プロポーズされたんだけどね……」
「結婚したのか?」
「してないよ。断ったの」

 三度目にふたりで飲みにきた酒場で、縫は浮かぬ顔になった。

「重大な瑕瑾があったんだよ」
「かきん? 傷ってことか」
「そ。背が高くてかっこよくて、いい大学出てていい会社で働いてて、性格もいい男だったのよ」
「そんな男がよくも、あんたに惚れたね」
「まっ、失礼ねっ!!」

 怒ったふりをしてみせてから、縫は大きく息を吐いた。

「だけどさ、その大きな重すぎる傷のせいで、私はあいつのプロポーズを蹴ったの」
「なんの瑕瑾だか知らないけど、断ったんだったらしようがねえな」
「うんっ、もうっ、冷たいね。聞いてよ」
「話したいんだったら話せよ」

 もったいつけずに言えばいいじゃないか。あたしはウィスキーを飲み、縫はカンパリを飲んでいた。

「そんな男なんだけど、私にふられて傷心状態で、もう二度と恋なんかしないって言ってたんだよね。そうなのかもしれない。あんな傷もの、私じゃない女だってきっと断るだろうと思ってたの」
「傷ものって、暴走族のレディスにでも輪姦された過去があるとか?」
「アンヌ、真面目に聞け」

 すこし酔ってきたのか、縫の目が据わってきていた。

「なのにね、ついこの間、会ったのよ。彼とは社内恋愛だったから、居づらくなって私が会社を辞めたのね」
「ああ、そうだったのか。転職してたんだ」
「そうよ。惜しまれつつも私は転職したの。だけど、私はみんなに慕われてたから、その会社の女の子たちともつきあいが続いている。先だって前の会社の女の子たちと飲みにいったのね。そしたら、彼も女の子たちについてきたんだよ。私に未練があったんだろうね」

 そうなのかもしれない、別の理由があったのかもしれない。

「彼は私に言ったの。俺は二度と恋はしないつもりだったよ。恋はもういい。だけど、結婚はしたくなくもないんだ。恋はしなくても結婚はできる。近く結婚が決まりそうなんだ。縫、後悔しないかって?」
「なんだ? それが言いたくて縫に会いにきたのか?」
「そうなのね。彼、私に未練たっぷりで、他の女となんか結婚しないでって言わせたかったんじゃないかと思うんだ」

 というよりも、見せびらかしたかったのだとあたしは思うが、あたしはそいつではないので真意はわからない。縫は切なげに続けた。

「今ならまだ間に合うよ、婚約破棄だったらできるんだから、縫……って、私を見つめるの。だけど、冷静に考えたらあいつには瑕瑾がある。私はそんな男とは結婚できない。そんな男と知っていながらあいつと結婚する、その女みたいな安売りはしたくない」
「安売りなのか」
「そうだよ」

 据わった目をして断言する縫に、もう一度尋ねた。

「瑕瑾ってなんなんだよ?」
「奨学金よ。彼は医者志望で、医学部に入って六年間勉強するにはとうてい親のお金では無理だからって、諦めてくれって親に言われたらしいの。それでも絶対にやるって言って、奨学金を借りたんだって」
「そいつ、医者?」
「医者になれたんだったらまだいいけど、途中でリタイアしたのよ。医学部の勉強についていけなくなって、四年生で別の大学に編入したの。それでよけいに金がかかったんだよ」

 奨学金の返済をせねばならないから、毎月、かなりの金が出ていく。それを瑕瑾だと縫は言うのである。

「てめえにゃ関係ない金が、男のふところから出ていく。それって気に入らないかもしれないけどさ、そいつはいい会社で働いてるんだろ」
「借金持ちの男なんていやだよっだ」
「ギャンブルで作った借金とかじゃないんだろうが」
「アンヌらしくもない正論を吐かないで。借金は駄目。絶対にいや」

 自らの勉学のために借りた奨学金を、自ら働いて返す。けなげではないか、とあたしは思う。あたしだって中退した大学も、専門学校も自分で稼いで通った。

「息子に借金させる親も親だよ。そんな親がいるってだけでもいや」
「……そういうもんか。あんたとはそんなに価値観がちがうんだ。びっくりだね」

 大人にならないとわからないこともあるものだと、あたしは今さら知った。ある程度は援助しても、あとは自分でなんとかしなさいと奨学金を借りさせる親。親の勧めに従って借金をして、きちんと働いて返していく子。それのどこが悪い。どこが瑕瑾だ。

「だけど、惜しいのは惜しい。私は安売りなんかできないけど、そんな男は簡単に結婚できないだろうと思ってたの。あいつが奨学金を返し終わったら、もう一度プロポーズしてくるかとも思ってたのよ」
「……あてがはずれて残念だったね」
「なによ、アンヌ、言い方がつめたいじゃない」

 いつまでも友達でいようね、なんて、あたしはそんなきれいごとを言ったこともないけれど、学生時代の友達とは続いていけると思っていた。旧友だからこそ、こうして久しぶりに会ってももと通りになれると喜んでいた。けれど、錯覚だったんだ。人はこうして、友達をなくしていくものなのか。

つづく


199「理想の結婚」

しりとり小説

 

199「理想の結婚」

 

 美容院の予約をし、ダイエットにも励み、思い切ってワンピースを新調する。この日のために新しい口紅を買ったこともあった。当日には本気メイクをして、年に一度のメインイベントに出発する。

 

 張り切りすぎて早く来過ぎたのか、会場には實子が一番乗りだった。
 それでもスタッフが中に入れてくれたので、實子はひとり、同窓生たちの到着を待つ。四十三歳、働き盛り、主婦盛り、子育て盛り、年に一度の同窓会に来てくれたとしても、時間通りに来る者のほうが少ないのだった。

 

「實子さん?」
「え? えと……」
「忘れられちゃった?」
「えーっと……あ、留子ちゃん!!」
「久しぶりねぇ。私は高校の同窓会ははじめてなのよ」
「そうなの? 私は最近は皆勤してるけど……そういえば留子ちゃんには会わなかったね」

 

 十五年前に高校を卒業した、M女子高校の仲間たちは、みんなばらばらになっている。短大や大学、専門学校に進学した者。就職した者。フリーターになった者。中には留学したり、卒業してすぐに結婚したと聞く女の子もいた。
 三十歳になった年に、誰かが言い出してクラス単位の同窓会がスタートした。實子の実家は高校時代と同じ住所なので、母が案内の葉書を實子に渡してくれた。

 

 それから十三年、實子は欠かさず出席している。たいていは常連ばかりだが、特に楽しみもないパート主婦としては、そのためにおしゃれをしたり洋服を買ったりするのが励みになる。女子校なので、夫もなんの心配もしないで送り出してくれる。夫の高校は共学だから、同窓会があると不倫の心配もしそうだが、幸いにも夫は自分の同窓会には関心もない様子だ。

 

 およそは似た境遇の者たちが常連になるようで、突出して恵まれた者も、不幸な者もいない。誰それが亡くなった、某は転勤で引っ越した、などという噂は聞こえるが、来ない者は忘れられ、去る者は日々に疎くなるのである。

 

「主人の仕事の関係で、ずっとパリで暮らしていたものだから」
「ああ、そうなんだ」
「今、里帰り中なのよ。……ねえ、まさか私たちだけ? 誰も来ないんだろか」
「遅れて来る人のほうが多いよ。待っていたら来るって」

 

 待っている間は留子としか話せない。早くもいやな気分になりつつあったが、好奇心も強かった。

 

「主人は貿易関係の仕事をしていて、私がパリに出張で行ったときに知り合ったのよ。私も輸入雑貨の仕事をしていたから、話が合ったのね。熱烈に恋されて、遠距離恋愛がはじまったの。彼はフランス人と日本人のハーフで、背が高くて顔もいいのよね。俳優にならないかってパリでも何度もスカウトされたらしいから、それはもうもてるのよ」
「そうだろうね」
「だから心配だったの。パリと東京の遠距離なんて続くはずもない。私だって日本で何人もの男性に言い寄られるし、彼は彼でパリの美人に誘惑されるし、半分は、じきに別れることになるんだろうなって思ってたのよ」

 

 誰か来ればいいのにな、留子の自慢話を半分、聞いてほしい、實子はそう思っていたのだが、同窓会開始時刻になっても誰ひとりとしてやってこなかった。

 

「それが続いたのは、縁があったんでしょうね。私が二十七になった年に、日本ではその年齢だと適齢期だよね、結婚しないと他の男に盗られちゃいそうだね、って彼が、プロポーズしてくれたの。私は仕事で活躍してたから惜しかったんだけど、退職してパリに行ったわ。結婚してから十五年、息子と娘もできて、主人の仕事も順調で、私はパリで友人の仕事を手伝って、これが絵に描いたようなジュンプウマンポってやつね」
「ジュンプウマンパンじゃないの?」
「え? なに? 日本語、だいぶ忘れたから……ジュンプウマンポ? ジュンプウマンパン? そんな言葉、パリでは使わないからどっちでもいいのよ」

 

 中華料理店が会場なので、大きな丸テーブルにふたりだけでついている。店のスタッフが気を使ったのか、オードブルと食前酒を運んできた。

 

「乾杯しよっか」
「そうね」
「……でもね、ひとつだけ心配があるの。フランス人ってグルメだから、食べるのが大好きなのよね。私は料理は大得意だから、和食の懐石だってフレンチのフルコースだって作れる。主人は私の料理が大好きで、大喜びで食べるの」
「ご主人が太った? うちの主人もおなかが……」
「そうじゃないのよ。うちの主人は全然太らないの。私よりも三つ年下だからまだ若いのもあるけど、結婚したときと変わらないかっこよさで、パリジェンヌたちがほっといてくれないのよね」

 

 あっそ、と呟いて、實子はクラゲの酢のものを口にした。

 

「主人は背も高いの。フランス人って意外に背は低いし、グルメが多いから肥満体もけっこういるのね。それがうちの主人ったら、仕事はできるし長身で細身で、日本人の血がうまいこと入って若々しいハンサムで、あいかわらずもてまくってるのよ。私ももてるから、子どもたちも心配してるわ。パパもママも他の恋人を作らないでね、だって」
「フランス人って恋愛には奔放なんでしょ」
「お互いにボーイフレンドやガールフレンドはいるわよ。私だってボーイフレンドと踊りにいったり、飲みに行ったりコンサートに行ったりはするわ。それって友達づきあいなんだから、恋愛ではないのよ。やっぱり日本人なのかな。そこらへんのけじめはきっちりしてるの」

 

 こうして隣同士の席で、自慢話から気をそらすためにも、彼女の容姿をちらちら観察していたら思い出してきた。留子は高校時代からやや肥満気味だったはず。なのだから太ったわけではないのだろうが、年相応におばさんっぽい。化粧は濃く、服装は派手だ。ファッションにはお金がかかっているようにも思えるが、實子には高級品の目利きなどできないので、自分の目に自信はなかった。

 

 シャネルのバッグはこれ見よがしなロゴがついているのでわかるが、本物? どうだろ。まがいものとの確率は五分五分かな、とも思っていた。
 意地悪な観察をしている旧友の気持ちに気づいているのかどうか、留子は自慢話を続けていた。

 

「血もあるんだろうけど、パリで育ったっていうのもあるのかしらね。娘はおしゃれが上手な芸術家気質で、モデルになれなんて勧誘には目もくれず、画家を目指してるわ。息子も私に似て綺麗な顔をしてるから、パリにもあるアイドル業界へのお誘いがあるのね。だけど、息子はまだ子どもよ。サッカーに夢中。ものすごく勉強ができるから、主人は息子を理系の学者にしたいみたいだけど、どうなることかしらね」
「うちの息子は天文学者になりたいって言ってるわ。東大に入るつもりで塾に通ってるから、先生にも太鼓判を押されてるの。よほどのことがない限りは合格まちがいなしだって」
「東大ねぇ。うちはアメリカに留学させるつもりよ。日本の大学は世界では田舎大学だもの」

 

 かっとして、實子は言った。

 

「うちの主人も背は高いけど、近頃の日本人男性はみんなかっこいいから、それほど目立たないみたいね。最近、主人はIT産業の社長になったの。私は心配だったんだけど、とてもうまく行ってるみたい」
「實子さんはお仕事は?」
「私は……ブティックをやってるのよ」
「じゃあ、そのワンピースはお店の商品? それ、売れてる?」
「売れてるわよ」

 

 ふーん、という目は、パリ暮らしの女から見たらセンス悪いね、とでも言いたいのか。実際には實子の夫はIT系企業の製造工場勤務で、實子は婦人用品店の販売パートだ。息子は三流高校生で、塾に行けと言っても逃げるばかり。けれど、留子への対抗心から口が止まらなくなった。

 

「オーナーが同窓会に着ていったら、ますます人気が出そうって言われて、マネキンのつもりで着てきたのよ。私は背が高くてスリムだから、うちの店で扱ってる服のモデルとしてうってつけだって言われるわ」
「日本人だものね」
「私にも心配はあるわよ。うちの主人は年収が二千万……じゃなくて、三千万を超えたから、母さんはもう仕事でがんばらなくていいよ、のんびり主婦やれば? なんて言われるの。いつ仕事をやめなくちゃいけないか気が気じゃないのよね。息子の東大受験のサポートもしてやらないといけないし、店の関係者には引き止められるしで、心が揺らいでるの」
「あなたのご主人、あなたを母さんって呼ぶの? 日本人ねぇ」

 

 人の話を聞いてるのかっ!! と腹が立って、實子は言いつのる。こんなに順調に来すぎると、反動が怖いわ、と實子が言い、私は幸運の女神に愛されてるんだから、反動なんか来やしない、と留子がしゃらっと言い返す。話に熱が入っていたものだから、いつの間にか他のテーブルにも人がついていて、聞き耳を立てられているのに気づいていなかった。

 

「そうだったらいいのにな……」

 

 え? 實子が我に返ると、小さな合唱が聴こえてきていた。

 

「そうだったらいいのにな
 そうだったらいいのにな」

 

 聞かれていたの? 本当のことを知っている同窓生たちに? 顔が赤くなるのを感じて、實子は横目で留子を見た。なぜか留子も頬を赤くしていて、両手でそこをしきりにこすっていた。

 

次は「こん」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴51「信頼」

「ガラスの靴」

 

     51・信頼

 

 どれほど綺麗でもおばさんではあるのだが、上品でセレブなマダムといった感じの美人が、竜弥くんのとなりで頭を下げた。

 

「竜弥の母でございます。西本たつ子と申します。竜弥がお世話になりまして」
「西本さん?」
「ええ」

 

 最初の妻とは男と不倫して離婚し、不倫相手と事実婚をした吉丸さんは、アンヌのバンド「桃源郷」のドラマーだ。男と不倫したのだから当然、事実婚の相手は男である美知敏。通称ミチは吉丸さんのヨメと呼ばれて専業主夫というか主婦というか、でもあり、吉丸さんの前妻が置いていった息子を育てる男母でもある。

 

 それで懲りるような奴ではない吉丸さんは、今度は女と浮気をした。その相手の女が西本ほのかさん。ほのかさんは父親のちがう三人の子どもをひとりで育てている通訳で、三番目の雅夫が吉丸さんの子だってわけだ。

 

 英語の通訳だから英米の有名人ともつきあいがある、収入も相当に多いほのかさん。望み通りに三人の子どもを持ち、人生が充実しているらしきほのかさんの自宅に入り込んできたのが竜弥くんだった。

 

 彼の正体はどうも曖昧で、大学生らしいとしかわからない。姓すらも僕は知らない。ほのかさんの子どもたちは彼の正体を教えてくれるには幼すぎ、ほのかさんも本人も絶対に言ってはくれない。時おり竜弥くんとは話す機会もあるのだが、肝心の部分ははぐらかされる。

 

 ほのかさんちの家政婦さんだったら教えてくれるかと思ったのだが、知りませんよっ!! とつめたくあしらわれた。

 

 その竜弥くんの姓は西本? 母が西本なのならば普通は息子も西本だろう。僕は結婚してアンヌの姓の新垣に変わったので、実の母とは苗字がちがうが、こっちのほうが特殊なはずだ。ほのかさんの姓も西本。すると?

 

「ほのかさんもお世話になっておりますようで、竜弥が笙さんに挨拶をしてくれと申しますのよ」
「えーっと、たつ子さんってほのかさんのなんなんですか」
「ほのかさんの兄の妻です」
「っつうと、竜弥くんはほのかさんの甥?」
「ええ。ほのかさんの子どもたちのベビーシッターをしてくれるなら、下宿代は無料でいいなんて言われましてね。うちの主人はもちろん、竜弥のマンションの家賃くらいだったら払えるんですけど、ほのかさんのお目付け役みたいな感じで、同居させるのはいいかもしれないと申しましたの」
「そうなんだ」

 

 なーんだ。そしたら竜弥くんはほのかさんの甥なんじゃないか。竜弥くんもようやく種明かしをしてくれる気になったようで、ほのかさんのマンションでお母さんを僕に紹介してくれたらしい。今日はほのかさんは子どもたちを連れて出かけていると竜弥くんは言っていた。

 

「笙さんもほのかさんについてはごぞんじなんですよね。主人も気に病んでいますのよ。兄の言うことを聞くような女性ではありませんから、竜弥をそばに置いて、せめてこれ以上はとんでもなく破廉恥な真似をしないようにと……身内の恥をお聞かせしてしまいまして、すみません」
「恥じゃないじゃん」

 

 小声で言った僕に竜弥くんはウィンクしてみせたが、お母さんには聞こえなかったらしい。ため息まじりに続けた。

 

「雅夫くんのお父さんの仕事仲間が、笙さんの奥さまなんですってね。笙さんは専業主夫でいらっしゃるそうで……私もほのかさんみたいな女性と関わってますから、専業主夫くらいじゃ驚きませんわ。それにしてもその、雅夫の父親って方は……」

 

 未婚の母とはいえ、ほのかさんはきちんと三人の子どもを育てている。今のところは子どもたちはまっとうに育っているのだから、ほのかさんは決して身内の恥ではないと思うが、四十代の頭の固いおばさんには通じないだろう。

 

「主人は怒ってましたけど、ほのかさんがもてあそばれて捨てられたってわけでもないらしいから、もうほっとけって態度になってます。だけど、雅夫のお父さんってよくもそれだけ浮気できますよね」
「それだけは同感ですね」

 

 うふふと竜弥くんは笑い、僕は肩をすくめ、たつ子さんはため息ばかりつきながらも喋った。

 

「うちの主人は家事なんかは一切しませんけど、しっかり働いてますし、優しいですし、絶対に浮気はしないんだから亭主関白は受け入れてますのよ」
「絶対に浮気はしないんですか」
「しません、絶対に。私は強く信じてます」
「僕はたつ子さんの旦那さんって知らないけど、どんなところがその根拠なんですか」

 

 あまり突っ込んで質問するといやがられるかとも思ったのだが、たつ子さんはその話をしたかったらしく、勢い込んだ。

 

「まず、主人の職場は男性ばかりです。アカデミックな仕事で、昨今は学者さんにも女性が進出してきてますけど、主人の職場にはいません。掃除婦のおばさんすらいません」
「なるほど」

 

 その調子でたつ子さんは並べ立てる。

 

 収入はいいけれど、給料も臨時収入もすべて夫が妻に託してくれる。妻の知らないお金は持っていないし、金銭的には恬淡としているので、妻の作ったお弁当を持って出勤し、仕事が終わればまっすぐ帰ってくる。帰宅時間は判で押したようにほぼ同じ。職場は自宅からも近いので、七時半には帰ってくる。

 

 たまさか会合などはあるが、夫はお酒は苦手なのでほとんど飲まない。たまにはバーに行ったりもするが、帰宅してから逐一、今夜はどこでなにがどうして誰と話して……などと妻に報告する。

 

 そういう話を妻にするのは好きだが、面倒くさがりなので携帯電話は仕事にしか使わない。その他の事柄も相当に面倒がるのだから、浮気なんかはめんどくさいの最たるものだと本人も言っている。ママ、かわりにメールしておいて、と頼まれて職場の連絡を妻がしたりもするので、携帯を見るのもまったく自由だ。

 

 休日に出かけるのは息子の竜弥くんか、妻のたつ子さんとだけ。ひとりで行くのは近所の散歩だけ。散歩に行くとお土産だと言って、パンやケーキや花や雑誌などを買ってきてくれる。

 

「それともうひとつ、あるよね。ママはパパの好みにぴったり」
「もう若くはないけど、それでも言ってくれるものね。ママは綺麗だよ、愛してるってね」
「ごちそうさま」
「昨日も言ってくれたわ。最近は竜弥くんがいないから、よけいにふたりっきりで熱いのよ」
「ほんと、ごちそうさま」

 

 母と息子がじゃれ合うような会話をかわし、たつ子さんは僕に向かって言った。

 

「両親が愛し合い、あたたかな家庭を作っているといい子が育つってほんとですよね。私は専業主婦ですから、竜弥には手も目も愛情もたっぷり注いで育てました。躾にしてもきびしすぎず甘すぎず、ほどほどに最適にできた自信があるんですよ。おかげさまで竜弥はほんとに、素晴らしい青年に育ちました。私の手中の珠です」

 

 そうかなぁ、竜弥くんってそんなに模範的な青年かなぁ? とは思ったが、竜弥くんも子どもではないのだから、母の知らない顔を持っているのが当然だろう。黙っておいてやろう。

 

「私は人を見る目があるって自信も持ってますから、主人が浮気なんか一度もしたことはない、これからも絶対にしないって信じてますわ」
「ママがしたりして?」
「そうねぇ。私のほうが危ないかもしれないわ。……嘘よ、冗談よ。私はまだもてるけど、私だってパパ一筋だもの。いやあね、竜弥くんったら、変なことを言わないで」
「ごめんなさい。失礼しました」

 

 ふたりして顔を見合わせて、母と息子がくすくす笑う。気持ち悪くなくもない笑いだった。

 

「今日は笙さんにご挨拶だけしたくて、こちらに立ち寄ったんですよ。これからも息子をよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「ママ、もう帰るの?」
「ええ、このあと、パパと約束があるの。竜弥くんも連れていってあげたいんだけど、ふたりきりのデートですからね」
「僕にとっては残念だけど、楽しんできてね」
「ええ、ありがとう」

 

 息子の頬に母がキスをし、息子は母を軽くハグする。僕はお母さんとあんなこと、したこともない。したくもないからいいのだが。

 

「さてさて、笙くんはどう思った?」
「どうって、なにを?」

 

 たつ子さんをお見送りして部屋に戻ると、竜弥くんが言った。

 

「うちのママの、夫に対する信頼だよ」
「いいんじゃないの。理想だよね」
「うん、ママは幸せなひとだ」
「……それって……」

 

 シンプルに幸せだと言っているのではなく、おめでたくて幸せだというニュアンスに聴こえた。

 

「親父とママは若いころは美男美女のカップルだったんだよ。ママだって今もまあ、美人だろ。親父は僕の兄さんに見られるくらいにかっこいいんだ。だからさ、けっこう貢がれたりするわけ。そうやってうんと年上の男に貢いででも、あわよくば妻を蹴落として後妻の座におさまりたいって若い女、いるんだよ」
「ええ?」
「親父は七時半には帰宅できるくらいなんだから、仕事は忙しくもない。勤務時間中に職場を抜け出して女とデートすることもできるんだよ。浮気だよ、あくまで浮気。本気にはならないみたいだね」
「はあ……」

 

 それからそれから、竜弥くんは父の行動の抜け穴をいくつも話した。

 

「親父は秘密の携帯を持ってるよ。そっちには若い女のアドレスもずらりと並んでて、メールだって複数の女とやりとりしてる。親父にはママに内緒の副収入もあるから、貢いでくれない女ともデートできるんだよ」
「ふーむ」
「あと、僕は親父の味方だから、竜弥と食事に行ってくる、とかって嘘に口裏を合わせてあげたりもするんだよね。まったく、ママは幸せだよ」
「はぁあ……」
「知らないことはなかったことなんだから、僕はママの幸せに水をぶっかけるようなことはしないよ。笙くんだってしないよね」

 

 ぶるぶる頭を振ると、竜弥くんはにんまりした。

 

「ああいう女に限って、私は人を見る目があるって言いたがるんだ。人を見る目があるのかどうか、私の育て方がよかったから息子がいい子に育ったのかどうか、ただのラッキーだったのか、ただの節穴みたいな目を持ってるだけなのか、どれもこれも紙一重だよね」

 

 ああいう母に育てられると、こういうゆがんだ性格の息子ができるのか。その点、僕の母は平凡でよかったのだろう。僕の母も若いころにはちょっと綺麗だったらしいが、今ではたつ子さんとは比べものにならないくすんだおばさんだ。

 

 父はイケメンでもないおっさんなのだから、僕は母に感謝はしている。母が綺麗だったから僕も美少年に育って、アンヌと結婚できたのだ。アンヌが僕をお婿にもらってくれた一因には、笙が可愛い顔をしているから、というのがまぎれもなくあった。

 

「竜弥くんはほのかさんの甥なんだよね。甥と叔母って結婚できるよね」
「できるはずだね」
「……結婚できるんだから……」
「近親相姦にはならないんだから、肉体関係もあるかもしれないって? さあね、どうだろね」

 

 ゆがんだ性格の美青年の、たった今の微笑も相当にゆがんでいた。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フォレストシンガーズ・短歌俳句超ショートストーリィ2019/6

FS俳句短歌超ショートストーリィ

 

「風あざみってほんとにあるんだと思っていたよ」

 

 ふいに誰かの言った台詞を思い出した。風あざみ? 「少年時代」という歌に出てくるあれか? ほんとにはない花なのか?

 

「ああ、シゲだな、風あざみってどんな花ですか、って訊いたのは。ミエちゃんと俺が架空の花だって言ったら、本橋も感心していたよ」

 

 大学時代の先輩と後輩で結成した五人グループ、フォレストシンガーズの中では乾隆也のみが花の名前に詳しい。マネージャーの美江子は女性なのだから当然、花の名前をよく知っている。女性は花の名前を熟知していて、男性はそもそも興味がないというのが、小笠原英彦の無意識的見解だった。

 

 なのだから、花の名前に詳しい隆也は女性的な男、と、英彦の見解ではそうなる。実際には隆也の祖母と母が華道家であるかららしいのだが、華道家にはいかにも女性的な職業で、乾さんも跡を継いだらよかったのに、短歌や俳句に詳しいってのも華道家としてはふさわしいんじゃないか? と英彦は思っていた。

 

「さしずめこれは、雨あざみだな」
「雨あざみ?」

 

 アマチュアながらも時には歌える仕事をもらえることがある。今日は地方のイベントにフォレストシンガーズが出演させてもらい、自由時間に英彦は隆也と散歩していた。山道に見つけたあれがあざみの花だと、隆也が暗い赤紫の花を指さす。

 

「口をもて霧吹くよりもこまかなる雨に薊の花はぬれけり」長塚 節

 

 たしかに細かな雨が降っていて、非常に非常にタイムリーな短歌を隆也が口にする。
 しかし、うーん、やっぱり……乾さんって男じゃないみたいだ、と、英彦はどうしても思ってしまう。

 

 男同士で歩いているこのシチュエーションで、雨あざみだの短歌だのって、俺だったらぜーったいの絶対に頭にも浮かばない。だからあんたは男だとは思えんのやきに……先輩相手には面と向かって言えないフレーズを、英彦は雨にまぎれて呟いてみた。

 

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ガラスの靴50「姉弟」

「ガラスの靴」

 

     50・姉弟

 

 なにもわざわざ持ってこなくてもいいものを、送ればいいものを、お義母さまからのお届けものだと、操子さんが包みをうやうやしく差し出した。

 

「いいんだよ、操子は東京に来るのが嬉しいんだから」
「そうなの?」
「ええ。お義姉さまのお宅にだったら行かせてもらえますから」

 

 東北の山奥、と僕には思える土地の豪農が、アンヌの生家だ。僕は結婚してからアンヌをつついて聞き出した。

 

 母を幼いころに亡くしたアンヌの父は、別の女性と再婚してアンヌの異腹の弟が誕生する。その後には父も亡くなったので、アンヌの生家には継母とその息子とその妻とその子どもたち、双生児の男の子が住んでいる。アンヌが田舎は捨てた、親なんかどうでもいい、弟は大嫌いだと言うのがわかる家族だとは、僕も一度だけ訪問して知った。

 

 だからといって婚家をあまりないがしろにするのもよくないとは思うのだが、アンヌがほっとけと言うのだからしようがない。アンヌは僕の妻で、我が家の主人なのだから、アンヌの意向が新垣家の総意なのである。

 

 二十三歳の僕と近い年頃のアンヌの異母弟、貞光は女性には嫌われそうな奴だ。あの若さで農家の主人を張っているのだから、僕はある意味尊敬しているが、アンヌが大嫌いだと言うのもわかる。

 

 貞光の妻、操子さんは僕よりもかなり年上なので、義兄さんと言いたがるのを止めて笙さんと呼んでもらっている。アンヌにはお義姉さまなんて呼んで、アンヌもいやがっているのだが、本当に姉なんだからしようがないらしい。

 

 義母と義弟はこの家には来たことがないのは、貞光も姉を嫌っているからか。あいつはアンヌのことを、美人だけどふしだらだとか、あんな女だとか言っていた。

 

 そのせいか、操子さんだけがたまに我が家にやってくる。今日は重たいのに果物を持ってきてくれて、田舎の双生児とおそろいだと言うぬいぐるみを息子の胡弓にくれた。ぬいぐるみも大きくて、胡弓が抱っこしているとどっちが抱かれているのやら、であった。

 

「お義姉さまのお宅に伺う用事がありましたから、弟にも会いにいけるんですよ」
「弟さんがいるの?」
「そうなんです。ひとつ年下だから三十代半ばなんですけど、若い女性とようやく結婚しまして、一度は新家庭を見てみたくて」

 

 そんな若いのと結婚したのか? 色ボケだな、と貞光は決めつけたらしい。ま、いやらしい、と義母も言ったらしい。
 操子さんの実の弟は健夫という名だそうで、三十四歳。彼自身も恥ずかしいからと操子さんにはまだ紹介もしてくれず、結婚式も挙げていないらしい。同棲からなし崩しに結婚へとなだれ込んだのだそうだ。

 

「健夫も東京で暮らしてるんで、こんな用事でもなかったら来られないんですよ」
「じゃあさ、今日は泊まって、明日、健夫んちに行ってくればいいじゃん」
「泊めていただけるんですか」
「いいよ」

 

 誰でも彼でも気軽に呼び捨てにするアンヌは、会ったこともない男も健夫と呼んだ。異母弟の妻の弟というのはどんな関係になるんだろう。

 

「姻戚関係っていうんだよ。それはいいとして、操子、健夫に連絡したのか?」
「連絡すると来るなって言いそうだから、突撃します」
「留守だったらどうすんだよ」
「奥さんのうららさんは専業主婦だから、いるはずです。いなかったら諦めます」
「うららさんってどんな字?」

 

 新聞に操子さんが綴った文字を見て、アンヌが笑った。

 

「春の宵はうららかだからか?」
「お義姉さま、よくおわかり。そうみたいですよ」
「これ、うららって読むの?」
「読むわけないけどなんでもありなんだよ」

 

 春宵、これでウララ。これに較べれば胡弓や来闇は読めるんだからまっとうな名前だ。
 翌日、胡弓は僕の母に預けて、僕も操子さんについていくことにした。操子さんは東京に慣れていないので、案内とボディガードも兼ねている。ボディガードだったら強いアンヌのほうが適役だろうが、アンヌは仕事なので僕がつとめると決めた。

 

 地下鉄を乗り継いでたどりついたのは、まあまあ高級そうなマンションだった。道々聞いたところによると、健夫くんは故郷の仙台の大学を卒業して就職し、東京で働いている。ウララさんとも仕事の関係で知り合ったのだそうだ。

 

「二十歳の大学生か。僕の知り合いにはそんな年の差カップルはけっこういるけどね」
「私と貞光も逆年の差夫婦ですし、女のほうが若いのは問題ないと思いますけどね」
「美人なのかな」
「写真を見ただけですけど、可愛いお嬢さんでしたよ」

 

 いくらお願いしても操子さんは敬語をやめてくれない。めんどくさいのでそれでもいいことにして、チャイムを押す操子さんのうしろに立っていた。

 

「はあい」
「あのぉ、突然すみません。健夫の姉の操子です。東京に来たものですから……」
「はぁ? ソーコさん? 聞いてないよ」
「急に来たから……すみません。ご迷惑でしょうか」

 

 盛大な舌打ちの音が聞こえ、仏頂面の女性がドアを開けた。

 

「その子は? ソーコさんの彼氏?」
「いえ、私の主人の姉のご主人です」
「……まあいいや。来ちまったもんはしようがねえ。上がって」

 

 お邪魔します、と僕も言って、中に通された。
 埃っぽいのはきちんと掃除をしていないからだろうが、学生ならば勉強が忙しいのかもしれない。子どもがいないのならば埃では死なないの主義でもいいだろう。

 

「なんか飲みたいんだったら、冷蔵庫から適当に出して」
「あ、僕がお茶、入れようか。勝手にやっていいかな」

 

 笙です、操子です、あ、あたし、ウララ、といった簡単な自己紹介がすむと、僕は台所に入っていった。流しには洗っていない食器が山積みで、レンジも汚れている。僕は主夫なのでついチェックしてしまい、ここでお茶を入れるのはやめにして冷蔵庫を開けた。

 

 冷蔵庫の中は滅茶苦茶で、賞味期限切れの食べ物が奥に埋もれていそうだ。お茶のペットボトルが入っていたので、それを三本、持っていった。

 

「あの、お土産を……」
「なに?」

 

 ありがとうとも言わずに操子さんから包みを受け取ったウララさんは、開けていい? とも訊かずに開けて言った。

 

「やだ、あたし、これ嫌い。でさ、ソーコさんってなんの用なの?」
「なんの用というか……ウララさんには会ったこともないし、弟の新家庭を一目見たくて……ご迷惑でした?」
「迷惑だよ」
 
 けろっと言われて絶句した操子さんは、ことさらに丁寧な口調になった。

 

「わかりました。もう十分ですわ。ただ、ひとつだけ。ウララさんは健夫を愛してらっしゃいますか」
「まあね」
「……だったらいいわ。ごめんなさい、笙さん、帰りましょうか」
「あ、あっ、はい」

 

 気を呑まれてほとんど口もきけなかった僕は、素直に操子さんに従った。
 帰りの電車では操子さんも無口になり、僕も黙って考えていた。すげぇなぁ、ウララさんって僕と三つくらいしかちがわないのに、宇宙人みたい。僕なんかは常識的な人間だよね。年齢のせいじゃないのかな。そしたらなんのせい?

 

 我が家に帰ってきてからも、操子さんは無口だった。疲れ果ててしまったのか。それでも、夕食は私が作ります、と言ってくれたのでおまかせして、僕は胡弓を実家に引き取りにいった。

 

 母にあのウララさんの話をすれば興味津々になりそうだが、面倒なので言わずに胡弓を連れて帰って家で遊ぶ。胡弓は操子さんにじきになつき、おばちゃん、おいしいものを作ってくれるって、と言うと嬉しそうだった。

 

「はい……ええ、行ったわよ」
「……なんで勝手にっ!!」
「ええ、ええ……二度と行きませんから」

 

 台所にいる操子さんがガラケーで話している相手は、健夫くんだろうか。怒鳴っている声だけは聞こえた。

 

「あんたがいいんだったらいいじゃない、いろいろ質問する気もなくなっちゃったわよ」
「……よけいなお世話だっ。姉ちゃんがよけいなことをして、ウララちゃんが怒って離婚するって言い出したら……責任取ってくれんのかよっ!!」

 

 喧嘩口調の弟としばらく話してから電話を切り、操子さんは深いため息をついた。

 

「お義姉さま、お世話になりました。明日、帰ります」
「ああ、そう。どうだったんだ?」
「笙さんから聞いて下さい」

 

 その夜はアンヌは遅くなってから帰ってきて、疲れた顔をしていたのでとにもかくにも寝てもらった。
 翌日は僕もまだ寝ている時間に操子さんは帰ってしまい、アンヌが起きてきてからウララさんと健夫くんについて話した。

 

「で、姉貴としては怒り心頭だったのかな」
「そうみたいだね。いやになっちゃって話す気も失せてたんじゃない?」
「気持ちはわかるけどさ……だけどさ……」
「ん?」
「発想の転換、してみなよ」

 

 にやにやしながらアンヌは言った。

 

「家事もまともにしない学生のヨメなんかって怒ってるんだろうけど、むこうの親だって、十四も年上の冴えない男と結婚させるために大学にやったんじゃないって言うぜ」
「健夫くんって冴えないのかな」
「あの操子の弟だもんな」
「……ひどっ」

 

 とは言うものの、姉に似ていれば健夫くんはイケメンではないだろう。

 

「健夫ってそのウララに惚れてんだろ」
「そうみたい。操子さんに電話をかけてきて、捨てられたらどうしてくれるんだっ!! とかって怒鳴ってたもんね」
「だったらいいじゃん、蓼食う虫も好き好き、似た者夫婦だろ」

 

 蓼は笙、虫はあたし、あたしらもそんなもんさ、とアンヌは笑う。それはアンヌが僕を好きってことだよね。うん、僕もアンヌが好き。今日はアンヌは夜まで仕事がないそうだから、もう一度胡弓を母に預けにいこうか。アンヌとデートして、ベッドにも行きたくなってきた。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

198「ランダムメモリ」

しりとり小説

 

198「ランダムメモリ」

 

1

 

 なんだろう、この感情は……感情? 私に感情などあるのか? 感情とは人間特有のものなのではないか? 動物にも植物にも人間とは別種の「感情」のようなものがあると学んだが、私にもあるのか? あったら大変な事態なのではないのか。

 

 そんなことばかり考えているわけにはいかない。私には仕事がある。

 

 仕事となると抜いたり挿したりされる記憶媒体。抜き差しされるたびに「感情」のようなものが刺激される。これではない、いや、これでもない。これでもないこれではないこれとはちがう!!

 

「ああ……」

 

 ようやく、ようやく、これだ!! と感じた。

 

 やはり私にも感情があるのだね。人間だったら「恋情」「愛情」と名つげるであろう感情。あなたでないといけない。あなたでないと満たされない。

 

 

2

 

「……なんだ? 喜んでない?」
「なにが喜んでるって?」
「このパソコン」
「パソコンが喜ぶ? どういう意味で言ってんだよ?」
「どういうって……その通りだよ。言葉通りの意味で、パソコンが喜んでる」
「なんでパソコンが喜ぶ? どういう理由で?」
「さあ……」

 

 アホか、おまえは、と同僚は言い、彼女のそばから離れていってしまった。

 

 うむ、どうも私は疲れている。研究で疲れていて喜怒哀楽が摩耗しているらしく、パソコンを擬人化したがっているのかもしれない。彼女はおのれを納得させようとしたが、パソコンが歓喜しているとの錯覚は去ってくれない。

 

「やっぱ喜んでるよな? んん? なに? この媒体が好きなの?」

 

 一瞬、パソコンのモニタに電流のようなものが浮かんだ。ほんの一瞬。
 マイクロチップを抜くと、またまたかすかに電流が走る。別の記憶媒体を挿入してもなにも起きない。あれこれ、それどれ、次々に別のものをセットしてみる。その中のひとつ、極小のチップを挿したときにだけ、パソコンが反応するのである。

 

「駄目だ。私、どうかしてる……今日は早く帰ろう」

 

 なぜかパソコンが、そのチップを挿したまま帰って、と言っているように思えて、彼女の全身がぞわぞわっとした。

 

次は「り」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴49「魅力」

「ガラスの靴」

 

 

     49・魅力

 

 忘れかけていたひとたちに会った。

 

「おまえはいつまで根に持ってるんだよ。あのときのあたしは機嫌が悪かったんだ。おまえみたいなお気楽な専業主夫にはわかりっこない苦労が、働く女にはあるんだよ。いつまでもすねてんじゃねえんだ。いい加減にしろ」

 

 アンヌに叱られたので反省して、忘れようと決めたことが起きた日に会ったひとたちだ。

 

「おまえだって男なんだから、浮気願望はあるだろ」
 その日にも吉丸さんに訊かれ、父も別の日にこう言った。

 

「アンヌさんは奥さんらしいこともせずにおまえに息子もまかせっぱなしだ。そんなだと浮気をしたくなるだろ」

 

 いや、僕はアンヌひとすじの貞夫の鑑なのだから、浮気願望なんてない。お金になるんだったらよその女に抱かれてもいいけど、怖いしなぁ、と思っている程度だ。
 貞夫の鑑から見れば、吉丸さんなんかは信じがたい。吉丸さん以上に信じられないのが、あの日に会ったフジミだった。

 

 レコーディングが長引いて帰宅できない妻のために、お弁当を届けてあげよう。胡弓にはママの仕事場を見せてあげたい。そのつもりでアンヌのスタジオを訪ね、氷みたいにつめたくあしらわれたあの日、公園で会ったフジミ。

 

 そのひとがいる。
 小柄で髪が長くて、一見は若くて可愛いアイドルミュージシャンふう。本当は二十三歳の僕よりも十歳以上年上なのだから中年だが、可愛いタイプで性格のだらしない男、しかもミュージシャンとなるともてるらしく、女が彼を放っておかないのだそうだ。

 

 何度結婚して何度離婚し、何度再婚したのか、友人の吉丸さんにもつかみ切れない。あの吉丸さんをして、そういう男は結婚しなけりゃいいのに、と言わしめるのだが、フジミはなぜか結婚したがる。現在は何度目かの再婚をして、何度目かの妻だった女性と不倫をしているらしい。

 

 僕が浮気をしないのは貞淑だからもあるが、それ以上にメンドクサイからだってのに、フジミさんってなんたるバイタリティのかたまりなんだろ。

 

 妻帯者は夫人同伴のこと、という但し書きがあったので、あたしはおまえを連れていくんだ、とアンヌが言った、アンヌの仕事の集まりだ。想定しているのは男で、夫のいる女を数に入れていないのが気に入らないと言っていたが、こんな場合、喜んで妻についてくる夫は少ないのではないかと。

 

 もちろん僕は喜んでついてきた。
 パーティというのでもないが、ごちそうも出ている。テレビや雑誌で見たことのある人も歩いている。フジミさんもミュージシャンで妻帯者だから、史子さんという名前だったはずの奥さんと同伴して出席していた。

 

「フミちゃんってば、上手にだましたよね」
「私がだまされたのよ」
「ったって、よくも結婚してもらえたよね」
「私が結婚してやったんだってば」

 

 意地の悪い口調で史子さんにからんでいる女は、色っぽい感じのグラマーだ。史子さんは彼女をユイちゃんと呼んでいるから、友達なのか。にしてはユイさんは史子さんに悪意を持っているような気もした。
 例によってアンヌは仕事仲間に囲まれていて、僕はひとりぼっち。僕はあちこちでこうしてひとりで、他人の会話を盗み聞きしている。シュフは見た、ってドラマにでもできそうな。

 

「フジミさん、気の毒に。だまされて結婚させられてさ」
「大きな声で言わないでよ。誰がどうだましたっての?」
「だってぇ……」
 
 くねくねっと身体をよじって、ユイさんはむふふと笑う。史子さんがユイさんに喧嘩腰で迫っていると、突然、ユイさんの態度が豹変した。

 

「あら、はじめまして。フジミさんですよね。私、史子の親友の優衣子です」
「こんにちは、はじめまして」

 

 豹変した理由はこれか。史子さんは苦々しい顔になって、それでもフジミさんに優衣子さんを紹介している。フジミさんもにこにこして、三人で談笑をはじめた。

 

「フミちゃんみたいな素敵な女性と結婚できて、フジミさんはハッピィでしょ」
「ああ、まあね」
「私には友達はいっぱいいるけど、フミちゃんほどの女性は他にはいないのよ。フミちゃんほどの女がつまらない男と結婚するなんて言ったら妨害してやろうかと思ってたくらい」
「それはそれは……」

 

 よくもまあぬけぬけと、と僕も思うのだから、史子さんはなおさらだろう。史子さんは無口になり、フジミさんはやにさがっている。史子さんは僕に気がついてそばに寄って来た。

 

「アンヌさんの旦那、笙くんだったよね」
「そうでーす。僕のこと、覚えてた?」
「ムーンライトスタジオの近くで会ったよね。今の、聞いてた? むこうに行こうか」
「聞いてたけど……離れていいの?」
「いいのよ」

 

 今の、とはフジミさんがあらわれる前とあとの優衣子さんの台詞だろう。離れていいの? と僕が訊いたのは、あの男と色っぽい女をふたりっきりにしていいのか、という意味だったのだが、史子さんがいいと言うのでちょっと離れた場所に歩いていった。

 

「あの女、ユイって男から見てセクシー?」
「僕の趣味でもないけど、セクシーではあるね」
「笙くんって変な趣味なんだってね。吉丸さんが言ってたわ」

 

 悪かったね、ほっといて。

 

「ユイって女にはわからない魅力を持ってるんだろうね」
「フェロモンとかってやつ?」
「それなのかもしれない。昔はイラッと来たもんよ。ユイは誰かの彼氏を紹介されると、自分のものにしなくちゃいられないの。あたしはこんなに魅力的なんだから、どんな男もあたしにはイチコロで参るんだってところを見せずにいられないらしいのよ」

 

 噂になら聞くが、本当にそんな女がいるんだ。僕は会ったことはないけけど、男にはわからないだけなのだろうか。

 

「そしてまた、迫られた男もまず百パーセントの確率で落ちるんだよね。ユイってそれほど魅力があるんだと思ってた。ユイは今でもそう信じ込んでるんだろうな」
「ちがうの?」

 

 ふたりして同じほうへ視線を向ける。そこには男にしなだれかかる女と、そうされてにやけている男がいた。

 

「それはあるんだと思うよ。だけど、そんな女やそんな男ばっかりじゃないはずよね。私の知り合いって、そんな男と、そんな男としかくっつけない女としかいないの? 考えたら憂鬱になっちゃう」
「うーん、そうなのかなぁ」
「でもね、それだけじゃないって気づいたの」

 

 顔を僕に近寄せてきて、史子さんは言った。

 

「ユイは人のものを欲しがるガキなのよ」
「ああ、他人のおもちゃをほしがる子どもね。うちの胡弓の友達にもたまにいるよ」
「そうそう。それに近いんだよ。でね、フジミも同類なの」
「そしたら……」

 

 やっぱあの男と女をふたりきりにしておくと危険じゃないか、そう言いたい僕の気持ちを読んだかのように、史子さんはかぶりを振った。

 

「いいのよ、もういいんだ。フジミには愛想が尽きた。ユイがほしいんだったら持ってけって感じ。どうせ自分のものになったら、すぐに飽きるんだから」
「ふーむ」

 

 そう言われてみると、僕も気がついた。
 何人もの女性に恋をして、だか、恋をしていると錯覚してだか、そのたびに結婚しては離婚してまた結婚する。そういう男は次の彼女を手に入れるためには、前の彼女と別れなくてはならない。フジミさんはあからさまな二股はやらないらしい。

 

 別れるためには彼女に愛想尽かしをさせて、捨てられるように持っていく。恋多き男女とは、別れるのがうまい奴。そんな話も聞いたことがあった。
 あの男、あれで案外……案外、なんなのかはいっぱいあって言い切れないが、ひとつだけ。ああいうのを恋愛上手と呼ぶのだろうか。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フォレストシンガーズ・短歌俳句超ショートストーリィ2019/5

フォレストシンガーズ 超ショートストーリィ

 

かたわらでどこかで聴いたことのある歌を口ずさんでいる男は、俳句や短歌にはすこぶる強い。おかげでフォレストシンガーズ内では、和歌の話題に花が咲いたり句会をやったりと、章には大迷惑だ。対外的にもなにかといえば、では、ここで一句、などと振られる。

 

「それは乾さんの得意技。俺は苦手ですよ」
「そうなんですか」

 

 先日もラジオで、フォレストシンガーズは全員が俳句や短歌が好きなのかと思った、と女性DJに言われてしまった。

 

「初夏の短歌、楽しみにしてたんですよ」
「短歌は一句とは言わない。一首です」
「やっばり木村さんも得意じゃないですか」
「この程度で……」

 

 得意では決してないが、影響は受けてるな、と木村章は思うのであった、

 

「夏も近づく八十八夜、 野にも山にも若葉が茂る」

 

 童謡? 唱歌? どっちでもいいけど、要するにガキの歌だな。章はちらっと考え、かたわらで歌っている乾隆也に訊ねた。

 

「その歌詞って、北原白秋とか……」
「とか?」
「えーと……滝廉太郎とか……えーと……」
「滝廉太郎は作曲家だろ。他には?」

 

 有名な作詞家の名前を述べよ、とでも言われているらしい。

 

「フレディ・マーキュリーとかエルトン・ジョンとかね」
「章らしい答えだな。で?」
「いや、だから、その歌の、夏も近づく八十八夜って、誰が作詞したのかなって気になって……」

 

 そういうことか、とわかっていたくせに納得してから、隆也は応じた。
 作者不詳、なのだそうだ。ああ、そういうのもアリなんだな、と章も納得した。

 

END

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガラスの靴48「正義」

「ガラスの靴」

 

     48・正義

 

 変な奴がデフォルトというのか、そんな人種ばっかりの音楽業界は僕の住む場所ではない。こうして胡弓を連れてスーパーマーケットへ買い物に出かけ、その前に近所の公園に寄って息子を遊ばせる、こちらが僕の日常生活だ。

 

 妻はミュージシャン、僕は専業主夫。わりあいに高級なマンション街には専業主婦はたくさんいるが、主夫となるとほんのちょっぴりだ。二十三歳の子連れ美少年が公園にいると浮く。今日は知り合いの姿も見えないから、僕はおとなししく胡弓を見守ることに専念していた。

 

「……うちの主人、どこへも連れていってくれないのよね」
「白木さんのご主人はお忙しいから」
「ほんと、うちって母子家庭みたい。黒田さんちはどうなの?」

 

 子どもはどこかで遊んでいるのだろう。僕の隣には主婦らしき女性がふたりすわっていて、お喋りをしている。僕は暇なので、黒田さんと白木さんの会話を聞いていた。

 

「うちの主人も忙しいよ。だからどこかに連れていってもらおうなんて思わないの。大人なんだからひとりでどこにだって行けるじゃない」
「ひとりで? 女がひとり旅なんかできるわけないでしょ」
「そんなことないよ。私は独身のときにはよくしたよ」
「……勇気があるんだね」

 

 そういえば僕もひとり旅なんかしたことはないなぁ。アンヌは家族サービスだといって、遊園地に連れていってくれたりはするから、優しい奥さんだよね、とわが身を顧みる。勇気があるんだね、と言ったのが白木さんで、彼女は黒田さんを咎めるように見た。

 

「勇気なんかなくても、日本語の通じるところだったらひとりで行けるじゃない」
「近く?」
「近くもあるけど、独身のときにはひとりで北海道だの九州だのにも行ったな」
「泊まり?」
「そりゃあそうよ。遠出をしたら泊まるよ」
「ひとりで?」
「うん、ひとり旅だって言ったでしょ」

 

 信じられない、と呟く白木さんを、黒田さんは愉快そうに見返した。

 

「ひとり旅も長いことしてないな。白木さんと話していたらしたくなっちゃった」
「危険だよ、ひとり旅なんて」
「国内だったら大丈夫だってば。英語の通じるところだったら海外でも意外に平気よ」
「海外ひとり旅なんかしたの?」
「二回だけね。香港とロンドンに行ったの」

 

 再び、白木さんはシンジラレナイと呟き、黒田さんは言った。

 

「日本は治安もいいし、まるっきり平気よ」
「女ひとりで旅館に泊まるなんて言ったら、自殺するんじゃないかって疑われない?」
「やだ、いつの時代の話よ」
「……黒田さん、英語できるの?」
「人並みにはね」

 

 人並みってどのくらいかなぁ。英語なんて中学生以下の僕は人レベル以下か。もっとも、僕は勉強も音楽も体育も美術もみんなみんな劣等生だから、英語だけじゃないけどね。

 

「そうだ、秋になったら、旦那に一週間ほど休みがあるのよ。旦那の田舎に帰省しようかって言ってたんだけど、旦那には子ども連れで行ってもらって、私は三日ほどひとり旅しようかな。白木さんと話しててその気になってきちゃった」
「そんなの、駄目に決まってるでしょ」
「どうして?」
「旦那さんが許すはずないじゃない。非常識よ」

 

 せせら笑うような口調の白木さんに、黒田さんは言い返した。

 

「子どもももう赤ちゃんじゃないんだから、そろそろひとり旅をしてもいいよ、きみの最高の趣味なんだもんな、俺は三日くらいだったら子守りできるよ、って、彼は言ってたわ。一週間ってのは気の毒だけど、三日間だったらむこうの実家に行ってれば楽なんだし、現実的に考えられそう」
「あのね、黒田さん」

 

 視線では胡弓を追いかけ、僕は聴覚を女性たちの会話に向けていた。

 

「そんなのよけいに無理でしょ。旦那の親が許すはずないじゃない」
「大丈夫。話せるひとなんだから。その話も前に旦那の母としたのよ。子どもはもう私が預かれるようになったんだから、あなたはひとりで遊びにいっていいわよって言ってくれたの」
「美容院とか買い物くらいでしょ」
「私がひとり旅を好きなのは、旦那の母もよく知ってるわ。彼女も今でも、義父をほったらかしにしてひとり旅をするらしいんだもの」
「……主婦失格ね」

 

 ちらっと見ると、白木さんの眦はきりきり吊り上がっていき、黒田さんは面白そうな顔をしていた。

 

「相談してみようっと。旦那も義母もきっと賛成してくれるわ。どこに行こうかな」
「……私はひとり旅なんかしたくもない。怖いわ」
「したくない人はしなくてもいいんじゃない?」
「そんなの、旦那さんやお姑さんが許すはずがない。無理にやったりしたら離婚されるよ」
「そうなの?」
「そうよそうよ。主婦が子どもをほったらかしてひとり旅……絶対に、ぜーったいに許されないわっ!!」

 

 なんでそんなにムキになる? 僕としては不思議な気持ちで、白木さんを見つめてしまった。

 

「……ひとり旅なんて、子どもを預けてひとり旅なんて、なにかあったらどうするのよ。一生後悔するんだよ」
「そんなことを言ってたら、幼稚園にもやれないんじゃない?」
「それとこれとは別よ。私は絶対にしたくない。ひとり旅なんてしたくない。旦那はどこへも連れていってくれないけど……」

 

 ぶつぶつぶつぶつ、白木さんの声が聞き取りづらくなってきた。

 

「したくないよ。したいわけないし……主婦がひとり旅なんて、自分で勝手に都合よく、旦那や姑が許してくれるなんて決めてるけど、許してもらえるわけもないんだ。そんなこと、主婦がそんなこと……いいなぁ。うらやましいなぁ……え? ちがうったら!! 私は誰かにしろって言われてもしないわよ。するわけないじゃない。黒田さん、そんなこと、言わないほうがいいよ。やめておきなさい」
「白木さん、どうしてそう必死になってるの?」

 

 僕が訊きたかったことを黒田さんが質問してくれ、白木さんはぶつぶつ口調のままで言った。

 

「許してもらえるはずないからよ。あなたが非常識な主婦だって言われて、離婚されたりしたらかわいそうだからよ」
「大丈夫だってば。そんなことで旦那も義母も怒らないから」
「……旦那さんやお義母さんが許したとしても……」

 

 目に焔をたぎらせて、白木さんは黒田さんを睨み据えた。

 

「私が許さない」
「は?」

 

 思わず、僕も黒田さんと一緒に、は? と声を出していた。

 

「パパぁ、おなかすいた」
「あ、そうだね。買い物にいこうか」

 

 うまい具合に胡弓が寄ってきたので、息子の手を引いてその場から逃げ出す。白木さん、怖かった。なんなんだろ、あれは。僕には白木さんの剣幕が理解できなかったので、その夜は珍しく早く帰ってきて家族で食卓を囲んだアンヌに話した。

 

「なんで白木さんはあんなに怒ってたんだろ?」
「結局、自分もひとりで自由にしたいんじゃないのかな。ひとり旅は怖いからしたくないにしても、私は夫や義母に押さえつけられて自由なんかほとんどない。あんただけ恵まれてるなんて許せない。その心理が、主婦失格って台詞になるんじゃないのか」
「ふーん」
「あたしの推測だけどさ」

 

 夫や姑が許したとしても私が許さない、その心理って……アンヌが言った。

 

「正義の味方ってとこかな」
「あ、なるほど」

 

 はた迷惑な正義の味方もいたもんであるが、黒田さんはむしろ面白がっていたようだから、まあ、いいかもしれない。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

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